第一章 八枚目の付箋
金曜日の夜、ミコは302号室のラグの上に、売るものを一列に並べた。
花柄の豆皿が五枚。ペンギンの形をした手回しのかき氷器。紫色のヨガマット。読み終わった文庫本が六冊。
それから、もう一冊。
『くじらの背中で朝ごはん』は、二月の半ばに読み終わった。ミコはそれを列のいちばん端に置いて、少し考えて、半分だけ列からはみ出させた。
日曜日に、近所の公民館で「おさがり市」がある。家で使わなくなった自分の物を、一日だけ持ち寄って売る集まりだ。長机一つが一区画で、出店料は一机五百円。十時から十四時まで。
公民館の掲示板でその貼り紙を見つけて、写真をゆかりに送ったのは二週間前だった。ちょっと面白そうだと思ったから送っただけで、出ようと思ったわけではなかった。
返事は、すぐに来た。
〈出る〉
〈机、半分ちょうだい〉
〈うち、ダンベルがある〉
それで、出ることになった。一つの長机を半分ずつ使って、出店料は二百五十円ずつ。
並べ終わると、ミコは黄色い付箋の束と黒いペンを持って、ラグに座った。
値札を、つける。
それだけのことだった。
最初は豆皿にした。いちばん簡単そうだったからだ。
去年の正月の福袋に入っていた五枚で、白地に小さな青い花が一つずつ描いてある。かわいい。でも、ミコの食器棚にはもう小皿が六枚あって、豆皿の出番はなかった。
ミコは付箋に〈一枚 150円〉と書いた。
書いてから、じっと見た。
本部では、シンパイがホワイトボードの前に立っていた。
〈高すぎる→売れ残る→持って帰る→重い〉
〈安すぎる→売れる→あとで後悔〉
「ちょうどいい値段は」とシンパイは言った。「存在しません」
「じゃあ、全部百円にしましょう」とダイジョブが言った。黄色い上着の袖をまくって、やる気だった。「計算が楽です」
キオクが丸眼鏡を押し上げて、リモコンを押した。モニターに、去年の一月の福袋が映った。〈三千円〉と書いてある。中身は六つ。
「六で割ると、一つ五百円です」とキオクは言った。
「豆皿五枚で、一つです」とシンパイが言った。
「では、一枚百円です」
ダイジョブが、ほらね、という顔をした。
ミコは〈150円〉の付箋をはがして、丸めた。新しい付箋に〈一枚 100円〉と書いた。
丸めた付箋は、ローテーブルの上に置いた。
文庫本は、一冊百円にした。これは、わりとすぐ決まった。
ペンギンのかき氷器で、手が止まった。
箱には、頭のハンドルを回すとおなかの中で氷がけずれる、という絵が描いてある。ペンギンは、どこか遠くを見ている顔をしていた。
ハラヘッタが、緑のカーディガンの前を両手でかき合わせた。
「夏が、来ます」
「来ますね」とシンパイが言った。
「夏になったら、このペンギンで、かき氷を」
キオクがリモコンを押した。モニターに、去年の八月が映った。コンビニの冷凍庫を開けて、カップのかき氷を一つ取り出しているミコ。家の戸棚では、ペンギンが、まだ箱のままだった。
「去年の夏も、そう言っていました」とキオクは言った。
ハラヘッタは、うつむいた。
ミコは付箋に〈300円〉と書いた。少し高めにしておけば、売れなくても、ペンギンのせいにできる気がした。
ハラヘッタが、少しだけ顔を上げた。
ヨガマットで、夜の十一時を過ぎた。
去年の一月に、三千九百八十円で買った。新年だったからだ。キオクのモニターには、そのあとの二回が映っていた。
一回目は、動画を見ながら二十分。
二回目は、十分。動画の先生が「では、あおむけになって、深く息を」と言ったところで、ミコはあおむけになって深く息をして、そのまま眠った。起きたら動画は終わっていて、別の動画が始まっていた。
パイプ椅子のネムイが、濃紺のフードの下で、少しだけ胸を張った気がした。
〈500円〉と書いた。はがした。
〈800円〉と書いた。〈300円〉と書いた。〈1000円〉と書いた。〈600円〉と書いた。書くたびに、はがした。
〈100円〉と書いて、全部百円の案を思い出して、しばらく見て、それもはがした。
ローテーブルの上の丸めた付箋が、七つになった。
ミコは、丸めた七枚の隣に新しい一枚を置いた。迷った値札の、八枚目だった。小さく書いた。
〈相談〉
書いてしまうと、肩がすっと軽くなった。決めなかったのではない。当日、決めるのだ。そういうことにした。
本部で、シンパイがマーカーを持ったまま、うなずきかけた。
そのとき、パイプ椅子のほうで、もぞっと音がした。
ネムイがフードを少しだけ持ち上げて、ホワイトボードの〈相談〉を見た。
「相談って書いたら」とネムイは言った。「相談されますよ」
それから、またフードを下ろした。
本部が、しんとした。
シンパイの手から、マーカーのキャップがころんと落ちた。

寝る前に、ゆかりからメッセージが来た。
〈値札できた?〉
〈だいたい〉
〈うちは電車で書く〉
〈当日の?〉
〈当日の電車〉
少しして、もう一通来た。
〈あと、お釣りって、いると?〉
〈いる〉
〈ミコのに、まぜといて〉
ミコは台所へ行って、棚の上からジャムの空き瓶をおろした。百円玉をためている瓶だった。そこから十枚数えて、財布から五百円玉を二枚出して、小さながま口に入れた。二千円。
それから、メモ帳を一ページ開いて、まんなかに縦の線を一本引いた。左に〈ミコ〉、右に〈ゆかり〉と書いた。
第二章 相談、されました
日曜日の朝は、晴れていた。風は、まだ冷たかった。
ミコは濃い灰色のウールのコートを着て、折りたたみのキャリーカートを引いて公民館へ歩いた。カートには、新聞紙でくるんだ豆皿の箱と、文庫本の紙袋と、ペンギンの箱と、丸めたヨガマットが、ゴムひもでくくりつけてあった。肩の生成りのトートには、がま口とメモ帳と付箋の束と、濃紺のお守りが入っていた。
公民館の二階の多目的室には、長机が四列並んでいた。二十区画くらいある。ミコたちの番号は〈14〉で、窓ぎわの列のまんなかだった。
九時十五分。出店料の五百円は、釣銭のがま口とは別の財布から受付で払った。ミコはコートを脱いで、椅子の背にかけた。灰色のニットの上に、青緑の上着。机の左半分に、物を並べた。
豆皿五枚を一列に。文庫本六冊は、背表紙が見えるように立てて。その横にペンギンの箱。ヨガマットは、机の端に立てかけた。
『くじらの背中で朝ごはん』は、トートの中に入れたままにした。値札は、まだついていなかった。
ヨガマットには〈相談〉が貼ってあった。遠くからでも、よく見えた。
九時二十五分、多目的室のドアが勢いよく開いた。
「ミコ、おはよ。肩が死による」
ゆかりは、大きな登山用のリュックを背負っていた。短い黒髪が、走ってきたせいで少し立っていた。上着のファスナーを下ろしながら、リュックを机の右半分にどすんとおろした。
「なに入れてきたの」
「ダンベル」
ゆかりはリュックからピンクのダンベルを二つ出して、机に並べた。三キロが二つ。
「小倉から、ダンベル背負って電車乗ってきた。今年いちばんのトレーニングやった」
それから、直火で焼くホットサンドメーカー。黄色いバケットハット。カプセルトイの小さな動物が八つ。かば、カピバラ、ペンギン、アルマジロ、いろいろいた。
値札は、灰色のガムテープに太いマジックで書いてあった。
〈ダンベル 2コで600〉
〈ホットサンド 800〉
〈ぼうし 300〉
〈どうぶつ 1コ100〉
「電車で書いたの」
「博多に着く前に終わった」ゆかりは言った。「三分」
ミコは、ゆかりのガムテープと、自分のヨガマットの〈相談〉を見比べた。
ゆかりも見比べた。
「相談?」
「……当日、決める」
「当日、いまやん」
ゆかりは出店料の半分、二百五十円を自分の財布から出した。ミコはそれを釣銭のがま口には入れず、自分の財布へ戻した。ゆかりは黒いダウンを脱いで椅子の背にかけた。下は、からし色のセーターだった。
隣の区画では、灰色の髪をうしろで一つにまとめた女の人が、段ボール箱から物を出していた。野球のグローブ、漫画の単行本、CDが何枚か。それから、小さな木の台。
高さは、ミコの膝より低い。四本の脚に四角い天板がのっていて、天板のすみには、彫刻刀で彫ったらしい小さな字があった。
木の台には、値札がついていなかった。
ミコは、それを見た。
302号室の、日曜日の窓ぎわを思い出した。床の日なたに座って本を読むとき、お茶のマグカップはいつもラグの上に置いていて、二回くらい倒しかけた。あの台があったら、マグカップと本を、日なたの中に置いておける。
本部で、シンパイがホワイトボードのすみに小さく書いた。
〈本日:物を減らす日〉
ミコは、自分の机に目を戻した。
十時になると、受付のほうから人が入ってきた。
思ったより、たくさんだった。小さな子を連れた人、杖をついた人、エコバッグを三つ持った人。みんな、机のあいだをゆっくり歩いていた。
ゆかりは、すうっと息を吸った。
「ダンベル、ありまーす! ばり軽いよー!」
多目的室の何人かが、こっちを見た。
「ゆかり」ミコは小声で言った。「軽いのは、ダンベルとしては」
「持って帰るのが軽いって意味」
「それは、持って帰るほうの人が決めることだと思う」
ジャージを着た大学生くらいの男の人が、ダンベルの前で止まった。一つ持ち上げて、ひじを曲げたり伸ばしたりした。
「これ、二つで六百円すか」
「六百円。ペア。ほぼ新品。使ったのは、えーと」ゆかりは指を折った。「三回?」
男の人は千円札を出した。ゆかりはそれを受け取って、天井を見た。
「千円から、六百円で……えーと、三百……」
ミコは、もうがま口から百円玉を四枚出していた。
「四百円のお返しです」
男の人は、四百円とダンベルを持って歩いていった。足どりが軽かった。ダンベルも、軽そうに見えた。
「早っ」とゆかりが言った。
「毎日、発注の数を数えてるから」
ミコは、メモ帳の右の列に〈ダンベル 600〉と書いた。
ミコの机の前でも、人は止まった。
豆皿を手に取って、裏を見て、戻す人。文庫本の背表紙を首をかしげて読んで、戻す人。ペンギンの箱を見て、ふふっと笑って、戻す人。
ミコはそのたびに「いらっしゃいませ」と言おうとした。言えたのは、四回に一回くらいだった。声は、ゆかりの「ばり軽いよー」の十分の一くらいだった。
本部では、シンパイが〈いらっしゃいませ:二十五%〉と書いていた。
十時半。
ベージュのコートを着た女の人が、ヨガマットの前で止まった。三十代くらいで、首に赤いマフラーを巻いていた。
女の人は、〈相談〉の付箋をじっと見た。
それから、ミコを見た。
「すみません。これ、相談って、いくらですか」
来た。
本部のホワイトボードが、一瞬でいっぱいになった。
〈三千九百八十円〉
〈二回〉
〈百円?〉
〈五百円?〉
〈八百円?〉
〈相談されました〉
キオクのモニターでは、あおむけのミコが深く息をして、眠っていた。
ネムイは寝ていた。
「あの」とミコは言った。声は、思ったより出た。「二回、使いました」
「二回」
「一回目は、二十分です。二回目は、十分で」ミコは、少しだけ迷った。「……寝ました」
女の人は、まばたきをした。
「上で?」
「上で。あおむけになって深く息をしてください、って言われて、そのとおりにしたら」
女の人がふきだした。赤いマフラーに口をうずめて、肩をふるわせた。
「それ、よかマットやん」
ミコは、マットを見た。紫色で、端が少しだけ丸まっている。三千九百八十円で、二回で、一回は眠ったマット。
値段が、すっと出てきた。
「五百円で、どうでしょうか」
言ってから、ミコは自分で少し驚いた。ゆうべ、いちばん最初に書いてはがした数字だった。
「買います」と女の人は言った。「わたしも、たぶん寝るけど」
五百円玉が一枚、ミコの手のひらにのった。
女の人はマットを小脇に抱えて、次の机のほうへ歩いていった。紫色の筒が、赤いマフラーの横で揺れていた。
ミコは、それをしばらく見ていた。少しさびしくて、それよりもう少し、軽かった。
メモ帳の左の列に〈ヨガマット 500〉と書いた。
「相談、強いやん」とゆかりが言った。「わたしも、ぼうしに相談って書こ」
「やめたほうがいい」とミコは言った。「相談されるから」
第三章 敵に、塩
十時五十分、おばあさんに連れられた男の子が二人、ゆかりの机にはりついた。
カプセルトイの動物を一つずつ手のひらにのせては、見比べていた。
「どれにすると」とゆかりが聞いた。
「カピバラ」と弟が言った。
ゆかりは、少しだけ間をあけた。
「……カピバラ、ね」
「だめ?」
「だめやない。カピバラはね、お湯につかるのが好きやけん、お風呂に連れていってやり」
兄は、アルマジロとかばを選んだ。おばあさんが百円玉を三枚、ゆかりに渡した。
男の子たちが行ってしまってから、ゆかりは残った五つの動物を、指で並べなおした。
「カピバラ、いちばん好きやった」
「売り物だったよね」
「売り物やった」ゆかりは言った。「よか。お風呂に入れてもらえるなら」
ミコは右の列に〈どうぶつ 300〉と書いた。
十一時十五分、豆皿が売れた。
エコバッグを三つ持った人だった。豆皿を三枚手に取って、窓の明かりにかざして、「うち、三人やけん」と言った。
千円札を出された。ミコは、五百円玉を一枚と百円玉を二枚出した。
「七百円のお返しです」
それから、三枚を新聞紙で一枚ずつくるんだ。家で、くるみ方を二回練習してきていた。
エコバッグの人が行ってしまうと、机の上の豆皿は二枚になって、あいだがあいた。ミコは、残った二枚のあいだをつめた。
左の列に〈豆皿3 300〉。
十一時四十分、人の流れが少しとぎれた。
ゆかりは、さっきから同じものを見ていた。
ミコの机の、ペンギンの箱だった。
「それ、まだ売れとらんね」
「うん」
本部で、ハラヘッタが顔を上げた。
「三百円」とゆかりは言った。「わたしが買う」
「あげるよ」とミコは言った。「ゆかりなら」
「いかん」ゆかりは首をふった。「値札ついとるやん。売り物やろ」
ゆかりは自分の財布から五百円玉を出して、ミコの手にのせた。ミコは、がま口から百円玉を二枚出して返した。
ゆかりは、ペンギンの箱を両手で持ち上げた。
「これで、ミコの売上が三百円増えた」ゆかりは言った。「わたし、いま、敵に塩送っとる」
「敵なの」
「今日は敵。売上勝負やけん」
「いつ決まったの」
「ダンベル売れたとき」
ミコは、メモ帳の左の列に〈ペンギン 300〉と書いた。右の列にも何か書きかけて、やめた。ゆかりのお金だったけれど、ミコの売上だった。
「夏になったら、これで、かき氷つくるっちゃ」ゆかりは言った。「ミコの分も、けずってやる」
「小倉で?」
「……溶けるね」
ゆかりはペンギンの箱を、自分のリュックの横に置いた。ペンギンは、遠くを見ている顔のままだった。
本部で、ハラヘッタが、ほうっと息をはいた。
「かき氷は、どこかに残りました」
「小倉にですけどね」とシンパイが言った。
お昼は、交代でおにぎりを食べた。
ミコが食べているあいだに、隣の机に、ジャンパーを着た男の人が来た。男の人は、あの木の台を持ち上げて、ひっくり返して、脚の裏まで見た。
ミコは、おにぎりを持ったまま止まった。
「これ、おいくらですか」
「それはねえ」と隣の女の人が言った。「まだ、値段を決めとらんとですよ。すみません」
男の人は、そうですか、と言って、台を置いて行ってしまった。
ミコは、息をはいた。それから、はいたことに気がついた。
「ミコ」ゆかりが、のぞきこんでいた。「いま、ほっとしたやろ」
「してない」
「した。顔が、ぜんぶ、ほっとしとった」
「……見てるだけ」
「見とるだけの顔やない」
本部のホワイトボードの〈本日:物を減らす日〉の横に、シンパイが小さく〈?〉と書いた。
十二時半、ホットサンドメーカーの前に、白い帽子のおじいさんが止まった。
ゆかりは、ぱっと立ち上がった。
「それ、ばりきれいに焼けますよ! 外はかりっと、中はとろっと」
おじいさんはホットサンドメーカーを開けたり閉めたりして、それから、なぜかミコのほうを見た。
「ほんとに、きれいに焼けると?」
ゆかりも、ミコを見た。
ミコは、少しだけ迷った。迷っているあいだに、口が動いた。
「一回使って、焦げたって、聞いてます」
「ミコ!」
おじいさんが、声を出して笑った。
「焦げたと」
「ばり焦げました」ゆかりは観念したように言った。「火が強すぎて。真っ黒」
「よか、よか」おじいさんは言った。「うちは焦げたとが好きやけん。ちょうどよか」
おじいさんは千円札を出した。ゆかりはがま口に手を伸ばしかけて、それからミコを見た。ミコは百円玉を二枚出した。
おじいさんがホットサンドメーカーを抱えて行ってしまうと、ゆかりはミコの腕を軽くたたいた。
「なんで正直に言うと」
「聞かれたから」
「売れたけど」
「売れたね」
ゆかりはしばらくミコをにらんで、それから笑った。
右の列に〈ホットサンド 800〉。
第四章 いくらなら、買いますか
十二時四十分、ミコはトートから『くじらの背中で朝ごはん』を出した。
お昼のあいだに、決めていた。持って帰ったら、本棚の本がまた一冊増える。今日は、物を減らす日だ。
付箋に〈100円〉と書いて、裏表紙に貼った。ほかの文庫本の横に立てた。
五分もしないうちに、ダッフルコートを着た女の子が、その本を手に取った。高校生くらいだった。
「これ、どんな話ですか」
「くじらの背中に乗って、朝ごはんを作る話です」
「くじらの背中で」
「はい。郵便屋さんのトトと、ハルっていう子が一緒に乗っていて。トトは、配達できなかった手紙を一通ずつ読み上げるんです。ハルはその横で、かまどに火を起こしていて。海の上は寒いんですけど、くじらの背中は日に当たって温かい、って書いてあって」
女の子は、うなずいていた。
「わたし、これを窓の日なたで読んでたんです。ちょうどそこを読んでるとき、背中が温かくて。それで、もう少し先の話は——」
ミコは、そこで止まった。
好きだった章のことを考えた。くじらが、ゆっくり向きを変えるところ。もう一回、あそこを日なたで読みたかった。今度は、マグカップを倒しかけないで。
「……すみません」とミコは言った。
「はい」
「これ、いま、売り物じゃなくなりました」
女の子は目を丸くした。それから、口を押さえて笑った。
「説明聞いたら、欲しくなったっちゃけど」
「本屋さんに、あります」ミコは言った。「たぶん、新しいのが」
ミコは、裏表紙の付箋をはがした。
女の子はスマートフォンに題名を打ちこんでから、ほかの文庫本を二冊選んだ。百円玉が二枚。
「くじらのやつ、自分で買います」と女の子は言った。「あとの話、言わんでくれて、よかった」
左の列に〈文庫2 200〉。
はがした付箋は丸めずに、メモ帳の裏に貼った。
ゆかりは、何も言わなかった。言わないかわりに、机の下で、ミコのスニーカーのつま先を自分のスニーカーで一回つついた。
それから、隣の机のほうへ顎をしゃくった。
木の台は、まだそこにあった。
ミコは立ち上がった。
隣の机の前まで、三歩だった。インターホンまでの三歩半より、半歩短かった。
「すみません」とミコは言った。「この台は、おいくらですか」
灰色の髪の女の人は、ミコを見て、台を見た。
「それねえ」と女の人は言った。「息子が中学の技術の時間に作ったと。もう十五年も前。東京に出て、部屋を片づけていいって言うけん、全部持ってきたとやけど」
天板のすみに彫ってある字は、〈ゆうた〉だった。
「これだけ、決めきらんで」女の人は笑った。「値札つけとらんと。宮下です。あなた、いくらなら買う?」
本部のホワイトボードに、シンパイが大きく書いた。
〈相談されました(逆)〉
「逆です」とキオクが言った。
「逆ですね」とダイジョブが言った。「百円!」
「百円は」とシンパイが言った。「ゆうたさんに、悪いです」
宮下さんが、台を床におろした。
「座ってみて。案外、丈夫よ」
ミコは、そっと台に座った。
がたん、と一回、脚が鳴った。それから止まった。座ってみると、ちょうどいい低さだった。膝が少し上がって、両手が天板のふちにのった。

窓ぎわの、ラグの上。マグカップと本を置いて、日なたが動いたら、台ごと動かせばいい。
ミコは、さっきの五百円玉のことを考えた。三千九百八十円で、二回で、一回は眠ったマット。あの五百円は、ミコがあのマットに払ってもらって、うれしい値段だった。
それなら、こっちは、ミコが払ってうれしい値段にすればいい。
「七百円で、どうでしょうか」
宮下さんは、しばらくミコを見ていた。
「そげん出すと?」
「はい」
「あのね」宮下さんは、少し声を落とした。「三百円て言われたら、持って帰ろうと思っとった」
ミコは、まばたきをした。
「さっきの人には、言われる前に、まだ決めとらんって言うてしもうた」宮下さんは、台の天板をなでた。「七百円なら、息子に言える。七百円で売れたよって。あの子、たぶん、なんでそんなに、って言うけど」
ミコは、がま口から五百円玉を一枚と、百円玉を二枚出した。
宮下さんは、それを両手で受け取った。
「大事にせんでいいけんね。ふつうに使って」
「はい」とミコは言った。「日なたで、使います」
うしろで、ゆかりが言った。
「買ったー!」
ちょっと、声が大きかった。何人かが振り向いた。
ミコは席に戻って、メモ帳の左の列に〈台 −700〉と書いた。
十三時二十分、ゆかりのバケットハットが売れた。
買ったのは、二十歳くらいの女の人だった。「かぶってみて」と言ったのはゆかりで、かぶってみたら、ばかみたいに似合った。
ゆかりは、しばらく黙っていた。
「……やっぱ、似合わんかったの、わたしだけか」
女の人は三百円を払って、帽子をかぶったまま帰っていった。黄色が、ドアの向こうへ消えた。
右の列に〈ぼうし 300〉。
それからゆかりは「偵察」と言って、ほかの机を見に行った。十分後に戻ってきた。
「二人用のカードゲーム、未開封。箱がちょっとつぶれとるけん、七百円。取っといてもらっとる」
「自分のお金で?」
「売上で」
ゆかりは、がま口から五百円玉一枚と百円玉二枚を出して、もう一度机を離れた。平たい箱を持って戻ってきて、ミコの前に置いた。
「次、会うとき持ってくる。手加減せんけんね」
「しなくていい」とミコは言った。
右の列に〈ゲーム −700〉。
十四時になると、受付の人が手を三回たたいた。
「おつかれさまでしたー。売れ残りは、各自お持ち帰りくださーい」
ミコとゆかりは、机の上を見た。
ミコの側には、豆皿が二枚と、文庫本が四冊。トートの中には、『くじらの背中で朝ごはん』。足もとには、木の台。
ゆかりの側には、カプセルトイの動物が五つと、ペンギンの箱と、つぶれたカードゲームの箱。
ミコはメモ帳を開いて、がま口のお金を机の上で数えた。
「ぜんぶで、三千九百円」
「多っ」
「二千円は、最初にお釣り用に入れた分。わたしは売上が千三百円で、台に七百円使ったから、六百円。ゆかりは売上が二千円で、ゲームに七百円だから、千三百円」
ミコは、千円札一枚と百円玉三枚を、ゆかりの前に置いた。残りを、がま口に戻した。
ゆかりは自分の千三百円を見て、それからミコのメモ帳の〈600〉を見た。
「勝った」
「金額は」とミコは言った。
「金額は、って何」
「数は、わたしが七つ」ミコは指を折った。「マット、豆皿三枚、ペンギン、文庫二冊」
ゆかりも指を折った。
「ダンベル二個、どうぶつ三つ、ホットサンド、ぼうし。七つ」
「ダンベルは、〈2コで600〉って書いてあった」
「二個は二個やろ」
「ペアだった」
「ペアでも、持ったら二個」
二人は、しばらくにらみあった。
それから、ゆかりがふきだした。ミコもふきだした。
「引き分け」とゆかりが言った。
「金額は、ゆかりの勝ち」とミコは言った。「数は、引き分けか、わたしの勝ち」
「なんそれ」
本部では、シンパイがホワイトボードに〈勝負:保留〉と書いて、キオクが「記録しておきます」と言った。
第五章 日なた用
帰り道、ゆかりのリュックは、来たときよりずっと平たかった。
「ダンベル六キロ減って、ペンギン増えた」ゆかりはリュックをゆすり、小脇に抱えたペンギンの箱を見た。「ペンギン、たぶん一キロもない」
「そのぶん、ゲーム」
「ゲームは軽い」
ミコのキャリーカートには、文庫本の紙袋と、豆皿の箱と、木の台がくくりつけてあった。台の脚が、歩道の継ぎ目でときどき、かたん、と鳴った。
地下鉄の入り口で、ゆかりは立ち止まった。
「今日、ミコの相談、ばり笑った」
「笑わせようと思ってない」
「やけん笑ったと」
ゆかりは手をふって、階段を下りていった。下りながら、もう一回ふり返って、ペンギンの箱を持ち上げてみせた。
302号室に着いたのは、三時半だった。
ミコはキャリーカートを玄関に置いて、コートを脱いだ。豆皿二枚を新聞紙からほどいて、食器棚に戻した。戻したら、急に、使いたくなった。
文庫本四冊は、本棚に戻した。『くじらの背中で朝ごはん』は、戻さなかった。
窓のほうを見た。
床には、まだ日なたが残っていた。細長くなって、少しずつ部屋の奥へ動いていた。
ミコは木の台を持ち上げて、その日なたの中に置いた。台の脚が、ラグの上で一回だけ、がたん、と鳴った。
台の上に、文庫本をのせた。台所でみかんを一つ取ってきて、豆皿にのせて、それも台の上に置いた。
それから、トートから付箋の束を出した。一昨日の夜、七つ丸めた束だった。
ミコは、黒いペンで一枚に書いた。
〈日なた用〉
本部で、シンパイが言った。
「値段が、書いてありません」
「値札ではないので」とキオクが言った。
「では、何ですか」
ダイジョブが、少し考えた。
「使い方の札です」
ミコは台をそっと傾けて、天板の裏に付箋を貼った。〈ゆうた〉の字の、ちょうど裏側だった。
台を戻して、その前に座った。
日なたは、思っていたより早く動いた。台の手前のはしが、もう影に入りかけていた。ミコは台を二十センチ、奥へずらした。みかんがころがりそうになって、手で押さえた。
本を開いた。あの章。
背中が、少しだけ温かかった。
パイプ椅子では、ネムイが寝ていた。シンパイはマーカーにキャップをして、ホワイトボードの〈本日:物を減らす日〉の下に、小さく書き足した。
〈買った物 +1〉
ミコは、ページをめくった。


