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ミコシリーズ第17話
コメディ・日常

今日は、何もしない予定です

何もしない日は、思ったより忙しい。

読了目安
27分
長さ
短編
#くすっと笑える#読書#休日
今日は、何もしない予定ですのイメージ

あらすじ

一月も終わりに近い日曜日。ミコはカレンダーにまで「何もしない」と入れて、読みかけの本と音楽、窓の光の四角、おもちを楽しみにしていた。けれど頭の中の五人は時間割を作り、本は行方不明、ようやく座ると雲がやってくる。食器はあしたの係にして、光を追って座布団ごと引っ越す、少し欲張りな一人の午後。ミコシリーズ第17話。

第一章 何もしない会議

目覚ましは、鳴らなかった。

ミコは日曜日にも、七時半にアラームをかけている。一日を長く使えるように、と思ってかけはじめて、もう何年もそのままだった。ゆうべ布団に入る前に、それを切った。切るとき、指が少しだけためらった。

一月も、終わりに近い日曜日だった。

カーテンのすきまから、白い光が細く入ってきていた。枕もとのスマートフォンを見ると、八時四十分だった。

今日は、何もしない。

先週の水曜日に、そう決めた。会社の帰りの電車で、窓に映った自分の顔を見ていて、決めた。日曜日は、どこにも行かない。誰とも約束しない。何もしない。

決めてから、ミコはそれを、けっこう楽しみにしていた。楽しみにしすぎて、木曜日には、スマートフォンのカレンダーの日曜日に、予定まで入れてしまった。

〈何もしない〉

終日。通知は前日の夜九時。ゆうべ九時に、ちゃんと通知が来た。

本部では、朝の会議が始まっていた。

ホワイトボードの前に、シンパイが立っていた。白いシャツの袖をまくって、マーカーのキャップを外し、いちばん上に大きく書いた。

〈本日の議題:何もしない〉

「では」とシンパイは言った。「何もしないための、段取りを決めます」

「段取り、いるんですか」とダイジョブが聞いた。黄色い上着のポケットに、両手を入れていた。

「いります。何もしないは、何もしないと、達成できません」

ダイジョブは少し考えてから、「深いですね」と言った。

キオクが丸眼鏡を指で押し上げて、リモコンを押した。モニターに、去年の秋の日曜日が映った。

朝の十時、「今日はゆっくりする」と言っているミコ。十時半、冷蔵庫の野菜室を開けて、しなびた長ねぎを見つけるミコ。十一時、野菜室のトレーを外して洗っているミコ。午後三時、冷蔵庫の扉のゴムのみぞを、綿棒でこすっているミコ。

「ゆっくりする日の、記録です」とキオクは言った。「夕方には、冷蔵庫がとてもきれいになりました」

「きれいになったのは、いいことでは」とダイジョブが言った。

「本人は夜、ゆっくりしたかった、と言っていました」

シンパイが、ホワイトボードに書き足した。

〈危険:冷蔵庫〉
〈危険:綿棒〉

ハラヘッタが、緑のカーディガンの前をかき合わせながら手を挙げた。

「おもちが、四つ残っています」

「議題と関係ありますか」

「おもちは、何もしない日に食べるのが、いちばんおいしいです」

シンパイは、それも書いた。〈おもち 4〉

パイプ椅子では、ネムイが濃紺のフードを鼻の上まで下ろして眠っていた。誰も起こさなかった。起こすと、何かすることになるからだった。

ミコは布団から片足だけ出して、また引っこめた。

何もしない、と決めていても、したいことはいくつかあった。

一つ目は、本だった。十二月に駅の本屋さんで買った文庫本で、通勤の電車で半分近くまで読んで、そこで止まっている。つまらなかったわけではない。電車の中で読むと、いいところで駅に着いてしまうのだ。続きは家でゆっくり読もう、と思っていた。

二つ目は、音楽だった。いつも電車の中で、片耳だけで聴いている歌を、部屋の中で、ちゃんと聴いてみたかった。

三つ目は、窓の光だった。

302号室のベランダの窓からは、冬の午後一時くらいになると、床に光が差しこむ。窓の形をそのまま床に置いたような、くっきりした四角だ。四角は時間がたつと、少しずつ部屋の奥へ歩いていく。本棚の前を通って、最後は壁を上って消える。

ミコがそれに気づいたのは、年末の休みだった。気づいたときには、四角はもう壁の上のほうにいて、すぐにいなくなった。それからは、土曜日は出かけていたり、日曜日は曇っていたりで、最初から最後まで見たことはまだない。

あの四角の中に座ってみたい、とミコは思っていた。本を持って。

四つ目は、ハラヘッタの言うとおり、おもちだった。

布団の中で天井を見ながら、ミコはそれを順番に数えた。本、音楽、光、おもち。

数え終わるころには、本部のホワイトボードがいっぱいになっていた。

〈9:00 起きる(何もしない)〉
〈10:00 何もしない〉
〈11:00 何もしない(つづき)〉
〈12:00 昼ごはん〉
〈13:00 光 到着予定〉
〈13:00〜 光の中で本(何もしない)〉
〈15:00 おもち〉

「できました」とシンパイが言った。

「何もしない、が、たくさんありますね」とダイジョブが言った。

「四回あります」

「にぎやかですね」

頭の中の会議室で五人が時間割を囲む。白シャツに茶灰のシンパイが書き、黄色のダイジョブ、銀髪丸眼鏡キオク、挙手する緑のハラヘッタが立ち、紺フードのネムイはパイプ椅子で眠る。

キオクが、リモコンを持ったまま言った。「天気予報では、今日は晴れ。ところにより、午後一時ごろから一時的にくもりです」

シンパイのマーカーが止まった。〈13:00 光 到着予定〉の横に小さく〈(くもり)〉と書き、それを消して、また書いた。

ミコは起き上がった。

九時三分だった。予定より、三分遅れていた。

第二章 本は、どこで休んでいるか

起きて最初に、カーテンを開けた。

空は青かった。ベランダの手すりの向こうで、向かいのマンションの屋上に光がのっていた。窓ガラスに手を当てると、外の冷たさが伝わってきた。

ミコは、オートミール色のスウェットの上下に、生成りの厚手の靴下をはいていた。冬の休みの日の、いつもの格好だった。顎の下で切りそろえた髪は、寝ぐせで右側だけはねていた。直さなかった。何もしない日だからだ。

朝ごはんに、みかんを一つ食べた。皮は、台所のテーブルに置いたままにした。

それから洗面所に行くと、洗濯かごがいっぱいだった。

バスタオルが二枚。フェイスタオルが四枚。灰色のニットが一枚。靴下は、たぶん五足ぶん。

ミコは、かごの前で立ち止まった。

本部で、シンパイがすばやく〈危険:綿棒〉の下に書き足した。

〈危険:洗濯〉

「洗濯は、する、です」とシンパイは言った。「何もしない、ではありません」

「でも、晴れてますよ」とダイジョブが言った。

キオクが、モニターに記憶を二つ並べた。晴れた日に干したバスタオルに、夜、顔をうずめているミコ。雨の週に部屋干しして、生乾きのにおいに眉を寄せているミコ。

ミコは、かごを持ち上げた。

洗濯がしたいわけではなかった。夜、あのふかふかのタオルで顔をふきたかった。それはどちらかというと、楽しみのほうに入る気がした。

洗濯機に全部入れて、洗剤を入れて、ボタンを押した。〈42分〉と表示が出た。

「入れました」とダイジョブが言った。

「入れただけ」とミコは、本部にではなく、自分に向かって小さく言った。「あとは、洗濯機がやる」

シンパイは、〈危険:洗濯〉の横に〈(洗濯機がやる)〉と書いた。

洗濯機が回りはじめたので、ミコは本を読むことにした。

本は、いつもベッドの横の小さな棚に置いてある。

棚には、なかった。

目薬と、ハンドクリームと、去年の手帳はあった。本はなかった。

「本は」とミコは言った。

本部で、キオクがリモコンを押した。モニターの映像が早送りで流れた。十二月の駅の本屋さん。レジで受け取った文庫本。電車でページを開くミコ。しおりの代わりにレシートをはさむミコ。

「最後に見たのは」とキオクは言った。「仕事納めの日の、帰りの電車です。七十八ページに、レシートをはさんでいました」

「そのあとは」

「そのあとは、映っていません」

キオクの記録は、ときどき肝心なところで終わる。

ミコは、玄関の横のフックにかかった生成りのトートを探した。財布。社員証のケース。折りたたみ傘。のど飴。濃紺のお守りは、いつもの内ポケットにいた。本はなかった。

本棚を見た。読み終わった本ばかりだった。

台所のテーブルを見た。郵便物と、はさみと、さっきのみかんの皮。本はなかった。

本部では、シンパイが時計を見ていた。

「〈10:00 何もしない〉の時間です。いま、十時四分です。ミコは、本を探しています」

「何もしない時間に、探しものをしています」とキオクが言った。

「何もしない、が、遅れています」

「本も、どこかで休んでるんですよ」とダイジョブが言った。「何もしない日なので」

「本は、休まなくていいです」とシンパイは言った。

ハラヘッタが、思い出したように言った。

「年末に、おもちを買いに行きました」

「いまは、本の話です」

「おもちを買った日、レシートをコートの右のポケットに入れようとしたら、入りませんでした。何かが、先に入っていて」

本部が静かになった。

キオクがゆっくりリモコンを押した。モニターに、年末のスーパーのレジが映った。おもちの袋。レシートを右のポケットに入れようとして、中の硬いものに指がぶつかり、首をかしげて、レシートを財布にしまうミコ。

「映っていました」とキオクは言った。少し悔しそうだった。

ミコは、玄関のコートかけの前に行った。冬のあいだだけ着る、濃い灰色のウールのコート。ふだん手を入れない、右のポケットを探った。

文庫本が出てきた。

角が少し丸くなっていた。七十八ページには、ちゃんとレシートがはさまっていた。

表紙には、『くじらの背中で朝ごはん』とあった。

「見つかりました」とダイジョブが言った。「おもちのおかげです」

ハラヘッタが、胸を張った。

シンパイは、〈10:00 何もしない〉に線を一本引いた。消したのではなく、その線を矢印にして、〈→ 本を見つけた〉と書いた。

「これは」とシンパイは言った。「何かしたことに、なりますか」

誰も答えなかった。洗面所で、洗濯機が脱水を始めた。

洗濯が終わると、ミコはスウェットの上にコートをはおってベランダに出た。空気が冷たくて、一回肩をすくめた。コートのポケットは、もう軽かった。

物干し竿に、バスタオル二枚とフェイスタオル四枚を並べた。灰色のニットは、平たいネットに寝かせた。靴下は、洗濯ばさみのたくさんついた丸いハンガーに、ぐるりと吊るした。

吊るしながら数えると、十一枚あった。一枚だけ、相手がいなかった。

ミコは、その一枚をしばらく見ていた。片方は、たぶん洗濯機の奥か、ベッドの下か、去年のどこかにいる。

探さなかった。何もしない日だからだ。

部屋に戻ったのは、十一時の少し前だった。ミコはソファに座って、背もたれによりかかり、天井を見た。

〈11:00 何もしない(つづき)〉

本部では、全員が静かにミコを見ていた。

ミコは、何もしなかった。

一分たった。

台所の流しに、ゆうべの茶碗とお箸と湯のみが置いてあるのが見えた。

シンパイのマーカーが、ホワイトボードの上でぴくりと動いた。

「洗いません」とミコは言った。声に出して言った。「あれは、あした洗う」

シンパイは、マーカーのキャップをはめた。

「あした洗う」とシンパイは繰り返した。「了解しました」

ダイジョブが拍手をした。ハラヘッタも、つられて拍手をした。キオクはリモコンを膝に置いて、少しだけ拍手をした。

ネムイは寝ていた。

「いちばん何もしていないのは」とダイジョブがパイプ椅子のほうを見た。「ネムイさんですね」

シンパイはホワイトボードのすみに〈見本〉と書いて、その横に、フードをかぶった小さな丸を描いた。

第三章 くもり、のち、スープカップ

十二時すぎ、外から、のんびりした声が聞こえてきた。

「いしやーきいもー、おいもー」

ハラヘッタが、椅子から立ち上がった。

「焼きいもです」

「聞こえてます」とシンパイが言った。

「焼きいもです!」

声はゆっくり近づいてきて、マンションの前の道で、少し止まったようだった。

ミコは、ソファから半分だけ腰を浮かせた。財布はトートの中にある。コートは椅子の背にかけてある。三階から下までなら、階段で一分もかからない。

本部のホワイトボードに、シンパイがすごい速さで書いた。

〈出かける?〉
〈出かけない日〉
〈でも焼きいも〉
〈でも出かけない日〉

「出かけるんじゃありません」とダイジョブが言った。「下まで行くだけです。下は、まだ、うちみたいなものです」

「うちではありません。道です」

キオクが、リモコンを押した。モニターに、台所の戸棚が映った。切りもちの袋。残り四つ。

ハラヘッタはモニターを見て、ゆっくり椅子に座りなおした。

「……おもちが、あります」

「あります」とキオクは言った。

ミコは、浮かせていた腰をソファに戻した。

「いしやーきいもー」は、少しずつ遠ざかっていった。ミコは、それが聞こえなくなるまでじっと聞いていた。行かなかったのに、焼きいもを一つぶん楽しんだような気がした。

昼ごはんは、ゆうべのみそ汁の残りを温めて、ごはんと一緒に食べた。食べ終わった茶碗は、流しの、あした洗うものの上に重ねた。あした洗うものが、一つ増えた。

十二時五十分、ミコはベランダの窓の前に座布団を置いた。

床はまだ日なたになっていなかった。窓のすぐ内側に、うっすら明るい帯が出はじめているだけだった。

座布団の上に、格子柄のひざ掛けをたたんでのせた。その横に文庫本を置いた。スマートフォンも置いた。ほうじ茶をいれたマグカップも置いた。

準備ができた。

一時になった。

光の四角が、床の上でゆっくり形になりはじめた。窓の桟の影が、四角の中に細い十字を引いていた。

ミコは座布団に座ろうとして、止まった。

四角の右上が、欠けていた。

欠けたところには、別の形の影が入っていた。大きくて四角くて、下のほうがゆらゆら揺れている。

バスタオルだった。

窓の外を見ると、物干し竿のちょうど真ん中あたりに、タオルがずらりと並んで下がっていた。太陽は、その向こうにいた。

本部で、シンパイが〈13:00 光 到着予定〉の横に書いた。

〈到着。ただし、タオル〉

ミコはコートをはおって、もう一度ベランダに出た。洗濯ばさみを外して、タオルを一枚ずつ竿のいちばん端へ寄せて、またとめた。指先が冷たくなった。

部屋に戻ると、四角はほとんどまっすぐになっていた。

左下のほうに、丸いハンガーの影だけが残っていた。吊るされた靴下の影が、一つずつ小さく揺れていた。

ミコはもう一度ベランダに出ようとして、やめた。

靴下の影は、かわいかった。

長いのと、短いのと、つま先が少し曲がったのが、四角の中でゆらゆらしていた。相手のいない一枚は、いちばん端で、ほかよりよく揺れていた。

「影絵ですね」とダイジョブが言った。

「影絵です」とキオクが言った。

シンパイは、〈到着。ただし、タオル〉の下に〈靴下は、可〉と書いた。

ミコは座布団に座った。光が膝に当たって、スウェットの膝がふわっと温かくなった。

文庫本を開いた。七十八ページ。レシートを抜いて、座布団の横に置いた。

一行目を読んだところで、膝の上がすっと暗くなった。

顔を上げると、窓の外の空に大きな雲が来ていた。灰色で、丸くて、のんびりした雲だった。太陽は、その後ろに入っていた。

床の四角は消えていた。靴下の影も、いなくなっていた。

「午後一時ごろから、一時的にくもり」とキオクが言った。「予報どおりです」

「予報どおりでなくて、よかったんですが」とシンパイが言った。

雲は、なかなか動かなかった。

ミコはひざ掛けを膝にかけて、本を読んだ。

読もうとした。七十八ページの続きでは、主人公のハルが、くじらの背中の上で誰かと話していた。その相手が誰なのか、思い出せなかった。

少し前に戻った。七十ページまで戻っても、まだ思い出せない。六十一ページまで戻ったところで、相手は、ハルと一緒にくじらに乗りこんだ郵便屋のトトだとわかった。

「戻りました」とキオクが言った。「十七ページ」

「戻ったぶん、何もしない、が、また遅れています」とシンパイが言った。

「本を読むのは、何もしない、ですか」とダイジョブが聞いた。

シンパイはマーカーを持ったまま考えた。

「……保留です」

ミコは本を膝に伏せた。

音楽も、聴きたかった。

スマートフォンで、このところよく聴いている歌を流した。メモ〈うたいたい(本気)〉の六番目、『ポケットの中の一月』。まだ一回も歌っていない、三分半の歌だった。

いつもは電車の中で、片耳だけイヤホンをして聴いている。今日は、イヤホンなしで、部屋の中で聴きたかった。

再生ボタンを押した。

スマートフォンの小さなスピーカーから、歌が出てきた。

細かった。

ピアノは、遠くで誰かが空き缶をたたいているみたいだった。ベースはほとんど聞こえなかった。歌っている人の声だけが、薄く平べったく鳴っていた。

スマートフォンを持ち上げて耳に近づけると、少しましになった。離すと、また薄くなった。

「お味噌汁が、うすいときみたいです」とハラヘッタが言った。

「イヤホンをすれば、いいのでは」とシンパイが言った。

「部屋で、聴きたいんですよね?」とダイジョブが言った。

ミコはうなずいた。誰も見ていなかったけれど、うなずいた。

キオクが、リモコンを押した。モニターに、いつか見た写真が映った。白いマグカップの中に、スマートフォンが立てて入れてある写真だった。カップがスピーカーの代わりになる、という説明がついていた。

「出典は、不明です」とキオクは言った。「たぶん、インターネットです」

ミコは立ち上がって、台所に行った。

戸棚のいちばん上の段に、口の広い大きな白いカップがあった。スープを入れるためのカップで、冬になるとときどき使う。

それを持って戻り、座布団の横に置いた。スマートフォンを、スピーカーのある下のほうを底に向けて、そっと入れた。

歌が、変わった。

カップの中で、声が丸くなった。ピアノに少し奥行きが出て、ベースが、ぼわんと聞こえるようになった。

本物のスピーカーとは、ぜんぜん違った。カップの底でひびいている、少しこもった音だった。でも、ちゃんと部屋の中に広がった。

ミコはカップをのぞきこんだ。白いカップの中でスマートフォンの画面が光っていて、そこから歌が出てきていた。

ミコは、少し笑った。

「ポケットの中の一月が」とダイジョブが言った。「カップの中の一月になりました」

「うまいこと言いましたね」とハラヘッタが言った。

シンパイは、ホワイトボードに〈スープカップ 使用〉と書き、次に〈洗うもの +1?〉と書いて首をかしげ、〈(スマホしか入れていないので、洗わなくていい)〉と書き足した。

二時を過ぎても、雲はまだいた。

ミコは本を読んだ。今度は、話がちゃんとわかった。トトは、くじらの背中で、配達できなかった手紙の束を一通ずつ読み上げていた。ハルはそれを聞きながら、小さなかまどに火を起こそうとしていた。

カップの中では、歌が一曲終わって次の曲になり、また次の曲になった。

シンパイは、ホワイトボードの時間割を見ていた。

〈13:00〜 光の中で本(何もしない)〉

光はなかった。本はあった。

「半分、達成です」とシンパイは言った。

そのとき、スマートフォンがカップの中でぶるっと震えた。カップが、かたかたかたっと鳴った。ミコはびっくりして本を落とした。

カップから出してみると、ゆかりからのメッセージだった。

〈いま何しよる?〉

ミコは、少し考えた。

〈何もしてない〉

送ってから、もう少し考えて、もう一通送った。

〈けっこう忙しい〉

返事は、すぐに来た。

〈どっち〉

ミコは、カップと、本と、座布団と、ひざ掛けと、窓の外の雲を見た。

〈どっちも〉

ゆかりから、首をかしげた猫のスタンプが届いた。それから、もう一通。

〈わたしは、こたつに負けよる〉

ミコはスマートフォンを、またカップの中に戻した。歌が、また丸くなった。

第四章 光の四角の、なかで

二時二十分、膝の上がぱっと明るくなった。

雲が、窓の右のほうへゆっくり抜けていくところだった。空が、また青くなっていた。

床に、光の四角が戻ってきた。

ただ、戻ってきた場所が違っていた。

四角は、ミコの座っている座布団よりずっと奥にいた。窓から一メートルくらい離れた、ラグのはしと本棚の前のあいだ。ミコが雲を待っているあいだに、見えないまま、そこまで歩いていたのだ。

「一時には、ここにいました」とキオクが言った。「いまは、あそこにいます」

「待っていてくれなかったんですね」とダイジョブが言った。

「光は、待ちません」とシンパイが言って、〈13:00〜〉の横に矢印を書いた。〈→ 移動〉

ミコは、座布団を持ち上げた。

四角の真ん中に座布団を置いた。ひざ掛けを運んだ。本を運んだ。スープカップは、歌が鳴ったまま両手でそっと持ち上げて運んだ。歌が、カップの中で少し揺れた。ほうじ茶のマグカップは、すっかり冷めていた。

全部運び終えて、座った。背中から光が当たった。

それから、ミコは立ち上がった。

「おもち」とハラヘッタが言った。

時計は、二時二十五分だった。時間割では〈15:00 おもち〉だった。

「三十五分、早いです」とシンパイが言った。

「光は、待ちません」とハラヘッタが言った。シンパイの言ったことを、そのまま言った。

シンパイは少し口を開けて、それから閉じた。〈15:00 おもち〉の〈15:00〉を消して、〈いま〉と書いた。

台所の戸棚から、切りもちの袋を出した。年末に買った、一つずつ小袋に入ったもちで、残りは四つ。ミコは二つ出した。

オーブントースターの網に、二つ並べてつまみを回した。トースターの中が、じりじりと赤くなった。

ミコはトースターの前にしゃがんで待った。待ちながら、小皿にしょうゆと砂糖を少しずつ入れてまぜた。

もちは、なかなか変わらなかった。それから、急に変わった。かどが丸くなって、表面にひびが入り、ひびのところから白いものがむくっと持ち上がった。

ふくらんだ。

二つとも、ふくらんだ。右のほうが大きくふくらんだ。ふくらみすぎて、網の目のあいだから、下へとろっと垂れた。

チン、と鳴った。

トースターを開けて、ミコは箸でもちをつまんだ。

左のもちは、すっと持ち上がった。

右のもちは、持ち上がらなかった。網の目にしっかりくっついていた。箸で引っぱると、もちは網から離れないまま、上へ長く伸びた。

伸びて、伸びて、まだ伸びた。

「伸びます」とハラヘッタが、うっとりして言った。

「網に、くっついています」とシンパイが言った。

「伸びます!」

小さな台所でミコがしゃがみ、トースターの網についたもちを箸で引っぱる。左手は膝、カウンターの皿に先に取れたもち一つと、袋に未使用のもち二つがある。

ミコは、伸びたもちを箸で持ったまま、しばらく固まっていた。それからミトンで網ごと引き出して、網の上でもちを少しずつはがした。半分くらいははがれた。半分くらいは網に残った。網の目の形に、白いもちがところどころこびりついた。

キオクがリモコンを押した。モニターに、子どものころの台所が映った。トースターの網に、アルミホイルを敷いている大人の手。

「ホイルです」とキオクは言った。「昔は、ホイルを敷いていました」

「早く言ってください」とシンパイが言った。

「いま、思い出しました」

ミコは引き出しからアルミホイルを出して、網の、もちが残っていないところに小さく敷いた。はがした半分と、袋から出したもう一つを、その上にのせた。

もう一度、つまみを回した。

今度は、ホイルの上でもちがふくらんだ。チン、と鳴ってから箸でつまむと、すっと持ち上がった。ホイルの上には、薄いおこげが少しだけ残った。

砂糖じょうゆにつけて、平たいお皿にのせた。きれいなのが二つと、半分のが一つ。袋の中には、まだ一つ残っている。

網にこびりついたもちは、そのままトースターに戻した。

「あした洗うもの」とシンパイは言って、ホワイトボードのすみに小さく〈網〉と書いた。

光の四角に戻ると、四角はまた少し動いていた。座布団の手前のはしが、もう影に出ていた。

ミコは、座布団を二十センチくらい奥へずらした。お皿をずらした。スープカップをずらした。座布団の上で、ひざ掛けを広げなおした。

それから、座った。

背中に、光が当たった。

スウェットの背中が、じわじわと温かくなった。首のうしろも温かくなった。顎の下の髪の先が、光の中で少し茶色っぽく見えた。

床には、靴下の影が戻ってきていた。さっきより少し長くなって、四角のはしで揺れていた。相手のいない一枚が、やっぱりいちばんよく揺れていた。

スープカップの中では、また『ポケットの中の一月』が始まっていた。何曲かぐるりと回って、最初に戻ってきたのだった。

ミコは、もちを一つ取ってかじった。

外側はぱりっとしていた。中は熱くて、やわらかかった。砂糖じょうゆが、甘くて、しょっぱかった。もう一口かじると、もちが長く伸びた。今度は網からではなく、ミコの口から伸びていた。

伸びたもちを箸でたぐりながら、ミコは文庫本を開いた。もちを持っていないほうの手で、ページをめくった。指に砂糖じょうゆがついていないか、一回確かめてからめくった。

ハルは、くじらの背中で、ちょうど朝ごはんを作っているところだった。焼きあがったパンを、トトと二人で分けていた。海の上は寒い。でも、くじらの背中は日に当たって温かい、と書いてあった。

ミコは、背中の温かさを感じながら、そこを読んだ。

本部では、誰もしゃべっていなかった。

シンパイはマーカーを持ったままホワイトボードの前に立っていて、何も書いていなかった。ダイジョブは腕を組んで、モニターに映る光の四角を見ていた。ハラヘッタはモニターのもちを見ていて、ときどき自分も口を動かしていた。キオクは、リモコンを膝の上に置いていた。何も再生していなかった。モニターには、いまの302号室がそのまま映っていた。

半分のもちを最後に食べた。お皿には、砂糖じょうゆの線だけが残った。

百十ページを過ぎたあたりで、ミコは、ときどき文字が二重に見えることに気づいた。

背中が温かかった。膝のひざ掛けも温かかった。カップの中の歌は、ちょうどゆっくりした曲になっていた。

ミコは本を開いたまま胸の上にのせて、座布団からずり落ちるようにラグの上に横になった。頭は座布団にのった。足は光の中にあった。

まぶたの裏が、オレンジ色だった。

本部の照明が、少し暗くなった。

パイプ椅子のほうで、もぞもぞと音がした。

ネムイが、濃紺のフードを少し持ち上げて起き上がった。今日初めてだった。のびをして、あくびをした。

「……やっと、わたしの番ですね」

ネムイはホワイトボードの前まで歩いていって、シンパイの手から、そっとマーカーを取った。キャップをはめた。それから、壁の照明のスイッチを、ぱちん、と切った。

本部が暗くなった。

暗い中で、ダイジョブの小さな声がした。

「見本の人が、来ましたね」

誰も返事をしなかった。

目が覚めたのは、三時四十分だった。

ミコは天井を見ていた。しばらく、どこにいるのかわからなかった。床の上に寝ているのだと気づいた。胸の上で、文庫本が百十二ページを開いたままのっていた。

足が少し寒かった。

起き上がると、光の四角は、もう床にはいなかった。本棚の横の白い壁の上にいた。ずいぶん細長くなっていて、色も昼間の白っぽい色から、みかんの皮のような色に変わっていた。

靴下の影は、もうなかった。壁の上までは、さすがに届かないらしかった。

スープカップの中では、まだ歌が鳴っていた。何周したのかは、わからなかった。

ミコはラグの上に座りなおして、壁の四角を見た。

四角は、見ているあいだにも少しずつ上っていった。本棚のてっぺんと同じくらいの高さになって、細くなって、もっと細くなった。

最後は、一本の線になった。

線が、消えた。

向かいのマンションの屋根に、太陽が隠れたのだった。外は、まだ明るかった。

ミコは、四角のいなくなった壁をしばらく見ていた。

最初の一時間は、雲にとられた。途中で置いていかれた。いちばんいいところは、寝ていて見ていない。

それでも、最初から最後まで見た、という気がした。

スープカップからスマートフォンを出して、音楽を止めた。部屋が急に静かになった。

窓の外で、洗濯物が揺れていた。タオルは竿のいちばん端に並んでいて、灰色のニットは平たいネットの上で寝ていた。丸いハンガーの靴下は、風が吹くたびに、くるりと回った。

本部の照明が、ついた。

シンパイはネムイからマーカーを返してもらって、ホワイトボードの前に立った。

「十五時四十三分です」とシンパイは言った。「洗濯物を取りこむ時間です。冬の夕方は冷えて、湿気が戻ります」

「それは、そうです」とキオクが言った。

ミコは立ち上がって、ベランダの窓に手をかけた。

それから、床の上の文庫本を見た。

百十二ページ。ハルとトトが朝ごはんを食べ終わって、くじらが次の海へ向かって、ゆっくり向きを変えはじめるところだった。章の終わりが近い。あと一ページで、章が終わる。

ミコは、窓から手を離した。

座布団に座りなおして、本を拾った。

本部で、シンパイが、マーカーを持ったまま何か言いかけた。

ダイジョブが、その肩にぽんと手を置いた。

ミコは百十二ページを読んだ。めくって、百十三ページを読んだ。章が終わった。くじらは、向きを変え終わっていた。

座布団の横に置いていたレシートを拾って、百十四ページにはさんだ。

洗濯物には、一ページぶん待ってもらった。

ミコは、今度こそ窓を開けた。冷たい空気が、足もとから入ってきた。サンダルをはいてベランダに出て、竿の端からバスタオルを一枚はずした。

腕に抱えると、まだ少しだけ温かかった。

ミコは、そこに顔をうずめた。

日なたのにおいがした。

流しの茶碗と湯のみと、トースターの網は、あしたの係だった。