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坂の上シネマ第9話
日常ミステリー

パンフレットは、二冊とも

先に読む人と、観てから読む人。最後の場面が、食い違った。

読了目安
19分
長さ
短編
#謎解き#映画館#あったかい
パンフレットは、二冊とものイメージ

あらすじ

映画を知らないまま楽しみたい高校生のひよりと、先にパンフレットを読んで安心して観たい常連の澄江。同じ回を観たあと、二人が覚えていた最後の夜の場面が食い違っていた。舟を漕いでいたのはだれで、向こう岸の灯りを振っていたのはだれか。ひよりは二冊を閉じて、自分が本当に見たことを確かめはじめる。映画のあとにも楽しみが続く、坂の上シネマ第9話。

一 先に読む人

二月の最後の土曜日、ひよりが坂の上シネマのガラスの扉を押したのは、二時十分だった。

父の店の手伝いを一時半に終えて、坂を半分走るようにしてのぼってきた。紺のコートの下で、生成りのニットが少し汗ばんでいる。斜めがけの小さな鞄の財布には、二千円。映画の日のための二千円だ。

ロビーのコルクボードには、二週間前から同じポスターが貼ってあった。『川向こうの合図』。夜の黒い川の上に、黄色い光が輪をひとつ描いている。ひよりはこの二週間、学校の帰りに何度か坂をのぼって、この輪を見上げていた。

ベンチには、もう柴田澄江が座っていた。からし色のカーディガンの膝に布の手提げをのせて、薄い冊子を腕をいっぱいにのばして読んでいる。表紙に、ポスターと同じ光の輪があった。

「もう、買ったんですか」

「買ったわよ。表紙がきれいだったから」澄江は冊子を下ろさずに言った。「いま、あらすじのところ。この映画ね、渡し舟の……」

「言わないでください」

ひよりは両手で耳をふさいだ。澄江は冊子の上から目だけをのぞかせて、笑った。

「わたしは、先に読むの。どこで何が起きるかわかっていると、安心して泣けるから」

「わたしは、知らないで泣きたいです」

「若いわねえ」

「柴田さんは、いつも先に読む派なんですか」

「パンフレットを買うときはね。毎回は買わないもの」澄江はページを一枚めくった。「このあらすじ、ずいぶん先まで書いてあるわよ」

ひよりはもう一度耳をふさいで、受付へ逃げた。

河合悠が、紺のカーディガンの腕で座席表を引き寄せた。黒縁の眼鏡の奥で、目がE列の左の端に一度止まる。そこには、いつもの鉛筆の印がついていた。

「十四時半の回、一枚。高校生です」

「お席は」

ひよりは座席表をのぞきこんだ。D1は空いていた。でも今日は、画面の右の端まで、川の向こうまで、まっすぐ見たかった。

「D8で」

「真ん中より、少し右ですね」河合は千円札を受けとって、券を一枚出した。

売店では、三浦灯が深緑のエプロンをつけて、ガラスケースの上に冊子を積みなおしていた。表紙の光の輪が、黄色い電球の下で同じ向きに並んでいる。脇に〈パンフレット 八百円〉の白いカード。ケースの端には、二週間前の会で生まれた黄色い紙の怪獣が、まだ首をかしげて立っていた。

「ひよりちゃん、パンフは?」

「おもしろかったら、帰りに買います」ひよりは財布を開けて、残りの千円札を確かめた。「だから今日は、ポップコーンなしです」

「厳しい」

「あと千円しかないので。パンフが八百円で、残りは二百円です」

灯は、ふうん、という顔をして、冊子の山を手で軽くたたいた。「じゃあ、一冊とっとこうか」

「いいんですか」

「まだたくさんあるから、たぶん大丈夫だけど。念のため」

灯は一冊を山から抜いて、ケースの内側の棚に立てた。ひよりは、その表紙の輪をなるべく見ないようにして、客席の扉へ向かった。

二時二十分、河合が扉の前で券の端をちぎった。

客席は三分の一ほど埋まっていた。D8に座ってから振り返ると、E列の左の端で、澄江がまだ冊子を開いていた。客席の明かりが少し暗くなったところで、澄江はちぎってもらった半券を冊子のあいだにはさみ、ぱたんと閉じて、手提げにしまった。

ひよりは前を向いた。何も知らないまま、スクリーンが明るくなるのを待った。

二 川向こうの合図

『川向こうの合図』は、冬の川の話だった。

黒瀬川という幅の広い川には、橋がなかった。川下で新しい橋の工事が進んでいて、三月の終わりに開通する。そうしたら、小さな渡し舟はおしまいになる。

渡し守は千代という、背の小さなおばあさんだった。綿入れの上着を着て、とがった菅笠をかぶり、毎日、川を行ったり来たりしている。小屋と舟着き場は、こちら岸にあった。

ハルは十一歳の男の子で、冬のあいだだけ、こちら岸の叔母の家に預けられていた。学校は川の向こう岸にある。朝は千代の舟で渡り、夕方は向こう岸から合図をして、迎えにきてもらう。ハルはいつも黄色い雨合羽を着ていた。灰色の川べりで、そこだけがぽつんと明るかった。

最初の夕方、向こう岸の舟着き場で、千代はハルに柱の灯りを持たせた。

「迎えがほしけりゃ、これを振れ。大きく、丸く」千代は灯りで、ゆっくりと輪を描いてみせた。「横に振るのは、ただの慌て者だ」

それなのに次の夕方、ハルは灯りを横に、ぶんぶん振った。千代はこちら岸の小屋の前で、「慌て者が呼んどる」とつぶやいて、それでも舟を出した。その次の日も、ハルは横に振った。三回目で、客席のあちこちから笑い声が上がった。ひよりも笑った。

日曜日には、舟の稽古があった。小屋の横の杭に、古い小さな練習舟が長い綱でつないである。千代は自分の菅笠を脱ぐと、ハルの頭にかぶせた。

「漕ぐ者が、かぶるもんだ」

笠は大きすぎて、ハルの目の上までずり落ちた。ハルが櫂を動かすと、練習舟はまっすぐには進まず、ゆっくり右へふくらんでいった。綱がぴんと張って、舟が止まる。

「右へ曲がるのは、おまえの癖だな」

もう一度やっても、右へ曲がった。三度目も右だった。千代は岸で腕を組んで、ほんの少しだけ口の端を上げた。客席がまた笑った。

ひよりが息を止めたのは、みぞれの日の場面だった。

千代は濡れながら舟を漕いで、こちら岸に着くと、ひどく咳きこんだ。ハルは黙って黄色い雨合羽を脱ぐと、千代の肩にかけた。千代は脱いで返そうとしたけれど、ハルは受けとらずに、走って帰ってしまった。

次の朝、千代は合羽をきちんとたたんで、舟の座板に置いていた。ハルが手をのばすと、千代はその上に、自分のしわだらけの手をのせた。

「橋ができたら、橋を渡って返しに行く。それまで、借りとく」

ひよりは、膝の上で両手を握った。

冬が終わりかけて、橋の足場が一本ずつ外されていった。最後の日の昼、ハルは千代に「一回だけ、本物の舟を漕がせて」と頼んだ。千代は「まだ早い」と言って、櫂を渡さなかった。夕方、千代は橋の工事の人たちを乗せて、向こう岸へ渡っていった。

それから、夜になった。

画面は、暗い川をずっと遠くから映していた。向こう岸に、小さな灯りがひとつ。灯りはゆっくりと、大きく、丸い輪を描いていた。その下で、黄色いものが揺れている。

こちら岸から、舳先に灯りをつけた小さな舟が、黒い水の上を進んでいった。舟の上に、とがった笠の影がひとつ。舟の灯りと、川に映ったもうひとつの灯りが、並んで、少しずつ右へふくらみながら向こう岸へ近づいていく。

丸く振れてる、とひよりは思った。

黄色いのはハルで、笠は千代さんだ。ハル、ちゃんと丸く振れるようになったんだ。最後の最後に。そう思ったとたん、目の奥が熱くなった。舟がゆらゆら曲がっていくのは、夜の川の流れのせいだろう。せりふは、ひとつもなかった。

次の朝、新しい橋の上を、たくさんの人が歩いていた。橋のまんなかで、千代がハルを待っていた。千代は、たたんだ黄色い雨合羽を両手で差しだした。

「橋ができたら、と言ったろう」

ハルは合羽を胸に抱えて、叔母といっしょに駅のほうへ歩いていった。千代は欄干から、下の川を見ていた。杭につながれた舟が、水の上で小さく揺れていた。

ひよりは、そこで泣いた。エンドロールのあいだも、ずっと座っていた。明かりがつくまで、そのまま。

四時十五分、客席の明かりが、ゆっくりと戻ってきた。

三 二冊並べて

ロビーに出ると、ひよりはまっすぐ売店へ行った。

灯はひよりの目を見て、何も聞かずに、棚の一冊を出した。ひよりは千円札を出して、百円玉を二枚受けとった。

ベンチの左の端に座って、ひよりは表紙を開いた。あらすじのページは飛ばした。ぱらぱらとめくって、まんなかあたりで手を止める。

見開きいっぱいに、あの夜の川が載っていた。黒い水と、向こう岸の灯りの輪と、その下の小さな黄色。右のページの下の隅に、白い字で一行。

〈対岸で灯りを振る、ハルの黄色い雨合羽〉

やっぱり、とひよりは思った。

「ずいぶん、泣いたのね」

澄江がいつのまにか、ベンチの右に座っていた。明かりがつくまで座っていて、最後のほうに出てきたのだろう。手提げから、さっきの冊子を出している。

「泣きました。最後、ハルがちゃんと丸く振れてて」

澄江は、冊子を開きかけた手を止めた。

「振ってたのは、千代さんでしょう」

「え」

「漕いでたのがハル。最後の晩に、ハルがはじめて舟を漕いで、千代さんを迎えにいくのよ」

「違います。漕いでたのは千代さんです。笠、かぶってたし」ひよりは膝の上の見開きを澄江のほうへ向けて、隅の白い字を指でさした。「ほら。ハルの、黄色い雨合羽」

澄江は腕をのばして、その一行を遠くから読んだ。それから自分の冊子を開いた。半券のはさまっていたところが、ひとりでに開いた。左のページに昼の川の写真。千代がハルの頭に、大きな笠をかぶせている。右のページが、あらすじだった。澄江は最後の段落を、指でなぞった。

〈最後の晩、向こう岸へ渡ったまま戻らない千代が、灯りを大きく丸く振る。ハルは練習舟の綱をほどく。〉

ひよりは、それを二度読んだ。

「……わたしのと、違う」

二人は、冊子をベンチの上に並べて置いた。左に、ひよりの夜の見開き。右に、半券のはさまった澄江のあらすじ。同じ表紙の、同じ八百円の冊子だった。

ベンチに並べた二冊のパンフレット。左の夜の川の写真と、半券をはさんだ右の昼の写真とあらすじを二人で見比べる

「刷った時期が違う、とか」とひよりは言った。「あとから、どこか直したとか」

「わたしのは、上映の前に買ったのよ。ひよりちゃんのは、いまでしょう」

ひよりは自分の冊子を手にとって、ページを前へ戻した。あらすじの見開き。昼の川の、笠の写真。最後の段落に指をすべらせる。

〈最後の晩、向こう岸へ渡ったまま戻らない千代が、灯りを大きく丸く振る。〉

同じだった。澄江も自分の冊子のまんなかを開いた。夜の川の見開き。隅の白い字。〈対岸で灯りを振る、ハルの黄色い雨合羽〉。

「二冊とも、同じね」

「じゃあ、一冊の中で、言ってることが違うんだ」

客席の扉の横の細い階段から、河合が下りてきた。十八時半の回まで、映写室の仕事はしばらくない。

「河合さん」ひよりは手招きした。「最後の夜の川、窓から見ました?」

「最後は毎回見ます。終わりを確かめるので」河合はベンチの前にかがんで、並んだ二冊を見下ろした。「窓からだと、小さいですけど」

「舟を漕いでたのは、だれですか」

「千代さんでしょう」河合はすぐに答えた。「笠をかぶっていました。あの笠は、ずっと千代さんのですから」

ひよりは澄江を見た。澄江は、あらすじの段落を見ていた。

「でも、ここには」

「あらすじは、撮る前の台本をもとに書くこともあるそうです」と河合は言った。「前にかけた映画で、あらすじにある場面が、本編のどこにもなかったことがありました。撮ったけれど、切ったんでしょうね」

「じゃあ、写真の説明のほうが、できあがった映画を見て書いたのかも」とひよりは言った。

澄江は、しばらく黙っていた。それから膝の上で、冊子をそっと閉じた。

「わたし、先に読んでしまったから」と澄江は言った。「千代さんが振るんだと思って見ていたのよ。だから、そう見えただけかもしれないわね」

二対一になった。

勝ったはずなのに、ひよりは少しも勝った気がしなかった。河合が言ったことは、河合の窓から見えたことだ。写真の説明は、知らないだれかが書いた一行だ。ひより自身は、あの暗い川で、何を見ていたのだろう。

四 右へ、ふくらむ

「あの」とひよりは言った。「パンフ、閉じてもいいですか。二冊とも」

澄江と河合が、ひよりを見た。

「書いてあることを見ながらだと、そっちに引っぱられるので。見たことだけ、書いてみたいんです。三人とも、べつべつに」

「書く紙は?」と澄江が言った。

売店のほうから、灯が値札用の白いカードを三枚と、鉛筆を一本持ってきた。さっきから、話は聞こえていたらしい。

「鉛筆、一本しかないけど」

「わたし、持ってるわ」澄江は手提げから、半券帳にはさんであった鉛筆を出した。河合は胸のポケットからボールペンを抜いた。

三人は、ロビーのばらばらの場所に散った。ひよりはベンチ、澄江はコルクボードの前、河合は受付のカウンター。灯は売店から、三人を順番に眺めていた。

ひよりは目を閉じた。暗い川。向こう岸の灯り。輪。黄色。舟。舟の灯り。水に映った、もうひとつの灯り。

書き終えた三枚を、ベンチに並べた。

河合のカード。〈舟の上に、笠の形。漕いでいる〉

澄江のカード。〈灯りが、大きく丸く回っていた。きれいだった〉

ひよりのカード。〈向こう岸に黄色。灯りが輪を描く。舟の灯りが、右へふくらみながら進む〉

「舟のことは、書いてないんですね」とひよりは澄江のカードを見た。

「見てなかったのよ」澄江はあっさり言った。「ずっと灯りの輪を見てた。千代さんが振ってるって知ってたから、千代さんばかり見てたの。舟のほうは、ろくに見てないわ」

河合が、自分のカードを指で押さえた。「笠は、たしかに見ました」

「はい。わたしも見ました」とひよりは言った。「でも、あの笠」

ひよりは、日曜の稽古の場面を思い出していた。千代が自分の笠を脱いで、ハルにかぶせる。目の上までずり落ちる、大きすぎる笠。

「漕ぐ者が、かぶるもんだ、って」

河合が、あ、という顔をした。

「笠は、千代さんだけの目印じゃなくて」ひよりは続けた。「漕ぐ役の目印なんです。だから、笠を見ても、だれが漕いでたかはわからない」

「……いつも最初に、千代さんの頭にあるので」河合は眼鏡を押し上げた。「千代さんの持ち物だと、思いこんでいました」

ひよりは、自分のカードを見下ろした。

舟の灯りが、右へふくらみながら進む。

書いたのは、自分だった。川の流れのせいだと思っていた。けれど、映画の中で舟が右へふくらむところを、ひよりはその前にも見ていた。日曜の稽古で。綱がぴんと張るまで、何度でも。

「右へ曲がるのは、おまえの癖だな」

口に出すと、澄江が顔を上げた。

「みんなが笑ったところね」

「三回とも、右でした」とひよりは言った。「最後の舟も、右にふくらんでたんです。わたし、流れのせいだと思って」

声が、少し小さくなった。ハルがやっと丸く振れるようになった、最後の最後の合図。ひよりが泣いたのは、そういう場面のはずだった。

「でも、川の流れかもしれないわよ」と澄江が言った。ひよりの顔を見て言ってくれたのが、わかった。「どっち向きに流れていたかなんて、わたし、覚えてないもの」

ひよりはうなずきかけて、やめた。

「舟だけなら、そうかもしれないです」

澄江は自分のカードを、しばらく見ていた。それから、ゆっくり言った。

「合羽は、次の朝、橋の上で返したのよね」

「はい」ひよりの目の奥が、また熱くなった。いちばん泣いたところだ。「橋ができたら、橋を渡って返しに行く、って」

「それまで、借りとく、って」と澄江が言った。

ひよりは口を開けて、閉じた。

千代が合羽を返したのは、橋が開いた朝だった。その前の晩、黄色い雨合羽は、まだ千代のところにあった。

向こう岸で、灯りの下で揺れていた黄色。

ひよりは自分の冊子を開いた。まんなかの、夜の見開き。隅の白い字を、指でゆっくりたどった。

〈対岸で灯りを振る、ハルの黄色い雨合羽〉

「ハルの、雨合羽」

ハルが、ではなかった。ハルの、だった。

「書いた人、うそ、ついてないですね」とひよりは言った。「合羽は、ハルのです」

河合がひよりの手もとをのぞきこんで、もう一度、眼鏡を押し上げた。「台本どおりのあらすじ、でもなかったわけですね。本編も、あらすじと同じことをしていた。こちらが見ていなかっただけで」

「わたしも見てなかったわよ」と澄江が言った。「読んだとおりに、見たつもりになってただけ」

ひよりは、二冊を並べなおした。左に自分の、夜の見開き。右に澄江の、あらすじと昼の笠の写真。

向こう岸で、ハルの合羽を着た千代が、灯りを丸く回している。こちら岸で、千代の笠をかぶったハルが、練習舟の綱をほどく。右へ、右へとふくらみながら、向こう岸へ漕いでいく。

「千代さん、自分の舟で帰れたのに」とひよりは言った。

澄江が、ひよりを見た。

「工事の人を送っていって、舟は向こう岸にあったんだから。帰ろうと思えば、自分で帰れたんです。でも、合図した。いつもハルにさせてたのと、反対に」

「本物の舟は、まだ早いって言ったのにね」と、売店から灯が言った。

「だから、練習舟なんです。綱をほどいて」

澄江は自分の冊子を開いて、あらすじの最後の行を、もう一度読んだ。腕をいっぱいにのばして。

「わたし、書いてあることは読んだのに」と澄江は言った。「どうして千代さんが戻らなかったのかは、ちっとも考えなかったわ。先に知ってると安心して泣けるけど、安心しすぎるのね」

「じゃあ、ハルは」ひよりは言いかけて、急に吹きだした。「ハル、最後まで丸く振れなかったんですね」

「あら。そうね」

「振ったのは千代さんで、ハルは一回も、ちゃんと振れないまま」

「慌て者のまま、帰っちゃったのね」

ひよりは笑いながら、目もとを指でこすった。さっき泣いたのとは、違うところが熱かった。

五 パンフレットは、二冊とも

灯がエプロンのポケットに手を入れたまま、ベンチの前まで来た。

「で、結局。どっちのパンフが合ってたの」

ひよりと澄江は、顔を見合わせた。

「二冊とも、です」とひよりは言った。

「二冊とも、ね」と澄江が言った。

灯は首をかしげた。「同じパンフでしょう」

「同じなんですけど」ひよりは、並んだ二冊を指でさした。「一冊だと、あらすじか夜の写真か、片方しか開けないので」

灯は二冊を見下ろして、しばらく黙っていた。それから、ふうん、と言った。最初のふうんとは、少し違う声だった。

売店のガラスケースの上に、上映のあとの茶色い紙袋が並びはじめていた。〈黒糖とスパイス〉のシール。澄江が立って、一袋買った。戻ってくると、ベンチのまんなかで口を開けた。

「ロビーなら、いいわよね」

「ロビーなら」と灯が言った。

澄江が袋をひよりのほうへ傾けた。ひよりは財布の百円玉を二枚、思わず握った。

「二百円は、来週の分にとっておきなさい」と澄江は言った。「話し相手の、お礼」

「話し相手だったの、わたしのほうです」

「じゃあ、おあいこで」

黒糖をまとったポップコーンは、かむと大きな音がした。客席に持ちこまない、帰り道の味だ。ひよりは一粒ずつ、遠慮なく鳴らした。

ロビーのベンチで、開いた二冊のパンフレットを脇に、ひよりと白髪の澄江が一袋の黒糖ポップコーンを分けて笑う

河合は受付に戻って、座席表を引き寄せた。十八時半の回の印が、まだまばらだった。

「今夜の回で、舟を見ます」と河合は言った。「笠の下を」

「笠の下は、見えないですよ。遠いし、暗いし」

「探す人は、探します」河合は眼鏡を押し上げた。「右へ曲がるかどうかなら、窓からでもわかるはずです」

ひよりはコートのポケットから、自分の半券を出した。D-8。ちぎられた端のぎざぎざを指でなでてから、まんなかの夜の見開きにはさんだ。澄江の半券は、あらすじのページにはさまったままだ。二冊を閉じると、はみだした半券の端が、ちがう高さに一枚ずつ見えた。

「来週、もう一回観ます」とひよりは言った。「今度は、舟だけ見ます」

「お金は」

「パンフはもう持ってるので。千円で観て、ポップコーンの塩の小が買えます」

「贅沢ね」澄江は笑った。「わたしも来るわ。今度は、舟を見るの。灯りの輪は、もう知ってるから」

「笠をかぶったハルが、どれくらい右へ曲がるか」

「数えましょうか」

「数えないでください」とひよりは言った。「見てるだけで、いいです」

「パンフも持ってきてね」と澄江が言った。「並べて読むから」

「持ってきます。二冊とも、要るので」

ひよりはコートのボタンを留めて、斜めがけの鞄をかけた。それから、もう一度だけ、二冊をベンチに開いて並べた。

左の冊子では、向こう岸で黄色い合羽が、灯りの輪の下で揺れていた。右の冊子では、昼の川べりで、千代がハルの頭に大きな笠をかぶせていた。一冊ずつなら、川の片側ずつだった。並べると、黒瀬川の両岸がそろった。

「こうすると、ちょうど全部見えますね」

「一冊じゃ、だめね」と澄江が言った。

ひよりは自分の冊子を閉じて、鞄にしまった。半券の端が、鞄の口から少しのぞいていた。

ガラスの扉を押して外へ出ると、坂の下から冷たい風がのぼってきた。夕方の商店街に、明かりがひとつずつ灯りはじめていた。ひよりは坂の途中で立ちどまって、鞄の紐を片手で持ち、小さく丸く回してみた。

一回目は、少し横にぶれた。

二回目で、ちゃんと輪になった。ひよりはひとりで笑って、来週の土曜日のことを考えながら、坂を下りていった。