一 三拍子の、半券
五月の第二土曜の朝、坂の上シネマのロビーには、新しいちらしの匂いがしていた。
コルクボードの真ん中に、店長の野崎航が画鋲を四つ打った。古い四階建ての建物の、階段の踊り場。手すりにもたれた人、ほうきを持った人、紙袋を抱えた人が、上の段と下の段から、同じ一点を見上げている。
〈本日より 踊り場のある家〉
「歌の映画ですね」と、三浦灯は売店のガラスケースを拭きながら言った。
「そうです。本編百四分。予告を入れて、十一時の回は十二時五十分ごろに明かりがつきます」
野崎は、数を言うと落ち着く人だった。灰色のセーターの袖をまくって、画鋲の箱を事務室へ戻しに行った。
受付では、河合悠が釣り銭の箱を開けていた。紺のカーディガンに、黒縁の眼鏡。いつもと同じだった。ただ、灯がガラスケースの二枚目を拭き終えるあいだに、河合はコルクボードの前まで三回行って、三回戻ってきた。
「河合さん、ちらし、曲がってますか」
「曲がってはいません」
「三回、見に行きましたよ」
「……上映時間を確かめていました」
「さっき、店長が言ってました」
「聞きました」
河合は眼鏡を押し上げて、受付台に戻った。それきり何も言わなかったので、灯もそれ以上は聞かなかった。河合が言わないことは、聞いてもたいてい出てこない。
十時半に扉を開けると、一回目の客がぽつぽつと入ってきた。河合は指定券を受け取って半券をちぎり、客に返す。いつもの手つきだった。
いつもの、はずだった。
灯は塩のポップコーンをカップに盛りながら、受付のほうへ目をやった。
ちぎる。そろえる。渡す。
ちぎる。そろえる。渡す。
三つで一回。どの客にも、きっちり三つ。最後の「渡す」のところで、河合の左のかかとが床から少しだけ浮いて、音もなく下りる。
灯はカップを持ったまま、しばらくそれを見ていた。
「三浦さん、塩、こぼれてます」
河合に言われて、灯は手元を見た。カップの縁から粒が三つ、ガラスケースの上に落ちていた。
一回目の上映がはじまって四十分ほどたったころ、河合は受付を野崎にまかせて、客席扉の右横の細い階段をのぼっていった。
「上、ですか」と灯は野崎に聞いた。
「階段で歌う場面が、この映画でいちばん音が大きいそうです。河合さんが、上映前の確認のときに音量の目盛りを書いてました。その場面だけは毎回、上で見ると」
「毎回」
「毎回。三回とも。真面目ですね」
野崎は感心したように言った。灯は、さっきのかかとを思い出していた。
河合が下りてきたのは、十分ほどあとだった。眼鏡の奥の目が、少しだけ赤かった。
「音、大丈夫でしたか」
「大丈夫でした」
河合は受付台の内側に戻って、釣り銭の箱のふたをきちんと閉めた。もう閉まっていたのに。
その日の三回目、十八時半の回が終わったのは、二十時半の少し前だった。
客がロビーへ流れ出てくる。灯は、上映後にだけ売っている持ち帰りのスパイス黒糖の袋を、ガラスケースの上に並べた。紙袋の口を折る音が、帰る客の話し声にまぎれていく。
最後のほうに出てきた男の人が、受付の前で足を止めた。五十代くらいで、薄い茶色の上着を腕にかけている。ここ二か月ほど、土曜の夜の回にときどき来る人だった。いつもH列の右寄りの席を取る。
「あの、ひとつ、お聞きしてもいいですか」
「はい」と河合が答えた。声がいつもより少し硬かった。
灯は知っていた。河合はこの人のことを、裏で「アンケートの人」と呼んでいる。前に空調の効きについて、用紙の裏までびっしり書いていったことがあるからだ。
「H列の九番にいたんですが」と男の人は言った。「階段の歌の場面、ありますよね。あれが終わって、しん、となったところで」
「はい」
「上のほうから、こつ、こつ、こつ、と三つ、鳴りまして」
河合の背中が、まっすぐになった。
「あれは、演出ですか」
ロビーの空気が、少しだけ止まった気がした。野崎が事務室の戸口から顔を出した。灯は黒糖の袋を持ったまま、受付を見た。
河合は、ほんの一瞬口を開けて、閉じた。
「……演出では、ありません」
「そうですか」
「申し訳ございません。お耳障りでしたら、確認いたします」
「いえ、耳障りというか」
男の人は、言葉を探すように天井を見た。
「ちょうど、歌の続きみたいだったので。それで、気になって」
「確認いたします」と河合はもう一度言った。
男の人は「お願いします」と頭を下げて、「来週も来ますので」と付け加えた。それから灯のほうへ歩いてきて、黒糖の袋をひとつ買った。
「戸川です。いつも、ここの袋、楽しみにしてて」
「ありがとうございます」
ガラス扉が閉まると、野崎が受付へ来た。
「上から、三つ」
「三つ、とおっしゃいました」と河合が言った。
「映写室の床ですね。古いですから。明日、開ける前に僕が見ます」
「……お願いします」
河合はそう言って、ちぎった半券の束を輪ゴムで留めた。輪ゴムを、三回巻いた。
二 上から、三つ
日曜の朝、野崎は懐中電灯を持って映写室へのぼった。灯は売店の仕込みをしながら、天井から聞こえる音を聞いていた。
ぎっ。ぎっ。とん、とん。
しばらくして、野崎が細い階段を下りてきた。
「床板は、どこも浮いてません。踏んでも、あの『こつ』という音にはならない。ぎっ、になります」
「ぎっ、でしたね」と灯は言った。「ここまで聞こえました」
「三浦さんのところまで聞こえるなら、H列にも聞こえるでしょう。でも、ぎっ、です。こつ、じゃない」
野崎は懐中電灯を消して、首をひねった。
「機械のほうかもしれませんね」と灯は言った。「ファンが、何かに当たってるとか」
「河合さん、どう思います」
河合は受付で、昨日の売上の数字を写していた。
「機械に、異常はありません」
「じゃあ、何でしょう」
「……確認いたします」
昨日から、河合はそれしか言わない。灯は塩の袋の口を切りながら、ちらりと河合の足元を見た。今日は、両方のかかとがしっかり床についていた。ついているというより、床に縫いつけてあるようだった。
日曜の二回目の回でも、河合は四十分を過ぎたころに階段をのぼっていった。
灯は売店の奥の流しで洗い物をしながら、耳をすませた。客席から、くぐもった音楽が聞こえてくる。だんだん大きくなる。階段の歌だった。
天井からは、何も聞こえなかった。
歌が終わって、ロビーまで、しん、という静けさが届いた。灯は蛇口を閉めて待った。
何も鳴らなかった。
十分ほどして、河合が下りてきた。階段の最後の段で、手すりを強くつかんだ。額に汗が光っていた。
「河合さん、大丈夫ですか。上、暑いですか」
「暑くはありません」
「汗、出てますよ」
「……立っていました」
「立って」
「床に両足をつけて。手すりではなく、壁に手をついて。歌のあいだ、百から七ずつ引いていました」
灯は、布巾を持ったまま河合を見た。
「どこまで、行きました」
「二です。そこで、歌が終わりました」
それだけ言って、河合は受付へ戻った。灯は、百から七ずつ引いて本当に二で終わるのかどうか、指を折って数えてみた。十四回目で、たしかに二になった。
数えているあいだに、灯は自分が笑っていることに気がついた。声には出さなかった。
河合は三回目の回でも、同じように立っていたらしい。下りてきたときには、さっきより汗が多かった。
野崎は帰りぎわ、事務室の鍵を締めながら言った。
「今日は鳴りませんでしたね。床でも機械でもないなら、昨日だけの何かかもしれません。倉庫に、前の改装のときのカーペットの切れ端があったはずです。念のため、来週までに映写室に敷いておきましょう」
「……お願いします」
河合の声は、少しだけほっとしていた。灯には、そのほっとした声のほうが気になった。
三 休館日の、靴屋
月曜は休館日だった。
灯はエプロンを着けずに、薄い灰色の上着で坂を下りた。商店街の乾物屋で、カレー粉を買うつもりだった。持ち帰りの黒糖に使う分が、そろそろ心もとない。
乾物屋の三軒手前が、古い靴屋だった。店先に、ゴム長と運動靴と、季節はずれの毛の室内履きが並んでいる。
その店の奥に、紺のカーディガンの背中が見えた。
背の高い人が、片足ずつ何かを履いて、店の中を歩いている。四歩進んで、止まる。四歩戻って、止まる。眼鏡の奥で、真剣に床を見ている。
灯は、声をかけるかどうか迷って、乾物屋のほうへ一歩、靴屋のほうへ一歩、行ったり来たりした。
河合のほうが先に気づいた。
「……三浦さん」
「こんにちは。お買い物ですか」
「室内履きです」
河合は自分の足元を見下ろした。紺色の、底の厚いフェルトの室内履きだった。
「映写室で、履きます」
「それ、冬用じゃないんですか」
「底が、いちばん厚かったので」
店のおばさんが奥から「音がしないのよ、それ」と言った。「踏んでも、ぽす、ともいわない」
河合はもう一度、四歩歩いた。たしかに、何の音もしなかった。
河合はうなずいて、それを買った。自分の財布から払って、紙袋を受け取った。
乾物屋でカレー粉を買ったあと、灯は河合と並んで、坂の下の喫茶店に入った。どちらから誘ったのか、あとで思い出そうとしても、灯にはよくわからなかった。お昼の時間だった、ということだけははっきりしていた。
窓ぎわの席で、二人とも卵サンドを頼んだ。厚く焼いた卵が、からしバターを塗ったパンにはさまっている。灯はひと口食べて、からしの量を舌で数えた。売店で使えるかどうかを考えるのは、休みの日でもやめられない。
河合は卵サンドの皿を手前に引いてから、紙袋を膝の上に置いた。
「三浦さんには、わかっていると思います」
「何がですか」
「土曜の、三つです」
灯は、卵サンドを皿に置いた。
「足ですか」
「足です」
河合は窓の外を見た。商店街を、自転車がゆっくり通っていった。
「金曜の夜に、上映前の確認で、一人で通しました。階段の歌の場面で、気がついたら、左足が床を鳴らしていました。止めようとしたら、右足が始めました」
「両方」
「両方です。土曜は、歌のあいだは我慢できていたんです。終わって、静かになって、気がゆるんで。そうしたら、三つ」
「歌の続きみたいだったって、戸川さん、言ってましたね」
「そこが、困るんです」
河合は真面目な顔のまま言った。
「映写の仕事で、客席に音を立てるのは、いけないことです。それに、私は、踊りたいわけではありません」
「はい」
「踊りは、見られるものです。私は、見るほうがいいんです。受付でお客様の顔を覚えるのも、小窓から頭を数えるのも、見るほうの仕事です。見られるほうには、回りたくない」
灯はうなずいた。それから少し考えて、言った。
「でも、あの映画、好きなんですね」
河合は、すぐには答えなかった。卵サンドを半分に折りかけて、やめた。
「好きかどうかは、足が先に決めてしまったので」
「はい」
「私は、まだ決めていません」
灯は、こらえきれずに笑った。笑ってから悪いと思って口を押さえたが、河合は怒っていなかった。少しだけ困ったように、眉を下げていた。
「どの場面ですか。足が決めたのは」
「階段の歌の、最初です」
河合は、テーブルの上に指を一本置いた。
「管理人の寺町さんが、四階から一段ずつ、ほうきで掃きながら下りてくるでしょう。掃いて、ちりとりに寄せて、次の段へ。それが三つで一回なんです。歌が始まる前から、もうずっと、三つで掃いている。そこへ、二階の人が洗濯物を干しながら、同じ三つで入ってくる。三階の子が、靴ひもを結びながら入ってくる」
指が、テーブルの上を、とん、とん、とん、と小さくたたいた。音はほとんどしなかった。
「誰も、踊っていないんです。少なくとも、最初は。みんな自分の仕事をしているだけで。それが、だんだん、そろってくる」
「そこが、好き」
「……足が」
灯は、からしバターのついた指先を紙ナプキンで拭いた。言おうかどうしようか迷ってから、言うことにした。
「河合さん。土曜の朝、受付で、半券を三つでちぎってましたよ」
河合の指が止まった。
「三つ」
「ちぎる、そろえる、渡す。最後に、左のかかとが、ちょっと浮いて」
「……一回目のお客様の、ときですか」
「全部の回です。お客さんは、誰も気づいてなかったと思います。音がしないから」
河合は自分の手を見下ろした。それから、膝の上の紙袋を見た。
しばらく黙っていた。灯は卵サンドの残りを食べた。からしは、ちょうどいい量だった。
「音がしなければ」と河合は言った。
「はい」
「音がしなければ、映写の仕事のじゃまにはなりません」
「なりませんね」
「足が勝手に何をしていても、床が鳴らなければ、客席は静かです」
河合は、紙袋の口をきちんと二回折った。
「三浦さん。これは、相談ではありません。確認です」
「はい。確認ですね」
「来週の土曜、これを履いて、上で、もう一回見ます」
灯はうなずいた。踊ってみたらどうですか、とは言わなかった。言いたい気持ちもなかった。卵サンドの皿が二枚、からっぽになっていた。
会計は、別々に払った。
店を出るとき、河合は、自分で押して開ける古い扉の前で、ほんの少しだけ止まった。灯には、それがちょうど三つ数えるあいだだったような気がしたけれど、確かめなかった。
四 踊り場の、上
次の土曜の朝、映写室の床には、灰色のカーペットの切れ端が敷いてあった。畳一枚ほどの大きさで、端が少しほつれていた。
「倉庫にありました。改装のときの残りです」と野崎が言った。「映写機の前の、河合さんが立つあたりだけ。足を引っかけないように、端は両面テープで留めました」
河合はカーペットの上に立って、かかとで二回踏んだ。こつ、とも言わなかった。
「ありがとうございます」
それから、紙袋からフェルトの室内履きを出した。
「河合さん、それは」と野崎が言った。
「上で、履きます」
野崎は細い階段を見下ろした。急で、狭い。手すりは片側にしかない。
「階段は、ふだんの靴でお願いします。それで上り下りするのは危ないです。上に着いてから、履き替えてください」
「はい。そのつもりでした」
「そうですか。僕、念のため言いました」
河合は、映写室の入口の内側に、室内履きをそろえて置いた。つま先を、小窓のほうへ向けて。
十四時半の回には、柴田澄江が来た。からし色のカーディガンに、布の手提げ。受付で指定券を出す。
河合は半券をちぎった。
ちぎる。そろえる。渡す。
澄江は半券を受け取って、少しのあいだ河合の手を見ていた。
「河合さん、今日は手がいいわね」
「……いつもと、同じです」
「そう? なんだか、拍子がいいのよ」
澄江はそれだけ言うと、半券を半券帳にはさんで、E1へ向かっていった。
灯は売店で塩のカップを渡しながら、受付を見た。河合は次の客の券を受け取っていた。左のかかとが少しだけ浮いて、音もなく下りた。河合は、もうそれを止めようとしていなかった。
十八時半の回に、戸川さんが来た。薄い茶色の上着を腕にかけて、H列九番の券を出した。
河合は、いつもより丁寧に頭を下げた。
「先週は、失礼いたしました」
「いえ、こちらこそ、変なことを聞いて」
戸川さんは半券を受け取って、客席の扉へ向かった。
本編がはじまって四十分ほどたったころ、河合は受付を野崎にまかせ、ふだんの靴で細い階段をのぼった。灯は売店から、その背中を見送った。いちばん上の段で、河合は一度だけ振り返った。それから扉の向こうへ消えた。
映写室の中は、機械の音と、小窓からもれてくる客席の音でいっぱいだった。
河合は靴を脱いで、フェルトの室内履きに足を入れた。カーペットの上に立つ。小窓に顔を寄せる。
スクリーンの中で、寺町さんが四階の段を掃きはじめた。
掃く。寄せる。次の段へ。
左足が動いた。
河合は止めなかった。フェルトの底が、カーペットの上で、ぽす、とも言わずに三つを刻んだ。右足も始めた。音は何もしなかった。

二階の人が、洗濯物を干しながら入ってくる。三階の子が、靴ひもを結びながら入ってくる。音楽がだんだん大きくなる。河合は音量の目盛りを見た。先週と同じところで、針が止まった。異常はない。
それから、小窓の下を見た。
客席は暗かった。膝も手元も見えない。端のほうの何席かは、窓の枠に隠れて見えない。窓のすぐ下になるH列は、ほとんど見えない。見えるのは、スクリーンの光に縁どられた、いくつもの頭の形だけだった。
その頭が、いくつか、揺れていた。
大きくではない。前の人のじゃまにならないくらい、ほんの少し。でも、三つで一回。D列のまんなかあたりに、ひとつ。F列の右寄りに、ひとつ。もうひとつ、E列のどこか。
河合は小窓に顔を寄せたまま、しばらくそれを見ていた。
足は、勝手に刻んでいた。止めなかった。
歌が終わった。寺町さんが一階の最後の段を掃き終えて、ほうきを壁に立てかけた。建物じゅうが、しん、と静かになった。
客席も、しん、とした。
河合の足は、もう一回だけ三つを刻んだ。フェルトとカーペットのあいだで。何の音もしなかった。
二十時半の少し前、客がロビーへ出てきた。灯は持ち帰りの黒糖の袋を並べた。
戸川さんは、まっすぐ受付へ来た。
「今日は、鳴りませんでしたね」
「はい」と河合は言った。「確認いたしました」
「何だったんですか、先週の」
河合は、少しだけ間を置いた。
「足です」
「足?」
「映写室で、私の足が、あの歌に合わせて、床を」
戸川さんはぽかんとして、それから口を押さえて笑った。ロビーに残っていた客が何人か振り向くくらいの、短い笑いだった。
「なんだ。……いや、すみません。じつは」
戸川さんは、自分の膝を手のひらでぽんとたたいた。
「僕も、あの場面、膝でやってたんですよ。音が出ないように。先週、あれが上から鳴ったとき、ちょうど僕の膝と合ってたもんだから。誰かが合わせてくれたのかと思って。それで、演出かって」
河合は何も言わなかった。眼鏡を押し上げた。
「今日も、膝でやりました」と戸川さんは言った。「静かでよかったです。ちょっとだけ、寂しかったですけど」
「静かなほうが、正しいです」
「そうですね。正しいです」
戸川さんはうなずいて、灯のところへ来て、黒糖の袋をひとつ買った。
「アンケート、書いていきましょうか。『映写室の足、よかった』って」
「書かないでください」と、受付から河合が言った。
戸川さんは笑って、書かずに帰っていった。
最後の客が坂を下りていったあと、ロビーは三人だけになった。野崎は事務室で、今日の数字を帳面に写している。灯は売店で、ポップコーン機のガラスを拭いていた。
河合が、倉庫からほうきとちりとりを出してきて、ロビーを掃きはじめた。閉館後のロビーの掃除は、いつも受付の仕事だった。
灯は、ガラスを拭く手を止めた。
掃く。寄せる。一歩。
掃く。寄せる。一歩。
河合は、ベンチの下からコルクボードの前まで、三つで一回の掃き方で進んでいった。左のかかとは、もう浮いていなかった。そのかわり、ほうきの先が床の上で、さっ、さっ、と小さく鳴った。ロビーに客はいない。鳴っても、誰のじゃまにもならなかった。
事務室から、野崎が顔を出した。帳面を持ったまま、しばらく河合を見ていた。
「河合さん、それ」
「掃いています」
河合は手を止めずに言った。
野崎は少し考えた。
「……そうですね。掃いてますね」
それだけ言って、事務室に戻っていった。帳面をめくる音がした。

灯は布巾をたたんで、売店の外に出た。ちりとりを持つのを手伝おうかと思ったけれど、やめた。代わりに、ガラスケースの上に最後に残った黒糖の袋をひとつ取って、口を折りなおした。三回、折った。
河合が、コルクボードの前で止まった。ちらしの中の踊り場を、少しだけ見上げた。
「三浦さん」
「はい」
「決めました」
「何をですか」
「好きです。足ではなく、私が」
河合はそう言って、ちりとりに寄せたほこりを、ごみ袋へあけた。それから、また掃きはじめた。
掃く。寄せる。一歩。
河合さんは、踊らない。今日も、来週も、たぶんこの映画の上映が終わるまで、ずっと。
灯は売店に戻って、明日の塩の袋を三つ、並べた。


