第一章 七番目の段
ポスターを見つけたのは、一月の終わり、会社の帰りだった。
取り寄せを頼んでいた文庫本を受け取りに、川端の商店街の本屋さんへ寄った。その帰り、アーケードの途中にある古い喫茶店の窓に、紙が一枚貼ってあった。
白い紙に、灰色の点線で大きな象の形が描いてあった。点線の内側は、何も塗っていない。象の足もとでは、作業着の三人が両手を上に伸ばしていた。三人とも、手には何も持っていなかった。それなのに、ものすごく重そうだった。
〈象の引っ越し、手伝います〉
〈劇団まるい窓 再演 二月〉
〈とまり木劇場〉
ミコはその前に、三分くらい立っていた。点線の象は、見れば見るほど、本当にそこにいる気がした。
家に帰って調べると、前売り券は土曜も日曜も売り切れていた。ページのいちばん下に、小さな字でこう書いてあった。
〈各回、当日券を若干枚ご用意します。開演一時間前より劇場受付にて販売。全席指定。現金のみ、お一人様二枚まで〉
当日券は三千五百円で、前売りより五百円高い。若干枚が何枚なのかは、どこにも書いていなかった。
ミコはスマートフォンのカレンダーを開いて、二月の二週目の日曜日に予定を入れた。
〈象〉
ゆかりを誘おうか、と少しだけ考えた。考えて、やめた。並んでも買えないかもしれない券のために、北九州から出てきてもらうのは悪い。それに、ポスターの前で三分立っていたのは、ミコ一人だった。これは、ミコが見たいものだった。一人で行って、一人で全部見て、面白かったら、あとでゆかりに話せばいい。
二月の二週目の日曜日、十二時四十分。
とまり木劇場は、川沿いの古いビルの二階にあった。一階はシャッターの閉まった印刷屋さんで、その横の細い階段を上がったところに、劇場の入り口がある。
階段には、もう人が並んでいた。
ミコは、下から数えて七番目の段に立った。上の六段に六人。大学生くらいの二人組。お母さんと、中学生くらいの娘さん。おそろいの毛糸の帽子をかぶった、年配の夫婦。三組とも二人組だった。
濃い灰色のウールのコートの前を、しっかり合わせた。生成りのマフラーは二重に巻いてある。コートの下は灰色のセーターと、いつもの青緑の上着。黒いワイドパンツに灰色のスニーカー。肩にかけた生成りのトートの内ポケットには、濃紺のお守りが入っている。お昼は十一時に、家でおにぎりを二つ食べてきた。
財布には、千円札三枚と五百円玉一枚を、ほかのお金とは別の仕切りに入れてあった。ゆうべのうちに入れておいた。
本部では、シンパイがホワイトボードに書いていた。
〈当日券:若干枚〉
〈若干=?〉
〈前に六人〉
「若干は、六より多いかもしれません」とダイジョブが言った。
「六より少ないかもしれません」とシンパイが言った。
キオクがリモコンを押した。モニターに、ゆうべ見た劇場のページが映った。〈お一人様二枚まで〉の行が、少し大きくなった。
「前の三組は、全員二人組です」とキオクは言った。「三組とも二枚ずつ買えば、六枚です」
シンパイは〈前に六人〉の下に〈=六枚〉と書いて、マーカーを持つ手を止めた。
ハラヘッタが手を挙げた。
「アーケードに、回転焼きのお店がありました」
「いまは、券の話です」
「終わったあとに食べるものを決めておくと、待つのが楽になります」
シンパイは少し考えてから、ホワイトボードのいちばん下に、小さく〈回転焼き〉と書いた。
ミコのうしろに、紺色のダウンを着た若い男の人が並んだ。一人だった。その人は階段の上を見上げ、前に並んでいる人数を指で数えて、小さく「おお」と言った。
十三時ちょうどに、入り口の扉が開いた。
緑のエプロンをつけた女の人が、クリップボードを持って階段の上に出てきた。
「お待たせしました。本日の当日券のご案内です」女の人は、階段の下まで聞こえる声で言った。「全部で七枚です。そのうち四枚は、いちばんうしろの補助席で、四つ並んでいます。残りの三枚は、客席のあちこちに一席ずつ空いているお席です。お連れさまと並んで座れるのは、補助席だけになります。前の方から順番にうかがいますね」
七枚。
本部で、シンパイが〈=六枚〉を消して〈七〉と書いた。その字が、少しふるえていた。
大学生の二人組は、補助席を二枚買った。お母さんと娘さんも補助席を二枚買った。それで補助席はなくなった。
年配の夫婦は、顔を見合わせた。
「はなれても、よかよね」と奥さんが言った。
「暗うなったら、隣が誰でも同じたい」とご主人が言った。
二人は離れた席を二枚買った。奥さんがお財布を出し、ご主人が券を二枚とも受け取った。
ミコの番だった。
階段を一段上がると、緑のエプロンの人がにこっとした。
「何枚ですか」
「一枚で」
思っていたより、ふつうの声が出た。
「一枚でしたら、C列の七番です。前から三列目の、まんなか寄りですね」
ミコは、別の仕切りから三千五百円を出した。おつりはなかった。受け取った券は厚い紙で、手書きで〈C—7〉とあり、すみに丸い窓の形のはんこが押してあった。
うしろでは、緑のエプロンの人が紺色のダウンの人に話していた。
「申し訳ありません、当日券はここまでです。キャンセル待ちの番号をお渡しできます。一番です」
「一番かあ」とその人は言った。笑っていた。番号の書いてあるカードを受け取って、階段の手すりにもたれた。
ミコは券を持ったまま、少しだけ振り返った。
本部で、ダイジョブが言った。
「一番は、いちばん入れる番号です」
「入れるとは、限りません」とシンパイが言った。
「いちばん、入れるかもしれない番号です」
シンパイは、それには何も書かなかった。
第二章 象のいない部屋
開場は十三時半だった。
客席は思っていたより小さかった。前からA列、B列と並んでF列まで、一列に十二席ずつある。うしろへいくほど少しずつ高くなっていて、いちばんうしろに折りたたみの補助席が四つ並んでいた。
舞台は、A列の足もとと同じ高さにあった。段もない。客席の床が、そのまま部屋になっていた。
床は古い木の板で、窓が一つあり、カーテンが半分閉まっている。段ボール箱がいくつも積んであって、そのそばに、たんすと木の椅子が一脚あった。
左寄りに、玄関のドアがあった。
木の枠に茶色いドアがついていて、上に小さく〈三〇一〉と番号がある。
ドアのまわりには、壁がなかった。枠だけが床の上にまっすぐ立っていて、左右とうしろは黒い幕だった。
ミコは、C列の七番に座った。
「コートなどはお膝の上へ、お荷物は座席の下へお願いします」と、うしろのほうでスタッフの人が言っていた。
ミコはコートを脱いでたたみ、その上にマフラーをのせて膝に置いた。トートは座席の下に入れた。青緑の上着は着たままにした。
左のC列六番には眼鏡をかけた若い男の人が座っていて、入り口でもらったチラシの束を一枚ずつめくっていた。右の八番は空いていた。
十三時五十五分、うしろのほうで足音がした。振り向くと、緑のエプロンの人に案内されて、紺色のダウンの人がF列の端の席に座るところだった。来られなくなった人の席が、一つあったらしい。
紺色のダウンの人は座ってから、カードを持った手を小さく上げた。誰に向けたのかは、わからなかった。
ミコは前を向いて、膝の上のコートを少しだけ握った。
十四時。
客席の明かりが半分まで暗くなって、録音の声が流れた。
「本日はご来場、まことにありがとうございます。携帯電話の電源をお切りください。上演時間は、途中十分間の休憩をはさみまして、約二時間を予定しております」
それから、明かりが全部消えた。
ぱち。
ミコの手が、一回だけ鳴った。
鳴らしてから気づいた。ほかに鳴っている手は一つもなかった。真っ暗で、静かだった。始まる、と思ったときには、手のほうが先に動いていたのだ。
ミコは両手を、膝のコートの上にそっと置いた。
本部で、シンパイがホワイトボードに〈拍手:まだ〉と書いた。
キオクがリモコンを押しかけて、やめた。モニターに、十二月の音楽室が一瞬だけ映って消えた。
「『いち』は、まだでした」とキオクは言った。
パイプ椅子のほうで、もぞもぞと音がした。ネムイが濃紺のフードを少し持ち上げた。
「暗いですね」とネムイは言った。「好きです」
ネムイは、そのまま目を開けていた。
暗い中で、音がした。
ぶおお、と低い音だった。舞台の床の下のほうで、大きな生きものがゆっくり息をはいたような音だった。
明かりがついた。
ドアが開いて、作業着の三人が入ってきた。
先頭は体の大きな男の人で、胸に〈小森引越センター〉と刺繍がしてある。社長らしかった。二番目は腰にメジャーをさげた女の人で、日比野と呼ばれていた。最後は滑り止めつきの軍手を左右反対にはめた若い男の人で、宇田と呼ばれていた。
窓ぎわの椅子には、白い髪の女の人が座っていた。依頼人の野々宮さんだった。
「本日はよろしくお願いします」と小森社長が言った。「お運びするのは、たんすと、段ボールが二十箱と……」
「それと、ぼたんです」と野々宮さんが言った。
「ぼたん」
「この子」
野々宮さんは、窓のほうではなく、部屋のまんなかを見上げた。
三人は、野々宮さんの目線の先を見た。何もなかった。それから三人そろって、ゆっくり、ゆっくり、上を見た。顎が上がり、もっと上がって、宇田さんがうしろにのけぞって日比野さんの肩につかまった。
客席が、どっと笑った。
ミコも笑った。笑い声を口の中にとどめようとしたら、鼻のほうから、ぷふ、と出た。小さな、変な音だった。
左の六番の人がちらっとこっちを見て、それから、その人も、ぷふ、と笑った。
ミコは口を手でおおった。おおったまま、まだ笑っていた。
劇は、ほとんど全部が、見えないぼたんを部屋から出す話だった。
日比野さんは、まずドアの幅を測った。メジャーを伸ばして「八十センチ」と言った。それから脚立に上って、何もない空中にメジャーをぐるっと回した。端と端を合わせるところで、宇田さんが「あ、いま耳、はさみました」と言った。
「一メートル六十」と日比野さんは言った。
「通らんやん」と小森社長が言った。
「通らんです」
「どうやって入ったと、これ」
「二十年前は、こーんなでしたから」と野々宮さんは言って、両手で猫くらいの大きさを作った。
ミコはそのたびに、見えないぼたんの大きさを頭の中で作りなおした。脚立の上の日比野さんの手の高さ。床がきしむ音。ぶおお、という息の向き。合わせると、ぼたんは部屋の半分くらいを占めていて、窓のほうに顔を向けて、少し退屈そうにしていた。
宇田さんが、りんごを一つ持ってドアの前に立った。
「ぼたーん。おいで。ほら」
りんごが宇田さんの手から、ふわっと浮いた。
浮いて、空中で一回くるりと回り、上のほうへ消えていった。たぶん、細い糸だった。ミコは身を乗り出して、糸を探しかけた。
それから、やめた。
探さないほうが、ぼたんが食べたことになる。ミコは背もたれに戻った。
本部では、シンパイがホワイトボードの前で、マーカーのキャップをはめたり外したりしていた。何も書いていなかった。ハラヘッタは、りんごが消えたあたりを見上げていた。ネムイは、まだ起きていた。
舞台の明かりが、すっと落ちた。
暗い中で、録音の声が「三十分後」と言った。そのあいだに、客席の通路を小さな懐中電灯の光が近づいてきた。
「すみません、すみません」
ささやき声がして、ミコの右の八番に誰かが座った。緑のエプロンの人が、懐中電灯で足もとを照らしていた。座った人は深緑のダウンを小さく丸めて膝にのせた。コーヒーのにおいがほんの少しした。
明かりがつくと、右の人は五十代くらいの女の人だった。前を向いたまま、ふう、と一回だけ息をついた。
舞台では、三人が窓から出す作戦を話していた。
「クレーンを呼べば」と小森社長が言った。
「ぼたんは、高いところが苦手なのよ」と野々宮さんが言った。
「三階に住んどるのに」
「だから、窓のほうは見ないの」
窓のほうを向いて退屈そうにしていると思っていたミコの頭の中のぼたんが、くるりと向きを変えた。
第一幕の最後に、ぼたんは玄関に座りこんだ。
床が大きくきしんで、ぶおお、と長い息がした。宇田さんはドアの外の廊下に、小森社長と日比野さんは部屋の中にいた。そのあいだで、ぼたんがちょうどドアにはまって座っていた。
宇田さんが、廊下から言った。
「社長、こっちからだと、鼻しか見えません」
小森社長が、部屋の中から言った。
「こっちからは、おしりしか見えん」
明かりが消えた。
客席の明かりがついて、録音の声が言った。
「ここで、十分間の休憩をいただきます。第二幕は、十五時十分に開演いたします」
十五時ちょうどだった。
第三章 休憩の、十分
客席の半分くらいの人が立ち上がって、ロビーへ出ていった。左の六番の人も、右の八番の人も、ダウンを椅子に置いて出ていった。
ミコは座っていた。
お手洗いには、開場してすぐの十三時四十分に行っておいた。そのときは誰も並んでいなかった。
本部で、シンパイが〈休憩:十分〉と書いた。
「ロビーに、飲みものの自動販売機がありました」とハラヘッタが言った。
「客席では、飲めません」とシンパイが言った。
「ロビーなら」
「ロビーは、混んでいます」
ミコは、舞台を見ていた。
明かりは少し落としてあったけれど、部屋はそのまま残っていた。ドアの枠も、段ボールも、椅子も。ぼたんが座りこんだ玄関も、そのままだった。
黒い幕のすきまから、黒い服の人が出てきた。
黒いトレーナーに黒いズボンで、腰に黒い軍手を差していた。舞台のスタッフの人らしかった。段ボール箱を一つ抱えて、ドアの外側、さっき宇田さんが立っていたあたりから部屋の中へ運ぼうとしていた。
その人はドアの前まで来ると、ドアは通らなかった。
枠の横の、壁のないところへ回った。回るとき、ドアのすぐ外の、ちょうど人の頭くらいの高さで、ひょいと首をすくめた。
それから部屋の中に入って、ドアのすぐ内側で、足を一回大きく上げた。床に寝ている何かをまたぐみたいに。
段ボールを、窓の下に置いた。
ミコは、口を開けたまま見ていた。
鼻だ。
廊下のほうに出ている、ぼたんの鼻。部屋の中に寝ている、ぼたんのしっぽ。
黒い服の人は、窓の下の段ボールの上にりんごを一つ置いた。それから来た道を戻っていった。しっぽをまたいで、枠の横を回って、廊下で首をすくめた。
ミコは、笑った。
「あはっ」
半分空いた客席に、思ったより大きく響いた。
ミコは両手で口をおさえた。うしろの何人かがこっちを見て、それからまた自分たちの話に戻った。
本部で、キオクがリモコンを押した。モニターに、いま黒い服の人が通った道がもう一度映った。シンパイはそれをホワイトボードに描きうつした。ドアの枠を一本の線で描き、その横を点線がぐるりと回っている。点線の途中に、〈首〉と〈足〉と書いてあった。
「この人」とシンパイは言った。「ドアを、通っていません」
「ぼたんが、いるからです」とダイジョブが言った。
ネムイが、パイプ椅子から点線を見ていた。
「このお部屋」とネムイは言った。「壁、ないですね」
「舞台ですから」とシンパイが言った。
「そうですね」とネムイは言った。
右の八番の人が戻ってきた。
ダウンを膝に戻しながら、ミコのほうを見た。
「なんか、あった? いま、笑いよったよね」
ミコは、口から手をはずした。
「あの、いま、黒い服の人が」ミコは小さな声で言った。「象を、よけて……」
「象を」
「鼻のところで首をすくめて。しっぽを、またいで」
右の人は目を大きくして舞台を見た。黒い服の人は、もういなかった。
「うそ。見たかったあ」
そのとき、黒い幕のすきまから、また黒い服の人が出てきた。今度はほうきを持っていた。
二人は、だまって見た。
黒い服の人は、廊下のほうから床をはいてきた。ドアの前で首をすくめ、枠の横を回って部屋に入った。部屋の床をはいていって、ドアのすぐ内側まで来ると、ほうきを止めた。そこだけ細長い形をよけて、ぐるりとはいた。
右の人がダウンに顔をうずめた。肩がふるえていた。ミコもコートに顔をうずめた。
左の六番の人が戻ってきて、二人を見て、それから舞台を見た。ほうきの人は、ちょうど幕の向こうへ戻るところだった。廊下で、首をすくめていた。
六番の人が、「あ」と小さく言った。

「わざとかね、あれ」
ダウンから顔を上げて、右の人が言った。
「わざとだと思います」とミコは言った。
「わざとやなかったら、もっとよかね」
「はい」とミコは言った。「もっと、いいです」
右の人は、笑いすぎて出た涙を指の背でふいた。
「わたし、これ二回目なんよ。三年前の初演も見たと。そのときも、ここで死ぬほど笑って。でも休憩はトイレ行っとったけん、こんなの知らんかった」
「二回目なんですね」
「お店やっとるけん、今日は昼の片づけが長引いて、遅れてしもうた」右の人は、深緑のダウンを少し持ち上げた。またコーヒーのにおいがした。「商店街の喫茶店。ポスター、貼らせてもらいよると」
「窓の」とミコは言った。「点線の、象の」
「それ。見た?」
「あれを見て、来ました」
右の人は、ぱっと笑った。それから、口の前に指を一本立てた。
「最後どうなるか知っとるけど、言わんどくね」
「言わないでください」
二人で、また少し笑った。
ブザーが鳴った。十五時八分だった。
第四章 壁は、ない
十五時十分、明かりがついた。
部屋の中で、小森社長が眠っていた。立ったまま体をななめにして、何もないところにもたれかかっていた。体の半分が空中にのっかっていた。ずいぶんななめで、倒れそうで、倒れなかった。
客席から、おお、と声がもれた。拍手をした人もいた。ミコも手を一回鳴らしかけて、止めた。今度は、ほかにも鳴っている手があった。
日比野さんは、窓の下の段ボールに腰かけていた。段ボールの上には、りんごが一つのっていた。
ミコは、あ、と思った。さっき黒い服の人が置いたりんごだった。
ドアの外の廊下から、宇田さんの声がした。
「お昼、買ってきましたー」
宇田さんは、コンビニの袋を両手にさげていた。ドアの前まで来て止まった。ぼたんの鼻が、そこにある。袋をさげたまま右へ行こうとして、左へ行こうとして、困った顔をした。
それから、すたすたと枠の横へ回った。
首をすくめた。
部屋に入って、足を大きく上げて、何かをまたいだ。
「はい、からあげ弁当と、のり弁です」
部屋が、しんとした。
日比野さんが、ゆっくり立ち上がった。小森社長が、ななめのまま目を開けた。
「宇田くん」と日比野さんが言った。「いま、どこから入ってきた?」
宇田さんは、自分の来たほうを見た。
「……あっち、から」
三人は、ドアの枠の横の、何もないところを見た。
小森社長がななめの体をゆっくり起こした。それから、そろそろと片手を伸ばして、ドアの横の何もない空中を手のひらでなでた。何もなかった。手を、もっと伸ばした。腕が、まるごと向こう側に出た。
客席が、ひっくり返るみたいに笑った。
ミコの右で、喫茶店の人がミコの腕をぱしぱしとたたいていた。ミコが喫茶店の人のほうを見ると、喫茶店の人もミコを見ていた。
二人は声に出さずに、同じことを言った。
〈さっきの〉
左の六番の人も、両手で顔をおおって笑っていた。
本部では、ホワイトボードの点線がぼうっと光っていた。シンパイは、マーカーを持ったまま口を開けていた。
「壁、ないですね」とネムイが言った。
それなら、話は簡単なはずだった。
「ぼたん、こっち、あいとるよ」と小森社長が言って、枠の横を手でばんばんたたいた。たたいても何もないので、音はしなかった。
ぼたんは動かなかった。床がぎし、と一回きしんで、ぶおお、と低い息がした。不満そうな息だった。
「ぼたんはね」と野々宮さんが言った。「玄関からしか、出ないの」
「なんでですか」
「二十年前、この玄関から入ってきたから。こーんなに小さくて」野々宮さんはまた両手で猫の大きさを作った。「あの子にとっては、ここが玄関なのよ。壁があっても、なくても」
小森社長はしばらく、ドアと、何もないところと、野々宮さんの両手のあいだの小さな空間を、順番に見ていた。
それから、腰の工具入れからドライバーを出した。
「玄関から出たいなら」と小森社長は言った。「玄関を、大きくするしかない」
三人はドアをはずした。ちょうつがいのねじを回して、茶色いドアを壁に立てかけようとして、壁がないので床に寝かせた。
ドアの枠の、上の横木をはずした。
枠は、二本の柱になった。
小森社長が一本、日比野さんが一本、柱をまっすぐ立てて持ち、向かい合って立った。そのあいだが、ドアの幅だった。
宇田さんがメジャーの端を小森社長の柱に当てて、伸ばした。
「八十センチ」
二人が一歩ずつ、外へ開いた。
「一メートル」
もう一歩。
「一メートル二十。……一メートル四十」
小森社長と日比野さんは、柱を持ったまま横歩きで少しずつ離れていった。柱がふらふらした。
「一メートル六十」
「もうちょい」と日比野さんが言った。
「一メートル八十」
宇田さんはメジャーをしまって、窓の下の段ボールからりんごを取った。
ミコは、膝の上のコートを両手でつかんでいた。
宇田さんは二本の柱のあいだに立って、りんごを持った手を前に出した。それから野々宮さんのほうを見た。
野々宮さんは、うなずいた。
二人は同時に言った。
「ぼたん、おさんぽ」
床が、ぎし、と鳴った。
ぎし。ぎし。
宇田さんはりんごを持ったまま、うしろ向きにゆっくり下がっていった。二本の柱のあいだを抜けて、廊下のほうへ。
ぎし、ぎし。
小森社長と日比野さんが、柱を持ったまま、そろって体をうしろへそらせた。二人の目が、目の前の高いところから、ゆっくり、ゆっくり、廊下のほうへ動いていった。前足。胴体。まだ胴体。まだ、胴体。
二人の目が、やっと低いところまで下りてきた。
最後に、二人はそろって、ぴょんと小さく跳ねた。
しっぽだった。

客席がまた笑った。ミコは笑いながら、自分の足が座席の下で少しだけ浮いていることに気がついた。しっぽを、よけていた。
野々宮さんが椅子から立ち上がった。帽子をかぶって、空っぽの部屋を一回見回した。
「いってきます」
野々宮さんは二本の柱のあいだを通って、廊下へ出ていった。
舞台の外から、どすん、どすん、と、階段を下りる重い足音が聞こえた。その合間に、宇田さんの声がした。
「三階、です……二階、です……」
声は、遠くなっていった。
部屋には、小森社長と日比野さんだけが残った。
二人とも、まだ柱を持って、一メートル八十センチ離れて立っていた。
「もう、ええかね」と小森社長が言った。
「まだ」と日比野さんが言った。「しっぽが」
「さっき、跳んだやん」
「念のため」
二人は、もう少しだけ柱を持って立っていた。客席から、くすくすと笑い声がした。
それから、柱を床に寝かせた。二本の柱は、一メートル八十センチ離れて平行に寝ていた。
小森社長は空っぽの部屋を見回して、たんすの手前の段ボールを一つ持ち上げた。日比野さんも一つ持った。
廊下へ出るとき、小森社長は、床に寝ている二本の柱の前で立ち止まった。それから片足ずつ、柱をまたいだ。またぐとき、なぜか体を横向きにした。
「なんで横向きになったと」と日比野さんが言った。
「なんとなく」
二人は出ていった。
部屋には、誰もいなくなった。
窓から、明かりが細く入っていた。寝かせたドアと、二本の柱と、たんすが残っていた。
ずっと下のほうから、ぶおお、と一回聞こえた。
明かりが、ゆっくり落ちていった。
うしろのほうで、誰かが手をたたきはじめた。それが前のほうへ広がってきた。
ミコは、まだ窓を見ていた。窓のところの細い明かりだけが、最後まで残っていた。それがすうっと消えて、真っ暗になった。
ミコは、手をたたいた。
みんなより少し遅れていた。そのぶん、強くたたいた。
明かりがついた。四人の役者さんが舞台の前に並んで、おじぎをした。宇田さんの軍手は、滑り止めの粒がまだ手の甲にあった。拍手が大きくなった。
おじぎが終わると、宇田さんが走っていって、床に寝ていた二本の柱を拾った。一本を小森社長に、一本を日比野さんに渡した。二人は柱を持って、また一メートル八十センチ離れて立った。
宇田さんが、柱のあいだに向かって片手を広げた。
ぼたんの番だった。
客席が笑って、それから、さっきよりもっと大きな拍手になった。見えないものに向けた拍手だった。ミコは手のひらが赤くなるまでたたいた。右で喫茶店の人が、小さく「ぼたん」と言っていた。左の六番の人も、たたいていた。
本部では、五人がそろって拍手をしていた。シンパイはマーカーを胸のポケットにさして、両手でたたいていた。ネムイも起きたまま、ぽふぽふとたたいていた。
小森社長が、柱を持ったまま一歩前に出た。
「本日はご来場、ありがとうございました。ぼたんは、無事に海の町に着きました」
もう一回、拍手が起きた。
十六時ちょうどに、客席の明かりが全部ついた。
ミコは膝からコートをどけて立ち上がり、座席の下からトートを出した。
喫茶店の人が、深緑のダウンを着ながら言った。
「あの黒い服の人は、最後、出てこんのやね」
「出てこなかったですね」とミコは言った。
それから少し考えて、言った。
「でも、たぶん、いちばん長く、ぼたんといっしょにいた人です」
喫茶店の人は、ダウンのファスナーを上げる手を止めた。それから声を出して笑った。
「それ、店で言お」
喫茶店の人はミコに手をふって、通路の人の流れに入っていった。
第五章 七十八センチ
外に出ると、川の上の空はまだ明るかった。風が冷たかった。
ミコはコートを着て、マフラーを二重に巻いた。階段の下で、紺色のダウンの人が、キャンセル待ちのカードをポケットにしまいながら川を見ていた。目が合ったので、ミコは小さく会釈をした。その人も会釈を返した。それだけだった。
アーケードの回転焼き屋さんで、あんこを一つ買った。
本部で、ハラヘッタがホワイトボードのいちばん下の〈回転焼き〉に、自分で丸をつけた。
喫茶店の前を通ると、窓の点線の象はまだそこにいた。ミコは、今度は一分だけ立ち止まった。点線の中は相変わらず空っぽだった。空っぽなのに、しっぽがどこにあるか、もうわかった。
帰りの地下鉄で、ミコはゆかりにメッセージを送った。
〈今日、劇を見てきた〉
返事は、すぐに来た。
〈え、一人で? なに見たと〉
〈象の引っ越し〉
〈象、出た?〉
ミコは少し考えた。
〈出なかった。でも、出ていった〉
〈なんそれ。ばり気になる〉
〈当日券、一人二枚まで買える〉
〈並ぶ〉
続けて、もう一通来た。
〈そのときは、ミコが二枚買って。わたし、たぶん遅れるけん〉
〈遅れたら、場面の切れ目で入れてもらえるよ。懐中電灯で〉
〈くわしい〉
ミコは、スマートフォンを膝に置いた。
本部では、ネムイがやっとパイプ椅子で眠っていた。二時間、一回も眠らなかったのだ。
マンションの階段を、ミコは一段ずつ上がった。
上がりながら、うしろを振り返った。もちろん、誰もいなかった。
一階と二階のあいだの踊り場で、ミコは少しだけ体を横によけた。大きなものが通れるくらい。それから、二階から三階への階段を、今度はうしろ向きに上がってみた。手すりにつかまって、一段ずつ。
「ぼたん、おさんぽ」
声に出して言ってしまった。小さい声だった。三階の外廊下には誰もいなかったけれど、ミコはそれでも口をおさえた。
302号室の前に着いた。
鍵を開けて、中に入った。靴を脱いで台所に行き、引き出しから百円ショップで買ったメジャーを出した。玄関に戻って、枠の内側から内側へ、メジャーを伸ばした。
七十八センチ。
本部で、シンパイがホワイトボードに書いた。
〈302号室 玄関 78cm〉
〈ぼたん:不可〉
「壁を、はずせば」とダイジョブが言った。
「はずしません」とシンパイが言った。「うちには、壁があります」
キオクがリモコンを押した。モニターに、今日の舞台が映った。二本の柱を持って、そろってぴょんと跳ねる二人。それから、休憩中に首をすくめる黒い服の人。キオクは、黒い服の人のところを、もう一回だけ再生した。
ミコはメジャーをしまった。
トートの内ポケットから、券を出した。厚い紙に、手書きの〈C—7〉。すみに、丸い窓のはんこ。それを冷蔵庫の扉に、マグネットでとめた。
それから玄関に戻って、スニーカーをはきなおし、一回だけ外廊下へ出た。
冷たい風が、マフラーのすきまに入ってきた。
ミコは、七十八センチの玄関を、なんとなく横向きになって通った。
ドアを閉めた。


