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ミコシリーズ第16話
コメディ・日常

マイクは、まだ返さない

間奏は、飛ばさない。

読了目安
25分
長さ
短編
#くすっと笑える#友だち#音楽
マイクは、まだ返さないのイメージ

あらすじ

一月の行き先を決めるのは、ゆかりの番。内緒のカラオケは、とっくにミコにばれていた。好きな歌を十四曲メモしたのに、まずは無難な一曲へ逃げてしまうミコ。7分42秒と9分12秒、どちらが先かの譲り合いが始まる。知らない歌も長い間奏も、二人きりの七号室で最後の一音まで楽しむ、ミコシリーズ第16話。

第一章 内緒の、ばれ方

一月の最初の月曜日、昼休みに、ゆかりからメッセージが来た。

〈わたしの番、再来週の土曜でいい? 小倉まで来れる?〉

〈行ける。どこ行くの?〉

〈内緒〉

それから十秒くらいして、もう一通来た。

〈のど、あったかくして来てね〉

ミコは、会社の休憩室の椅子で、スマートフォンをしばらく見ていた。
それから、打った。

〈ゆかり。それ、もう言ってるよ〉

〈なにが!?〉

〈十二月に、今度カラオケ行ったらタンバリン係ねって、言ってた〉

返事は、少し間があいてから来た。

〈しまった〉

〈あのとき、もう決めとったと。ばれんように、さりげなく言ったつもりやった〉

〈さりげなかったよ〉

〈じゃあ、なんでわかると〉

〈のど〉

ゆかりから、頭を抱えた猫のスタンプが届いた。

ミコは、休憩室の窓のほうを向いて、少しだけ笑った。内緒の行き先が、内緒のまま、もうわかっている。それでも、楽しみなのは変わらなかった。むしろ、少し増えた。

その夜、302号室の台所で、ミコはスマートフォンのメモを開いた。

しおりは作らない、と、十一月に約束した。だから、これはしおりではない。
新しいメモのいちばん上に、題名を打った。

〈うたいたい〉

少し考えて、うしろに付け足した。

〈うたいたい(本気)〉

それから、曲の名前を並べた。通勤の電車で、片耳だけイヤホンをして聴いてきた歌たち。知らない歌手を順番に聴いているうちに、何回も戻ってくるようになった歌たち。
並べ終わると、十四曲あった。

一曲目は、みずのわというバンドの『終点まで起こさないで』だった。夜のバスで眠ってしまいそうな人の歌で、ミコはこれを、たぶん百回以上聴いている。
曲の名前の横に、ミコは長さを書いた。

〈7:42〉

書いてから、しばらくその数字を見ていた。

本部のホワイトボードでは、シンパイが、同じ数字を大きく書き写していた。

〈7分42秒〉

その下に、細かい字が続いた。

〈ゆかりが知らない〉
〈長い〉
〈ゆかりが知らないうえに、長い〉
〈声が出ない〉
〈間奏で何をしていればいいかわからない〉

「最後のは」とダイジョブが言った。「タンバリンをすればいいと思います」

「自分の歌の間奏で、自分でタンバリンをするんですか」とシンパイが言った。

「忙しくて、いいじゃないですか」

キオクが、リモコンを押した。モニターに、十二月の音楽室が映った。それから、帰りのバスの中で見た、ゆかりの文字。

〈今度カラオケ行ったら、タンバリン係ね〉

「タンバリン係は、約束です」とキオクは言った。「でも、歌わない係とは、言われていません」

「言われてないですね」とダイジョブが言った。

ハラヘッタは、もう店を調べていた。小倉駅の近くのカラオケの、食べ物のページだった。

「山盛りポテトがあります。二人で一つが、ちょうどいいそうです」

パイプ椅子の上では、ネムイが、濃紺のフードを目の上まで下ろして眠っていた。

頭の中の本部にいる五人。シンパイがホワイトボードに向かい、緑のハラヘッタはポテトの写真、銀髪丸眼鏡のキオクはリモコンを持つ。黄色のダイジョブが話し、紺フードのネムイは椅子で眠る。

ミコは、メモの十四曲を、上から順番に眺めた。それから、長さの順に並べ替えた。次に、ゆかりが知っていそうな順に並べ替えようとした。ゆかりが知っていそうな曲は一曲もなかったので、並べ替えても順番は変わらなかった。
最後に、もとの順番に戻した。

寝る前に、ミコはゆかりに一通だけ送った。

〈タンバリン係もするけど、歌も歌っていい?〉

返事は、四秒で来た。

〈当たり前やん。それ聞きたくて、カラオケにしたっちゃけん〉

ミコは、布団の中で、その一行を三回読んだ。

第二章 七号室

約束の土曜日は、よく晴れて、風が冷たかった。

ミコは、在来線の快速に揺られて、小倉に着いた。
灰色のセーターの上に、いつもの青緑の上着。その上から、冬のあいだだけ着る、濃い灰色のウールのコートを着ていた。生成りのマフラーを二重に巻いて、黒いワイドパンツに、灰色のスニーカー。生成りのトートの内ポケットには、濃紺のお守りが入っている。

改札を出たところで、短い髪のゆかりが手をふっていた。黒いダウンのファスナーを、顎の下まで上げていた。

「来た来た。寒かったやろ」

「寒かった。でも、電車はあったかかった」

「行き先、言っていい?」

「知ってるよ」

「それでも、言いたいと」ゆかりは胸を張った。「カラオケです」

「やったー」とミコは言った。言ってから、ちょっと棒読みだったかもしれないと思った。ゆかりは、それで満足そうだった。

駅から歩いて五分のビルの二階に、〈カラオケ まるみみ〉の看板があった。
受付で、ゆかりが慣れた様子で用紙に書いた。二名、二時間。十四時から十六時まで。ミコはそのあいだ、ゆかりの後ろで、スマートフォンのメモをもう一回だけ開いて、閉じた。

「終了の十分前に、お部屋のお電話でお知らせします」と、受付のお兄さんが言った。「延長は、そのときにお申しつけください。マイクとリモコンは、こちらのかごに入っています。お帰りの際は、かごごと受付にお戻しください」

かごの中には、マイクが二本と、細長いタブレットのリモコンが入っていた。
ゆかりが、受付の奥の棚を指さした。

「タンバリン、借りれます?」

「はい、どうぞ」

お兄さんが出してくれたのは、赤いプラスチックの輪に、銀色の鈴がついたタンバリンだった。皮は張っていなかった。持つところに、指の形のくぼみがついている。
十二月の、木の輪に白い皮のタンバリンとは、ずいぶん違った。

「軽い」とミコは言った。

「係の人の道具やけん」ゆかりは、それを、ミコの持っているかごに入れた。

七号室は、二人で座るとちょうどいいくらいの、小さな部屋だった。

L字のソファと、低いテーブル。壁には大きな画面があって、新曲の宣伝が音つきで流れていた。暖房がよく効いていて、入ったとたん、頬がぽっと熱くなった。

ミコはマフラーをほどいて、コートを脱いで、壁のハンガーにかけた。トートはソファの端に置いた。青緑の上着の袖を、少しだけ肘のほうへ押し上げた。
ゆかりも、黒いダウンを隣のハンガーにかけた。下は、からし色のセーターだった。

「よし」とゆかりはリモコンを持った。「一曲目、わたしが行く。ミコは、係」

「はい」

ゆかりが入れたのは、『全速力サンダル』という、ミコも名前だけは知っている、去年のドラマの歌だった。
前奏が始まると、ゆかりは立ち上がった。ソファとテーブルのあいだの狭いところで、足でリズムを取った。

ミコは、赤いタンバリンを持った。
左手で持って、右手でたたく。皮がないので、手のひらは、プラスチックのふちと鈴に当たった。

シャカ。

十二月の音とは違った。軽くて、短くて、ちょっと間が抜けていた。
ミコは、思わず笑った。笑いながら、もう一回たたいた。シャカ、シャカ。サビになると、ゆかりがマイクを持っていない左手で、ミコのほうを指さした。ミコは、タンバリンを頭の上でふった。シャカシャカシャカ。

本部では、シンパイがマーカーを持ったまま、ホワイトボードの前で何も書いていなかった。

「数えないんですか」とダイジョブが聞いた。

「今日は、楽譜がないので」とシンパイは言った。

ゆかりが歌い終わると、画面に、点数のかわりに、拍手をしている犬のアニメが出た。採点は入れていなかった。

「係、よかった」とゆかりは言った。「ばりにぎやか」

「軽かった」

「ポテト頼も」

ゆかりは、壁の電話の受話器を取って、山盛りポテトと、ウーロン茶と、ホットのゆず茶を頼んだ。ゆず茶はミコのぶんだった。受話器を置くと、ゆかりは、リモコンをミコの膝にのせた。

「次、ミコ」

ミコは、リモコンの画面を見た。
検索のところに、一文字ずつ打てばいい。み、ず、の、わ。

指が、み、のところで止まった。

本部で、シンパイのマーカーが、〈ゆかりが知らないうえに、長い〉の行をなぞった。

「最初から長いのは、重いです」とシンパイは言った。「いきなり七分は、重いです」

「重いんですか」とダイジョブが聞いた。

「七分あったら、ゆかりさんは二曲歌えます」

ミコは、み、を消した。
かわりに、あ、し、た、と打った。

『あしたもパン日和』。パン屋さんのコマーシャルで、何年も流れている歌だった。二分五十秒。ゆかりも、きっと知っている。

前奏が流れると、ゆかりが「あ、知っとる!」と言った。それで、ミコは少しほっとした。
立たずに、座ったまま歌った。マイクを、口から少し離して持った。

パンが焼けたよ、という歌だった。焼けた、のところで、ゆかりがタンバリンをシャカ、とたたいた。

歌い終わると、ゆかりは拍手をした。それから、首をかしげた。

「ミコ。それ、リストに入っとらんやろ」

「え」

「さっき受付で、スマホ見よったやん。わたしの後ろで。題名、なんやった。うたいたい、かっこ」

ミコの顔が熱くなった。

「……本気」

「本気のほう、歌って」

ミコは、リモコンを胸に抱えた。

「本気のほうは、ゆかり、たぶん一曲も知らない」

「知らんのがいい」

「長いのもある」

「何分」

「……七分、四十二秒」

ゆかりは、少しだけ黙った。それから、自分のスマートフォンを出して、何かを確かめた。

「わたしの、九分十二秒」

「え」

「わたしにも、あると。本気のほう」

ゆかりは、スマートフォンを伏せてテーブルに置いた。耳が、ちょっと赤かった。

「お父さんの車で、昔ずっと流れよった歌。『港町まで九分』っていうと。汐見ゆりって人の。長いし、古いし、途中に台詞があるけん、誰かと来たときは、絶対入れんの」

「台詞」

「台詞」

二人は、しばらく、リモコンとスマートフォンを見ていた。

「じゃあ、ゆかりが先に」とミコは言った。「九分のほうが、長いから」

「なんで長いほうが先なん」

「あとに残すと、時間がなくなるかも」

「二時間あるやん」とゆかりは言った。「ミコが先。お客さんやけん」

「わたし、お客さんじゃないよ。友だち」

「友だちのお客さん」

「ゆかりの番なんだから、ゆかりが先」

「わたしの番やけん、わたしが決めるとよ。ミコが先」

ミコは、口を開けて、閉じた。ずるい理屈だった。でも、正しい気もした。

本部では、五人がそれぞれの場所から、二人を見ていた。

「どちらも、ゆずっています」とキオクが言った。「さっきから、五往復です」

「ゆずり合いの、延長戦ですね」とダイジョブが言った。

「延長はしません」とシンパイが言った。「十六時までです」

パイプ椅子のほうから、もぞもぞと音がした。ネムイが、フードの中で言った。

「どっちも、入れるんですよね」

四人が振り向いた。

「どっちから歌っても、両方とも最後まで歌うんですよね。じゃあ、どっちが先でも、同じです」

それだけ言って、ネムイはまた寝息を立てた。

ミコは、リモコンの画面を見た。
同じだった。七分四十二秒と、九分十二秒。足すと、十七分弱。どっちが先でも、十七分弱は変わらない。

「じゃんけん」とミコは言った。

「よかよ」

ミコはグーを出した。ゆかりはチョキだった。

「勝ったほうが、決める」とゆかりが言った。

ミコは、少しだけ考えた。考えるふりをしただけかもしれなかった。

「……わたし、先」

み、ず、の、わ。
今度は、指が止まらなかった。

第三章 間奏は、飛ばさない

前奏は、静かだった。

画面に、曲の題名と、みずのわ、という名前が出た。それから、どこか知らない町の、夜の路面電車の映像が流れはじめた。バスの歌なのに、電車だった。

「電車やん」とゆかりが小さく言った。

「バスの歌なの」

「電車やん」

ミコは、立った。
立つつもりはなかった。前奏のピアノが、毎朝の電車で聴くのと同じ音で鳴りはじめたら、膝が勝手に伸びていた。

一行目は、ほとんど声にならなかった。
自分の声が、スピーカーから、知らない人みたいに返ってきた。ミコは、マイクを少し口から離した。

本部で、シンパイがホワイトボードを叩いた。

「声が出てません。でも、出しすぎたら、もっと知らない声になります」

キオクが、リモコンを押した。モニターに、朝の電車の窓が映った。片耳のイヤホン。曇ったガラスに映った、口だけ動かしている自分。

「百回以上、聴いています」とキオクは言った。「どこで息を吸うか、ミコは全部知っています」

本当だった。
ミコは、歌っている人が息を吸うところで、息を吸った。歌っている人が少しだけ声を引っこめるところで、引っこめた。二行目の終わりで、歌の人は、いつも言葉を半分だけ飲みこむ。ミコも、半分だけ飲みこんだ。

上手かどうかは、わからなかった。ただ、間違えてはいなかった。百回分の朝が、ちゃんと口の中に入っていた。

一番のサビで、声が、少し前に出た。
ゆかりが、ソファの上で背筋を伸ばしたのが見えた。

一番が終わると、画面に〈間奏〉と出た。

その下に、小さく秒数が出た。一分二十秒。
路面電車が、知らない橋を渡っていった。

ゆかりが、テーブルのリモコンに手を伸ばした。

「長いね。間奏、飛ばす?」

親切な声だった。立ったままのミコを、気づかってくれたのだとわかった。
わかったのに、ミコの手のほうが先に動いた。

「だめ!」

マイクを通した声が、七号室いっぱいに響いた。
一番のサビより、大きかった。

ゆかりの手が、リモコンの上で止まった。ミコはソファに飛びつくみたいにしてリモコンを取って、胸に抱えた。

「ここ、いいところなの」

「……間奏が?」

「間奏が」

ミコは、リモコンを抱えたまま、画面のほうを向いた。
ピアノとベースのあいだから、ギターが細く上がっていった。それから、ずっと後ろのほうで、小さな音が鳴りはじめた。

シャン。シャン。

ゆかりが、顔を上げた。

「あ」

「タンバリン」とミコは言った。マイクを下ろすのを忘れていたので、それもスピーカーから出た。

「タンバリン、おる」

「十二月までは、いるの知らなかったの。あのあと聴いたら、いたの」

ゆかりは、テーブルの上の赤いタンバリンを見た。それから、ミコを見た。

「たたいていい?」

「いいよ」

ゆかりは、赤いタンバリンを持って、画面の奥のタンバリンに合わせようとした。合っていなかった。画面の奥のシャンと、七号室のシャカが、追いかけっこをしていた。
ミコは笑った。笑って、少しも直そうと思わなかった。

そのとき、ドアがノックされた。

「失礼しまーす。山盛りポテトと、ウーロン茶と、ホットのゆず茶です」

受付のお兄さんが、お盆を持って入ってきた。
部屋の中では、ミコがリモコンを胸に抱えて、マイクを持って、画面の前に仁王立ちになっていた。ゆかりが、赤いタンバリンを鳴らしていた。路面電車が、知らない駅に着いたところだった。

お兄さんは、何も見なかったような顔で、ポテトとグラスとカップを置いた。

「ごゆっくりどうぞ」

ドアが閉まった。
ゆかりがソファに倒れて、声を出さずに笑った。タンバリンが、ゆかりの胸の上で鳴りつづけていた。

本部で、ハラヘッタが両手を上げていた。

「来ました」

「今じゃなくても、よかったです」とシンパイが言った。

二番は、一番より声が出た。
もう、知らない人の声には聞こえなかった。少しかすれる、ミコの声だった。

最後のサビの前に、歌の人は、ひとことだけ、ささやくみたいに歌う。〈終点まで〉のところだ。いつもの電車では、ミコはそこで口だけ動かしていた。
今日は、声に出した。ささやくくらいの、小さい声で。マイクは、それもちゃんと拾った。

ゆかりは、もうタンバリンを鳴らしていなかった。膝の上に置いて、画面の歌詞を目で追っていた。

最後のサビが終わった。
歌詞が画面から消えた。路面電車の映像だけが続いて、ピアノが、同じところをゆっくりと何回も回った。

後奏は、一分くらいある。少しずつ小さくなって終わる。

ミコは、立ったままでいた。
マイクを持ったまま。リモコンを、まだ胸に抱えたまま。

ゆかりが、口の動きだけで聞いた。

〈終わり?〉

ミコは、首をふった。

まだ。
ピアノが遠くなっていった。いちばん後ろのタンバリンが、最後に一回だけ、シャン、と鳴った。それから、ピアノの最後の一音が、ゆっくり消えていった。

消えた。

画面がぱっと明るくなって、新曲の宣伝が始まった。
ミコは、やっと息をついた。座った。リモコンを、テーブルに置いた。

ゆかりが拍手をした。大きな拍手だった。

「ミコ、マイク、ずっと持っとった」

「まだ、鳴ってたから」

「リモコンも、ずっと抱いとった」

「飛ばされそうだったから」

「飛ばさんよ、もう」とゆかりは言った。「あそこ、タンバリンおるもん」

ミコは、ゆず茶を飲んだ。少しぬるくなっていた。ちょうどよかった。

「……いい歌やった」とゆかりは言った。「知らんかったけど。知らん歌って、こんなに、ちゃんと聴くっちゃね」

本部で、キオクはリモコンを押さなかった。モニターには、今の七号室が映っていた。ネムイは寝ていた。ハラヘッタは、ポテトを見ていた。

次は、九分十二秒だった。

ゆかりは、リモコンを持ったまま、しばらく画面を見ていた。

「ほんとに入れるよ」

「うん」

「長いよ」

「七分のあとだから」とミコは言った。「もう慣れた」

ゆかりは笑って、送信した。

画面に、『港町まで九分』と出た。汐見ゆり。前奏は、波の音から始まった。それから、少し古い感じの、ゆったりしたギター。映像は、なぜか、山の中の温泉の湯けむりだった。

「港町じゃない」とミコが言った。

「港町やないね」

ゆかりは、座ったまま歌いだした。

声が、さっきの『全速力サンダル』と全然違った。低くて、ゆっくりで、語尾が少しだけ伸びた。ゆかりは、歌詞をほとんど見ていなかった。車の後ろの席で何回も聴いたのだろうと、ミコは思った。

ミコは、赤いタンバリンを膝に置いたまま、たたかなかった。
この歌の後ろには、タンバリンはいなかった。いないところで鳴らすのは、なんだか違う気がした。かわりに、聴いた。

四分を過ぎたところで、画面の歌詞が、いきなりかっこに入った。

〈(台詞)〉

その下に、長い文章が出た。
ゆかりが、マイクを下ろした。

「ここ、いつも飛ばすと」と、ゆかりは小声で言った。「音だけ流れて、わたしは黙っとくの。恥ずかしいけん」

画面の文章が、少しずつ色を変えていった。読む人がいないまま、言葉だけが進んでいく。

〈あの船が出るまで あと九分〉
〈あなたは煙草を消して 時計を見た〉

ミコは、マイクを持ち直した。

どうしてそうしたのか、自分でも半分くらいしかわからなかった。残りの半分は、わかっていた。読む人がいないのが、もったいなかったのだ。

「……読んでいい?」

ゆかりが目を丸くした。

「ミコが?」

「だめなら、いい」

「だめやない」ゆかりは急いで言った。「だめやないけど。ミコが?」

ミコは、画面を見た。色が変わっていくのに合わせて、読んだ。

「あの船が、出るまで、あと、九分。あなたは、煙草を消して、時計を見た」

ゆかりが、ソファの上で前に折れた。

カラオケのソファで、ミコがマイクを持って台詞を真面目に読み、短い髪のゆかりが身を折って笑う。赤いタンバリンはミコの膝、テーブルにポテトと茶二つがある。

ミコの読み方は、会社で、週明けの連絡事項を読み上げるときと同じだった。一字も飛ばさず、句読点で、ちゃんと止まった。ふりがなのついている漢字は、ふりがなどおりに読んだ。

「わたしは、何も言わずに、あなたの、コートの、ボタンを、ひとつ、とめた」

「ミコ、待って、ちょっと」ゆかりは、笑いすぎて声がかすれていた。「アナウンスやん。駅の」

「次の行、来るよ」

「来る、来る」

本部で、シンパイがホワイトボードの前で両手を握りしめていた。

「台詞です。台詞を読んでいます。気持ちをこめてください」

「こめてます」とダイジョブが言った。「全部に、同じくらい、こめてます」

「句読点で、きっちり止まっています」とキオクが言った。「連絡事項の読み方です」

台詞の最後の行は、〈さよならは 九分あれば 言えると思っていた〉だった。

ミコは、そこだけ、少しゆっくり読んだ。

画面のかっこが閉じて、歌詞に戻った。ゆかりが、笑いの残った顔のまま、マイクを口もとに戻した。
最後のサビを、ゆかりは、さっきより大きな声で歌った。語尾が、ちゃんと伸びた。

九分十二秒は、思っていたよりずっと短かった。

「あそこ、誰かが読んだの、初めて聞いた」

歌い終わって、ゆかりは言った。ポテトを三本、一度に口に入れた。

「お父さんも、運転しながら、そこだけは黙っとったけん。九分のうち、その一分くらいだけ、車の中がしーんとすると」

「読まないほうが、よかった?」

「ううん」ゆかりは首をふった。「次来たときも、読んで」

「次も、アナウンスだよ」

「アナウンスがいいと」

第四章 十分前の電話

それから、二人は交代で歌った。

ゆかりは、去年の夏に流行った歌や、子どものころのアニメの歌を、次々に入れた。アニメの歌のとき、ミコは赤いタンバリンを遠慮なく鳴らした。係の仕事だった。
ミコは、〈うたいたい(本気)〉のメモを、上から順番に歌った。二曲目は、知らない女の人が、冬の洗濯物について歌う歌だった。三曲目はほとんど英語で、ミコにも半分しか歌えなかった。半分しか歌えないところは、ゆかりと二人で、ラララで埋めた。四曲目と五曲目は、どちらも三分ちょっとの、静かな歌だった。

一曲終わるたびに、ミコはメモの曲の横に、小さな丸をつけた。一曲目にも、さかのぼって丸をつけた。
丸は、五つになった。

本部では、シンパイが、ホワイトボードの〈ゆかりが知らない〉の行を、マーカーの先でとんとんとたたいていた。

「ゆかりさん、さっきから、知らない歌ばかり聴いています」

「はい」とキオクが言った。

「つまらなくは、ないんでしょうか」

キオクはリモコンを押した。モニターに、少し前の七号室が映った。洗濯物の歌の二番で、〈靴下が片方〉という歌詞のところで、ゆかりがソファから身を乗り出して笑っている顔だった。

「片方ないのは、わかる、と言っていました」とキオクは言った。

シンパイは、〈ゆかりが知らない〉の横に、小さく書き足した。

〈(知らなくても、笑う)〉

十五時五十分、壁の電話が鳴った。

ゆかりは、ちょうどトイレに行っていた。
ミコは、一回だけ深呼吸をして、受話器を取った。

「はい、七号室です」

「失礼いたします。終了十分前のお知らせです。ご延長はいかがなさいますか」

「延長は、しません」とミコは言った。「十六時に出ます」

「かしこまりました。ありがとうございます」

受話器を置いた。十秒もかからない電話だった。
本部で、シンパイがホワイトボードの端に小さく〈電話 出た〉と書いた。それから何か付け足そうとして、やめた。付け足すことがなかった。

ドアが開いて、ゆかりが戻ってきた。

「電話、鳴りよった?」

「十分前。延長しないって言った」

「ありがと」ゆかりは壁の時計を見た。「十分。一曲いけるね」

ゆかりは、テーブルのマイクを一本取って、ミコのほうへ差し出した。

「最後、ミコ。本気のほうの、六番目」

ミコはマイクを受け取って、メモを開いた。
六番目は、『ポケットの中の一月』という、三分半の歌だった。短い。十分あれば、ちゃんと入る。

ミコは、それをリモコンに打ちこもうとして、指を止めた。
テーブルの上に、もう一本のマイクが寝ていた。

本部で、ダイジョブが「入れましょう!」と言いかけて、自分の口をふさいだ。キオクは、何も押さずにリモコンを持っていた。ハラヘッタは、ポテトの最後の一本を見ていた。

「ゆかり」

「ん」

「最後は、ゆかりも知らなくて、わたしも知らない歌にしない?」

ゆかりは、ぱちぱちとまばたきをした。

「二人とも知らんの?」

「そしたら、二人とも、同じだけ困る」

ゆかりは、少し考えてから、もう一本のマイクを取った。

「よかよ。困ろ」

ミコは、リモコンの画面のすみの、〈おまかせ〉のボタンを押した。一曲、勝手に選んでくれるボタンだった。

画面に、曲の名前が出た。

『商店街のうた(ロングバージョン)』。その横に、〈6:48〉。

「長っ」とゆかりが言った。

ミコは、壁の時計を見た。十五時五十二分だった。六分四十八秒は、入る。入るけれど、片づけと、コートと、マフラーが入らない。
ミコは、すぐに〈演奏中止〉を押した。

「慎重やね」

「マフラー、二重だから」

もう一回、〈おまかせ〉を押した。

『雨の日のペンギン行進曲』。〈3:31〉。

「ペンギン」とゆかりが言った。

「三分半」とミコが言った。

二人は顔を見合わせて、うなずいた。赤いタンバリンは、ゆかりのマイクを持っていない左手に入った。

前奏は、ラッパの音だった。画面には、なぜか、きれいな高原の牧場が映った。ペンギンは、一羽も出てこなかった。

「ペンギン、おらん」

「牧場だね」

一行目は、二人ともメロディーがわからなかった。ゆかりは勘で大きく歌って、外れた。ミコは、色が変わっていく歌詞を一字ずつ追いかけて、ほとんど読むみたいに歌った。

二行目で、ミコは、一行目と同じ節だと気づいた。三行目で、ゆかりも気づいた。
サビは、〈ぺたぺた ぺたぺた〉ばかりだった。それなら、二人とも歌えた。

「ぺたぺた ぺたぺた」

ゆかりの声とミコの声が、七号室で、ちょっとずれて重なった。ゆかりがタンバリンを鳴らした。シャカ。合っているのか、いないのか。どっちでもよかった。

本部では、四人が、そろって体を揺らしていた。シンパイもだった。マーカーを持ったまま、小さく、ぺたぺた、と言っていた。
ネムイだけは寝ていた。でも、フードの先が、ちょっとだけ揺れていた。

三分三十一秒は、すぐだった。

最後の〈ぺたぺた〉のあと、ラッパが長く伸びて、終わろうとしていた。
ゆかりが、マイクをかごに戻そうとした。

「まだ」

ミコは、自分のマイクを握ったまま言った。

ゆかりは手を止めた。それから、にやっと笑って、マイクを持ち直した。
ラッパが細くなって、消えた。

「……はい」とミコは言った。

ゆかりが噴き出した。

「ミコって、マイク、最後まで返さん人やね」

「鳴ってるあいだは、持ってる」

壁の時計は、十五時五十六分だった。

コートを着て、マフラーを二重に巻いた。ゆかりも、ダウンのファスナーを顎の下まで上げた。
ミコは、かごの中を確かめた。マイクが二本。リモコンが一つ。赤いタンバリンが一つ。

「ミコ、数えよる」

「来たとき、四つだったから」

十六時ちょうどに七号室を出て、受付でかごを返した。お兄さんは「ありがとうございました」と言って、何も見なかったような顔のまま、少しだけ笑った。ポテトのときの顔だ、とミコは思った。

階段を下りて外に出ると、空はもう、少し橙色になっていた。

駅の改札の前で、ゆかりが言った。

「みずのわ、帰りに聴いてみる。タンバリン、どこ」

「一番が終わって、間奏の途中から。ずっと後ろのほう」

「ずっと後ろのほう」

「耳、すまして」

「すます」

改札を通って振り返ると、ゆかりはまだ手をふっていた。

帰りの快速で、ミコは片耳だけイヤホンをした。

窓の外が、どんどん暗くなっていった。
『終点まで起こさないで』を流した。何回目なのか、もうわからなかった。でも今日は、二行目の終わりで言葉を半分飲みこむところで、七号室の自分の声を思い出した。

途中で、スマートフォンが震えた。

〈おった。タンバリン〉

続けて、もう一通。

〈あと、路面電車、出てこんかった〉

〈バスの歌だから〉とミコは打った。

〈そうやった〉

イヤホンの中で、間奏が始まった。ずっと後ろのほうで、シャン、シャン、と鳴った。
今ごろ、ゆかりもどこかで同じところを聴いているかもしれなかった。聴いていないかもしれなかった。どちらでもよかった。

本部では、シンパイが、ホワイトボードの〈7分42秒〉の横に、小さく書き足していた。

〈短かった〉

その下に、もう一行。

〈9分12秒も〉

ハラヘッタは、ポテトのことを思い出していた。山盛りは、二人でちょうどよかった。
ネムイは、終点まで起こさないでください、という顔で眠っていた。

ミコは、メモを開いた。
〈うたいたい(本気)〉の十四曲のうち、丸がついているのは五つ。残りは九曲。六番目の『ポケットの中の一月』にも、まだ丸はない。

題名は、そのままにしておいた。