第一章 内緒の、ばれ方
一月の最初の月曜日、昼休みに、ゆかりからメッセージが来た。
〈わたしの番、再来週の土曜でいい? 小倉まで来れる?〉
〈行ける。どこ行くの?〉
〈内緒〉
それから十秒くらいして、もう一通来た。
〈のど、あったかくして来てね〉
ミコは、会社の休憩室の椅子で、スマートフォンをしばらく見ていた。
それから、打った。
〈ゆかり。それ、もう言ってるよ〉
〈なにが!?〉
〈十二月に、今度カラオケ行ったらタンバリン係ねって、言ってた〉
返事は、少し間があいてから来た。
〈しまった〉
〈あのとき、もう決めとったと。ばれんように、さりげなく言ったつもりやった〉
〈さりげなかったよ〉
〈じゃあ、なんでわかると〉
〈のど〉
ゆかりから、頭を抱えた猫のスタンプが届いた。
ミコは、休憩室の窓のほうを向いて、少しだけ笑った。内緒の行き先が、内緒のまま、もうわかっている。それでも、楽しみなのは変わらなかった。むしろ、少し増えた。
その夜、302号室の台所で、ミコはスマートフォンのメモを開いた。
しおりは作らない、と、十一月に約束した。だから、これはしおりではない。
新しいメモのいちばん上に、題名を打った。
〈うたいたい〉
少し考えて、うしろに付け足した。
〈うたいたい(本気)〉
それから、曲の名前を並べた。通勤の電車で、片耳だけイヤホンをして聴いてきた歌たち。知らない歌手を順番に聴いているうちに、何回も戻ってくるようになった歌たち。
並べ終わると、十四曲あった。
一曲目は、みずのわというバンドの『終点まで起こさないで』だった。夜のバスで眠ってしまいそうな人の歌で、ミコはこれを、たぶん百回以上聴いている。
曲の名前の横に、ミコは長さを書いた。
〈7:42〉
書いてから、しばらくその数字を見ていた。
本部のホワイトボードでは、シンパイが、同じ数字を大きく書き写していた。
〈7分42秒〉
その下に、細かい字が続いた。
〈ゆかりが知らない〉
〈長い〉
〈ゆかりが知らないうえに、長い〉
〈声が出ない〉
〈間奏で何をしていればいいかわからない〉
「最後のは」とダイジョブが言った。「タンバリンをすればいいと思います」
「自分の歌の間奏で、自分でタンバリンをするんですか」とシンパイが言った。
「忙しくて、いいじゃないですか」
キオクが、リモコンを押した。モニターに、十二月の音楽室が映った。それから、帰りのバスの中で見た、ゆかりの文字。
〈今度カラオケ行ったら、タンバリン係ね〉
「タンバリン係は、約束です」とキオクは言った。「でも、歌わない係とは、言われていません」
「言われてないですね」とダイジョブが言った。
ハラヘッタは、もう店を調べていた。小倉駅の近くのカラオケの、食べ物のページだった。
「山盛りポテトがあります。二人で一つが、ちょうどいいそうです」
パイプ椅子の上では、ネムイが、濃紺のフードを目の上まで下ろして眠っていた。

ミコは、メモの十四曲を、上から順番に眺めた。それから、長さの順に並べ替えた。次に、ゆかりが知っていそうな順に並べ替えようとした。ゆかりが知っていそうな曲は一曲もなかったので、並べ替えても順番は変わらなかった。
最後に、もとの順番に戻した。
寝る前に、ミコはゆかりに一通だけ送った。
〈タンバリン係もするけど、歌も歌っていい?〉
返事は、四秒で来た。
〈当たり前やん。それ聞きたくて、カラオケにしたっちゃけん〉
ミコは、布団の中で、その一行を三回読んだ。
第二章 七号室
約束の土曜日は、よく晴れて、風が冷たかった。
ミコは、在来線の快速に揺られて、小倉に着いた。
灰色のセーターの上に、いつもの青緑の上着。その上から、冬のあいだだけ着る、濃い灰色のウールのコートを着ていた。生成りのマフラーを二重に巻いて、黒いワイドパンツに、灰色のスニーカー。生成りのトートの内ポケットには、濃紺のお守りが入っている。
改札を出たところで、短い髪のゆかりが手をふっていた。黒いダウンのファスナーを、顎の下まで上げていた。
「来た来た。寒かったやろ」
「寒かった。でも、電車はあったかかった」
「行き先、言っていい?」
「知ってるよ」
「それでも、言いたいと」ゆかりは胸を張った。「カラオケです」
「やったー」とミコは言った。言ってから、ちょっと棒読みだったかもしれないと思った。ゆかりは、それで満足そうだった。
駅から歩いて五分のビルの二階に、〈カラオケ まるみみ〉の看板があった。
受付で、ゆかりが慣れた様子で用紙に書いた。二名、二時間。十四時から十六時まで。ミコはそのあいだ、ゆかりの後ろで、スマートフォンのメモをもう一回だけ開いて、閉じた。
「終了の十分前に、お部屋のお電話でお知らせします」と、受付のお兄さんが言った。「延長は、そのときにお申しつけください。マイクとリモコンは、こちらのかごに入っています。お帰りの際は、かごごと受付にお戻しください」
かごの中には、マイクが二本と、細長いタブレットのリモコンが入っていた。
ゆかりが、受付の奥の棚を指さした。
「タンバリン、借りれます?」
「はい、どうぞ」
お兄さんが出してくれたのは、赤いプラスチックの輪に、銀色の鈴がついたタンバリンだった。皮は張っていなかった。持つところに、指の形のくぼみがついている。
十二月の、木の輪に白い皮のタンバリンとは、ずいぶん違った。
「軽い」とミコは言った。
「係の人の道具やけん」ゆかりは、それを、ミコの持っているかごに入れた。
七号室は、二人で座るとちょうどいいくらいの、小さな部屋だった。
L字のソファと、低いテーブル。壁には大きな画面があって、新曲の宣伝が音つきで流れていた。暖房がよく効いていて、入ったとたん、頬がぽっと熱くなった。
ミコはマフラーをほどいて、コートを脱いで、壁のハンガーにかけた。トートはソファの端に置いた。青緑の上着の袖を、少しだけ肘のほうへ押し上げた。
ゆかりも、黒いダウンを隣のハンガーにかけた。下は、からし色のセーターだった。
「よし」とゆかりはリモコンを持った。「一曲目、わたしが行く。ミコは、係」
「はい」
ゆかりが入れたのは、『全速力サンダル』という、ミコも名前だけは知っている、去年のドラマの歌だった。
前奏が始まると、ゆかりは立ち上がった。ソファとテーブルのあいだの狭いところで、足でリズムを取った。
ミコは、赤いタンバリンを持った。
左手で持って、右手でたたく。皮がないので、手のひらは、プラスチックのふちと鈴に当たった。
シャカ。
十二月の音とは違った。軽くて、短くて、ちょっと間が抜けていた。
ミコは、思わず笑った。笑いながら、もう一回たたいた。シャカ、シャカ。サビになると、ゆかりがマイクを持っていない左手で、ミコのほうを指さした。ミコは、タンバリンを頭の上でふった。シャカシャカシャカ。
本部では、シンパイがマーカーを持ったまま、ホワイトボードの前で何も書いていなかった。
「数えないんですか」とダイジョブが聞いた。
「今日は、楽譜がないので」とシンパイは言った。
ゆかりが歌い終わると、画面に、点数のかわりに、拍手をしている犬のアニメが出た。採点は入れていなかった。
「係、よかった」とゆかりは言った。「ばりにぎやか」
「軽かった」
「ポテト頼も」
ゆかりは、壁の電話の受話器を取って、山盛りポテトと、ウーロン茶と、ホットのゆず茶を頼んだ。ゆず茶はミコのぶんだった。受話器を置くと、ゆかりは、リモコンをミコの膝にのせた。
「次、ミコ」
ミコは、リモコンの画面を見た。
検索のところに、一文字ずつ打てばいい。み、ず、の、わ。
指が、み、のところで止まった。
本部で、シンパイのマーカーが、〈ゆかりが知らないうえに、長い〉の行をなぞった。
「最初から長いのは、重いです」とシンパイは言った。「いきなり七分は、重いです」
「重いんですか」とダイジョブが聞いた。
「七分あったら、ゆかりさんは二曲歌えます」
ミコは、み、を消した。
かわりに、あ、し、た、と打った。
『あしたもパン日和』。パン屋さんのコマーシャルで、何年も流れている歌だった。二分五十秒。ゆかりも、きっと知っている。
前奏が流れると、ゆかりが「あ、知っとる!」と言った。それで、ミコは少しほっとした。
立たずに、座ったまま歌った。マイクを、口から少し離して持った。
パンが焼けたよ、という歌だった。焼けた、のところで、ゆかりがタンバリンをシャカ、とたたいた。
歌い終わると、ゆかりは拍手をした。それから、首をかしげた。
「ミコ。それ、リストに入っとらんやろ」
「え」
「さっき受付で、スマホ見よったやん。わたしの後ろで。題名、なんやった。うたいたい、かっこ」
ミコの顔が熱くなった。
「……本気」
「本気のほう、歌って」
ミコは、リモコンを胸に抱えた。
「本気のほうは、ゆかり、たぶん一曲も知らない」
「知らんのがいい」
「長いのもある」
「何分」
「……七分、四十二秒」
ゆかりは、少しだけ黙った。それから、自分のスマートフォンを出して、何かを確かめた。
「わたしの、九分十二秒」
「え」
「わたしにも、あると。本気のほう」
ゆかりは、スマートフォンを伏せてテーブルに置いた。耳が、ちょっと赤かった。
「お父さんの車で、昔ずっと流れよった歌。『港町まで九分』っていうと。汐見ゆりって人の。長いし、古いし、途中に台詞があるけん、誰かと来たときは、絶対入れんの」
「台詞」
「台詞」
二人は、しばらく、リモコンとスマートフォンを見ていた。
「じゃあ、ゆかりが先に」とミコは言った。「九分のほうが、長いから」
「なんで長いほうが先なん」
「あとに残すと、時間がなくなるかも」
「二時間あるやん」とゆかりは言った。「ミコが先。お客さんやけん」
「わたし、お客さんじゃないよ。友だち」
「友だちのお客さん」
「ゆかりの番なんだから、ゆかりが先」
「わたしの番やけん、わたしが決めるとよ。ミコが先」
ミコは、口を開けて、閉じた。ずるい理屈だった。でも、正しい気もした。
本部では、五人がそれぞれの場所から、二人を見ていた。
「どちらも、ゆずっています」とキオクが言った。「さっきから、五往復です」
「ゆずり合いの、延長戦ですね」とダイジョブが言った。
「延長はしません」とシンパイが言った。「十六時までです」
パイプ椅子のほうから、もぞもぞと音がした。ネムイが、フードの中で言った。
「どっちも、入れるんですよね」
四人が振り向いた。
「どっちから歌っても、両方とも最後まで歌うんですよね。じゃあ、どっちが先でも、同じです」
それだけ言って、ネムイはまた寝息を立てた。
ミコは、リモコンの画面を見た。
同じだった。七分四十二秒と、九分十二秒。足すと、十七分弱。どっちが先でも、十七分弱は変わらない。
「じゃんけん」とミコは言った。
「よかよ」
ミコはグーを出した。ゆかりはチョキだった。
「勝ったほうが、決める」とゆかりが言った。
ミコは、少しだけ考えた。考えるふりをしただけかもしれなかった。
「……わたし、先」
み、ず、の、わ。
今度は、指が止まらなかった。
第三章 間奏は、飛ばさない
前奏は、静かだった。
画面に、曲の題名と、みずのわ、という名前が出た。それから、どこか知らない町の、夜の路面電車の映像が流れはじめた。バスの歌なのに、電車だった。
「電車やん」とゆかりが小さく言った。
「バスの歌なの」
「電車やん」
ミコは、立った。
立つつもりはなかった。前奏のピアノが、毎朝の電車で聴くのと同じ音で鳴りはじめたら、膝が勝手に伸びていた。
一行目は、ほとんど声にならなかった。
自分の声が、スピーカーから、知らない人みたいに返ってきた。ミコは、マイクを少し口から離した。
本部で、シンパイがホワイトボードを叩いた。
「声が出てません。でも、出しすぎたら、もっと知らない声になります」
キオクが、リモコンを押した。モニターに、朝の電車の窓が映った。片耳のイヤホン。曇ったガラスに映った、口だけ動かしている自分。
「百回以上、聴いています」とキオクは言った。「どこで息を吸うか、ミコは全部知っています」
本当だった。
ミコは、歌っている人が息を吸うところで、息を吸った。歌っている人が少しだけ声を引っこめるところで、引っこめた。二行目の終わりで、歌の人は、いつも言葉を半分だけ飲みこむ。ミコも、半分だけ飲みこんだ。
上手かどうかは、わからなかった。ただ、間違えてはいなかった。百回分の朝が、ちゃんと口の中に入っていた。
一番のサビで、声が、少し前に出た。
ゆかりが、ソファの上で背筋を伸ばしたのが見えた。
一番が終わると、画面に〈間奏〉と出た。
その下に、小さく秒数が出た。一分二十秒。
路面電車が、知らない橋を渡っていった。
ゆかりが、テーブルのリモコンに手を伸ばした。
「長いね。間奏、飛ばす?」
親切な声だった。立ったままのミコを、気づかってくれたのだとわかった。
わかったのに、ミコの手のほうが先に動いた。
「だめ!」
マイクを通した声が、七号室いっぱいに響いた。
一番のサビより、大きかった。
ゆかりの手が、リモコンの上で止まった。ミコはソファに飛びつくみたいにしてリモコンを取って、胸に抱えた。
「ここ、いいところなの」
「……間奏が?」
「間奏が」
ミコは、リモコンを抱えたまま、画面のほうを向いた。
ピアノとベースのあいだから、ギターが細く上がっていった。それから、ずっと後ろのほうで、小さな音が鳴りはじめた。
シャン。シャン。
ゆかりが、顔を上げた。
「あ」
「タンバリン」とミコは言った。マイクを下ろすのを忘れていたので、それもスピーカーから出た。
「タンバリン、おる」
「十二月までは、いるの知らなかったの。あのあと聴いたら、いたの」
ゆかりは、テーブルの上の赤いタンバリンを見た。それから、ミコを見た。
「たたいていい?」
「いいよ」
ゆかりは、赤いタンバリンを持って、画面の奥のタンバリンに合わせようとした。合っていなかった。画面の奥のシャンと、七号室のシャカが、追いかけっこをしていた。
ミコは笑った。笑って、少しも直そうと思わなかった。
そのとき、ドアがノックされた。
「失礼しまーす。山盛りポテトと、ウーロン茶と、ホットのゆず茶です」
受付のお兄さんが、お盆を持って入ってきた。
部屋の中では、ミコがリモコンを胸に抱えて、マイクを持って、画面の前に仁王立ちになっていた。ゆかりが、赤いタンバリンを鳴らしていた。路面電車が、知らない駅に着いたところだった。
お兄さんは、何も見なかったような顔で、ポテトとグラスとカップを置いた。
「ごゆっくりどうぞ」
ドアが閉まった。
ゆかりがソファに倒れて、声を出さずに笑った。タンバリンが、ゆかりの胸の上で鳴りつづけていた。
本部で、ハラヘッタが両手を上げていた。
「来ました」
「今じゃなくても、よかったです」とシンパイが言った。
二番は、一番より声が出た。
もう、知らない人の声には聞こえなかった。少しかすれる、ミコの声だった。
最後のサビの前に、歌の人は、ひとことだけ、ささやくみたいに歌う。〈終点まで〉のところだ。いつもの電車では、ミコはそこで口だけ動かしていた。
今日は、声に出した。ささやくくらいの、小さい声で。マイクは、それもちゃんと拾った。
ゆかりは、もうタンバリンを鳴らしていなかった。膝の上に置いて、画面の歌詞を目で追っていた。
最後のサビが終わった。
歌詞が画面から消えた。路面電車の映像だけが続いて、ピアノが、同じところをゆっくりと何回も回った。
後奏は、一分くらいある。少しずつ小さくなって終わる。
ミコは、立ったままでいた。
マイクを持ったまま。リモコンを、まだ胸に抱えたまま。
ゆかりが、口の動きだけで聞いた。
〈終わり?〉
ミコは、首をふった。
まだ。
ピアノが遠くなっていった。いちばん後ろのタンバリンが、最後に一回だけ、シャン、と鳴った。それから、ピアノの最後の一音が、ゆっくり消えていった。
消えた。
画面がぱっと明るくなって、新曲の宣伝が始まった。
ミコは、やっと息をついた。座った。リモコンを、テーブルに置いた。
ゆかりが拍手をした。大きな拍手だった。
「ミコ、マイク、ずっと持っとった」
「まだ、鳴ってたから」
「リモコンも、ずっと抱いとった」
「飛ばされそうだったから」
「飛ばさんよ、もう」とゆかりは言った。「あそこ、タンバリンおるもん」
ミコは、ゆず茶を飲んだ。少しぬるくなっていた。ちょうどよかった。
「……いい歌やった」とゆかりは言った。「知らんかったけど。知らん歌って、こんなに、ちゃんと聴くっちゃね」
本部で、キオクはリモコンを押さなかった。モニターには、今の七号室が映っていた。ネムイは寝ていた。ハラヘッタは、ポテトを見ていた。
次は、九分十二秒だった。
ゆかりは、リモコンを持ったまま、しばらく画面を見ていた。
「ほんとに入れるよ」
「うん」
「長いよ」
「七分のあとだから」とミコは言った。「もう慣れた」
ゆかりは笑って、送信した。
画面に、『港町まで九分』と出た。汐見ゆり。前奏は、波の音から始まった。それから、少し古い感じの、ゆったりしたギター。映像は、なぜか、山の中の温泉の湯けむりだった。
「港町じゃない」とミコが言った。
「港町やないね」
ゆかりは、座ったまま歌いだした。
声が、さっきの『全速力サンダル』と全然違った。低くて、ゆっくりで、語尾が少しだけ伸びた。ゆかりは、歌詞をほとんど見ていなかった。車の後ろの席で何回も聴いたのだろうと、ミコは思った。
ミコは、赤いタンバリンを膝に置いたまま、たたかなかった。
この歌の後ろには、タンバリンはいなかった。いないところで鳴らすのは、なんだか違う気がした。かわりに、聴いた。
四分を過ぎたところで、画面の歌詞が、いきなりかっこに入った。
〈(台詞)〉
その下に、長い文章が出た。
ゆかりが、マイクを下ろした。
「ここ、いつも飛ばすと」と、ゆかりは小声で言った。「音だけ流れて、わたしは黙っとくの。恥ずかしいけん」
画面の文章が、少しずつ色を変えていった。読む人がいないまま、言葉だけが進んでいく。
〈あの船が出るまで あと九分〉
〈あなたは煙草を消して 時計を見た〉
ミコは、マイクを持ち直した。
どうしてそうしたのか、自分でも半分くらいしかわからなかった。残りの半分は、わかっていた。読む人がいないのが、もったいなかったのだ。
「……読んでいい?」
ゆかりが目を丸くした。
「ミコが?」
「だめなら、いい」
「だめやない」ゆかりは急いで言った。「だめやないけど。ミコが?」
ミコは、画面を見た。色が変わっていくのに合わせて、読んだ。
「あの船が、出るまで、あと、九分。あなたは、煙草を消して、時計を見た」
ゆかりが、ソファの上で前に折れた。

ミコの読み方は、会社で、週明けの連絡事項を読み上げるときと同じだった。一字も飛ばさず、句読点で、ちゃんと止まった。ふりがなのついている漢字は、ふりがなどおりに読んだ。
「わたしは、何も言わずに、あなたの、コートの、ボタンを、ひとつ、とめた」
「ミコ、待って、ちょっと」ゆかりは、笑いすぎて声がかすれていた。「アナウンスやん。駅の」
「次の行、来るよ」
「来る、来る」
本部で、シンパイがホワイトボードの前で両手を握りしめていた。
「台詞です。台詞を読んでいます。気持ちをこめてください」
「こめてます」とダイジョブが言った。「全部に、同じくらい、こめてます」
「句読点で、きっちり止まっています」とキオクが言った。「連絡事項の読み方です」
台詞の最後の行は、〈さよならは 九分あれば 言えると思っていた〉だった。
ミコは、そこだけ、少しゆっくり読んだ。
画面のかっこが閉じて、歌詞に戻った。ゆかりが、笑いの残った顔のまま、マイクを口もとに戻した。
最後のサビを、ゆかりは、さっきより大きな声で歌った。語尾が、ちゃんと伸びた。
九分十二秒は、思っていたよりずっと短かった。
「あそこ、誰かが読んだの、初めて聞いた」
歌い終わって、ゆかりは言った。ポテトを三本、一度に口に入れた。
「お父さんも、運転しながら、そこだけは黙っとったけん。九分のうち、その一分くらいだけ、車の中がしーんとすると」
「読まないほうが、よかった?」
「ううん」ゆかりは首をふった。「次来たときも、読んで」
「次も、アナウンスだよ」
「アナウンスがいいと」
第四章 十分前の電話
それから、二人は交代で歌った。
ゆかりは、去年の夏に流行った歌や、子どものころのアニメの歌を、次々に入れた。アニメの歌のとき、ミコは赤いタンバリンを遠慮なく鳴らした。係の仕事だった。
ミコは、〈うたいたい(本気)〉のメモを、上から順番に歌った。二曲目は、知らない女の人が、冬の洗濯物について歌う歌だった。三曲目はほとんど英語で、ミコにも半分しか歌えなかった。半分しか歌えないところは、ゆかりと二人で、ラララで埋めた。四曲目と五曲目は、どちらも三分ちょっとの、静かな歌だった。
一曲終わるたびに、ミコはメモの曲の横に、小さな丸をつけた。一曲目にも、さかのぼって丸をつけた。
丸は、五つになった。
本部では、シンパイが、ホワイトボードの〈ゆかりが知らない〉の行を、マーカーの先でとんとんとたたいていた。
「ゆかりさん、さっきから、知らない歌ばかり聴いています」
「はい」とキオクが言った。
「つまらなくは、ないんでしょうか」
キオクはリモコンを押した。モニターに、少し前の七号室が映った。洗濯物の歌の二番で、〈靴下が片方〉という歌詞のところで、ゆかりがソファから身を乗り出して笑っている顔だった。
「片方ないのは、わかる、と言っていました」とキオクは言った。
シンパイは、〈ゆかりが知らない〉の横に、小さく書き足した。
〈(知らなくても、笑う)〉
十五時五十分、壁の電話が鳴った。
ゆかりは、ちょうどトイレに行っていた。
ミコは、一回だけ深呼吸をして、受話器を取った。
「はい、七号室です」
「失礼いたします。終了十分前のお知らせです。ご延長はいかがなさいますか」
「延長は、しません」とミコは言った。「十六時に出ます」
「かしこまりました。ありがとうございます」
受話器を置いた。十秒もかからない電話だった。
本部で、シンパイがホワイトボードの端に小さく〈電話 出た〉と書いた。それから何か付け足そうとして、やめた。付け足すことがなかった。
ドアが開いて、ゆかりが戻ってきた。
「電話、鳴りよった?」
「十分前。延長しないって言った」
「ありがと」ゆかりは壁の時計を見た。「十分。一曲いけるね」
ゆかりは、テーブルのマイクを一本取って、ミコのほうへ差し出した。
「最後、ミコ。本気のほうの、六番目」
ミコはマイクを受け取って、メモを開いた。
六番目は、『ポケットの中の一月』という、三分半の歌だった。短い。十分あれば、ちゃんと入る。
ミコは、それをリモコンに打ちこもうとして、指を止めた。
テーブルの上に、もう一本のマイクが寝ていた。
本部で、ダイジョブが「入れましょう!」と言いかけて、自分の口をふさいだ。キオクは、何も押さずにリモコンを持っていた。ハラヘッタは、ポテトの最後の一本を見ていた。
「ゆかり」
「ん」
「最後は、ゆかりも知らなくて、わたしも知らない歌にしない?」
ゆかりは、ぱちぱちとまばたきをした。
「二人とも知らんの?」
「そしたら、二人とも、同じだけ困る」
ゆかりは、少し考えてから、もう一本のマイクを取った。
「よかよ。困ろ」
ミコは、リモコンの画面のすみの、〈おまかせ〉のボタンを押した。一曲、勝手に選んでくれるボタンだった。
画面に、曲の名前が出た。
『商店街のうた(ロングバージョン)』。その横に、〈6:48〉。
「長っ」とゆかりが言った。
ミコは、壁の時計を見た。十五時五十二分だった。六分四十八秒は、入る。入るけれど、片づけと、コートと、マフラーが入らない。
ミコは、すぐに〈演奏中止〉を押した。
「慎重やね」
「マフラー、二重だから」
もう一回、〈おまかせ〉を押した。
『雨の日のペンギン行進曲』。〈3:31〉。
「ペンギン」とゆかりが言った。
「三分半」とミコが言った。
二人は顔を見合わせて、うなずいた。赤いタンバリンは、ゆかりのマイクを持っていない左手に入った。
前奏は、ラッパの音だった。画面には、なぜか、きれいな高原の牧場が映った。ペンギンは、一羽も出てこなかった。
「ペンギン、おらん」
「牧場だね」
一行目は、二人ともメロディーがわからなかった。ゆかりは勘で大きく歌って、外れた。ミコは、色が変わっていく歌詞を一字ずつ追いかけて、ほとんど読むみたいに歌った。
二行目で、ミコは、一行目と同じ節だと気づいた。三行目で、ゆかりも気づいた。
サビは、〈ぺたぺた ぺたぺた〉ばかりだった。それなら、二人とも歌えた。
「ぺたぺた ぺたぺた」
ゆかりの声とミコの声が、七号室で、ちょっとずれて重なった。ゆかりがタンバリンを鳴らした。シャカ。合っているのか、いないのか。どっちでもよかった。
本部では、四人が、そろって体を揺らしていた。シンパイもだった。マーカーを持ったまま、小さく、ぺたぺた、と言っていた。
ネムイだけは寝ていた。でも、フードの先が、ちょっとだけ揺れていた。
三分三十一秒は、すぐだった。
最後の〈ぺたぺた〉のあと、ラッパが長く伸びて、終わろうとしていた。
ゆかりが、マイクをかごに戻そうとした。
「まだ」
ミコは、自分のマイクを握ったまま言った。
ゆかりは手を止めた。それから、にやっと笑って、マイクを持ち直した。
ラッパが細くなって、消えた。
「……はい」とミコは言った。
ゆかりが噴き出した。
「ミコって、マイク、最後まで返さん人やね」
「鳴ってるあいだは、持ってる」
壁の時計は、十五時五十六分だった。
コートを着て、マフラーを二重に巻いた。ゆかりも、ダウンのファスナーを顎の下まで上げた。
ミコは、かごの中を確かめた。マイクが二本。リモコンが一つ。赤いタンバリンが一つ。
「ミコ、数えよる」
「来たとき、四つだったから」
十六時ちょうどに七号室を出て、受付でかごを返した。お兄さんは「ありがとうございました」と言って、何も見なかったような顔のまま、少しだけ笑った。ポテトのときの顔だ、とミコは思った。
階段を下りて外に出ると、空はもう、少し橙色になっていた。
駅の改札の前で、ゆかりが言った。
「みずのわ、帰りに聴いてみる。タンバリン、どこ」
「一番が終わって、間奏の途中から。ずっと後ろのほう」
「ずっと後ろのほう」
「耳、すまして」
「すます」
改札を通って振り返ると、ゆかりはまだ手をふっていた。
帰りの快速で、ミコは片耳だけイヤホンをした。
窓の外が、どんどん暗くなっていった。
『終点まで起こさないで』を流した。何回目なのか、もうわからなかった。でも今日は、二行目の終わりで言葉を半分飲みこむところで、七号室の自分の声を思い出した。
途中で、スマートフォンが震えた。
〈おった。タンバリン〉
続けて、もう一通。
〈あと、路面電車、出てこんかった〉
〈バスの歌だから〉とミコは打った。
〈そうやった〉
イヤホンの中で、間奏が始まった。ずっと後ろのほうで、シャン、シャン、と鳴った。
今ごろ、ゆかりもどこかで同じところを聴いているかもしれなかった。聴いていないかもしれなかった。どちらでもよかった。
本部では、シンパイが、ホワイトボードの〈7分42秒〉の横に、小さく書き足していた。
〈短かった〉
その下に、もう一行。
〈9分12秒も〉
ハラヘッタは、ポテトのことを思い出していた。山盛りは、二人でちょうどよかった。
ネムイは、終点まで起こさないでください、という顔で眠っていた。
ミコは、メモを開いた。
〈うたいたい(本気)〉の十四曲のうち、丸がついているのは五つ。残りは九曲。六番目の『ポケットの中の一月』にも、まだ丸はない。
題名は、そのままにしておいた。


