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ミコシリーズ第15話
コメディ・日常

タンバリンは、まだ鳴らない

鳴らさないあいだも、曲はちゃんと進んでいる。

読了目安
23分
長さ
短編
#くすっと笑える#音楽#挑戦
タンバリンは、まだ鳴らないのイメージ

あらすじ

十二月の合奏体験に、自分で申し込んだミコ。目立たないように「小さな打楽器」を選んだはずが、渡されたのはいちばんにぎやかなタンバリンだった。一回目は早すぎ、二回目は待ちすぎ。頭の中の五人まで拍子を数えはじめて——。音の残り方と待つ楽しさを見つける、ミコシリーズ第15話。

第一章 小さな打楽器

十一月の終わりの日曜日、ミコは市民センターのロビーで、ベンチのいちばん端に座っていた。

図書室に本を返しに来ただけだった。返し終わって出口へ向かう途中、ロビーの奥から、ピアノと太鼓と、鍵盤ハーモニカの音が聞こえてきた。〈ロビーコンサート みなと手づくり合奏団〉と書いた立て看板があって、パイプ椅子が二十くらい、半分ほど埋まっていた。

ミコは、音楽を聴くのが好きだ。通勤の電車では、片耳だけイヤホンをして、知らない歌手の歌を順番に聴く。誰かと話すより、ずっと楽だった。歌のほうは、ミコに返事を求めてこない。

立ったまま一曲聴いて、二曲目の途中で、ベンチの端に座った。

三曲目の終わりに、タンバリンが鳴った。
シャン、と一回。
ほかの楽器が全部止まったあとも、小さな鈴だけが、しばらく震えていた。ロビーの高い天井のほうへ、細く、細く上っていって、それから消えた。

気がつくと、ミコの右手が、膝の上で同じ形をしていた。

帰りに、出口の机から、チラシを一枚もらった。

〈年末の合奏ひろば はじめてさん歓迎・楽器お貸しします〉
〈12月第2土曜日 13:30〜16:30 二階・音楽室〉
〈定員12名 参加費500円 申し込みは12月5日まで〉

本部のホワイトボードには、そのチラシが貼られていた。

シンパイが、その横に細かい字で書きこんでいた。

〈楽器をこわす〉
〈ひとりだけ、まちがえる〉
〈ひとりだけ、まちがえて、みんなが止まる〉
〈楽譜が読めない〉

「楽譜は」とキオクが言った。「中学の音楽のテストで、六十八点でした」

「読めない、の範囲です」とシンパイは言った。

「読める、の範囲ですよ」とダイジョブが言った。「半分より上です」

ハラヘッタは、チラシのいちばん下の小さな字を読んでいた。

〈休憩にみかんがあります〉

「あります」と、ハラヘッタは言った。

申し込みのフォームを開いたのは、十二月二日の夜だった。名前、電話番号、メールアドレス。そこまでは、すぐに打てた。電話をかけるのも、知らない店に入るのも、この半年で何回もやった。フォームは、それよりずっと簡単だった。

最後の質問で、指が止まった。

〈ご希望の楽器(当日の人数で調整します)〉
〈□鍵盤ハーモニカ □木琴・鉄琴 □小さな打楽器 □おまかせ〉

鍵盤ハーモニカは、メロディーを吹く。木琴も、たぶんメロディーをたたく。
ミコは、〈小さな打楽器〉にチェックを入れた。小さいなら、目立たない。

送信ボタンを押したあと、パイプ椅子の上で、ネムイが寝言みたいに言った。

「タンバリンも、小さいですよね」

ミコは、聞こえなかったことにした。

前の晩、ゆかりからメッセージが来た。

〈わたしの番、一月でいい? 場所はまだ内緒〉

〈いいよ。たのしみ〉

〈ミコ、あした何しよると?〉

ミコは、少し考えてから打った。

〈タンバリン〉

〈なんで!?〉

説明を三行書いて、消して、一行にした。

〈合奏の体験に、自分で申し込んだ〉

〈えー、いいやん。終わったら聞かせて〉

聞かせて、が、話を聞かせての意味なのか、音を聞かせての意味なのか、ミコには少しわからなかった。

第二章 はやい

十二月の第二土曜日、ミコは十三時十五分に市民センターに着いた。

いつもの青緑の上着の下に、灰色のセーター。黒いワイドパンツに、灰色のスニーカー。生成りのマフラーは、階段をのぼりながらはずして、トートに押しこんだ。トートの内ポケットには、濃紺のお守りが入っている。

音楽室は、二階のいちばん奥にあった。ドアの横の机に、名札のシールと、黒いペンが置いてあった。

「体験の方ですか」

机の向こうで、女の人が顔を上げた。五十代くらいで、白髪まじりの短い髪を耳にかけていた。セーターの胸ポケットに、細い指揮棒が、鉛筆みたいにさしてあった。

「はい。齋藤です」

「真鍋です。今日、前で棒を振ります。齋藤さんは……小さな打楽器、でしたね」

真鍋さんは、足もとのかごから、丸いものを取り出した。

木の輪に、白い皮が一枚張ってあった。輪のところどころに細い窓があいていて、そこに、小さな金色の円盤が二枚ずつ、重なってはまっている。真鍋さんが手渡したとたん、それがいっせいにシャラ、と鳴った。

タンバリンだった。

「小さな打楽器の中では、いちばんにぎやかな子です」と真鍋さんは言った。

本部で、ネムイが寝返りを打った。シンパイは何も言わずに、ホワイトボードのチラシの横に、タンバリンの絵を描きたした。

音楽室には、椅子が半円に並んでいた。

奥にピアノがあって、六十代くらいの男の人が楽譜をめくっていた。合奏団の佐伯さん。その隣で、眼鏡をかけた三十代くらいの男の人が、小太鼓の皮を指で軽くたたいて、音を確かめていた。高木さん。

体験の参加者は、ミコを入れて八人だった。
鍵盤ハーモニカの三人は、同じ会社の同僚だと言った。鉄琴の前には、七十代くらいの大西さんが、背筋をのばして座っていた。大学生の浅井くんは、トライアングルを鼻の前にぶらさげて、ふしぎそうに眺めていた。カスタネットは河野さんという四十代くらいのお父さんで、娘のさきちゃんは小学三年生。さきちゃんは、持ち手のついた鈴を両手で持って、もう足をぶらぶらさせていた。

ミコの席は、高木さんの小太鼓の斜め前、さきちゃんの隣だった。

真鍋さんが、半分に切った紙を配った。

〈十二月のパレード(真鍋 作)〉

「わたしが作った、短い曲です」と真鍋さんは言った。「二分くらい。楽譜が読めなくても大丈夫なように、楽器ごとに、やることだけ書いてあります」

ミコの紙には、四行だけ書いてあった。

〈A 休み(8小節)〉
〈B 2と4でたたく(8小節)〉
〈C 休み(8小節)〉
〈D ふる(4小節)→ 最後に1回たたく〉

「一小節は、いち、に、さん、し、です」と真鍋さんは手をたたきながら言った。「タンバリンさんは、Bのところで、にと、しで、たたきます。いち、たん、さん、たん」

「たん」と、ミコは小さく言った。

「じゃあ、みなさん、自分の楽器の音を、一回ずつ鳴らしてみましょう」

鍵盤ハーモニカが三つ、ぷう、と鳴った。鉄琴がポーン、と鳴った。トライアングルがチン、と鳴った。

ミコは、左手で木の輪を持って、右手のひらで、皮をたたいた。

シャン!

思ったより、ずっと大きかった。音楽室の窓ガラスまで、少し震えた気がした。
全員が、ミコを見た。

「おっきい」とさきちゃんが言った。

「すみません」

「謝らなくていいですよ」と真鍋さんは言った。「その音を出すために、持ってもらってるので」

本部で、シンパイが〈ひとりだけ、目立つ〉と書きたしていた。

一回目の通しは、十三時五十分に始まった。

佐伯さんのピアノが、ゆっくりと前奏を弾いた。鍵盤ハーモニカの三人がメロディーを吹きはじめた。少しふらふらしていたけれど、ちゃんと曲になっていた。

Aは、休み。
ミコはタンバリンを膝にのせて、紙の〈8小節〉を見つめた。いち、に、さん、し。いち、に、さん、し。

本部では、ダイジョブが前のめりになっていた。

「もうすぐです。もうすぐ、出番です」

「まだです」とシンパイが言った。「何小節目か、ちゃんと数えてください」

「数えてません」とダイジョブは言った。「でも、もうすぐなのは、わかります」

ピアノが、高いほうから低いほうへ、ころころと音を転がした。
いかにも、ここから何かが始まります、という音だった。

「今です!」とダイジョブが叫んだ。

シャン!

ひとりだった。

ピアノの上に、タンバリンだけが、大きく乗っていた。
そして次の拍で、二つ隣の席から、カスタネットが、カッ、と鳴った。河野さんだった。

真鍋さんの指揮棒が、ふわっと止まった。ピアノも止まった。

「はい、ちょっと早かったですね。あと一小節ありました」と真鍋さんは言った。「お二人とも」

「すみません、つられました」と河野さんが言って、頭をかいた。

さきちゃんが笑った。鍵盤ハーモニカの三人も、少し笑った。意地悪な笑いではなかった。ミコも、顔を熱くしながら、口のはしだけで笑った。

本部で、ダイジョブが、ホワイトボードの陰に半分かくれていた。

「でも、もうすぐだったのは、合ってました」

「一小節です」とシンパイが言った。「一小節、早いんです」

Bの頭からやり直した。
今度は、真鍋さんが指揮棒で合図をくれた。ミコは、いち、たん、さん、たん、とたたいた。高木さんの小太鼓と、河野さんのカスタネットと、一緒に鳴っているのがわかった。腕に力が入りすぎて、Bが終わるころには、右の手のひらがじんじんしていた。でも、たたいているあいだじゅう、胸の中で何かがぱちぱち弾けていた。

Dでふって、最後に一回。
最後の一回は、みんなと一緒だった。たぶん。

十四時五分、真鍋さんが「三分、休憩です」と言った。

ミコは、タンバリンを両手で持って、真鍋さんの譜面台のところまで歩いた。
質問をするのは、もう初めてではない。会社でも、料理教室でも、ボードゲームの店でもした。それでも、のどが少し乾いた。

「あの。早く入っちゃうの、どうしたらいいですか」

真鍋さんは、少し考えた。

「早い人、毎回いますよ。去年は、わたしの隣の人が三回」

「三回」

「手を、先に上げておくといいです。Bの一小節前で、たたく手を皮の上に構えて、そこで待つ。手が先に準備できてると、気持ちがあわてないので」

真鍋さんは、何も持っていない右手を、空中でぴたりと止めてみせた。

「上げて、待つ」とミコは言った。

「上げて、待つ」

本部で、キオクがリモコンを押した。モニターに、今の真鍋さんの手が映った。キオクは、それを何回も巻き戻した。

第三章 おそい

二回目の通しは、十四時二十分だった。

Aの休み。ミコは、膝のタンバリンを見つめて、数えた。
今度は、絶対に早くならない。

本部も、数えていた。
全員が。

シンパイは、ホワイトボードに正の字を書いていた。一小節ごとに、一画。
ダイジョブは、指を折っていた。「いち、に、さん、し、ご、たくさん」
キオクは、リモコンを押しつづけていた。「上げて、待つ。上げて、待つ。上げて、待つ」
ハラヘッタは、みかんの房を数えていた。「休憩のみかんは、ひとつ、十房くらいです」
ネムイは、フードの中で、ひつじを数えていた。「ひつじが、いっぴき」

「ネムイ、それは違うかぞえです」とシンパイが言った。

「ひつじが、にひき」

「いま何小節目ですか」

「ひつじが」

ミコの頭の中は、数でいっぱいになった。正の字と、指と、巻き戻しと、みかんと、ひつじ。
ピアノが、ころころと音を転がした。

頭の中の会議室で、五人の小さな係たちが線やみかんの房、指などをそれぞればらばらに数えている。

上げて、待つ。

ミコは、右手を皮の上に上げた。上げたとたん、左手の輪が少し揺れて、鈴がチリ、と鳴った。
ミコは凍った。今の、聞こえただろうか。

「今のは、数に入りますか」とシンパイが言った。

「入りません」とキオクが言った。「上げて、待つ」

待った。
小太鼓が、タン、と鳴った。カスタネットが、カッ、と鳴った。

あ、と思った。でも、手は上がったまま動かなかった。今のは、本当にBだったのだろうか。もしかしたら、まだAの続きで、高木さんがまちがえたのかもしれない。

タン。カッ。タン。カッ。

「ひつじが、さんびき」とネムイが言った。

正の字が、ひとつ完成した。

ミコの右手は、上がったままだった。
Bはもう、ちゃんと始まっていた。小太鼓とカスタネットが二人で、ミコのぶんまで、にと、しを刻んでいた。

ミコがやっとたたきはじめたのは、Bの五小節目からだった。シャン、と、遠慮した小さな音がした。そのまま、残りの四小節を小さくたたいた。Bの十六回のうち、八回。

Cの休みで、上げっぱなしだった右腕が、ようやく下りた。肩が痛かった。

曲が終わると、真鍋さんがミコのほうを見て、少し笑った。

「今度は、待ちすぎましたね」

「はい」

ミコは、自分でも少し笑ってしまった。早すぎて、遅すぎた。ちょうどいいところが、二回とも、手の届かないところを通り過ぎていった。

「佐伯さん、Bの前の、あれ」と真鍋さんがピアノのほうへ言った。

佐伯さんはうなずいて、左手で、低い音を二つ鳴らした。

ボン。ボン。

「Bの直前に、毎回この二つがあります」と佐伯さんは言った。「ころころのあとです。この二つの次が、Bの、いち。そこは待って、に、で最初のたんです」

「ころころは、合図じゃないんですか」とミコは聞いた。

「ころころは、わたしの趣味です」

鍵盤ハーモニカの三人が笑った。ミコも笑った。
本部で、ダイジョブが、ホワイトボードの陰から完全に出てきた。

「ころころに、だまされたんです。わたしたち」

「わたしたち、じゃありません」とシンパイが言った。「今です、と言ったのは、あなたです」

十四時四十分、休憩になった。

廊下の長机に、みかんの入った段ボール箱が置いてあった。参加者はみんな、そっちへ出ていった。河野さんとさきちゃんは、どちらが皮を一枚でむけるか、競争を始めていた。

ミコは、音楽室に残った。

誰もいない半円の椅子。ピアノのふたは閉まっていて、小太鼓には布がかけてあった。窓の外では、冬の日がもう少し傾いていた。

ミコは、膝の上のタンバリンを見た。
さっきから、何回たたいたのだろう。一回目は早すぎた一回と、Bの十六回と、最後の一回。二回目は八回と、最後の一回。数のことばかり考えていた。

そっと、右手の指先で、皮をたたいた。

トン。シャラ。

小さな音だった。でも、たたいた音のあとに、鈴だけが残った。シャララ、と細かく震えて、それが、音楽室の天井のほうへ上っていった。
ミコは、息を止めて聞いた。
ロビーで聴いた、あの音だった。

休憩中の静かな音楽室で、持ち上げたタンバリンの鈴を見つめて残響に耳を澄ませるミコ。背景にふたを閉じたピアノと布付きの小太鼓がある。

もう一回。今度は、手のひらで、もう少し強く。

シャン。

鈴の震えが、さっきより長かった。窓ぎわのほうまで届いて、消えた。

もう一回。今度は、皮の端のほうを。

チャッ。

短い。こっちは、すぐ止まった。

ミコはタンバリンを持ち上げて、目の前で見た。金色の小さな円盤が、まだかすかに揺れていた。
さっきまで、ミコはこの楽器で、いつ、ばかりを考えていた。どんな音がするかは、最初の「おっきい」以来、一度も聞いていなかった。

本部では、ネムイが目を開けていた。

ほかの四人も、何も言わなかった。シンパイはマーカーにふたをしていた。モニターには、何も映っていなかった。五人とも、鈴の音が消えていくのを、最後まで聞いていた。

「……いい音ですね」

戸口に、大西さんが立っていた。両手に、みかんを一つずつ持っていた。

「あ、すみません。うるさく」

「いえいえ」と大西さんは言って、みかんを一つ、ミコに差し出した。「わたしも、それで来たんです」

「それで?」

「鉄琴をひとつたたくと、しばらく残るでしょう。あれが好きで」大西さんは自分の席の鉄琴を、指先でそっとたたいた。ポーン、と澄んだ音が残った。「合わせるのは、まだ全然です。さっきも二回、ちがう板をたたきました」

「そうなんですか」

「ばれないように、すぐ止めましたけどね」

大西さんは、いたずらっぽく笑った。

ミコはみかんを受け取った。ひんやりしていた。
本部で、ハラヘッタが小さくうなずいた。

廊下から、高木さんが戻ってきた。小太鼓の布を取って、スティックを二本持って、軽くたたこうとした。
その一本が手からすべって、床をからからと転がった。

「あー」と高木さんは言って、拾いに行った。「すみません。これ、毎回一回はやるんです」

「毎回ですか」と大西さんが聞いた。

「十年やってて、たぶん毎回」

高木さんは、スティックを拾ってズボンでふいて、何でもない顔で、小太鼓をタタン、と鳴らした。

ミコは、みかんの皮をむいた。房は十一あった。
本部で、ハラヘッタが言った。「十房くらい、は合ってます」

第四章 ボン、ボン

十五時から、楽器ごとの練習になった。

真鍋さんは、鍵盤ハーモニカの三人のところへ行った。大西さんと浅井くんは、鉄琴とトライアングルで、窓ぎわに集まった。河野さんとさきちゃんとミコは、ピアノのそばに呼ばれた。

「Aの終わりから、Bの頭まで、何回か弾きますね」と佐伯さんは言った。

ころころ。ボン。ボン。

ミコは、二つめのボンと一緒にたたいてしまった。シャン。

「あ」

「いまのは、ボンと一緒でしたね」と佐伯さんは言った。「ボン、ボン、のあと、いちを待って、に、です」

隣で河野さんも、同じところでカッと鳴らしていた。二人で、顔を見合わせた。

「今のは、つられてないですよね」とミコは言った。

「今のは、自分でまちがえました」と河野さんは言った。

さきちゃんが、鈴をシャンシャン鳴らして笑った。

二回目。ころころ。ボン。ボン。
いち。
シャン。カッ。

合った。カスタネットとタンバリンが、ちょうど同じところに落ちた。

三回目。ミコは、ボンを聞こうとしすぎて、また少し遅れた。半拍くらい。でも、もう凍らなかった。遅れたぶん、次のたんで戻った。

「いいですね」と佐伯さんは言った。それ以上は何も言わずに、楽譜をめくった。

本部では、シンパイが、ホワイトボードの正の字を見ていた。
二回目の通しのあいだに書いたものだった。Aの八小節を数えるつもりで始めて、途中から何を数えているのかわからなくなったまま、書きつづけた正の字だった。数えてみると、曲ぜんぶの小節より多かった。

「数えるのは、悪くないと思うんです」とシンパイは言った。「数えないと、ダイジョブがまた今ですって言うので」

「言いません」とダイジョブが言った。「たぶん」

キオクが、リモコンを押した。モニターに、佐伯さんの左手が映った。ボン。ボン。

「数えるのは、シンパイ一人でいいんじゃないですか」とキオクが言った。「ほかの四人は、聞く係で」

「聞く係」とハラヘッタが言った。

「何を聞くんですか」とシンパイが言った。

「ボン、ボン、と」とキオクは言った。それから少し考えて、つけたした。「あと、ミコの音」

ネムイは、もう寝ていた。でも、フードの中から、耳のところだけ少し外に出ていた。

シンパイは、正の字を、全部消した。
そして、新しく、小さく書いた。

〈A 8〉

それだけだった。

十五時四十分、真鍋さんが、指揮棒で譜面台を軽くたたいた。

「十六時から、最後の通しをします。おうちの方とか、お友だちとか、来てる人は、後ろで聞いてもらってかまいません。今度は止めずに、最後まで行きます。まちがえても止まらずに、次のところから入ってください」

止めずに、最後まで。
ミコは、紙の四行を、もう一度見た。

〈C 休み(8小節)〉

Cの横に、ミコはボールペンで、小さく書きたした。

〈きく〉

第五章 まだ鳴らない

十六時、音楽室の後ろに、パイプ椅子が五つ並んだ。

さきちゃんのお母さんと、まだ小さい弟。大西さんの友だちだという、同じくらいの年の女の人。鍵盤ハーモニカの三人の知り合いが二人。
ミコの知っている人は、いなかった。それで、少しほっとした。それから、ほんの少しだけ、誰かに聞いてほしかった気もした。

真鍋さんが、指揮棒を上げた。

佐伯さんの前奏が始まった。
鍵盤ハーモニカの三人が、メロディーを吹いた。一回目より、ずっと安定していた。大西さんの鉄琴が、ときどき、ポーン、と入った。

Aは、休み。

ミコはタンバリンを膝にのせて、音を聞いた。
本部では、シンパイだけが、小さな声で数えていた。いち、に、さん、し。ほかの四人は、黙っていた。

ころころ、とピアノが転がった。

ダイジョブが口を開きかけて、両手で自分の口をふさいだ。

ミコは、右手を上げた。皮の上で、止めた。
鈴が、チリ、と鳴った。今度は、凍らなかった。上げた手の下で、タンバリンは、まだ鳴らないでいた。

まだ。
まだ。

ボン。ボン。

いち。

シャン。

小太鼓と、カスタネットと、一緒だった。
たたいた手のひらに、ちょうどいい重さが返ってきた。いち、たん、さん、たん。高木さんの小太鼓が、隣で同じところをたたいていた。河野さんの肩が、カスタネットに合わせて、小さく上下していた。

Bの五小節目で、カスタネットが、少しずつ速くなりはじめた。
河野さんの顔が、真剣だった。真剣すぎて、走っていた。
ミコの手も、つられて一緒に速くなった。たん、たん、と、二つの音が、小太鼓より少しずつ前に出ていった。

あ、と思って、ミコは一回、たたくのをやめた。

その一拍で、高木さんの小太鼓が聞こえた。タン。変わらない場所で、変わらない強さで鳴っていた。
次のたんで、ミコは小太鼓のほうに戻った。一小節あとで、河野さんも戻ってきた。

Bの十六回のうち、十五回。

Cは、休みだった。
メロディーが、鍵盤ハーモニカから鉄琴に移った。大西さんの鉄琴が、ポーン、と鳴って、残った。浅井くんのトライアングルが、チーン、と鳴って、残った。音楽室の空気が、いろんな音の残りで、少しずつきらきらした。

〈きく〉

ミコは、聞いていた。タンバリンを膝に置いて、手を休めて。
鳴らさないあいだも、曲はちゃんと進んでいた。鳴らさないあいだのほうが、ほかの人の音がよく聞こえた。

Cの三小節目で、隣の席から、シャンシャンシャン、と鈴が鳴った。
さきちゃんだった。鈴は、Dから。まだ五小節以上あった。

さきちゃんは、あっ、という顔をして、鈴を胸にぎゅっと抱いた。後ろの席で、お母さんが口をおさえて笑っていた。鍵盤ハーモニカの一人も、吹きながら目だけで笑った。真鍋さんの指揮棒は、止まらなかった。

ミコには、わかった。
鳴らしたくて、待てなかったのだ。一回目のミコと同じだった。

さきちゃんが、こっちを見た。ミコは、小さくうなずいた。さきちゃんもうなずいて、鈴を膝に下ろした。

二人で、待った。

ボン。ボン。

D。ミコは、タンバリンを持ち上げて、ふった。シャラララララ、と鈴が鳴りつづけた。隣で、さきちゃんの鈴が、今度はちゃんと一緒に、シャンシャンシャン、と鳴った。

四小節。
真鍋さんの指揮棒が、大きく上がった。

最後の一回。

ミコは、右手を上げた。
上げて、待った。ほんの一瞬だった。でもその一瞬のあいだ、ミコは、これから自分が鳴らす音のことを考えていた。いつ、ではなくて、どんな音か。

指揮棒が下りた。

シャン。

ピアノも、小太鼓も、カスタネットも、鈴も、鍵盤ハーモニカも、全部が同じところで止まった。

止まったあとに、タンバリンの鈴だけが残った。

シャララ……と、細く、細く、音楽室の天井のほうへ上っていった。ミコは、手で押さえなかった。真鍋さんも、指揮棒を下ろしたまま、動かなかった。

消えた。

後ろで、五人が拍手をした。さきちゃんの弟が、いちばん大きく手をたたいた。

本部では、五人とも、まだ天井を見ていた。
ネムイが、目を開けたまま言った。

「いまの、ミコの音ですね」

「はい」とシンパイが言った。ホワイトボードの〈A 8〉の下には、何も増えていなかった。

十六時半、片づけのあと、真鍋さんがチラシを配った。

〈合奏団の練習は、第2・第4土曜の午後です。見学自由〉
〈3月にも、合奏ひろばを開きます〉

「よかったら」と真鍋さんは言った。それだけ言って、次の人にチラシを渡した。

廊下の段ボールのみかんは、残ったぶんを一つずつ持って帰ることになった。

ミコは、タンバリンを両手で持って、かごに戻しに行った。
戻す前に、もう一度だけ、指先でトン、とたたいた。鈴が、小さく残った。

「それ、いい子だったでしょう」と真鍋さんが言った。

「にぎやかでした」とミコは言った。「でも、静かなところも、ありました」

真鍋さんは、少し目を丸くして、それから笑った。

廊下で、さきちゃんが、お母さんの手を引きながら振り返った。

「タンバリンのおねえさん、ばいばい」

ミコは、手をふった。タンバリンのおねえさん、と、口の中で繰り返した。

帰りのバスで、ミコはスマートフォンを出した。

〈終わった〉

ゆかりの返事は、すぐ来た。

〈どうやった!?〉

〈一回目は早くて、二回目は遅かった〉

〈ちょうどいいのは?〉

ミコは、少し考えてから打った。

〈最後のは、十六回のうち十五回。いちばん最後の一回は、いちばん長く鳴った〉

〈聞きたかったー〉

それから、少し間があって、もう一通来た。

〈今度カラオケ行ったら、タンバリン係ね〉

〈いいよ。でも、待つところ、長いよ〉

〈待つと!?〉

〈待つの。待つの、けっこう楽しいの〉

ゆかりから、目を丸くした猫のスタンプが届いた。

チラシは、トートの中で、お守りの隣に入っていた。三月のことは、まだ決めていなかった。第二と第四の土曜日のことも。

夜、302号室で、ミコはいつものようにイヤホンを片耳だけして、知らない歌手の冬の歌を聴いた。

前にも何回か聴いた歌だった。でも今夜は、二番の手前で、耳が勝手に何かを探していた。

ピアノ。ベース。歌。
その後ろに、タンバリンがいた。今まで、一度も気づいていなかった。

ミコは、膝の上で、右手を上げた。
まだ。
まだ。

シャン、とイヤホンの中で鳴った。
ミコの手は、膝をたたかなかった。上げたまま、その音が残って、消えるのを、最後まで聞いた。

本部で、シンパイがホワイトボードを見ていた。
〈A 8〉の下に、何か書こうとして、マーカーのふたを開けて、また閉めた。

ハラヘッタは、台所のテーブルの上の、持って帰ってきたみかんを見ていた。明日の朝の分だった。