一 先に読む人
二月の最後の土曜日、ひよりが坂の上シネマのガラスの扉を押したのは、二時十分だった。
父の店の手伝いを一時半に終えて、坂を半分走るようにしてのぼってきた。紺のコートの下で、生成りのニットが少し汗ばんでいる。斜めがけの小さな鞄の財布には、二千円。映画の日のための二千円だ。
ロビーのコルクボードには、二週間前から同じポスターが貼ってあった。『川向こうの合図』。夜の黒い川の上に、黄色い光が輪をひとつ描いている。ひよりはこの二週間、学校の帰りに何度か坂をのぼって、この輪を見上げていた。
ベンチには、もう柴田澄江が座っていた。からし色のカーディガンの膝に布の手提げをのせて、薄い冊子を腕をいっぱいにのばして読んでいる。表紙に、ポスターと同じ光の輪があった。
「もう、買ったんですか」
「買ったわよ。表紙がきれいだったから」澄江は冊子を下ろさずに言った。「いま、あらすじのところ。この映画ね、渡し舟の……」
「言わないでください」
ひよりは両手で耳をふさいだ。澄江は冊子の上から目だけをのぞかせて、笑った。
「わたしは、先に読むの。どこで何が起きるかわかっていると、安心して泣けるから」
「わたしは、知らないで泣きたいです」
「若いわねえ」
「柴田さんは、いつも先に読む派なんですか」
「パンフレットを買うときはね。毎回は買わないもの」澄江はページを一枚めくった。「このあらすじ、ずいぶん先まで書いてあるわよ」
ひよりはもう一度耳をふさいで、受付へ逃げた。
河合悠が、紺のカーディガンの腕で座席表を引き寄せた。黒縁の眼鏡の奥で、目がE列の左の端に一度止まる。そこには、いつもの鉛筆の印がついていた。
「十四時半の回、一枚。高校生です」
「お席は」
ひよりは座席表をのぞきこんだ。D1は空いていた。でも今日は、画面の右の端まで、川の向こうまで、まっすぐ見たかった。
「D8で」
「真ん中より、少し右ですね」河合は千円札を受けとって、券を一枚出した。
売店では、三浦灯が深緑のエプロンをつけて、ガラスケースの上に冊子を積みなおしていた。表紙の光の輪が、黄色い電球の下で同じ向きに並んでいる。脇に〈パンフレット 八百円〉の白いカード。ケースの端には、二週間前の会で生まれた黄色い紙の怪獣が、まだ首をかしげて立っていた。
「ひよりちゃん、パンフは?」
「おもしろかったら、帰りに買います」ひよりは財布を開けて、残りの千円札を確かめた。「だから今日は、ポップコーンなしです」
「厳しい」
「あと千円しかないので。パンフが八百円で、残りは二百円です」
灯は、ふうん、という顔をして、冊子の山を手で軽くたたいた。「じゃあ、一冊とっとこうか」
「いいんですか」
「まだたくさんあるから、たぶん大丈夫だけど。念のため」
灯は一冊を山から抜いて、ケースの内側の棚に立てた。ひよりは、その表紙の輪をなるべく見ないようにして、客席の扉へ向かった。
二時二十分、河合が扉の前で券の端をちぎった。
客席は三分の一ほど埋まっていた。D8に座ってから振り返ると、E列の左の端で、澄江がまだ冊子を開いていた。客席の明かりが少し暗くなったところで、澄江はちぎってもらった半券を冊子のあいだにはさみ、ぱたんと閉じて、手提げにしまった。
ひよりは前を向いた。何も知らないまま、スクリーンが明るくなるのを待った。
二 川向こうの合図
『川向こうの合図』は、冬の川の話だった。
黒瀬川という幅の広い川には、橋がなかった。川下で新しい橋の工事が進んでいて、三月の終わりに開通する。そうしたら、小さな渡し舟はおしまいになる。
渡し守は千代という、背の小さなおばあさんだった。綿入れの上着を着て、とがった菅笠をかぶり、毎日、川を行ったり来たりしている。小屋と舟着き場は、こちら岸にあった。
ハルは十一歳の男の子で、冬のあいだだけ、こちら岸の叔母の家に預けられていた。学校は川の向こう岸にある。朝は千代の舟で渡り、夕方は向こう岸から合図をして、迎えにきてもらう。ハルはいつも黄色い雨合羽を着ていた。灰色の川べりで、そこだけがぽつんと明るかった。
最初の夕方、向こう岸の舟着き場で、千代はハルに柱の灯りを持たせた。
「迎えがほしけりゃ、これを振れ。大きく、丸く」千代は灯りで、ゆっくりと輪を描いてみせた。「横に振るのは、ただの慌て者だ」
それなのに次の夕方、ハルは灯りを横に、ぶんぶん振った。千代はこちら岸の小屋の前で、「慌て者が呼んどる」とつぶやいて、それでも舟を出した。その次の日も、ハルは横に振った。三回目で、客席のあちこちから笑い声が上がった。ひよりも笑った。
日曜日には、舟の稽古があった。小屋の横の杭に、古い小さな練習舟が長い綱でつないである。千代は自分の菅笠を脱ぐと、ハルの頭にかぶせた。
「漕ぐ者が、かぶるもんだ」
笠は大きすぎて、ハルの目の上までずり落ちた。ハルが櫂を動かすと、練習舟はまっすぐには進まず、ゆっくり右へふくらんでいった。綱がぴんと張って、舟が止まる。
「右へ曲がるのは、おまえの癖だな」
もう一度やっても、右へ曲がった。三度目も右だった。千代は岸で腕を組んで、ほんの少しだけ口の端を上げた。客席がまた笑った。
ひよりが息を止めたのは、みぞれの日の場面だった。
千代は濡れながら舟を漕いで、こちら岸に着くと、ひどく咳きこんだ。ハルは黙って黄色い雨合羽を脱ぐと、千代の肩にかけた。千代は脱いで返そうとしたけれど、ハルは受けとらずに、走って帰ってしまった。
次の朝、千代は合羽をきちんとたたんで、舟の座板に置いていた。ハルが手をのばすと、千代はその上に、自分のしわだらけの手をのせた。
「橋ができたら、橋を渡って返しに行く。それまで、借りとく」
ひよりは、膝の上で両手を握った。
冬が終わりかけて、橋の足場が一本ずつ外されていった。最後の日の昼、ハルは千代に「一回だけ、本物の舟を漕がせて」と頼んだ。千代は「まだ早い」と言って、櫂を渡さなかった。夕方、千代は橋の工事の人たちを乗せて、向こう岸へ渡っていった。
それから、夜になった。
画面は、暗い川をずっと遠くから映していた。向こう岸に、小さな灯りがひとつ。灯りはゆっくりと、大きく、丸い輪を描いていた。その下で、黄色いものが揺れている。
こちら岸から、舳先に灯りをつけた小さな舟が、黒い水の上を進んでいった。舟の上に、とがった笠の影がひとつ。舟の灯りと、川に映ったもうひとつの灯りが、並んで、少しずつ右へふくらみながら向こう岸へ近づいていく。
丸く振れてる、とひよりは思った。
黄色いのはハルで、笠は千代さんだ。ハル、ちゃんと丸く振れるようになったんだ。最後の最後に。そう思ったとたん、目の奥が熱くなった。舟がゆらゆら曲がっていくのは、夜の川の流れのせいだろう。せりふは、ひとつもなかった。
次の朝、新しい橋の上を、たくさんの人が歩いていた。橋のまんなかで、千代がハルを待っていた。千代は、たたんだ黄色い雨合羽を両手で差しだした。
「橋ができたら、と言ったろう」
ハルは合羽を胸に抱えて、叔母といっしょに駅のほうへ歩いていった。千代は欄干から、下の川を見ていた。杭につながれた舟が、水の上で小さく揺れていた。
ひよりは、そこで泣いた。エンドロールのあいだも、ずっと座っていた。明かりがつくまで、そのまま。
四時十五分、客席の明かりが、ゆっくりと戻ってきた。
三 二冊並べて
ロビーに出ると、ひよりはまっすぐ売店へ行った。
灯はひよりの目を見て、何も聞かずに、棚の一冊を出した。ひよりは千円札を出して、百円玉を二枚受けとった。
ベンチの左の端に座って、ひよりは表紙を開いた。あらすじのページは飛ばした。ぱらぱらとめくって、まんなかあたりで手を止める。
見開きいっぱいに、あの夜の川が載っていた。黒い水と、向こう岸の灯りの輪と、その下の小さな黄色。右のページの下の隅に、白い字で一行。
〈対岸で灯りを振る、ハルの黄色い雨合羽〉
やっぱり、とひよりは思った。
「ずいぶん、泣いたのね」
澄江がいつのまにか、ベンチの右に座っていた。明かりがつくまで座っていて、最後のほうに出てきたのだろう。手提げから、さっきの冊子を出している。
「泣きました。最後、ハルがちゃんと丸く振れてて」
澄江は、冊子を開きかけた手を止めた。
「振ってたのは、千代さんでしょう」
「え」
「漕いでたのがハル。最後の晩に、ハルがはじめて舟を漕いで、千代さんを迎えにいくのよ」
「違います。漕いでたのは千代さんです。笠、かぶってたし」ひよりは膝の上の見開きを澄江のほうへ向けて、隅の白い字を指でさした。「ほら。ハルの、黄色い雨合羽」
澄江は腕をのばして、その一行を遠くから読んだ。それから自分の冊子を開いた。半券のはさまっていたところが、ひとりでに開いた。左のページに昼の川の写真。千代がハルの頭に、大きな笠をかぶせている。右のページが、あらすじだった。澄江は最後の段落を、指でなぞった。
〈最後の晩、向こう岸へ渡ったまま戻らない千代が、灯りを大きく丸く振る。ハルは練習舟の綱をほどく。〉
ひよりは、それを二度読んだ。
「……わたしのと、違う」
二人は、冊子をベンチの上に並べて置いた。左に、ひよりの夜の見開き。右に、半券のはさまった澄江のあらすじ。同じ表紙の、同じ八百円の冊子だった。

「刷った時期が違う、とか」とひよりは言った。「あとから、どこか直したとか」
「わたしのは、上映の前に買ったのよ。ひよりちゃんのは、いまでしょう」
ひよりは自分の冊子を手にとって、ページを前へ戻した。あらすじの見開き。昼の川の、笠の写真。最後の段落に指をすべらせる。
〈最後の晩、向こう岸へ渡ったまま戻らない千代が、灯りを大きく丸く振る。〉
同じだった。澄江も自分の冊子のまんなかを開いた。夜の川の見開き。隅の白い字。〈対岸で灯りを振る、ハルの黄色い雨合羽〉。
「二冊とも、同じね」
「じゃあ、一冊の中で、言ってることが違うんだ」
客席の扉の横の細い階段から、河合が下りてきた。十八時半の回まで、映写室の仕事はしばらくない。
「河合さん」ひよりは手招きした。「最後の夜の川、窓から見ました?」
「最後は毎回見ます。終わりを確かめるので」河合はベンチの前にかがんで、並んだ二冊を見下ろした。「窓からだと、小さいですけど」
「舟を漕いでたのは、だれですか」
「千代さんでしょう」河合はすぐに答えた。「笠をかぶっていました。あの笠は、ずっと千代さんのですから」
ひよりは澄江を見た。澄江は、あらすじの段落を見ていた。
「でも、ここには」
「あらすじは、撮る前の台本をもとに書くこともあるそうです」と河合は言った。「前にかけた映画で、あらすじにある場面が、本編のどこにもなかったことがありました。撮ったけれど、切ったんでしょうね」
「じゃあ、写真の説明のほうが、できあがった映画を見て書いたのかも」とひよりは言った。
澄江は、しばらく黙っていた。それから膝の上で、冊子をそっと閉じた。
「わたし、先に読んでしまったから」と澄江は言った。「千代さんが振るんだと思って見ていたのよ。だから、そう見えただけかもしれないわね」
二対一になった。
勝ったはずなのに、ひよりは少しも勝った気がしなかった。河合が言ったことは、河合の窓から見えたことだ。写真の説明は、知らないだれかが書いた一行だ。ひより自身は、あの暗い川で、何を見ていたのだろう。
四 右へ、ふくらむ
「あの」とひよりは言った。「パンフ、閉じてもいいですか。二冊とも」
澄江と河合が、ひよりを見た。
「書いてあることを見ながらだと、そっちに引っぱられるので。見たことだけ、書いてみたいんです。三人とも、べつべつに」
「書く紙は?」と澄江が言った。
売店のほうから、灯が値札用の白いカードを三枚と、鉛筆を一本持ってきた。さっきから、話は聞こえていたらしい。
「鉛筆、一本しかないけど」
「わたし、持ってるわ」澄江は手提げから、半券帳にはさんであった鉛筆を出した。河合は胸のポケットからボールペンを抜いた。
三人は、ロビーのばらばらの場所に散った。ひよりはベンチ、澄江はコルクボードの前、河合は受付のカウンター。灯は売店から、三人を順番に眺めていた。
ひよりは目を閉じた。暗い川。向こう岸の灯り。輪。黄色。舟。舟の灯り。水に映った、もうひとつの灯り。
書き終えた三枚を、ベンチに並べた。
河合のカード。〈舟の上に、笠の形。漕いでいる〉
澄江のカード。〈灯りが、大きく丸く回っていた。きれいだった〉
ひよりのカード。〈向こう岸に黄色。灯りが輪を描く。舟の灯りが、右へふくらみながら進む〉
「舟のことは、書いてないんですね」とひよりは澄江のカードを見た。
「見てなかったのよ」澄江はあっさり言った。「ずっと灯りの輪を見てた。千代さんが振ってるって知ってたから、千代さんばかり見てたの。舟のほうは、ろくに見てないわ」
河合が、自分のカードを指で押さえた。「笠は、たしかに見ました」
「はい。わたしも見ました」とひよりは言った。「でも、あの笠」
ひよりは、日曜の稽古の場面を思い出していた。千代が自分の笠を脱いで、ハルにかぶせる。目の上までずり落ちる、大きすぎる笠。
「漕ぐ者が、かぶるもんだ、って」
河合が、あ、という顔をした。
「笠は、千代さんだけの目印じゃなくて」ひよりは続けた。「漕ぐ役の目印なんです。だから、笠を見ても、だれが漕いでたかはわからない」
「……いつも最初に、千代さんの頭にあるので」河合は眼鏡を押し上げた。「千代さんの持ち物だと、思いこんでいました」
ひよりは、自分のカードを見下ろした。
舟の灯りが、右へふくらみながら進む。
書いたのは、自分だった。川の流れのせいだと思っていた。けれど、映画の中で舟が右へふくらむところを、ひよりはその前にも見ていた。日曜の稽古で。綱がぴんと張るまで、何度でも。
「右へ曲がるのは、おまえの癖だな」
口に出すと、澄江が顔を上げた。
「みんなが笑ったところね」
「三回とも、右でした」とひよりは言った。「最後の舟も、右にふくらんでたんです。わたし、流れのせいだと思って」
声が、少し小さくなった。ハルがやっと丸く振れるようになった、最後の最後の合図。ひよりが泣いたのは、そういう場面のはずだった。
「でも、川の流れかもしれないわよ」と澄江が言った。ひよりの顔を見て言ってくれたのが、わかった。「どっち向きに流れていたかなんて、わたし、覚えてないもの」
ひよりはうなずきかけて、やめた。
「舟だけなら、そうかもしれないです」
澄江は自分のカードを、しばらく見ていた。それから、ゆっくり言った。
「合羽は、次の朝、橋の上で返したのよね」
「はい」ひよりの目の奥が、また熱くなった。いちばん泣いたところだ。「橋ができたら、橋を渡って返しに行く、って」
「それまで、借りとく、って」と澄江が言った。
ひよりは口を開けて、閉じた。
千代が合羽を返したのは、橋が開いた朝だった。その前の晩、黄色い雨合羽は、まだ千代のところにあった。
向こう岸で、灯りの下で揺れていた黄色。
ひよりは自分の冊子を開いた。まんなかの、夜の見開き。隅の白い字を、指でゆっくりたどった。
〈対岸で灯りを振る、ハルの黄色い雨合羽〉
「ハルの、雨合羽」
ハルが、ではなかった。ハルの、だった。
「書いた人、うそ、ついてないですね」とひよりは言った。「合羽は、ハルのです」
河合がひよりの手もとをのぞきこんで、もう一度、眼鏡を押し上げた。「台本どおりのあらすじ、でもなかったわけですね。本編も、あらすじと同じことをしていた。こちらが見ていなかっただけで」
「わたしも見てなかったわよ」と澄江が言った。「読んだとおりに、見たつもりになってただけ」
ひよりは、二冊を並べなおした。左に自分の、夜の見開き。右に澄江の、あらすじと昼の笠の写真。
向こう岸で、ハルの合羽を着た千代が、灯りを丸く回している。こちら岸で、千代の笠をかぶったハルが、練習舟の綱をほどく。右へ、右へとふくらみながら、向こう岸へ漕いでいく。
「千代さん、自分の舟で帰れたのに」とひよりは言った。
澄江が、ひよりを見た。
「工事の人を送っていって、舟は向こう岸にあったんだから。帰ろうと思えば、自分で帰れたんです。でも、合図した。いつもハルにさせてたのと、反対に」
「本物の舟は、まだ早いって言ったのにね」と、売店から灯が言った。
「だから、練習舟なんです。綱をほどいて」
澄江は自分の冊子を開いて、あらすじの最後の行を、もう一度読んだ。腕をいっぱいにのばして。
「わたし、書いてあることは読んだのに」と澄江は言った。「どうして千代さんが戻らなかったのかは、ちっとも考えなかったわ。先に知ってると安心して泣けるけど、安心しすぎるのね」
「じゃあ、ハルは」ひよりは言いかけて、急に吹きだした。「ハル、最後まで丸く振れなかったんですね」
「あら。そうね」
「振ったのは千代さんで、ハルは一回も、ちゃんと振れないまま」
「慌て者のまま、帰っちゃったのね」
ひよりは笑いながら、目もとを指でこすった。さっき泣いたのとは、違うところが熱かった。
五 パンフレットは、二冊とも
灯がエプロンのポケットに手を入れたまま、ベンチの前まで来た。
「で、結局。どっちのパンフが合ってたの」
ひよりと澄江は、顔を見合わせた。
「二冊とも、です」とひよりは言った。
「二冊とも、ね」と澄江が言った。
灯は首をかしげた。「同じパンフでしょう」
「同じなんですけど」ひよりは、並んだ二冊を指でさした。「一冊だと、あらすじか夜の写真か、片方しか開けないので」
灯は二冊を見下ろして、しばらく黙っていた。それから、ふうん、と言った。最初のふうんとは、少し違う声だった。
売店のガラスケースの上に、上映のあとの茶色い紙袋が並びはじめていた。〈黒糖とスパイス〉のシール。澄江が立って、一袋買った。戻ってくると、ベンチのまんなかで口を開けた。
「ロビーなら、いいわよね」
「ロビーなら」と灯が言った。
澄江が袋をひよりのほうへ傾けた。ひよりは財布の百円玉を二枚、思わず握った。
「二百円は、来週の分にとっておきなさい」と澄江は言った。「話し相手の、お礼」
「話し相手だったの、わたしのほうです」
「じゃあ、おあいこで」
黒糖をまとったポップコーンは、かむと大きな音がした。客席に持ちこまない、帰り道の味だ。ひよりは一粒ずつ、遠慮なく鳴らした。

河合は受付に戻って、座席表を引き寄せた。十八時半の回の印が、まだまばらだった。
「今夜の回で、舟を見ます」と河合は言った。「笠の下を」
「笠の下は、見えないですよ。遠いし、暗いし」
「探す人は、探します」河合は眼鏡を押し上げた。「右へ曲がるかどうかなら、窓からでもわかるはずです」
ひよりはコートのポケットから、自分の半券を出した。D-8。ちぎられた端のぎざぎざを指でなでてから、まんなかの夜の見開きにはさんだ。澄江の半券は、あらすじのページにはさまったままだ。二冊を閉じると、はみだした半券の端が、ちがう高さに一枚ずつ見えた。
「来週、もう一回観ます」とひよりは言った。「今度は、舟だけ見ます」
「お金は」
「パンフはもう持ってるので。千円で観て、ポップコーンの塩の小が買えます」
「贅沢ね」澄江は笑った。「わたしも来るわ。今度は、舟を見るの。灯りの輪は、もう知ってるから」
「笠をかぶったハルが、どれくらい右へ曲がるか」
「数えましょうか」
「数えないでください」とひよりは言った。「見てるだけで、いいです」
「パンフも持ってきてね」と澄江が言った。「並べて読むから」
「持ってきます。二冊とも、要るので」
ひよりはコートのボタンを留めて、斜めがけの鞄をかけた。それから、もう一度だけ、二冊をベンチに開いて並べた。
左の冊子では、向こう岸で黄色い合羽が、灯りの輪の下で揺れていた。右の冊子では、昼の川べりで、千代がハルの頭に大きな笠をかぶせていた。一冊ずつなら、川の片側ずつだった。並べると、黒瀬川の両岸がそろった。
「こうすると、ちょうど全部見えますね」
「一冊じゃ、だめね」と澄江が言った。
ひよりは自分の冊子を閉じて、鞄にしまった。半券の端が、鞄の口から少しのぞいていた。
ガラスの扉を押して外へ出ると、坂の下から冷たい風がのぼってきた。夕方の商店街に、明かりがひとつずつ灯りはじめていた。ひよりは坂の途中で立ちどまって、鞄の紐を片手で持ち、小さく丸く回してみた。
一回目は、少し横にぶれた。
二回目で、ちゃんと輪になった。ひよりはひとりで笑って、来週の土曜日のことを考えながら、坂を下りていった。


