第一章 何もしない会議
目覚ましは、鳴らなかった。
ミコは日曜日にも、七時半にアラームをかけている。一日を長く使えるように、と思ってかけはじめて、もう何年もそのままだった。ゆうべ布団に入る前に、それを切った。切るとき、指が少しだけためらった。
一月も、終わりに近い日曜日だった。
カーテンのすきまから、白い光が細く入ってきていた。枕もとのスマートフォンを見ると、八時四十分だった。
今日は、何もしない。
先週の水曜日に、そう決めた。会社の帰りの電車で、窓に映った自分の顔を見ていて、決めた。日曜日は、どこにも行かない。誰とも約束しない。何もしない。
決めてから、ミコはそれを、けっこう楽しみにしていた。楽しみにしすぎて、木曜日には、スマートフォンのカレンダーの日曜日に、予定まで入れてしまった。
〈何もしない〉
終日。通知は前日の夜九時。ゆうべ九時に、ちゃんと通知が来た。
本部では、朝の会議が始まっていた。
ホワイトボードの前に、シンパイが立っていた。白いシャツの袖をまくって、マーカーのキャップを外し、いちばん上に大きく書いた。
〈本日の議題:何もしない〉
「では」とシンパイは言った。「何もしないための、段取りを決めます」
「段取り、いるんですか」とダイジョブが聞いた。黄色い上着のポケットに、両手を入れていた。
「いります。何もしないは、何もしないと、達成できません」
ダイジョブは少し考えてから、「深いですね」と言った。
キオクが丸眼鏡を指で押し上げて、リモコンを押した。モニターに、去年の秋の日曜日が映った。
朝の十時、「今日はゆっくりする」と言っているミコ。十時半、冷蔵庫の野菜室を開けて、しなびた長ねぎを見つけるミコ。十一時、野菜室のトレーを外して洗っているミコ。午後三時、冷蔵庫の扉のゴムのみぞを、綿棒でこすっているミコ。
「ゆっくりする日の、記録です」とキオクは言った。「夕方には、冷蔵庫がとてもきれいになりました」
「きれいになったのは、いいことでは」とダイジョブが言った。
「本人は夜、ゆっくりしたかった、と言っていました」
シンパイが、ホワイトボードに書き足した。
〈危険:冷蔵庫〉
〈危険:綿棒〉
ハラヘッタが、緑のカーディガンの前をかき合わせながら手を挙げた。
「おもちが、四つ残っています」
「議題と関係ありますか」
「おもちは、何もしない日に食べるのが、いちばんおいしいです」
シンパイは、それも書いた。〈おもち 4〉
パイプ椅子では、ネムイが濃紺のフードを鼻の上まで下ろして眠っていた。誰も起こさなかった。起こすと、何かすることになるからだった。
ミコは布団から片足だけ出して、また引っこめた。
何もしない、と決めていても、したいことはいくつかあった。
一つ目は、本だった。十二月に駅の本屋さんで買った文庫本で、通勤の電車で半分近くまで読んで、そこで止まっている。つまらなかったわけではない。電車の中で読むと、いいところで駅に着いてしまうのだ。続きは家でゆっくり読もう、と思っていた。
二つ目は、音楽だった。いつも電車の中で、片耳だけで聴いている歌を、部屋の中で、ちゃんと聴いてみたかった。
三つ目は、窓の光だった。
302号室のベランダの窓からは、冬の午後一時くらいになると、床に光が差しこむ。窓の形をそのまま床に置いたような、くっきりした四角だ。四角は時間がたつと、少しずつ部屋の奥へ歩いていく。本棚の前を通って、最後は壁を上って消える。
ミコがそれに気づいたのは、年末の休みだった。気づいたときには、四角はもう壁の上のほうにいて、すぐにいなくなった。それからは、土曜日は出かけていたり、日曜日は曇っていたりで、最初から最後まで見たことはまだない。
あの四角の中に座ってみたい、とミコは思っていた。本を持って。
四つ目は、ハラヘッタの言うとおり、おもちだった。
布団の中で天井を見ながら、ミコはそれを順番に数えた。本、音楽、光、おもち。
数え終わるころには、本部のホワイトボードがいっぱいになっていた。
〈9:00 起きる(何もしない)〉
〈10:00 何もしない〉
〈11:00 何もしない(つづき)〉
〈12:00 昼ごはん〉
〈13:00 光 到着予定〉
〈13:00〜 光の中で本(何もしない)〉
〈15:00 おもち〉
「できました」とシンパイが言った。
「何もしない、が、たくさんありますね」とダイジョブが言った。
「四回あります」
「にぎやかですね」

キオクが、リモコンを持ったまま言った。「天気予報では、今日は晴れ。ところにより、午後一時ごろから一時的にくもりです」
シンパイのマーカーが止まった。〈13:00 光 到着予定〉の横に小さく〈(くもり)〉と書き、それを消して、また書いた。
ミコは起き上がった。
九時三分だった。予定より、三分遅れていた。
第二章 本は、どこで休んでいるか
起きて最初に、カーテンを開けた。
空は青かった。ベランダの手すりの向こうで、向かいのマンションの屋上に光がのっていた。窓ガラスに手を当てると、外の冷たさが伝わってきた。
ミコは、オートミール色のスウェットの上下に、生成りの厚手の靴下をはいていた。冬の休みの日の、いつもの格好だった。顎の下で切りそろえた髪は、寝ぐせで右側だけはねていた。直さなかった。何もしない日だからだ。
朝ごはんに、みかんを一つ食べた。皮は、台所のテーブルに置いたままにした。
それから洗面所に行くと、洗濯かごがいっぱいだった。
バスタオルが二枚。フェイスタオルが四枚。灰色のニットが一枚。靴下は、たぶん五足ぶん。
ミコは、かごの前で立ち止まった。
本部で、シンパイがすばやく〈危険:綿棒〉の下に書き足した。
〈危険:洗濯〉
「洗濯は、する、です」とシンパイは言った。「何もしない、ではありません」
「でも、晴れてますよ」とダイジョブが言った。
キオクが、モニターに記憶を二つ並べた。晴れた日に干したバスタオルに、夜、顔をうずめているミコ。雨の週に部屋干しして、生乾きのにおいに眉を寄せているミコ。
ミコは、かごを持ち上げた。
洗濯がしたいわけではなかった。夜、あのふかふかのタオルで顔をふきたかった。それはどちらかというと、楽しみのほうに入る気がした。
洗濯機に全部入れて、洗剤を入れて、ボタンを押した。〈42分〉と表示が出た。
「入れました」とダイジョブが言った。
「入れただけ」とミコは、本部にではなく、自分に向かって小さく言った。「あとは、洗濯機がやる」
シンパイは、〈危険:洗濯〉の横に〈(洗濯機がやる)〉と書いた。
洗濯機が回りはじめたので、ミコは本を読むことにした。
本は、いつもベッドの横の小さな棚に置いてある。
棚には、なかった。
目薬と、ハンドクリームと、去年の手帳はあった。本はなかった。
「本は」とミコは言った。
本部で、キオクがリモコンを押した。モニターの映像が早送りで流れた。十二月の駅の本屋さん。レジで受け取った文庫本。電車でページを開くミコ。しおりの代わりにレシートをはさむミコ。
「最後に見たのは」とキオクは言った。「仕事納めの日の、帰りの電車です。七十八ページに、レシートをはさんでいました」
「そのあとは」
「そのあとは、映っていません」
キオクの記録は、ときどき肝心なところで終わる。
ミコは、玄関の横のフックにかかった生成りのトートを探した。財布。社員証のケース。折りたたみ傘。のど飴。濃紺のお守りは、いつもの内ポケットにいた。本はなかった。
本棚を見た。読み終わった本ばかりだった。
台所のテーブルを見た。郵便物と、はさみと、さっきのみかんの皮。本はなかった。
本部では、シンパイが時計を見ていた。
「〈10:00 何もしない〉の時間です。いま、十時四分です。ミコは、本を探しています」
「何もしない時間に、探しものをしています」とキオクが言った。
「何もしない、が、遅れています」
「本も、どこかで休んでるんですよ」とダイジョブが言った。「何もしない日なので」
「本は、休まなくていいです」とシンパイは言った。
ハラヘッタが、思い出したように言った。
「年末に、おもちを買いに行きました」
「いまは、本の話です」
「おもちを買った日、レシートをコートの右のポケットに入れようとしたら、入りませんでした。何かが、先に入っていて」
本部が静かになった。
キオクがゆっくりリモコンを押した。モニターに、年末のスーパーのレジが映った。おもちの袋。レシートを右のポケットに入れようとして、中の硬いものに指がぶつかり、首をかしげて、レシートを財布にしまうミコ。
「映っていました」とキオクは言った。少し悔しそうだった。
ミコは、玄関のコートかけの前に行った。冬のあいだだけ着る、濃い灰色のウールのコート。ふだん手を入れない、右のポケットを探った。
文庫本が出てきた。
角が少し丸くなっていた。七十八ページには、ちゃんとレシートがはさまっていた。
表紙には、『くじらの背中で朝ごはん』とあった。
「見つかりました」とダイジョブが言った。「おもちのおかげです」
ハラヘッタが、胸を張った。
シンパイは、〈10:00 何もしない〉に線を一本引いた。消したのではなく、その線を矢印にして、〈→ 本を見つけた〉と書いた。
「これは」とシンパイは言った。「何かしたことに、なりますか」
誰も答えなかった。洗面所で、洗濯機が脱水を始めた。
洗濯が終わると、ミコはスウェットの上にコートをはおってベランダに出た。空気が冷たくて、一回肩をすくめた。コートのポケットは、もう軽かった。
物干し竿に、バスタオル二枚とフェイスタオル四枚を並べた。灰色のニットは、平たいネットに寝かせた。靴下は、洗濯ばさみのたくさんついた丸いハンガーに、ぐるりと吊るした。
吊るしながら数えると、十一枚あった。一枚だけ、相手がいなかった。
ミコは、その一枚をしばらく見ていた。片方は、たぶん洗濯機の奥か、ベッドの下か、去年のどこかにいる。
探さなかった。何もしない日だからだ。
部屋に戻ったのは、十一時の少し前だった。ミコはソファに座って、背もたれによりかかり、天井を見た。
〈11:00 何もしない(つづき)〉
本部では、全員が静かにミコを見ていた。
ミコは、何もしなかった。
一分たった。
台所の流しに、ゆうべの茶碗とお箸と湯のみが置いてあるのが見えた。
シンパイのマーカーが、ホワイトボードの上でぴくりと動いた。
「洗いません」とミコは言った。声に出して言った。「あれは、あした洗う」
シンパイは、マーカーのキャップをはめた。
「あした洗う」とシンパイは繰り返した。「了解しました」
ダイジョブが拍手をした。ハラヘッタも、つられて拍手をした。キオクはリモコンを膝に置いて、少しだけ拍手をした。
ネムイは寝ていた。
「いちばん何もしていないのは」とダイジョブがパイプ椅子のほうを見た。「ネムイさんですね」
シンパイはホワイトボードのすみに〈見本〉と書いて、その横に、フードをかぶった小さな丸を描いた。
第三章 くもり、のち、スープカップ
十二時すぎ、外から、のんびりした声が聞こえてきた。
「いしやーきいもー、おいもー」
ハラヘッタが、椅子から立ち上がった。
「焼きいもです」
「聞こえてます」とシンパイが言った。
「焼きいもです!」
声はゆっくり近づいてきて、マンションの前の道で、少し止まったようだった。
ミコは、ソファから半分だけ腰を浮かせた。財布はトートの中にある。コートは椅子の背にかけてある。三階から下までなら、階段で一分もかからない。
本部のホワイトボードに、シンパイがすごい速さで書いた。
〈出かける?〉
〈出かけない日〉
〈でも焼きいも〉
〈でも出かけない日〉
「出かけるんじゃありません」とダイジョブが言った。「下まで行くだけです。下は、まだ、うちみたいなものです」
「うちではありません。道です」
キオクが、リモコンを押した。モニターに、台所の戸棚が映った。切りもちの袋。残り四つ。
ハラヘッタはモニターを見て、ゆっくり椅子に座りなおした。
「……おもちが、あります」
「あります」とキオクは言った。
ミコは、浮かせていた腰をソファに戻した。
「いしやーきいもー」は、少しずつ遠ざかっていった。ミコは、それが聞こえなくなるまでじっと聞いていた。行かなかったのに、焼きいもを一つぶん楽しんだような気がした。
昼ごはんは、ゆうべのみそ汁の残りを温めて、ごはんと一緒に食べた。食べ終わった茶碗は、流しの、あした洗うものの上に重ねた。あした洗うものが、一つ増えた。
十二時五十分、ミコはベランダの窓の前に座布団を置いた。
床はまだ日なたになっていなかった。窓のすぐ内側に、うっすら明るい帯が出はじめているだけだった。
座布団の上に、格子柄のひざ掛けをたたんでのせた。その横に文庫本を置いた。スマートフォンも置いた。ほうじ茶をいれたマグカップも置いた。
準備ができた。
一時になった。
光の四角が、床の上でゆっくり形になりはじめた。窓の桟の影が、四角の中に細い十字を引いていた。
ミコは座布団に座ろうとして、止まった。
四角の右上が、欠けていた。
欠けたところには、別の形の影が入っていた。大きくて四角くて、下のほうがゆらゆら揺れている。
バスタオルだった。
窓の外を見ると、物干し竿のちょうど真ん中あたりに、タオルがずらりと並んで下がっていた。太陽は、その向こうにいた。
本部で、シンパイが〈13:00 光 到着予定〉の横に書いた。
〈到着。ただし、タオル〉
ミコはコートをはおって、もう一度ベランダに出た。洗濯ばさみを外して、タオルを一枚ずつ竿のいちばん端へ寄せて、またとめた。指先が冷たくなった。
部屋に戻ると、四角はほとんどまっすぐになっていた。
左下のほうに、丸いハンガーの影だけが残っていた。吊るされた靴下の影が、一つずつ小さく揺れていた。
ミコはもう一度ベランダに出ようとして、やめた。
靴下の影は、かわいかった。
長いのと、短いのと、つま先が少し曲がったのが、四角の中でゆらゆらしていた。相手のいない一枚は、いちばん端で、ほかよりよく揺れていた。
「影絵ですね」とダイジョブが言った。
「影絵です」とキオクが言った。
シンパイは、〈到着。ただし、タオル〉の下に〈靴下は、可〉と書いた。
ミコは座布団に座った。光が膝に当たって、スウェットの膝がふわっと温かくなった。
文庫本を開いた。七十八ページ。レシートを抜いて、座布団の横に置いた。
一行目を読んだところで、膝の上がすっと暗くなった。
顔を上げると、窓の外の空に大きな雲が来ていた。灰色で、丸くて、のんびりした雲だった。太陽は、その後ろに入っていた。
床の四角は消えていた。靴下の影も、いなくなっていた。
「午後一時ごろから、一時的にくもり」とキオクが言った。「予報どおりです」
「予報どおりでなくて、よかったんですが」とシンパイが言った。
雲は、なかなか動かなかった。
ミコはひざ掛けを膝にかけて、本を読んだ。
読もうとした。七十八ページの続きでは、主人公のハルが、くじらの背中の上で誰かと話していた。その相手が誰なのか、思い出せなかった。
少し前に戻った。七十ページまで戻っても、まだ思い出せない。六十一ページまで戻ったところで、相手は、ハルと一緒にくじらに乗りこんだ郵便屋のトトだとわかった。
「戻りました」とキオクが言った。「十七ページ」
「戻ったぶん、何もしない、が、また遅れています」とシンパイが言った。
「本を読むのは、何もしない、ですか」とダイジョブが聞いた。
シンパイはマーカーを持ったまま考えた。
「……保留です」
ミコは本を膝に伏せた。
音楽も、聴きたかった。
スマートフォンで、このところよく聴いている歌を流した。メモ〈うたいたい(本気)〉の六番目、『ポケットの中の一月』。まだ一回も歌っていない、三分半の歌だった。
いつもは電車の中で、片耳だけイヤホンをして聴いている。今日は、イヤホンなしで、部屋の中で聴きたかった。
再生ボタンを押した。
スマートフォンの小さなスピーカーから、歌が出てきた。
細かった。
ピアノは、遠くで誰かが空き缶をたたいているみたいだった。ベースはほとんど聞こえなかった。歌っている人の声だけが、薄く平べったく鳴っていた。
スマートフォンを持ち上げて耳に近づけると、少しましになった。離すと、また薄くなった。
「お味噌汁が、うすいときみたいです」とハラヘッタが言った。
「イヤホンをすれば、いいのでは」とシンパイが言った。
「部屋で、聴きたいんですよね?」とダイジョブが言った。
ミコはうなずいた。誰も見ていなかったけれど、うなずいた。
キオクが、リモコンを押した。モニターに、いつか見た写真が映った。白いマグカップの中に、スマートフォンが立てて入れてある写真だった。カップがスピーカーの代わりになる、という説明がついていた。
「出典は、不明です」とキオクは言った。「たぶん、インターネットです」
ミコは立ち上がって、台所に行った。
戸棚のいちばん上の段に、口の広い大きな白いカップがあった。スープを入れるためのカップで、冬になるとときどき使う。
それを持って戻り、座布団の横に置いた。スマートフォンを、スピーカーのある下のほうを底に向けて、そっと入れた。
歌が、変わった。
カップの中で、声が丸くなった。ピアノに少し奥行きが出て、ベースが、ぼわんと聞こえるようになった。
本物のスピーカーとは、ぜんぜん違った。カップの底でひびいている、少しこもった音だった。でも、ちゃんと部屋の中に広がった。
ミコはカップをのぞきこんだ。白いカップの中でスマートフォンの画面が光っていて、そこから歌が出てきていた。
ミコは、少し笑った。
「ポケットの中の一月が」とダイジョブが言った。「カップの中の一月になりました」
「うまいこと言いましたね」とハラヘッタが言った。
シンパイは、ホワイトボードに〈スープカップ 使用〉と書き、次に〈洗うもの +1?〉と書いて首をかしげ、〈(スマホしか入れていないので、洗わなくていい)〉と書き足した。
二時を過ぎても、雲はまだいた。
ミコは本を読んだ。今度は、話がちゃんとわかった。トトは、くじらの背中で、配達できなかった手紙の束を一通ずつ読み上げていた。ハルはそれを聞きながら、小さなかまどに火を起こそうとしていた。
カップの中では、歌が一曲終わって次の曲になり、また次の曲になった。
シンパイは、ホワイトボードの時間割を見ていた。
〈13:00〜 光の中で本(何もしない)〉
光はなかった。本はあった。
「半分、達成です」とシンパイは言った。
そのとき、スマートフォンがカップの中でぶるっと震えた。カップが、かたかたかたっと鳴った。ミコはびっくりして本を落とした。
カップから出してみると、ゆかりからのメッセージだった。
〈いま何しよる?〉
ミコは、少し考えた。
〈何もしてない〉
送ってから、もう少し考えて、もう一通送った。
〈けっこう忙しい〉
返事は、すぐに来た。
〈どっち〉
ミコは、カップと、本と、座布団と、ひざ掛けと、窓の外の雲を見た。
〈どっちも〉
ゆかりから、首をかしげた猫のスタンプが届いた。それから、もう一通。
〈わたしは、こたつに負けよる〉
ミコはスマートフォンを、またカップの中に戻した。歌が、また丸くなった。
第四章 光の四角の、なかで
二時二十分、膝の上がぱっと明るくなった。
雲が、窓の右のほうへゆっくり抜けていくところだった。空が、また青くなっていた。
床に、光の四角が戻ってきた。
ただ、戻ってきた場所が違っていた。
四角は、ミコの座っている座布団よりずっと奥にいた。窓から一メートルくらい離れた、ラグのはしと本棚の前のあいだ。ミコが雲を待っているあいだに、見えないまま、そこまで歩いていたのだ。
「一時には、ここにいました」とキオクが言った。「いまは、あそこにいます」
「待っていてくれなかったんですね」とダイジョブが言った。
「光は、待ちません」とシンパイが言って、〈13:00〜〉の横に矢印を書いた。〈→ 移動〉
ミコは、座布団を持ち上げた。
四角の真ん中に座布団を置いた。ひざ掛けを運んだ。本を運んだ。スープカップは、歌が鳴ったまま両手でそっと持ち上げて運んだ。歌が、カップの中で少し揺れた。ほうじ茶のマグカップは、すっかり冷めていた。
全部運び終えて、座った。背中から光が当たった。
それから、ミコは立ち上がった。
「おもち」とハラヘッタが言った。
時計は、二時二十五分だった。時間割では〈15:00 おもち〉だった。
「三十五分、早いです」とシンパイが言った。
「光は、待ちません」とハラヘッタが言った。シンパイの言ったことを、そのまま言った。
シンパイは少し口を開けて、それから閉じた。〈15:00 おもち〉の〈15:00〉を消して、〈いま〉と書いた。
台所の戸棚から、切りもちの袋を出した。年末に買った、一つずつ小袋に入ったもちで、残りは四つ。ミコは二つ出した。
オーブントースターの網に、二つ並べてつまみを回した。トースターの中が、じりじりと赤くなった。
ミコはトースターの前にしゃがんで待った。待ちながら、小皿にしょうゆと砂糖を少しずつ入れてまぜた。
もちは、なかなか変わらなかった。それから、急に変わった。かどが丸くなって、表面にひびが入り、ひびのところから白いものがむくっと持ち上がった。
ふくらんだ。
二つとも、ふくらんだ。右のほうが大きくふくらんだ。ふくらみすぎて、網の目のあいだから、下へとろっと垂れた。
チン、と鳴った。
トースターを開けて、ミコは箸でもちをつまんだ。
左のもちは、すっと持ち上がった。
右のもちは、持ち上がらなかった。網の目にしっかりくっついていた。箸で引っぱると、もちは網から離れないまま、上へ長く伸びた。
伸びて、伸びて、まだ伸びた。
「伸びます」とハラヘッタが、うっとりして言った。
「網に、くっついています」とシンパイが言った。
「伸びます!」

ミコは、伸びたもちを箸で持ったまま、しばらく固まっていた。それからミトンで網ごと引き出して、網の上でもちを少しずつはがした。半分くらいははがれた。半分くらいは網に残った。網の目の形に、白いもちがところどころこびりついた。
キオクがリモコンを押した。モニターに、子どものころの台所が映った。トースターの網に、アルミホイルを敷いている大人の手。
「ホイルです」とキオクは言った。「昔は、ホイルを敷いていました」
「早く言ってください」とシンパイが言った。
「いま、思い出しました」
ミコは引き出しからアルミホイルを出して、網の、もちが残っていないところに小さく敷いた。はがした半分と、袋から出したもう一つを、その上にのせた。
もう一度、つまみを回した。
今度は、ホイルの上でもちがふくらんだ。チン、と鳴ってから箸でつまむと、すっと持ち上がった。ホイルの上には、薄いおこげが少しだけ残った。
砂糖じょうゆにつけて、平たいお皿にのせた。きれいなのが二つと、半分のが一つ。袋の中には、まだ一つ残っている。
網にこびりついたもちは、そのままトースターに戻した。
「あした洗うもの」とシンパイは言って、ホワイトボードのすみに小さく〈網〉と書いた。
光の四角に戻ると、四角はまた少し動いていた。座布団の手前のはしが、もう影に出ていた。
ミコは、座布団を二十センチくらい奥へずらした。お皿をずらした。スープカップをずらした。座布団の上で、ひざ掛けを広げなおした。
それから、座った。
背中に、光が当たった。
スウェットの背中が、じわじわと温かくなった。首のうしろも温かくなった。顎の下の髪の先が、光の中で少し茶色っぽく見えた。
床には、靴下の影が戻ってきていた。さっきより少し長くなって、四角のはしで揺れていた。相手のいない一枚が、やっぱりいちばんよく揺れていた。
スープカップの中では、また『ポケットの中の一月』が始まっていた。何曲かぐるりと回って、最初に戻ってきたのだった。
ミコは、もちを一つ取ってかじった。
外側はぱりっとしていた。中は熱くて、やわらかかった。砂糖じょうゆが、甘くて、しょっぱかった。もう一口かじると、もちが長く伸びた。今度は網からではなく、ミコの口から伸びていた。
伸びたもちを箸でたぐりながら、ミコは文庫本を開いた。もちを持っていないほうの手で、ページをめくった。指に砂糖じょうゆがついていないか、一回確かめてからめくった。
ハルは、くじらの背中で、ちょうど朝ごはんを作っているところだった。焼きあがったパンを、トトと二人で分けていた。海の上は寒い。でも、くじらの背中は日に当たって温かい、と書いてあった。
ミコは、背中の温かさを感じながら、そこを読んだ。
本部では、誰もしゃべっていなかった。
シンパイはマーカーを持ったままホワイトボードの前に立っていて、何も書いていなかった。ダイジョブは腕を組んで、モニターに映る光の四角を見ていた。ハラヘッタはモニターのもちを見ていて、ときどき自分も口を動かしていた。キオクは、リモコンを膝の上に置いていた。何も再生していなかった。モニターには、いまの302号室がそのまま映っていた。
半分のもちを最後に食べた。お皿には、砂糖じょうゆの線だけが残った。
百十ページを過ぎたあたりで、ミコは、ときどき文字が二重に見えることに気づいた。
背中が温かかった。膝のひざ掛けも温かかった。カップの中の歌は、ちょうどゆっくりした曲になっていた。
ミコは本を開いたまま胸の上にのせて、座布団からずり落ちるようにラグの上に横になった。頭は座布団にのった。足は光の中にあった。
まぶたの裏が、オレンジ色だった。
本部の照明が、少し暗くなった。
パイプ椅子のほうで、もぞもぞと音がした。
ネムイが、濃紺のフードを少し持ち上げて起き上がった。今日初めてだった。のびをして、あくびをした。
「……やっと、わたしの番ですね」
ネムイはホワイトボードの前まで歩いていって、シンパイの手から、そっとマーカーを取った。キャップをはめた。それから、壁の照明のスイッチを、ぱちん、と切った。
本部が暗くなった。
暗い中で、ダイジョブの小さな声がした。
「見本の人が、来ましたね」
誰も返事をしなかった。
目が覚めたのは、三時四十分だった。
ミコは天井を見ていた。しばらく、どこにいるのかわからなかった。床の上に寝ているのだと気づいた。胸の上で、文庫本が百十二ページを開いたままのっていた。
足が少し寒かった。
起き上がると、光の四角は、もう床にはいなかった。本棚の横の白い壁の上にいた。ずいぶん細長くなっていて、色も昼間の白っぽい色から、みかんの皮のような色に変わっていた。
靴下の影は、もうなかった。壁の上までは、さすがに届かないらしかった。
スープカップの中では、まだ歌が鳴っていた。何周したのかは、わからなかった。
ミコはラグの上に座りなおして、壁の四角を見た。
四角は、見ているあいだにも少しずつ上っていった。本棚のてっぺんと同じくらいの高さになって、細くなって、もっと細くなった。
最後は、一本の線になった。
線が、消えた。
向かいのマンションの屋根に、太陽が隠れたのだった。外は、まだ明るかった。
ミコは、四角のいなくなった壁をしばらく見ていた。
最初の一時間は、雲にとられた。途中で置いていかれた。いちばんいいところは、寝ていて見ていない。
それでも、最初から最後まで見た、という気がした。
スープカップからスマートフォンを出して、音楽を止めた。部屋が急に静かになった。
窓の外で、洗濯物が揺れていた。タオルは竿のいちばん端に並んでいて、灰色のニットは平たいネットの上で寝ていた。丸いハンガーの靴下は、風が吹くたびに、くるりと回った。
本部の照明が、ついた。
シンパイはネムイからマーカーを返してもらって、ホワイトボードの前に立った。
「十五時四十三分です」とシンパイは言った。「洗濯物を取りこむ時間です。冬の夕方は冷えて、湿気が戻ります」
「それは、そうです」とキオクが言った。
ミコは立ち上がって、ベランダの窓に手をかけた。
それから、床の上の文庫本を見た。
百十二ページ。ハルとトトが朝ごはんを食べ終わって、くじらが次の海へ向かって、ゆっくり向きを変えはじめるところだった。章の終わりが近い。あと一ページで、章が終わる。
ミコは、窓から手を離した。
座布団に座りなおして、本を拾った。
本部で、シンパイが、マーカーを持ったまま何か言いかけた。
ダイジョブが、その肩にぽんと手を置いた。
ミコは百十二ページを読んだ。めくって、百十三ページを読んだ。章が終わった。くじらは、向きを変え終わっていた。
座布団の横に置いていたレシートを拾って、百十四ページにはさんだ。
洗濯物には、一ページぶん待ってもらった。
ミコは、今度こそ窓を開けた。冷たい空気が、足もとから入ってきた。サンダルをはいてベランダに出て、竿の端からバスタオルを一枚はずした。
腕に抱えると、まだ少しだけ温かかった。
ミコは、そこに顔をうずめた。
日なたのにおいがした。
流しの茶碗と湯のみと、トースターの網は、あしたの係だった。


