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坂の上シネマ第6話
日常

休館日の、試写会

休館日の客席で、映写係の腰が何度も浮く。

読了目安
20分
長さ
短編
#くすっと笑える#映画館#仕事
休館日の、試写会のイメージ

あらすじ

十二月の休館日。受付と映写を担当する河合悠は、年末の新作を、確認ではなく客として楽しみにしていた。売店の灯は鍋で作ったポップコーンを大きなボウルいっぱいに用意し、店長の野崎は仕事のちらしを抱えて客席へ。映画が始まっても、三人の仕事の癖はなかなか止まらない。坂の上シネマ第6話。

一 月曜日の、出勤簿

十二月も後半に入った月曜日。坂の上シネマのガラスの扉には、いつもの札が下がっていた。〈本日休館〉。

それでも、朝の九時半にはロビーの明かりがついていた。

河合悠は受付の横を抜けて、客席の扉の右にある細い階段を上った。紺のカーディガンの袖をまくり、黒縁の眼鏡を押し上げて、映写室の小さな椅子に座る。土曜日から年末年始の番組が始まる。その上映用のデータが、先週、配給会社から届いていた。番組に組み入れて、画と音がちゃんと出るかを確かめる。それが休館日の朝の仕事だった。

『まわり道の楽団』、百十二分。雪の多い港町で、寄せ集めの吹奏楽団が大みそかの夜の行進に出るまでの話だという。河合が知っているのは、ちらしに書いてあるそこまでだった。

それ以上は、知らないでおくと決めていた。

再生して、最初の一分を小窓から見る。ピントと、左右の音。それから時間を飛ばして、途中を何か所か見る。そのとき河合は、画面のまん中を見ないようにした。四隅がぼけていないか、端が欠けていないかだけを見て、人の顔が大きく映りそうになると、目を細めて音を絞った。最後の二分も、画面ではなく再生時間の数字だけを見ていた。数字が最後まで進んで、番組が止まる。それでいい。

階段を下りると、売店のカーテンの奥から灯の声がした。

「河合さん、今の、見ないようにしてたでしょう」

三浦灯は深緑のエプロンをつけて、売店の棚の前にしゃがんでいた。クリーム色のブラウスの袖を少しまくり、紙コップの箱を数えている。黒い髪は、低い位置でひとつに結んである。年末年始は客が増えるので、紙コップも容器も塩も、いつもより多めに頼んでおく。それが灯の、朝の仕事だった。

「どうしてわかるんですか」

「階段の音が、いつもよりゆっくりでした。大事なものをこぼさないようにしてる人の足音」

河合は反論しかけて、やめた。たしかに、こぼさないように下りてきたのだった。

事務室の戸が開いて、野崎航が顔を出した。灰色のセーターの肩に、段ボールのくずがついている。こめかみの白いところを指でかきながら、

「ちらし、届きました」

と言った。

事務室の机の上に、刷り上がったばかりの束が四つ積んであった。年末年始の番組のちらしだ。商店街のお店のレジ横に置いてもらう分は、二つに折って小さくする。去年もそうした。

「これは、明日の仕事」と野崎は言った。言ってから、束の上に手を置いたまま、しばらくどけなかった。

十二時半、野崎は事務室の壁にかけた出勤簿に、三人の名前と時間を書いた。九時半から十二時半。それから鉛筆を置いて、二人のほうを向いた。

「ここまでが、仕事です」

ここから先のことは、二週間前に決まっていた。

河合が事務室で、めずらしく自分から言いだしたのだ。年末の映画を一本、休館日に、頭から終わりまで見てみたい。確認ではなく。

河合は、この館でかかった映画を、たぶんだれよりたくさん知っていた。最初の五分なら、ほとんど全部見ている。最後の五分も。途中は小窓から、ところどころ。笑い声は階段の下で聞き、泣かせる場面は壁ごしの音楽で知っている。知っている映画の数は多いのに、最後まで座って見た映画は、数えるほどしかなかった。

野崎が配給会社の担当の人に電話をかけて、確認のあとでスタッフだけで一回通して見てもいいか聞いた。どうぞ、よかったら感想も聞かせてください、という返事だった。

「来なくてもいいんですよ」と野崎は言った。「休みなので」

「来ます」と河合は言った。

「来ます。お昼食べたら」と灯が言った。「わたし、やりたいことがあるので」

野崎はうなずいて、それから机の上のちらしの束を、もう一度見た。

二 ちぎられる側

一時四十五分に戻ってくると、ロビーにバターの匂いがしていた。

売店のポップコーン機は、ふたが閉まったままだった。匂いはカーテンの奥からしている。河合がのぞくと、灯が二口コンロの前に立って、片手鍋のふたを押さえていた。エプロンは外して、カーテンの横のフックにかけてある。

「機械じゃないんですか」

「機械は、売るときの味です」灯は鍋を小さくゆすった。「今日のは、うちの味。鍋で、ふたをして、ゆするの。ちょっと焦げる粒もあるけど、それがいいんです」

鍋の中で、ぽん、とひとつはじけた。続けて二つ。それから雨が降りだすみたいに、ぽんぽんぽんと鳴りはじめた。

「売店で売るのより、塩が多いですよ。お客さんじゃないから、量りません」

灯はそう言いながら、流しの横の秤をちらりと見て、目をそらした。

「量りたいんですね」

「量りたくないです」

鍋の音がまばらになると、灯は火を止めて、中身をステンレスのボウルにあけた。両手でかかえるほどの、いちばん大きいボウルだった。溶かしたバターを回しかけ、塩をふり、ボウルごと二度ゆすった。

「材料は、自分で買ってきました。とうもろこしも、バターも」

「それは」と河合は言いかけた。

「わたしの楽しみなので」灯が先に言った。「機械を使ったら、掃除が仕事になるでしょう。だから鍋。鍋なら、うちでも洗うから」

ロビーに戻ると、受付のカウンターの上に、小さな紙が三枚並んでいた。売店の値札用のカードを切ったもので、灯の字で〈休館日の試写会 十四時 E列〉と書いてある。

「入場券です」

河合は一枚を手に取って、つい、端のミシン目を探した。手で切ったカードに、ミシン目はない。それでも指が勝手に、券の右の端をつまんでいた。

「河合さん」灯が手を出した。「今日は、ちぎられる側です」

河合は少し黙ってから、券を灯に渡した。灯は端をきれいにちぎって、残りを返した。

「ごゆっくりどうぞ」

受付の河合の言い方をまねしたつもりらしかった。まるで似ていなかったので、二人で笑った。

休館日の映画館のロビーで、エプロンを外した灯が河合の手書き入場券をちぎって返している。奥では灰色セーターの野崎がちらしの束を抱えている。

事務室から野崎が出てきた。片腕に、ちらしの束をひとつかかえている。

「それは」と灯が言った。

「手が暇だと、落ちつかなくて」野崎は束を持ち直した。「家でも、テレビを見ながら洗濯物をたたむんです。映画も、たたみながらのほうが、よく入る気がする」

「それ、明日の仕事って言ってましたよね」

「言いました」

「休みに仕事を持ちこんだら、出勤簿に書かなきゃいけなくなりますよ」と河合が言った。

野崎は少し考えてから、「暗いところで折るだけです。数えない」と言った。何の答えにもなっていなかった。灯がボウルを抱えたまま、河合の顔を見た。河合は肩をすくめた。野崎は四十三歳で、この館の店長で、ちらしを手放さなかった。

客席の暖房は、昼から入れてあった。九十六の赤い座席は、ほとんどぜんぶ空いている。三人で、どこに座るかを決めた。

灯はE9に座った。野崎はE8。ちらしの束は、隣のE7に置いた。

河合は少し迷ってから、E列の右の端、通路ぎわのE12に座った。

「柴田さんの反対側ですね」と灯が言った。柴田澄江がよく座るのは、E列の左の端、E1だ。

「何かあったら、すぐ出られるので」

「何かって、何ですか」

河合は答えなかった。かわりに立ち上がって、腕時計を見た。一時五十六分。

「始めてきます」

始まりの一、二分を小窓から見ること。それだけは、今日も河合の役目だった。再生を押せば、番組は決めた順に流れていく。けれど、最初にピントと音を自分の目と耳で確かめることを、河合はこれまで一度も省いたことがない。止まったり音が消えたりすれば、客席にいてもわかる。わかったら、上がればいい。三人でそう決めてあった。

二時ちょうど、客席の明かりがゆっくり落ちた。予告はない。いきなり、雪の降るバス停が映った。河合は小窓から一分見て、ピントと左右の音を確かめ、それから階段を下りた。客席の扉を、音をたてないように開けて、閉めた。

暗い客席で、E12に腰を下ろす。スクリーンでは、古いバスの運転席から、白髪まじりの男が降りてくるところだった。

三 停電は、スクリーンの中で

映画は、町の楽団の話だった。

港町の公民館で、毎週火曜に練習している吹奏楽団がある。人数が足りない。そこへ若い指揮者が東京から帰ってきて、大みそかの夜の行進に出ようと言いだす。集まってくるのは、楽譜の読めない魚屋や、口笛のほうがうまい中学生や、三十年バスを運転していた佐和という老人だった。佐和はチューバを吹く。楽譜は読めるが、拍は数えない。かわりに、昔の路線のバス停を数える。「三つ目の停留所で入ります」と、本気で言う。

二十分すぎ、はじめての合奏の場面が来た。

指揮者が棒を振りおろし、全員がいっせいに音を出した。ひどい音だった。その中でチューバだけが、ぶおお、とひときわ低く、ひときわ外れて鳴った。

河合の腰が、座席から浮いた。

低音が割れている。スピーカーか。いや、朝に左右とも——。

「河合さん」

暗がりの中から、灯の声がした。小さく、でもはっきりと。

「それ、たぶん、わざとです」

スクリーンの中で、指揮者が棒を下ろし、ゆっくりと佐和のほうを見た。佐和はマウスピースから口を離して、「今のは、バスの警笛です」と言った。

灯が吹きだした。E8で野崎が、ひっ、と短い音を立てた。しゃっくりのような音だった。河合は浮いた腰を、そのまま下ろした。下ろしてから、自分も少しだけ笑った。

野崎の膝の上で、紙がかさかさと鳴っていた。暗がりで、ちらしを折っているのだ。二つに折り、指で折り目をしごいて、隣の席に重ねる。かさ、すっ、とん。合奏の場面が終わって公民館が静かになると、その音がよく聞こえた。

「野崎さん」と灯がささやいた。

「はい」

「音」

「はい」

かさ、すっ、とん。少しだけ、ゆっくりになった。

四十分のあたりで、今度は灯が立ち上がった。

スクリーンでは、楽団のみんなが魚屋の店先で、魚の空き箱を譜面台にして練習している。灯は半分ほどに減ったボウルを抱えて、身をかがめながら通路へ出てきた。E12の河合の前を通るとき、「二回目、作ってきます」と言った。

「三浦さんも、立つんですね」

「今、いちばん静かなところだと思ったので」

熱いうちに食べてほしいのだ。いちばんいいときに、いちばんいい量を。売店で毎日やっていることだった。

河合は何も言わずに、灯が客席の扉を出ていく背中を見送った。灯がいないあいだに、魚屋の店先で、中学生が口笛で旋律を吹いた。それを聞いた魚屋が、急に泣きだした。

灯は六分後に戻ってきた。ボウルはまた山盛りになっていて、湯気が少し立っていた。

「何がありました」と、灯は河合の横で小声で聞いた。

「魚屋さんが泣きました」

「なんで」

「口笛で」

灯は自分の席に戻ってからも、しばらく、何かを損したような顔でスクリーンを見ていた。

五十五分すぎ、公民館での夜の練習の場面になった。

雪が強くなっている。窓がかたかた鳴っている。指揮者が、今日は通しでやる、と言う。全員が楽器を構える。指揮棒が上がる。

そして、画面が真っ暗になった。

音も消えた。窓の音も、雪の音も、だれかの息も。九十六席の客席が、非常口の緑の明かりだけを残して、しんとした。

河合は、もう立っていた。

通路を客席の扉のほうへ、二歩、三歩。止まったのか。データか。朝の確認で、このあたりの時間も見たはずだ。四隅だけ。顔が映りそうになったら、目を細めて——。扉の取っ手に、手がかかった。

そのとき、背中のほうで、しゅっ、と音がした。

マッチをする音だった。

振り返ると、スクリーンのまん中に、小さな火がともっていた。火の向こうに、佐和の顔が浮かんでいた。

「停電ですな」と佐和は言った。「バスも、よく止まりました」

河合は扉の取っ手を握ったまま、しばらく動けなかった。

暗い映画館の扉の取っ手を握ったまま振り返る河合。スクリーンの小さなマッチの火に、席の野崎と灯が笑いをこらえている。

E列から、押し殺した笑い声が二つ聞こえた。ひとつは灯で、もうひとつは、ひっ、ひっ、と続いていた。

河合が通路を戻ってくると、灯がもう立っていた。野崎も、ちらしの束をかかえて立っていた。

「止めますか」と野崎がささやいた。「一回止めて、仕切り直しても」

自分たちだけの上映だ。止めることはできる。河合は少し考えて、首を振った。

「止めたら、仕事になります」

灯が暗がりで、ふっと息をもらした。それから、ボウルを河合の胸に押しつけた。

「じゃあ、席を替えましょう。河合さんは、まん中」

灯は河合の背中を押して、E列の中ほどへ連れていった。E6に河合を座らせて、自分はその左のE5に座った。野崎はちらしの束を少し眺めてから、それを通路ぎわのE12に置いてきて、河合の右のE7に座った。

「出るなら」と灯はささやいた。「わたしたちを越えていってください」

「三浦さんも、もう立てませんよ」

「立ちません。三回目は作りません」

「野崎さんは」

「手が空きました」

野崎は、空いた手をどうしていいかわからないように、膝の上で開いたり閉じたりした。

河合は膝の上のボウルを、左右に少しずつ傾けた。野崎の手がのびて、ポップコーンをひとつかみ取った。それきり、野崎の手はちらしを探さなかった。

スクリーンでは、マッチの火が、ろうそくに移されていくところだった。

四 まん中の席から

ろうそくの明かりで、練習が続いた。

指揮者の手は、もうほとんど見えない。楽譜も読めない。魚屋がまちがえ、中学生がまちがえて、音がばらばらになりかけた。そのとき、佐和のチューバが低く、ゆっくりと鳴りはじめた。拍ではなく、昔の路線を走るように。

「次は、浜通り」と佐和は言って、また吹いた。「次は、市場前」

暗い中で、ほかの楽器が、その声と音を頼りに、ひとつずつ戻ってきた。

左のE5で、灯が鼻をすすった。

河合はふと、スクリーンの光が、自分のまわりで動いていることに気づいた。

ろうそくの場面は暗い。そのぶん客席に届く光は弱くて、やわらかい。灯の頬と、野崎のこめかみの白いところだけが、オレンジ色にうすく浮かんでいた。灯の目が濡れている。野崎は口を半分開けて、ポップコーンをつまんだまま、手を止めていた。

河合は、こんなふうに隣から、上映中の人の顔を見たことがなかった。

受付では、たくさんの顔を見る。入ってくるときの顔と、出てくるときの顔。券を買うときの、少し迷う顔。上映が終わって扉から出てきて、まだ映画の中にいるような顔。顔を覚えるのは得意だった。けれど、そのあいだの百分や百二十分のことは、何も知らなかった。小窓から見えるのは、頭のうしろと肩の一部だけだ。

これが、あいだの顔なのだ、と思った。

じっと見るのはやめて、河合はスクリーンに目を戻した。それから一度だけ、首をうしろへ回した。

客席のうしろの壁の高いところに、小さな四角い窓が、ぽつんと光っていた。そこから光の帯が、空っぽの座席の上をまっすぐスクリーンへ伸びている。帯の中を、ほこりがゆっくり浮かんでいた。窓の奥には、だれもいない。

いつもは、あの奥に自分がいる。あそこから、見えない席があることを心配して、身を乗り出している。

でも、ここから見ると、あれはただの小さな明かりだった。客席の人たちは前を向いている。うしろの窓のことなんて、だれも考えていない。考えないでいられるように、あの窓はあるのだ。

河合は前を向いた。ボウルに手を入れると、少し焦げた粒に当たった。それがいちばんおいしかった。

九十分をすぎて、大みそかの夜になった。

雪は止んでいた。楽団は公民館の前から、港の古いバスの待合所まで行進する。その道は、昔のバスの路線と同じだった。佐和は先頭でチューバを抱え、停留所の名前をひとつずつ呼んだ。呼ぶたびに、通りの家の窓がひとつずつ明るくなって、人が顔を出した。魚屋のおかみさん。中学生の祖母。昔、佐和のバスで通学していたという、白髪の男たち。

灯は、もう隠さずに泣いていた。野崎は、ひっ、と笑い、それからまた、ひっ、とちがう音を立てた。笑っているのか、そうでないのか、河合にはわからなかった。

待合所の前で、年が明けた。楽団は古いベンチの並ぶ屋根の下で、最後の音を長く伸ばした。佐和はマウスピースから口を離して、言った。

「終点です。お忘れ物のないように」

河合は笑った。

自分でもおどろくほど、大きな声だった。からっぽの客席にその声が響いて、天井のほうへ抜けていった。左右から、灯と野崎がこちらを見たのがわかった。河合はかまわず、もう一度笑った。笑いながら、眼鏡の下を指で押さえた。

エンドロールが流れはじめた。

右のE7で、野崎の体が動いた。背もたれから背中が離れる。ロビーの明かりをつけに行くつもりなのだ。上映が終わる前にロビーを整えておくのが、いつもの野崎の順番だった。左では、灯がボウルに手をのばした。空になったボウルを、流しへ運ぶつもりなのだ。

河合は膝の上のボウルを、両手で押さえた。

「まだです」

二人が止まった。

「明かりがつくまでが、上映です」

灯がぽかんと口を開けて、それから、ゆっくり座り直した。野崎も、背中をもう一度背もたれにつけた。

白い文字がのぼっていった。指揮者の役の人の名前。チューバの指導をした人の名前。撮影に協力したバス会社の名前。河合はそのひとつひとつを、数字ではなく文字として読んだ。朝はここを、再生時間の数字だけで見ていた。

文字がすべてのぼりきって、画面が黒くなった。

そして、もう一度、明るくなった。

夜明けの、雪のバス停だった。佐和がひとりで、チューバのケースを足もとに置いて、ベンチに座っている。遠くから、エンジンの音が近づいてくる。佐和は立ち上がり、帽子をかぶり直して、つぶやいた。

「始発です」

画面が、今度こそ暗くなった。客席の明かりが、ゆっくりと戻ってきた。

三人とも、しばらく何も言わなかった。

五 終点のあとで

最初に口を開いたのは、野崎だった。

「最後のあれ、朝に見なかったんですか」

「数字しか見てませんでした」と河合は言った。「最後の二分は、ずっと時間の表示を見てて」

「よかったですね」と灯が言った。目のまわりが赤かった。「見てたら、たぶん今、立ってました」

河合は否定できなかった。

ロビーに出ると、三時五十三分だった。ガラスの扉の外では、冬の早い夕方が、商店街の坂の下の空を少しずつ黄色くしていた。

三人はベンチに並んで座った。

「わたしは、ろうそくのところ」と灯が言った。「チューバの音で、みんなが戻ってくるところ」

「僕は、停留所の名前ですね」と野崎が言った。「市場前、って言うところ。昔のバスの、あの言い方をちゃんとしてて」

「野崎さん、笑ってました」と灯が言った。「ひっ、って」

「笑ってません」

「ひっ、ひっ、って」

「あれは、しゃっくりです」

「ずっとですか」

「百十二分、ずっとです」

河合は笑った。さっきほど大きな声ではなかったけれど、灯がこちらを見た。

「河合さんの声、あんなに大きいんですね。受付だと、〈ごゆっくりどうぞ〉の声しか聞いたことなかった」

「僕も、聞いたことなかったです」

野崎が、E12に置いてきたちらしの束を取りに戻った。しばらくして、束を抱えて出てきた。何も言わずに、一枚を二人の前に差しだした。

ちらしは、きれいに二つ折りにしてあった。題名と上映時間の刷ってある表のほうを、内側にして。

「全部ですか」と灯が聞いた。

野崎は束をめくった。三十枚ほど、どれも裏返しに折ってあった。『まわり道の楽団』の文字は、一枚残らず内側に隠れていた。

「暗いところでは、折らないほうがいいですね」と野崎は言った。

「明日、明るいところで、出勤簿に書いてから折り直してください」と河合が言った。

「三浦さんも、手伝ってくれますか。勤務時間に」

「勤務時間なら」と灯は言った。

河合は立ち上がった。番組の終わりを確かめて、映写の機械を落としておく。十分ほどのことだった。

「河合さん」と野崎が呼びとめた。事務室の出勤簿を指さしている。「それは、書いてください」

「十分ですよ」

「十分でも」

河合は事務室に入って、出勤簿の自分の欄の下に、鉛筆で二行書き足した。〈十三時五十六分〜十四時二分 試写準備〉。客席に座るまでの時間も、仕事だった。その下に、〈十六時五分〜十六時十五分 映写室〉。それから、階段を上った。

映写室は、朝と同じ匂いがした。機械のあたたかい匂いと、古い木の匂い。番組がちゃんと止まっていることを確かめ、順番どおりに電源を落とした。土曜日の十一時の回に『まわり道の楽団』が入っていることを、もう一度確かめた。

それから、小窓をのぞいた。

明るくなった客席が見えた。九十六の赤い座席。ロビーから戻ってきた灯の黒い髪が、E6のあたりで止まった。野崎のこめかみの白いところが、その横に並んだ。二つの頭が、少しずつ動いていた。たぶん、どこがいちばんよかったか、まだ言い合っているのだろう。

声は聞こえなかった。二人の膝も手もとも、小窓からは見えない。見えるのは、灯の低く結んだ黒い髪と、野崎のこめかみの白いところだけだった。

それで十分だ、と河合は思った。あいだの顔は、もう知っている。

階段を下りると、灯がボウルを洗い終えて、カーテンの奥から出てきた。野崎は、裏返しに折ったちらしの束を、明日のぶんとして事務室の机に置いた。

コルクボードのまん中には、土曜からのちらしが一枚、折らずにとめてある。河合は受付の引き出しから白いカードを一枚出して、その下の余白にとめた。少し考えてから、鉛筆で書いた。

〈明かりがつくまで、どうぞ、そのまま〉

灯がうしろからのぞきこんで、「それ、河合さんに言ってるんですか」と言った。

「お客さんにです」と河合は言った。言ってから、少し考えて、「僕にもです」と言い足した。

野崎が、ひっ、と笑った。

「しゃっくりですか」と灯が聞いた。

「しゃっくりです」と野崎は言った。

三人はコートを着て、ロビーの明かりを消した。ガラスの扉には、〈本日休館〉の札がまだ下がっていた。野崎が鍵をかけた。河合は坂の下のほうを見た。冬の夕方の町に、窓の明かりがひとつずつ、ついていくところだった。