一 そっち側の人
十二月に入って最初の水曜日、三浦灯は坂の上シネマのガラスの扉を、客として押した。
エプロンはつけていない。クリーム色のブラウスにグレーのコートをはおり、肩には自分の鞄をかけている。黒い髪はいつものように低い位置でひとつに結んだけれど、仕事の日ほどきつくは結ばなかった。
入って右の売店では、黄色い電球の下に野崎が立っていた。灰色のセーターの上に、灯のと同じ深緑のエプロンをつけている。水曜は灯の休みの日で、そのあいだ売店には店長が入る。
野崎はポップコーン機のふたを開け、すくいを逆さに持って、少し考えてから持ち直した。灯の右手が、コートのポケットの中で勝手に動いた。
「三浦さん」野崎は顔を上げずに言った。「今日は、そっち側の人です」
「まだ何も言ってません」
「手が言ってました」
左の受付で、河合が小さく笑った。紺のカーディガンの袖口から、鉛筆の先がのぞいている。
「お友だちは、まだですか」
「二時前の電車だって。駅から歩いてくるので、もうすぐです」
灯はロビーのベンチに座りかけて、やめた。座ると落ちつかない。売店のガラスケースの中で、キャラメルの容器の向きが少しそろっていないのが見える。見なかったことにして、コルクボードの前に立った。今週の作品のちらしが、まん中にとめてある。
『ソファは玄関を通らない』。
赤い大きなソファを、三人の男が古いアパートの階段で抱えている絵だった。引っ越しの日に、祖母からもらったソファを新しい部屋に入れようとして、入らない。それだけの映画だ。それだけの映画で、灯はもう三回笑っていた。
一回目は上映が始まる前の月曜、休館日に、河合が映写の具合を確かめるのを、三人で客席から見たとき。二回目は先週の水曜、休みの日に自分で券を買って見たとき。三回目は、数えていいのかわからない。この十日、灯は売店に立ちながら、客席の扉の向こうから聞こえてくる笑い声を、上映のたびに聞いていた。どこで笑いが起きるか、もう扉越しにわかる。四十分すぎに一度。六十分のあたりで一度。そして八十分すぎ、客席がいちばん大きく揺れる。
その揺れの中に、自分も座っていたい。それも、だれかの隣で。
一時五十五分、ガラスの扉が勢いよく開いた。
「灯ー!」
久保田七海は、駅ビルにいたころと同じ声で呼んだ。栗色の髪を肩のところで切りそろえて、キャメルのコートに赤いマフラーを巻いている。背中には黒いリュック。灯より四つ上の三十三で、駅ビルの輸入食材店に灯が入ったとき、もう三年目の先輩だった。チーズの名前の読み方も、試食の切り方も、全部七海に教わった。四年いっしょに働いて、七海が先に隣の県の食品の卸の会社へ移ってから、一年半になる。会うのは、送別会の夜以来だった。
「髪、切ったんだ」
「切った。軽いよ」七海は首を左右に振ってみせて、自分で笑った。
七海はよく笑う人だった。お客さんの小さな言い間違いで笑い、店長がグリュイエールを毎回グリエールと言うので笑い、自分がレジで釣り銭を落としても笑った。七海が笑うと、まわりの人まで少しつられた。
七海はロビーをぐるりと見回して、鼻をくんと鳴らした。
「いいにおい。バターと、あと、古い木」
「わかる?」
「わかるよ。こっちは食べ物の人だよ」七海は売店の黄色い電球を見上げた。「あれが灯の売店かあ」
「今日はわたしの売店じゃないけど」
野崎がエプロンのまま会釈した。七海はていねいに頭を下げてから、灯の耳もとで「店長さん?」と聞いた。灯がうなずくと、「エプロン似合ってる」と小声で言い、灯は吹き出しそうになって、こらえた。
受付で、二人ぶんの券を買った。河合が座席表を出す。
「どこにしますか」
「E列の、まん中」灯はすぐに言った。「6と7」
「早いね」と七海が言った。
「笑い声って、まん中から来るの。扉の外で聞いてるとわかる。ちょうどE列のあたりから、わっと広がってくる感じ」
河合が座席表に鉛筆で印をつけ、券に席番号を書いた。七海は券を受け取りながら灯の顔を見て、何か言いかけて、やめた。そのかわりにスマートフォンを出して、画面を一度だけ指でたたいた。
「何それ」
「なんでもない。メモ」
売店で、灯はキャラメルの小を、七海は塩の小を買った。野崎は灯にキャラメルの中を渡しかけて、小に替えた。灯は何も言わなかった。言わないのに、少し力がいった。
「食べるのはね、音の大きいところで」灯は七海に言った。「静かなところで食べると、まわりに響くから。笑いが起きるところで食べるといいよ」
「了解。笑いが起きるところね」
「四十分くらいのところで、ソファが——」
「言わないで、言わないで」
七海は耳をふさぐまねをして、笑った。灯も笑った。笑いながら、今日はきっといい日になる、と思った。
二 ソファは、三度目に
水曜の午後の客席は、半分も埋まっていなかった。それでも、明かりが落ちる前のざわめきは、灯の耳にはちゃんと、笑い声の下ごしらえに聞こえた。
E6に灯、E7に七海。七海はコートをたたんで膝にのせ、塩の容器をひじかけの上に立てた。灯は自分の容器を両手で持った。売店の側から、何百回も渡してきた容器だった。自分で持つと、思っていたより温かかった。
明かりがゆっくり落ちて、予告が二本流れ、本編が始まった。
主人公の男が、トラックの荷台の前で腕を組んでいる。荷台には、赤い大きなソファが一つだけ載っている。祖母の家にあったソファで、男はそれを、自分の新しい部屋に置くと決めている。手伝いに来た高校の同級生が二人、ソファを見て、それから男を見る。
灯は、その顔だけでもう少しおかしかった。
四十分すぎ、一回目が来た。アパートの玄関で、ソファが斜めにはまって動かなくなる。三人が押す。引く。一人が「せーの」と言うたびに、もう一人が一拍遅れる。客席のまん中から、くすくすと笑いが立ちのぼった。灯は声を出して笑い、笑いの中でキャラメルを二つ口に入れた。
それから、横を見た。
七海はスクリーンの光を顔に受けて、まっすぐ前を見ていた。塩の容器に手を入れ、ひと粒ずつ口に運んでいる。笑いが起きたところで、ちゃんと食べている。灯の言ったとおりに。口もとは、動いていなかった。
灯は前を向いた。一回目だから、と思った。一回目は、まだ準備だ。
六十分のあたりで、二回目が来た。脚を外して、やっと玄関を抜けたソファが、今度は二階の踊り場で手すりに引っかかる。同級生の一人がソファの上に乗って、体重をかける。抜けない。もう一人も乗る。三人とも乗る。三人を乗せたまま、ソファは踊り場で、ゆっくりと横に傾いていく。
前の列のだれかが、ふっと声をもらした。灯も笑った。笑いながら、ひじで七海の腕を軽くつついた。
七海はこちらを向いて、にこっとした。スクリーンにではなく、灯に向かってだった。それから、また塩をひと粒食べた。
灯の笑いが、少し短くなった。
それから先、灯は半分だけ映画を見ていた。残りの半分で、隣の横顔を見ていた。男が管理人に深々と頭を下げると、管理人がそれよりもっと深く頭を下げ返す場面。いつもなら灯がいちばん好きなところで、今日も客席のあちこちが笑った。灯も笑ったが、自分の笑い声が、自分の耳に遅れて届いた。
八十分が近づいた。灯は身を乗り出して、七海の耳もとでささやいた。
「次。来るよ」
七海はうなずいた。小さく、二回。
三回目。ドアの蝶番まで外して、三人はついに部屋の中までソファを入れる。汗だくで、ソファに並んで座りこむ。やった、と男が言う。それから三人は同時に、部屋の奥の寝室のドアのほうを見る。祖母の家で、このソファはいつも、寝室の窓ぎわにあったのだ。
客席が揺れた。灯がいちばん待っていた揺れだった。うしろの席でだれかが手をたたき、斜め前の年配の男性が、ひざを打って笑った。灯も笑った。笑いながら、目の端で七海を見た。

七海は、塩の容器の底をのぞいていた。もう残りが少ない。笑いが大きいうちに残りを食べてしまおうとしているのが、灯にはわかった。わかったら、自分の笑いが、喉のところで細くなった。
揺れが引いて、客席が静かになった。スクリーンの中では、三人がソファに座ったまま、黙って弁当を食べていた。寝室のドアは、まだ閉まっている。音楽もない、何も起きない場面だった。灯はいつも、ここでひと息つく。
そのとき、隣で、ふっ、と息がもれた。
七海だった。片手で口を押さえている。肩が小さく揺れている。それから、こらえきれずに、くっ、と喉が鳴った。静かな客席に、その音だけがはっきり響いた。前の列の人が、少しだけ振り返った。
灯はスクリーンを見た。三人が弁当を食べている。それだけだった。何がおかしいのか、灯にはわからなかった。七海は口を押さえたまま、まだ肩を揺らしていた。
最後の場面のあと、エンドロールが流れた。灯は座っていた。七海も座っていた。白い文字がのぼっていくあいだ、灯は、何度も笑ったはずのこの映画で、今日の自分がいちばん覚えているのは隣の人の動かない口もとだ、と思った。
三 正しい見方
ロビーに出ると、四時十五分だった。
ベンチに座るより先に、灯は聞いていた。
「どうだった?」
七海はマフラーを巻き直しながら、少し考えた。考えているあいだの顔を、灯は知っていた。新しく入ってきたジャムを試食して、仕入れるかどうかを決めるときの顔だった。
「おもしろかったよ。ソファの色、すごくよかった。あの赤、ちょっと茶色が入ってて」
「うん」
「でも、ソファのところは、ちょっと長かったかな」七海はあっさり言った。「二回目で、ああ、三回目が来るなって思っちゃって。来るなって思ったら、もう、来たなって感じで」
灯は、自分の口がもう開いているのに気づいた。
「でもね、そこなの。来るってわかってて、それでも来るのがいいの。一回目と二回目があるから、三回目で、おばあちゃんの家の寝室の話がきいてくるの。最初のトラックのとこで、おばあちゃんの家の写真がちらっと映ってたでしょう。窓ぎわにソファがあって——」
灯は鞄から手帳とペンを出し、白いページを一枚破った。そこに四角を三つ描いた。玄関。踊り場。寝室のドア。四角と四角を、矢印でつないだ。
「一回目はこう。二回目はこう。で、三回目で、ここまで全部が——」
七海は紙をのぞきこんで、うん、うん、とうなずいた。
「わかる。わかるよ、灯の言ってること」
「でしょう」
「わかるけど、わかるのと笑うのって、ちがうじゃん」
灯のペンが止まった。止まったけれど、灯はすぐに次の言い方を探していた。わかってもらえないのは、自分の説明が下手だからだ。
「じゃあ」灯は顔を上げた。「六時半の回、もう一回見ない? 券、わたしが出す。今度は最初の写真のところから気をつけて見てたら、絶対——」
言いながら、灯はもう立ち上がって、受付のほうへ一歩出ていた。河合が座席表を引き寄せかけて、灯の顔を見て、それから灯のうしろを見た。
「灯」
七海の声は、大きくなかった。
「それは、嫌」
灯は振り返った。七海は笑っていた。笑っていたけれど、その笑い方は、ロビーに入ってきたときのとはちがった。困ったときに、困ったと言うかわりにする笑い方だった。四年いっしょに働いて、灯はそれを何度か見たことがあった。たいてい、だれかが七海に、何かを無理にすすめていたときだった。
ロビーが、急に広くなった気がした。売店で、野崎がポップコーン機のふたを閉める音がした。
灯は受付の前から、ベンチへ戻った。四角を矢印でつないだ紙が、ベンチの上に置いてあった。
「ごめん」と灯は言った。
「いいよ。灯、ソファのとこ、すごい顔してたもん」七海はベンチに座り直した。「一回目のとき、もう泣きそうになって笑ってた。あれ見て、ああ、この人ほんとにこれ好きなんだなって」
「七海さんは、どこで笑ったの」灯は聞いた。聞いてから、責めているように聞こえないか心配になった。「最後のほう。お弁当のとこ。わたし、何がおかしいのか、わからなかった」
七海の顔が、ぱっと明るくなった。
「奥さん!」
「奥さん?」
「管理人さんの奥さん。ずっと画面の左下にいたでしょう。巻き尺持って、ドアの幅を測ってるの。一回目の玄関のときから。で、測った数字を手のひらに書くの。ボールペンで」七海は自分の左の手のひらを指でなぞった。「二回目の踊り場のときは、手のひらがいっぱいになって、手首まで書いてるの。で、最後、お弁当のとき、寝室のドア測ってて、もう、ひじまで書いてるの。袖まくって。だれも見てないのに、ずっと一人で測ってるの。だめ、思い出したら」
七海はまた口を押さえて、肩を揺らした。
灯は、ぽかんとしていた。
「そんな人、いた?」
「いたよ。三回とも。灯、ソファしか見てないから」
「いますね」
受付の窓口から、河合が言った。二人が振り向くと、河合は座席表を元の場所に戻しながら、少しばつの悪そうな顔をした。
「月曜に映写を確かめるとき、画面の端に何か映りこんでいないか見るので。左下で、ずっと何か書いてる人がいるなと思ってました」
「河合さん、笑いました?」と灯は聞いた。
「笑ってはいないです」河合は鉛筆をカーディガンのポケットに入れた。「気になってただけで」

七海が声を立てて笑った。今日いちばん大きい声だった。灯もつられて笑った。笑ってから、自分が今日、隣の人を笑わせようとしてばかりいて、隣の人が何を見ていたのかを一度も見ようとしなかったことに気づいた。
七海はスマートフォンを出して、灯のほうへ画面を向けた。
「さっきのメモ。これ」
いちばん上に、〈灯の映画館の日〉と書いてあった。
〈坂をのぼる〉〈灯の売店を見る〉〈灯がいちばん笑う映画を、灯のとなりで見る〉〈スパイス黒糖〉〈坂の下のコロッケ〉〈灯にマーマレードの話をする〉
上の三つには、もう印がついていた。
「行きの電車の中で作ったの」七海は画面を少しだけ下へ動かした。それより下には、何も書いていなかった。「映画で笑う、は入ってないんだ」
灯は画面を見て、それからベンチの上の紙の四角を見た。玄関、踊り場、寝室のドア。七海の手のひら、手首、ひじ。
「入れといてよ」と灯は言った。
「入れたら、今日、失敗してたじゃん」
七海はそう言って、画面を消した。
四 厚切りと細切り
上映のあと、売店のガラスケースの上には、持ち帰り用の小さな紙袋が並ぶ。灯が考えたスパイス黒糖だった。客席では匂いと粉が困るので、上映の終わった人が、帰り道や家で食べるために買っていく。
七海は野崎から一袋買い、灯のぶんも買おうとしたので、灯はそれを止めて、自分のぶんは自分で払った。野崎はおつりを数え直してから渡し、「三浦さん、来週までに、売り切れの札をしまってある場所を教えてください」と言った。七海が横を向いて、笑いをこらえた。
ガラスの扉を出ると、商店街の坂の上から、町の屋根が夕方の色になっていくのが見えた。
七海は坂を下りながら紙袋を開け、ひとつつまんで口に入れた。かりっと音がした。少しのあいだ黙って噛んで、それから言った。
「シナモン、強い」
「強くしてるの」
「わたしなら、もう半分」
「半分にしたら、ただの黒糖ポップコーンになるよ」
「それがいいんじゃん」
灯は言い返そうとして、急に、笑いがこみ上げてきた。前にも、ちょうどこんなふうだった。
駅ビルの店に入って半年たったころ、新しいマーマレードが二種類入ってきた。皮を厚く切ったのと、細く切ったの。試食の台の前で、灯は厚切りのほろ苦さのよさを七海に説明した。皮に歯ごたえがあるから、トーストに負けないこと。苦いのに、あとから甘いこと。三十分しゃべった。七海は全部聞いて、最後に「わたしは細切り」と言った。
あのとき店長は、二人にポップを一枚ずつ書かせた。〈三浦は厚切り派〉〈久保田は細切り派〉。二つの瓶を台の上に並べて、そのあいだにポップを立てた。お客さんが試食しながら「あなたはどっち派?」と連れの人に聞き、台の前で言い合いを始めるのを、灯と七海はレジの中から見ていた。どっちが多く売れたかは、だれも数えなかった。
「灯、あのときもさ」七海はもうひとつ黒糖をつまんだ。「わたしに三十分、厚切りの説明したよね」
「した」
「わたし、いまでも細切りだよ」
「知ってる」
「でも、あの説明、けっこう好きだった。灯が好きなものの話をしてるとき、手がずっと動いてて」七海は空中に四角を三つ描くまねをした。「今日も動いてた」
灯は自分の手を見た。紙袋を持っていないほうの手が、たしかに、コートのポケットから半分出ていた。
坂の下の肉屋で、コロッケを二つ買った。揚げたてで、包み紙から湯気が出た。店の前のベンチに並んで食べた。七海は「これはわたし、文句ない」と言い、灯は「わたしもない」と言った。意見が合ったのは、今日はじめてだった。それがなんだかおかしくて、二人とも少し笑った。
「マーマレードの話、するって書いてあったよね」と灯は言った。「いまのでいいの?」
「ちがう、ちがう。本題はこれから」
七海はコロッケの紙をたたみ、リュックから小さな瓶を出した。ラベルに外国の文字が並んでいる。
「うちの会社で、来月から扱うの。わたしが探してきた。厚切り」
灯は瓶を受け取った。夕方の光にかざすと、太い皮がオレンジ色の中に、斜めに沈んでいた。
「細切り派なのに」
「細切り派だけど、これはいいと思ったの。わたしは食べないけど」七海は笑った。「灯がいちばん好きそうなやつ。それを渡して、灯がどういう顔するか見る。それもリストに書いとけばよかった」
灯は瓶を両手で持ったまま、自分がどういう顔をしているのかわからずに、顔を上げた。七海が、ほら、という顔でこちらを見ていた。
駅の改札の前で、七海はマフラーを巻き直した。
「次はうちの町ね。わたしの好きな店、連れてく。たぶん灯、甘すぎるって言う」
「言う。言いに行く」
「言ってよ」
七海は手を振って改札を通り、ホームへの階段の途中で一度振り返って、もう一度手を振った。灯は瓶の入った紙袋を胸の前に抱えたまま、手を振り返した。
五 左下の巻き尺
土曜日、灯は深緑のエプロンの紐を、いつものようにきつく結んだ。
売店のガラスケースの中のキャラメルの容器は、向きがそろっていなかった。灯は黙って全部そろえた。事務室から出てきた野崎がそれを見て、何も言わずに戻っていった。
二回目の上映が始まって四十分すぎ、客席の扉の向こうから、くすくすと笑い声が漏れてきた。六十分のあたりで、もう一度。灯はポップコーン機を拭きながら、その笑い声の中に、いまだれが座っているのかを思った。E列の左の端には、柴田さんがいるはずだった。
八十分すぎ、扉が揺れるほどの笑いが来た。
灯は売店の中で、ひとりで笑った。ふきんを持ったまま、声を出して笑った。受付で河合が顔を上げてこちらを見たが、灯は気にしなかった。扉の向こうで、知らない人たちが、自分と同じところで笑っている。そのうれしさは、隣の一人が笑わなかった水曜日のあとでも、ちっとも減っていなかった。
上映が終わると、柴田澄江が、からし色のカーディガンの前を合わせながら売店に来た。
「持ち帰りのを一つちょうだい」澄江は布の手提げから財布を出した。「あのソファ、おかしかったわね。でも、わたしは二回でよかったわ。三回目は、ちょっとくどい」
灯の口が開いた。一回目と二回目があるから、三回目で、おばあちゃんの家の——。
灯は口を閉じて、紙袋を渡した。
「柴田さんは、二回派ですね」
「何派?」
「こっちの話です」
澄江はけげんな顔をしたが、それ以上は聞かずに、おつりを受け取った。灯はふと思いついて、聞いた。
「柴田さん、左下の奥さん、見ました? 管理人さんの奥さん。巻き尺を持ってる」
「そんな人、いた?」
「いたらしいんです」灯は言った。「わたしも、まだちゃんと見てないんです」
次の水曜日、灯はまた客として、坂の上シネマのガラスの扉を押した。売店には野崎がいた。今日の野崎は、すくいを最初から正しく持っていた。
受付で、河合が座席表を出した。
「どこにしますか」
灯は少し考えた。笑い声がいちばん来るのは、E列のまん中だ。それは知っている。
「C列の、左のほう。3で」
「左下ですか」と河合が言った。
「左下です」
河合は鉛筆で印をつけた。それ以上は何も聞かなかった。
C3から見るスクリーンは、いつもより少し大きく、少し右に傾いて見えた。明かりが落ちて、トラックの荷台の赤いソファが映った。灯はソファを見て、それから、画面の左下に目を移した。
四十分すぎ、玄関でソファが斜めにはまった。三人が押して、引いた。客席のまん中から笑いが立ちのぼった。そのあいだ、画面の左下の、玄関の柱のかげで、エプロンをつけた年配の女の人が、巻き尺をそっと伸ばしていた。目を細めて目盛りを読み、ボールペンで、自分の左の手のひらに数字を書いた。映画の中の三人は、その人を見ていなかった。客席のほかの人が気づいているかは、灯にはわからなかった。
灯は、ふっ、と息をもらした。
六十分のあたり、三人を乗せたソファが踊り場で傾いていくあいだ、奥さんは手すりの幅を測っていた。手のひらはもういっぱいで、数字は手首へはみ出していた。灯は笑った。まわりの人たちと同じときに笑ったけれど、笑っているものは、まわりとちがった。
八十分すぎ、三人が寝室のドアに気づいた。客席が揺れた。灯もいっしょに揺れた。今度はソファで笑った。寝室のドア。おばあちゃんの家の窓ぎわ。何度見ても、そこはおかしかった。
それから、揺れが引いた静かなところで、三人が黙って弁当を食べはじめた。画面の左下で、奥さんが寝室のドアに巻き尺を当てていた。袖をまくった腕に、ひじのところまで、細かい数字が並んでいた。
灯は口を押さえた。押さえても、肩が揺れた。くっ、と喉が鳴った。静かな客席にその音だけが響いて、前の列の人が、少しだけ振り返った。
エンドロールが終わって明かりが戻るまで、灯は座っていた。
ロビーに出て、ベンチに腰を下ろし、スマートフォンを出した。
〈見た。奥さん。ひじまで書いてた。笑った〉
少し考えて、続けて打った。
〈ソファでも笑った。三回とも〉
返事は、坂を半分下りたところで来た。
〈でしょう。ひじ、最高〉
すぐに、もう一つ来た。
〈ソファは、やっぱり長いと思う〉
灯は坂の途中で立ち止まって、笑った。それから打った。
〈長くていいの〉
送ってから、今朝トーストにのせたマーマレードのことを思い出して、もう一行足した。
〈厚切り、すごくおいしかった。シナモンは、半分にしない〉
坂の下の肉屋から、揚げものの匂いがのぼってきた。灯は鞄を肩にかけ直して、残りの坂を下りはじめた。


