一 段取りのカード
一月の第三土曜の朝、柴田澄江は台所のテーブルで、白いカードに鉛筆で番号を振った。秋に宮下文具店で買った無地のカードの、束の最後の一枚だった。
〈一 E-1とE-2〉
〈二 半券に、姉さんの字で「E-1」〉
〈三 明かりが落ちる前に、耳打ち〉
〈四 明るくなるまで座っている〉
〈五 帰りに、坂の途中でたい焼き〉
書き終えて、澄江は五つの行を指でなぞった。
四十三年前の秋、十九の澄江を坂の上シネマへ連れていったのは、四つ上の姉の多恵子だった。その姉と二人きりであの館に入るのは、あの日以来になる。
言いだしたのは、姉のほうだった。十二月の夜、澄江は電話で秋の話をした。商店街のスタンプラリーの日に、はじめて来る人たちの前で、四分だけ館の案内をしたこと。お手洗いの場所と、途中で出てもいいことと、食べるなら音の大きいところで、ということ。
「全部、姉さんに教わったことなのよ」
姉は電話の向こうで、ふうん、と言った。それから、
「そこの売店で、黒糖のポップコーン売ってるって、前に言ってたわよね。持って帰るやつ」
「言ったかしら」
「言った。一月に行くわ。土曜でいいんでしょ」
それで決まった。妹の思い出話より、黒糖のほうに耳が向いている声だった。
姉は海のある市に住んでいて、ここまでは電車を二本乗り継いで一時間半かかる。六十で信用金庫を勤めあげてから、甘いものを食べ歩いては、小さなノートに包み紙を貼っている。もう三冊目だと言っていた。
木曜に、澄江は館へ電話をかけた。土曜の二回目、十四時半の回のE1とE2。電話に出た河合は、E1と言ったところで「はい」と言い、E2と言ったところで少しだけ間を置いて、「お連れさまですね」と言った。
「姉なの。十九のとき、わたしをここへ連れてきた人」
「ああ」と河合は言った。秋の客席で、二十分の話を聞いた人の声だった。「お待ちしています」
手提げに、いちばん古い半券帳を入れた。表紙の角が丸くなった大学ノートだ。それから鉛筆を一本と、ポケットティッシュを二つ。段取りのカードは、半券帳の表紙の裏にはさんだ。
一時四十五分に家を出た。からし色のカーディガンの上に薄茶のコートを着て、商店街のゆるい坂をのぼる。坂の中ほどに、まるやのたい焼きの暖簾が下がっていた。四十三年前、姉が紙袋に二つ入れてもらった店だ。代が替わって、いまは孫が焼いている。澄江は暖簾の前で足をゆるめて、型の並ぶ鉄板から立つ甘い湯気を見た。
帰りに、と思って、そのまま通りすぎた。
坂の上シネマのガラスの扉を押したのは、一時五十五分だった。
ロビーのベンチのあたりで、笑い声がしていた。
えんじ色のダッフルコートの女の人が、ベンチの前に立っていた。首から下げた小さな銀色のカメラを、受付の河合と、ひよりに向けて見せている。長く伸ばした銀色の髪を頭のうしろで大きなお団子にして、べっこうのクリップで留めていた。赤くて丸い眼鏡。澄江より、頭半分背が高い。
「姉さん」
多恵子が振り向いた。「あら、すみえ。遅い」
「遅くないわよ。二時の約束でしょう」
「あたしは一時半に着いたの。駅に着いたのは一時」姉はカメラの画面を、澄江の鼻先に突きだした。「見て。坂の途中の。まだあったのね、あそこ」
画面の中で、たい焼きが一匹、紙の上で半分に割られていた。中から、白いものがのぞいている。
「……これ、何」
「クリームチーズとあんこ。お孫さんのおすすめ。おいしかったわよ」
澄江は口を開けて、閉じた。手提げの中で、カードの五番目の行が、音もなく折れた気がした。
「たい焼きは、帰りに食べるのよ」
「帰りにも食べればいいじゃない」
ひよりが、口もとを手で押さえていた。生成りのニットの上に紺のコートを着て、小さな斜めがけの鞄をさげている。河合はカウンターの内側で、紺のカーディガンの腕を組んだまま、澄江と多恵子の顔を見比べていた。
「河合さん、紹介するわ。これが姉の」
「はい。さっき、うかがいました」河合は黒縁の眼鏡を押しあげた。「てっきり、柴田さんの妹さんだと思って。そう言ってしまいました」
「言ったわね」と多恵子が言った。うれしそうだった。
「北村さん、です」と、ひよりが澄江に小声で言った。「わたし、最初に柴田さんってお呼びして、違うって言われました」
「嫁に行ったからね、四十年近く前に」多恵子はカメラをコートの胸もとにしまった。「でも、妹に見えるんなら、北村でも柴田でも、どっちでもいいわ」
「よくないわよ」と澄江は言った。
二 Eの、下の棒
受付で、澄江は二人分の券を買った。
「あの日は、あたしの最初のボーナスで払ったんだから」と多恵子が言った。「今日はあんたね」
「最初からそのつもりよ」
河合が二枚の券を出した。澄江はそれをカウンターにそろえて置き、手提げから鉛筆を出した。
「姉さん。これに書いて。E-1って」
「なんで」
「あの日、書いてくれたでしょう。わたしの半券に」
多恵子は鉛筆を受けとって、券を見下ろし、それから澄江の顔を見た。
「書いた?」
澄江は黙ってベンチへ行き、いちばん古い半券帳を開いた。黄ばんだセロハンテープの下に、四十三年前の秋の半券がある。題名は『白い帆の手紙』。余白に、鉛筆でE-1。
多恵子は赤い眼鏡を額に押しあげて、ノートに顔を近づけた。
「……あたしの字ね」
「でしょう」
「下の棒が短い」姉は人さし指で、宙にEを書いてみせた。「昔からなのよ。勤めてたころ、よく言われた。北村さんのEはFに見えるって」
ひよりが、横からのぞきこんだ。「ほんとだ。ちょっとFっぽい」
「Eよ」と澄江は言った。「あの日はE列に座ったんだから」
「座ったわよ、E列に。あたしが言ってるのは字のこと」
多恵子はカウンターに戻ると、澄江の券の余白に、さらさらと書いた。E-1。下の棒は、やっぱり短かった。それから自分の券に、E-2と書いた。
「あの」と、ひよりが言った。「お手洗いのこととか、戻るときは扉の前で目が慣れるまで待つとか。あれ、北村さんが教えたんですよね。柴田さんが秋に、前に立って話してくれて」
多恵子は鉛筆を持ったまま、首をかしげた。
「そんな立派なこと、言ったかしら」
澄江は、胸のどこかで、小さな音がしたのを聞いた。
「言ったわよ。明かりが落ちる前に。耳打ちで」
「覚えてないわねえ」と多恵子はあっさり言った。「あたしが覚えてるのはね、あんたが出がけに、麦茶を二杯がぶがぶ飲んだこと」
「麦茶?」
「だから、通路側に座らせたのよ。途中で行きたくなっても、あたしをまたがなくていいように」
河合が、カウンターの中で座席表を見下ろした。E列のいちばん左に、今日も鉛筆の印がついている。
「……四十三年」と澄江は言った。
「何が」
「わたし、四十三年、あの席に座ってるのよ」
「知ってるわよ。電話で百回聞いた」多恵子は鉛筆を澄江に返した。「いい席でしょ。お手洗いに近くて」
ひよりが下を向いて、肩をふるわせた。河合は座席表から顔を上げなかったが、眼鏡の奥が少しだけ細くなっていた。
澄江は半券帳のページを指で押さえたまま、もう一つ聞いた。
「じゃあ、たい焼きは。帰りに坂で、買ってくれたでしょう」
「買った買った」と多恵子は言った。「あんたが泣きやまないから」
「泣いてないわよ」
「泣いたの。外に出ても、ずっと。坂の途中で鼻をかんで、それがラッパみたいな音で。まるやのおじさんが、店から顔を出したのよ。それで、しかたないから二つ買った」
「感動したから、買ってくれたんだと思ってた」
「感動してたのは、あんた」
澄江はノートを閉じた。閉じてから、また開いた。半券は、四十三年前のままそこにあった。題名と、日付の判と、姉の字のE-1。麦茶のことも、ラッパのことも、どこにも書いてなかった。
「それと、犬がいたわよね」と多恵子が言った。「あの映画。波止場に、白い犬」
「いないわよ、犬なんか」
「いたわよ」
「いない」
ひよりが、とうとう声を出して笑った。
売店の黄色い電球の下で、三浦灯が深緑のエプロンの紐を結び直していた。多恵子はガラスケースの前に身をかがめた。
「黒糖のは?」
「黒糖とスパイスのは、上映のあとに、お持ち帰りでお出ししてます」と灯は言った。「客席だと、匂いと粉が飛ぶので」
「あら、そう。じゃあ、あとで。何袋あるの」
「いま、奥で作ってるところです」
「なくならない?」
「たぶん」
多恵子は、たぶん、と口の中でくりかえして、しばらくガラスケースから目を離さなかった。
結局、多恵子は塩の小と、温かいコーヒーを買った。
「まるやでも、お茶をもらったんでしょう」と澄江は言った。
「もらった」
「飲みすぎよ」
「大丈夫よ。あんたじゃないんだから」
多恵子はコーヒーを一口飲んで、ロビーのコルクボードの前に立った。今週からの『ペンギンは、駅で待つ』のちらしの下に、手書きの白いカードがとめてある。〈明かりがつくまで、どうぞ、そのまま〉。
「いいこと書いてあるわね」と多恵子は言った。
「姉さんが言ったことよ。終わっても、明るくなるまで座っていなさい。そこまでで一本だから、って」
「あたし、そんなに偉そうだった?」
「偉そうだったわ」
多恵子は笑って、コルクボードをカメラで一枚撮った。
三 鼻紙
二時二十五分、客席の扉の前で、河合が二枚の券の端をちぎった。
澄江はE列の左の端、通路側のE1に座って、コートを脱いだ。多恵子がその右のE2に座り、ダッフルコートを膝にかけた。紺と白のしまのセーターだった。塩の小とコーヒーを肘掛けのところに置き、カメラを鞄にしまう。
客席は、半分ほど埋まっていた。前のほうのC列の真ん中あたりに、ひよりの紺のコートが見えた。自分の席は、まだ決めていないのだと言っていた。
澄江は手提げを膝にのせて、天井の明かりを見上げた。まだ落ちない。段取りの三番目。明かりが落ちる前に、耳打ち。
「姉さん」
「なに」
「何か、言うことない?」
「何かって」
「始まる前に」
多恵子は、しばらく澄江の顔を見ていた。それから身をかがめて、澄江の耳もとに口を寄せた。コーヒーの匂いがした。
「あんた、鼻紙持ってる?」
澄江は姉の顔を見た。姉は、まじめな顔をしていた。
「持ってるわよ。二つ」
「ならいい。ラッパはやめてね」
「やらないわよ」
客席の明かりが、ゆっくりと落ちた。
『ペンギンは、駅で待つ』は、海辺の小さな水族館から逃げだしたペンギンが、町はずれの無人駅に住みつく話だった。一番列車で通学する高校生の女の子と、駅の掃除を引き受けている元保線係の老人が、ペンギンの世話をめぐって言い争う。ペンギンは二人のどちらにもなつかないのに、列車が来るたびに、乗り場の白い線の前にきちんと並んだ。
客席のあちこちで、くすくす笑いが起きた。隣で多恵子が、ふ、ふ、と鼻で笑った。
四十分ほどして、雪かきの車両が轟音を立てて駅を通りすぎる場面が来た。客席のあちこちで、容器がかさりと鳴った。澄江の隣でも、塩の小のふたが開いた。
音の大きいところで。
姉は覚えていないと言ったのに、手はちゃんと、そのとおりに動いていた。澄江はそれを横目で見て、少しだけ笑った。
それから十分ほどして、多恵子が身じろぎを始めた。膝のコートを持ちあげて、また下ろす。肘掛けのコーヒーの紙コップを持ちあげて、空なのを確かめ、また置く。
「すみえ」と、ささやき声がした。「ちょっと、通して」
澄江は膝を通路のほうへ向けて、背もたれに体を押しつけた。多恵子がコートを抱えて、澄江の膝の前を横歩きで抜けていく。ダッフルの留め具が、澄江の頬をかすめた。
「麦茶二杯の人を、通路側に座らせるんじゃなかったの」と、澄江は姉の背中にささやいた。
「うるさい」
多恵子は身をかがめて通路をのぼり、うしろの扉から出ていった。
澄江はスクリーンに目を戻した。駅の老人が、ペンギンのために段ボールで小さな待合室をこしらえている。けれど、半分しか見ていなかった。四十三年前、姉はどんな顔で、麦茶を二杯飲む妹を見ていたのだろう。
しばらくして、うしろの扉がそっと開いた。ロビーの明かりが細く差しこんで、すぐに消えた。
澄江は首だけをうしろへ回した。暗い扉の前に、背の高い影が立っていた。頭のお団子の形で、それとわかった。影は動かなかった。扉の前で、じっとしている。
目が慣れるまで、扉の前で待つこと。
澄江は前を向いた。胸のあたりが、急に熱くなった。覚えてないと言ったくせに、と思った。覚えていない人が、どうして扉の前で止まるのだ。
足音が、通路を下りてきた。E列まで来るはずだった。けれど、その一つうしろのF列で止まって、だれかが腰を下ろす気配がした。
すぐうしろから、ささやき声がした。
「すみえ。河合さんに聞いて、ここのF1へ替えてもらったの」
「なんで」
「またあんたの前を通ったら、あんた、また見逃すでしょ」少し間があった。「それに、もう一回行きたくなるかもしれないし」
澄江は声が出ないように、唇をかんだ。隣のE2の座面には、姉の塩の小が、ふたを開けたまま残っていた。
映画の中は、春になっていた。
高校生の女の子は卒業して、町を出ることになった。最後の朝、一番列車を待つ乗り場で、ペンギンはいつものように白い線の前に並んだ。女の子が乗りこむ。扉が閉まる。列車が動きだすと、ペンギンは短い足で、ぺたぺたと乗り場の端まで追いかけていった。端まで来て、止まった。止まって、白い線の前まで戻ると、もう一度、きちんと並んだ。
うしろの席で、すん、と鼻が鳴った。
すん、すん。それから、肩をとんとんと叩かれた。
「すみえ」と、湿った声がした。「鼻紙」
澄江は手提げを探って、ポケットティッシュを一つ、肩越しにうしろへ差しだした。指先から、すっと抜きとられた。

ぶうう、と鳴った。
ラッパだった。客席のいちばん静かなところで、低く長く、まっすぐな音だった。斜め前のD列の通路側で、男の人がちらりと振り向いた。
澄江は両手で口をふさいだ。肩がふるえた。止めようとすると、もっとふるえた。うしろから、また、すん、と音がして、二枚目を引き抜く小さな音がした。
スクリーンでは、元保線係の老人が乗り場に出てきて、ペンギンの隣に黙って並んでいた。
四 明るくなるまで
最後に、水族館の飼育員がペンギンを迎えにきた。老人はペンギンを箱に入れずに、駅から水族館までの道を、歩いて送っていった。ペンギンは横断歩道の白い線の前でも、きちんと立ち止まった。客席がふっと笑った。うしろで多恵子も、湿った声で、ふっと笑った。
エンドロールが流れはじめた。
白い文字がのぼっていく。うしろの席で、コートを羽織る気配がした。それから、座面がはね上がる、小さなきしみ。
「黒糖」と、多恵子がささやいた。「なくなる」
澄江は体をひねって、背もたれの上から手をのばした。姉のダッフルの袖口を、指でつかんだ。
「明るくなるまでで、一本」
多恵子は答えなかった。
「姉さんが言ったのよ。十九のわたしに」
多恵子はしばらく、中腰のまま止まっていた。それから、きしみと一緒に座面を下ろして、座りなおした。袖をつかまれたままの腕が、澄江の背もたれの上に残った。
「あんた、こういうのは覚えてるのね」
「覚えてるわよ。この席に座るたびに、思い出すんだから」
エンドロールのいちばん最後に、小さな絵が一枚出た。乗り場の白い線の前に、ペンギンが一羽、並んでいる絵だった。うしろで姉が、あ、と言った。
文字が終わって、黒い画面が少しだけ残った。客席の明かりが、ゆっくりと戻ってきた。
澄江は姉の袖を放した。振り返ると、多恵子は赤い眼鏡を額に上げて、目の下をティッシュで押さえていた。鼻の頭が赤かった。
「泣いてない」と多恵子は言った。
「まだ何も言ってないわよ」
「顔が言ってる」
多恵子はティッシュを小さくたたんで、コートのポケットに入れた。澄江が、E2に置きっぱなしだった塩の小を取って渡した。半分以上、残っていた。
「あたしの、こんなに残ってる」
「途中で出ていくからよ」
ロビーに出ると、売店のガラスケースの上に、茶色い紙袋がずらりと並んでいた。口を折って、灯の字のシールが貼ってある。〈黒糖とスパイス〉。
多恵子は小走りになった。
「何袋ある?」
「今日は二十袋作りました」と灯は言った。「まだ、十八あります」
「十八」多恵子は大きく息を吐いた。「なんだ」
「なんだ、って」と澄江は言った。「袖まで引っぱられて」
「引っぱったのは、あんたでしょ」
多恵子は二袋買った。一つは家の人に、もう一つは火曜の卓球の会の仲間に、と言った。それから袋をガラスケースの上に置いて、写真を撮った。灯が少し照れた顔で、エプロンのしわを伸ばした。
「食べる前に、撮るんですか」
「食べたら、なくなっちゃうでしょ」多恵子はカメラの画面を確かめた。「これ、包み紙がないから。袋のシール、あとでノートに貼ってもいい?」
「どうぞ。袋ごとでも」
受付に戻ると、多恵子は河合に頭を下げた。
「さっきは、席を替えてもらってありがとう。F1、よかったわ」
河合は座席表を見た。「今日は、F1が空いていてよかったです」少し考えてから、言い足した。「次も空いていたら、通路側にしますか」
「F1で」と多恵子は即座に言った。「すみえのうしろ。前を通らなくていいし、鼻紙ももらえるから」
河合が、澄江の顔を見た。澄江は何も言わずに、うなずいた。河合は鉛筆で、座席表の端に小さく何か書きつけた。
多恵子は鞄から、自分の券を出した。E-2と、下の棒の短い字で書いてある。その上に鉛筆で線を一本引いて、横に書き足した。F-1。
「途中から、ってことも書いとかなきゃ」
「細かいわね」
「記録は正確に」多恵子は、券の端に小さく〈途中から〉と書いた。「あんたの半券帳と、おんなじよ」
扉のほうから、ひよりが紺のコートのボタンを留めながらやってきた。
「北村さん、さっき……」
言いかけて、ひよりは多恵子の赤い鼻の頭を見て、口を閉じた。
「泣いてない」と多恵子は言った。
「はい」とひよりは言った。「わたしは泣きました。ペンギンが、もう一回並ぶところ」
「あそこはずるいのよ」
「ずるいです」
二人がうなずきあうのを、澄江は少し離れたところから見ていた。
五 二枚目の、半券
四時四十分、二人は坂を下りた。冬の夕方の光が、商店街の看板を斜めに照らしていた。
まるやの暖簾の前で、多恵子が立ちどまった。
「あんた、食べるんでしょ。帰りのたい焼き」
「段取りの五番目だから」
「段取り?」
澄江は手提げから半券帳を出して、表紙の裏のカードを見せた。多恵子は眼鏡を額に上げて、五つの行を読んだ。読みながら、一つずつ声に出して笑った。
「一番、途中からF。二番、Fっぽい。三番、鼻紙。四番、袖。五番、お昼にもう食べた」
「全部、ずれたわ」
「いい日じゃない」と多恵子は言った。
澄江は暖簾をくぐった。鉄板の前で、若い店主が顔を上げた。
「あんこを二つ」と澄江は言った。それから、うしろの姉を振り返った。「わたしのおごりよ」
「なんで」
「泣いたから」
「泣いてない」
「泣きやむように、二つ」
多恵子は口を開けかけて、閉じた。それから、鼻で笑った。四十三年前に自分が言ったことを、妹の口から聞いたのだった。
店の前の小さな腰掛けに、並んで座った。紙袋から一つずつ出すと、湯気が冷たい空気にほどけていった。多恵子は食べる前に、紙の上のたい焼きを一枚撮った。
澄江は、頭からかじった。
「あんた、あの日も頭からだったわね」と多恵子が言った。「それで、尻尾をくれなかった」
「あげなかった?」
「あげなかった」
澄江は自分のたい焼きを尻尾のところで割って、姉のほうへ差しだした。多恵子は黙って受けとった。

しばらく、二人で食べた。坂の下から、自転車が一台、ゆっくりとのぼってきた。
「ねえ、すみえ」と多恵子が言った。「その耳打ち。ほんとに、あたしが言ったのね」
「言ったわよ」
「なら、たぶんそれはね」多恵子は、もらった尻尾をかじった。「その前の週に、あたし、一人であの館に行ったのよ。会社の先輩が、いい映画だって言うから」
澄江は、たい焼きを持つ手を止めた。
「途中でお手洗いに行きたくなって。まん中の席だったから、人の膝を五人ぶんまたいだの。戻ってきたら、暗くて自分の席がわからなくて、知らないおじさんの隣に座っちゃった。おせんべいを持っていって、いちばん静かなところで、ばりって。終わってすぐ立って出たら、まだ続きがあったって、あとで先輩に言われた」
「……全部」
「全部、あたしの失敗」多恵子は肩をすくめた。「一人でもう一回行く気には、なれなくて。でも、続きは見たかったのよ。だから、あんたを連れてった。あんたなら横で恥をかいても、家で言いふらさないでしょ」
「言いふらすわよ」
「言いふらさなかったじゃない。四十三年」
澄江は何か言いかけて、やめた。
耳の奥で、あの日の耳打ちが、少しだけ違う響きになった。偉そうな声ではなかった。一週間前に恥をかいたばかりの、二十三の姉の、早口の声だった。それでも、言われたことは一つも変わらなかった。通路側。扉の前で待つ。音の大きいところで。明るくなるまで。
「失敗のほうは、覚えてるんじゃない」と澄江は言った。
「自分がやったことは、忘れないの」と多恵子は言った。「人に言ったことは、すぐ忘れるの」
「ひどい」
「いい姉でしょ」
「二回見たなら」と澄江は言った。「犬、いたのかしら」
「いたわよ。白いの」
澄江はたい焼きの最後のひとかけを口に入れて、ゆっくりかんだ。「……いないわよ」
多恵子は笑って、包み紙をきれいにたたみ、鞄のノートにはさんだ。
駅へ向かう、坂の下の角で、多恵子は腕時計を見た。五時十二分の電車だった。
「じゃあ、ここで」
「駅まで行くわよ」
「いいの。あんた、駅まで来たら、また何か段取りするでしょ」
多恵子は鞄を探って、券を一枚出した。E-2に線が引いてあって、F-1、途中から、と書いてある。
「これ、あんたの帳面に貼っといて」
「姉さんのでしょう。記録は正確に、って」
「あたしは包み紙のほうを貼るの。黒糖のシールと。半券まで貼ったら、あたしのノート、甘くなくなるもの」
澄江は受けとった。紙の端の、河合がちぎった小さなぎざぎざが、指にあたった。
「春に、また来るわ」と多恵子は言った。「あんたが泣くやつ、選んどいて」
「わたしは泣かないわよ」
「じゃあ、あたしが泣くやつ」多恵子は、えんじのコートの襟を立てた。「F1でね」
背の高いうしろ姿が、駅のほうへ遠ざかっていった。銀色のお団子が、街灯の下を一つ通るたびに、小さく光った。
その夜、澄江はいちばん新しい半券帳を開いた。
自分の券を貼った。余白に、下の棒の短い字でE-1。その右に、もう一枚を貼った。E-2に線、F-1、途中から。
四十三年、一ページに一枚ずつ、半券を貼ってきた。一つのページに二枚並べたのは、はじめてだった。
二枚の下に、澄江は自分の字で書いた。
〈ペンギンは、駅で待つ。姉と〉
〈姉、途中からF1。鼻紙二枚。ラッパ一回〉
〈エンドロールで、袖を引っぱった〉
〈たい焼き、あんこ二つ。わたしのおごり。尻尾は姉に〉
少し考えてから、一行書き足した。
〈E1は、麦茶二杯のための席だった〉
それから表紙の裏から段取りのカードを抜いて、ページのいちばん下に貼った。五つの行の横に、鉛筆で一つずつ小さな印をつけていく。一つも、書いたとおりにはならなかった。
台所のテーブルで、携帯電話が鳴った。姉からだった。写真が一枚だけ届いていた。小さなノートの見開きに、たい焼きの包み紙と、黒糖の袋のシールが貼ってある。その下に、下の棒の短い字で書いてあった。
〈妹のおごり。泣いてない。犬はいた〉
澄江は、声を出して笑った。それから、ゆっくりと返事を打った。
〈いない〉
送ってから、もう一度半券帳を開いて、段取りのカードの余白に、小さく書いた。
〈春 E1とF1〉


