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坂の上シネマ第13話
日常・コメディ

河合さんは、踊らない

踊りたくない。でも、足が勝手に三拍子。

読了目安
18分
長さ
短編
#くすっと笑える#映画館#お仕事
河合さんは、踊らないのイメージ

あらすじ

五月、坂の上シネマで歌の映画が始まった。上映後、客が受付で尋ねる。「歌のあと、上から三つ鳴ったのは演出ですか」。河合さんは「確認いたします」と繰り返すばかり。野崎は床を、灯は機械を疑う。休館日の靴屋で灯が見かけたのは、室内履きを真剣に試す河合さんだった。踊らない人と静かな客席の、春の喜劇。坂の上シネマ第13話。

読みやすく、好きなところから。

目次・4章

一 三拍子の、半券

五月の第二土曜の朝、坂の上シネマのロビーには、新しいちらしの匂いがしていた。

コルクボードの真ん中に、店長の野崎航が画鋲を四つ打った。古い四階建ての建物の、階段の踊り場。手すりにもたれた人、ほうきを持った人、紙袋を抱えた人が、上の段と下の段から、同じ一点を見上げている。

〈本日より 踊り場のある家〉

「歌の映画ですね」と、三浦灯は売店のガラスケースを拭きながら言った。

「そうです。本編百四分。予告を入れて、十一時の回は十二時五十分ごろに明かりがつきます」

野崎は、数を言うと落ち着く人だった。灰色のセーターの袖をまくって、画鋲の箱を事務室へ戻しに行った。

受付では、河合悠が釣り銭の箱を開けていた。紺のカーディガンに、黒縁の眼鏡。いつもと同じだった。ただ、灯がガラスケースの二枚目を拭き終えるあいだに、河合はコルクボードの前まで三回行って、三回戻ってきた。

「河合さん、ちらし、曲がってますか」

「曲がってはいません」

「三回、見に行きましたよ」

「……上映時間を確かめていました」

「さっき、店長が言ってました」

「聞きました」

河合は眼鏡を押し上げて、受付台に戻った。それきり何も言わなかったので、灯もそれ以上は聞かなかった。河合が言わないことは、聞いてもたいてい出てこない。

十時半に扉を開けると、一回目の客がぽつぽつと入ってきた。河合は指定券を受け取って半券をちぎり、客に返す。いつもの手つきだった。

いつもの、はずだった。

灯は塩のポップコーンをカップに盛りながら、受付のほうへ目をやった。

ちぎる。そろえる。渡す。

ちぎる。そろえる。渡す。

三つで一回。どの客にも、きっちり三つ。最後の「渡す」のところで、河合の左のかかとが床から少しだけ浮いて、音もなく下りる。

灯はカップを持ったまま、しばらくそれを見ていた。

「三浦さん、塩、こぼれてます」

河合に言われて、灯は手元を見た。カップの縁から粒が三つ、ガラスケースの上に落ちていた。

一回目の上映がはじまって四十分ほどたったころ、河合は受付を野崎にまかせて、客席扉の右横の細い階段をのぼっていった。

「上、ですか」と灯は野崎に聞いた。

「階段で歌う場面が、この映画でいちばん音が大きいそうです。河合さんが、上映前の確認のときに音量の目盛りを書いてました。その場面だけは毎回、上で見ると」

「毎回」

「毎回。三回とも。真面目ですね」

野崎は感心したように言った。灯は、さっきのかかとを思い出していた。

河合が下りてきたのは、十分ほどあとだった。眼鏡の奥の目が、少しだけ赤かった。

「音、大丈夫でしたか」

「大丈夫でした」

河合は受付台の内側に戻って、釣り銭の箱のふたをきちんと閉めた。もう閉まっていたのに。

その日の三回目、十八時半の回が終わったのは、二十時半の少し前だった。

客がロビーへ流れ出てくる。灯は、上映後にだけ売っている持ち帰りのスパイス黒糖の袋を、ガラスケースの上に並べた。紙袋の口を折る音が、帰る客の話し声にまぎれていく。

最後のほうに出てきた男の人が、受付の前で足を止めた。五十代くらいで、薄い茶色の上着を腕にかけている。ここ二か月ほど、土曜の夜の回にときどき来る人だった。いつもH列の右寄りの席を取る。

「あの、ひとつ、お聞きしてもいいですか」

「はい」と河合が答えた。声がいつもより少し硬かった。

灯は知っていた。河合はこの人のことを、裏で「アンケートの人」と呼んでいる。前に空調の効きについて、用紙の裏までびっしり書いていったことがあるからだ。

「H列の九番にいたんですが」と男の人は言った。「階段の歌の場面、ありますよね。あれが終わって、しん、となったところで」

「はい」

「上のほうから、こつ、こつ、こつ、と三つ、鳴りまして」

河合の背中が、まっすぐになった。

「あれは、演出ですか」

ロビーの空気が、少しだけ止まった気がした。野崎が事務室の戸口から顔を出した。灯は黒糖の袋を持ったまま、受付を見た。

河合は、ほんの一瞬口を開けて、閉じた。

「……演出では、ありません」

「そうですか」

「申し訳ございません。お耳障りでしたら、確認いたします」

「いえ、耳障りというか」

男の人は、言葉を探すように天井を見た。

「ちょうど、歌の続きみたいだったので。それで、気になって」

「確認いたします」と河合はもう一度言った。

男の人は「お願いします」と頭を下げて、「来週も来ますので」と付け加えた。それから灯のほうへ歩いてきて、黒糖の袋をひとつ買った。

「戸川です。いつも、ここの袋、楽しみにしてて」

「ありがとうございます」

ガラス扉が閉まると、野崎が受付へ来た。

「上から、三つ」

「三つ、とおっしゃいました」と河合が言った。

「映写室の床ですね。古いですから。明日、開ける前に僕が見ます」

「……お願いします」

河合はそう言って、ちぎった半券の束を輪ゴムで留めた。輪ゴムを、三回巻いた。

二 上から、三つ

日曜の朝、野崎は懐中電灯を持って映写室へのぼった。灯は売店の仕込みをしながら、天井から聞こえる音を聞いていた。

ぎっ。ぎっ。とん、とん。

しばらくして、野崎が細い階段を下りてきた。

「床板は、どこも浮いてません。踏んでも、あの『こつ』という音にはならない。ぎっ、になります」

「ぎっ、でしたね」と灯は言った。「ここまで聞こえました」

「三浦さんのところまで聞こえるなら、H列にも聞こえるでしょう。でも、ぎっ、です。こつ、じゃない」

野崎は懐中電灯を消して、首をひねった。

「機械のほうかもしれませんね」と灯は言った。「ファンが、何かに当たってるとか」

「河合さん、どう思います」

河合は受付で、昨日の売上の数字を写していた。

「機械に、異常はありません」

「じゃあ、何でしょう」

「……確認いたします」

昨日から、河合はそれしか言わない。灯は塩の袋の口を切りながら、ちらりと河合の足元を見た。今日は、両方のかかとがしっかり床についていた。ついているというより、床に縫いつけてあるようだった。

日曜の二回目の回でも、河合は四十分を過ぎたころに階段をのぼっていった。

灯は売店の奥の流しで洗い物をしながら、耳をすませた。客席から、くぐもった音楽が聞こえてくる。だんだん大きくなる。階段の歌だった。

天井からは、何も聞こえなかった。

歌が終わって、ロビーまで、しん、という静けさが届いた。灯は蛇口を閉めて待った。

何も鳴らなかった。

十分ほどして、河合が下りてきた。階段の最後の段で、手すりを強くつかんだ。額に汗が光っていた。

「河合さん、大丈夫ですか。上、暑いですか」

「暑くはありません」

「汗、出てますよ」

「……立っていました」

「立って」

「床に両足をつけて。手すりではなく、壁に手をついて。歌のあいだ、百から七ずつ引いていました」

灯は、布巾を持ったまま河合を見た。

「どこまで、行きました」

「二です。そこで、歌が終わりました」

それだけ言って、河合は受付へ戻った。灯は、百から七ずつ引いて本当に二で終わるのかどうか、指を折って数えてみた。十四回目で、たしかに二になった。

数えているあいだに、灯は自分が笑っていることに気がついた。声には出さなかった。

河合は三回目の回でも、同じように立っていたらしい。下りてきたときには、さっきより汗が多かった。

野崎は帰りぎわ、事務室の鍵を締めながら言った。

「今日は鳴りませんでしたね。床でも機械でもないなら、昨日だけの何かかもしれません。倉庫に、前の改装のときのカーペットの切れ端があったはずです。念のため、来週までに映写室に敷いておきましょう」

「……お願いします」

河合の声は、少しだけほっとしていた。灯には、そのほっとした声のほうが気になった。

三 休館日の、靴屋

月曜は休館日だった。

灯はエプロンを着けずに、薄い灰色の上着で坂を下りた。商店街の乾物屋で、カレー粉を買うつもりだった。持ち帰りの黒糖に使う分が、そろそろ心もとない。

乾物屋の三軒手前が、古い靴屋だった。店先に、ゴム長と運動靴と、季節はずれの毛の室内履きが並んでいる。

その店の奥に、紺のカーディガンの背中が見えた。

背の高い人が、片足ずつ何かを履いて、店の中を歩いている。四歩進んで、止まる。四歩戻って、止まる。眼鏡の奥で、真剣に床を見ている。

灯は、声をかけるかどうか迷って、乾物屋のほうへ一歩、靴屋のほうへ一歩、行ったり来たりした。

河合のほうが先に気づいた。

「……三浦さん」

「こんにちは。お買い物ですか」

「室内履きです」

河合は自分の足元を見下ろした。紺色の、底の厚いフェルトの室内履きだった。

「映写室で、履きます」

「それ、冬用じゃないんですか」

「底が、いちばん厚かったので」

店のおばさんが奥から「音がしないのよ、それ」と言った。「踏んでも、ぽす、ともいわない」

河合はもう一度、四歩歩いた。たしかに、何の音もしなかった。

河合はうなずいて、それを買った。自分の財布から払って、紙袋を受け取った。

乾物屋でカレー粉を買ったあと、灯は河合と並んで、坂の下の喫茶店に入った。どちらから誘ったのか、あとで思い出そうとしても、灯にはよくわからなかった。お昼の時間だった、ということだけははっきりしていた。

窓ぎわの席で、二人とも卵サンドを頼んだ。厚く焼いた卵が、からしバターを塗ったパンにはさまっている。灯はひと口食べて、からしの量を舌で数えた。売店で使えるかどうかを考えるのは、休みの日でもやめられない。

河合は卵サンドの皿を手前に引いてから、紙袋を膝の上に置いた。

「三浦さんには、わかっていると思います」

「何がですか」

「土曜の、三つです」

灯は、卵サンドを皿に置いた。

「足ですか」

「足です」

河合は窓の外を見た。商店街を、自転車がゆっくり通っていった。

「金曜の夜に、上映前の確認で、一人で通しました。階段の歌の場面で、気がついたら、左足が床を鳴らしていました。止めようとしたら、右足が始めました」

「両方」

「両方です。土曜は、歌のあいだは我慢できていたんです。終わって、静かになって、気がゆるんで。そうしたら、三つ」

「歌の続きみたいだったって、戸川さん、言ってましたね」

「そこが、困るんです」

河合は真面目な顔のまま言った。

「映写の仕事で、客席に音を立てるのは、いけないことです。それに、私は、踊りたいわけではありません」

「はい」

「踊りは、見られるものです。私は、見るほうがいいんです。受付でお客様の顔を覚えるのも、小窓から頭を数えるのも、見るほうの仕事です。見られるほうには、回りたくない」

灯はうなずいた。それから少し考えて、言った。

「でも、あの映画、好きなんですね」

河合は、すぐには答えなかった。卵サンドを半分に折りかけて、やめた。

「好きかどうかは、足が先に決めてしまったので」

「はい」

「私は、まだ決めていません」

灯は、こらえきれずに笑った。笑ってから悪いと思って口を押さえたが、河合は怒っていなかった。少しだけ困ったように、眉を下げていた。

「どの場面ですか。足が決めたのは」

「階段の歌の、最初です」

河合は、テーブルの上に指を一本置いた。

「管理人の寺町さんが、四階から一段ずつ、ほうきで掃きながら下りてくるでしょう。掃いて、ちりとりに寄せて、次の段へ。それが三つで一回なんです。歌が始まる前から、もうずっと、三つで掃いている。そこへ、二階の人が洗濯物を干しながら、同じ三つで入ってくる。三階の子が、靴ひもを結びながら入ってくる」

指が、テーブルの上を、とん、とん、とん、と小さくたたいた。音はほとんどしなかった。

「誰も、踊っていないんです。少なくとも、最初は。みんな自分の仕事をしているだけで。それが、だんだん、そろってくる」

「そこが、好き」

「……足が」

灯は、からしバターのついた指先を紙ナプキンで拭いた。言おうかどうしようか迷ってから、言うことにした。

「河合さん。土曜の朝、受付で、半券を三つでちぎってましたよ」

河合の指が止まった。

「三つ」

「ちぎる、そろえる、渡す。最後に、左のかかとが、ちょっと浮いて」

「……一回目のお客様の、ときですか」

「全部の回です。お客さんは、誰も気づいてなかったと思います。音がしないから」

河合は自分の手を見下ろした。それから、膝の上の紙袋を見た。

しばらく黙っていた。灯は卵サンドの残りを食べた。からしは、ちょうどいい量だった。

「音がしなければ」と河合は言った。

「はい」

「音がしなければ、映写の仕事のじゃまにはなりません」

「なりませんね」

「足が勝手に何をしていても、床が鳴らなければ、客席は静かです」

河合は、紙袋の口をきちんと二回折った。

「三浦さん。これは、相談ではありません。確認です」

「はい。確認ですね」

「来週の土曜、これを履いて、上で、もう一回見ます」

灯はうなずいた。踊ってみたらどうですか、とは言わなかった。言いたい気持ちもなかった。卵サンドの皿が二枚、からっぽになっていた。

会計は、別々に払った。

店を出るとき、河合は、自分で押して開ける古い扉の前で、ほんの少しだけ止まった。灯には、それがちょうど三つ数えるあいだだったような気がしたけれど、確かめなかった。

四 踊り場の、上

次の土曜の朝、映写室の床には、灰色のカーペットの切れ端が敷いてあった。畳一枚ほどの大きさで、端が少しほつれていた。

「倉庫にありました。改装のときの残りです」と野崎が言った。「映写機の前の、河合さんが立つあたりだけ。足を引っかけないように、端は両面テープで留めました」

河合はカーペットの上に立って、かかとで二回踏んだ。こつ、とも言わなかった。

「ありがとうございます」

それから、紙袋からフェルトの室内履きを出した。

「河合さん、それは」と野崎が言った。

「上で、履きます」

野崎は細い階段を見下ろした。急で、狭い。手すりは片側にしかない。

「階段は、ふだんの靴でお願いします。それで上り下りするのは危ないです。上に着いてから、履き替えてください」

「はい。そのつもりでした」

「そうですか。僕、念のため言いました」

河合は、映写室の入口の内側に、室内履きをそろえて置いた。つま先を、小窓のほうへ向けて。

十四時半の回には、柴田澄江が来た。からし色のカーディガンに、布の手提げ。受付で指定券を出す。

河合は半券をちぎった。

ちぎる。そろえる。渡す。

澄江は半券を受け取って、少しのあいだ河合の手を見ていた。

「河合さん、今日は手がいいわね」

「……いつもと、同じです」

「そう? なんだか、拍子がいいのよ」

澄江はそれだけ言うと、半券を半券帳にはさんで、E1へ向かっていった。

灯は売店で塩のカップを渡しながら、受付を見た。河合は次の客の券を受け取っていた。左のかかとが少しだけ浮いて、音もなく下りた。河合は、もうそれを止めようとしていなかった。

十八時半の回に、戸川さんが来た。薄い茶色の上着を腕にかけて、H列九番の券を出した。

河合は、いつもより丁寧に頭を下げた。

「先週は、失礼いたしました」

「いえ、こちらこそ、変なことを聞いて」

戸川さんは半券を受け取って、客席の扉へ向かった。

本編がはじまって四十分ほどたったころ、河合は受付を野崎にまかせ、ふだんの靴で細い階段をのぼった。灯は売店から、その背中を見送った。いちばん上の段で、河合は一度だけ振り返った。それから扉の向こうへ消えた。

映写室の中は、機械の音と、小窓からもれてくる客席の音でいっぱいだった。

河合は靴を脱いで、フェルトの室内履きに足を入れた。カーペットの上に立つ。小窓に顔を寄せる。

スクリーンの中で、寺町さんが四階の段を掃きはじめた。

掃く。寄せる。次の段へ。

左足が動いた。

河合は止めなかった。フェルトの底が、カーペットの上で、ぽす、とも言わずに三つを刻んだ。右足も始めた。音は何もしなかった。

上映中の映写室。河合が灰色のカーペットの上で紺のフェルト室内履きを履き、小窓をのぞく。普通の靴は入口にそろえてある。

二階の人が、洗濯物を干しながら入ってくる。三階の子が、靴ひもを結びながら入ってくる。音楽がだんだん大きくなる。河合は音量の目盛りを見た。先週と同じところで、針が止まった。異常はない。

それから、小窓の下を見た。

客席は暗かった。膝も手元も見えない。端のほうの何席かは、窓の枠に隠れて見えない。窓のすぐ下になるH列は、ほとんど見えない。見えるのは、スクリーンの光に縁どられた、いくつもの頭の形だけだった。

その頭が、いくつか、揺れていた。

大きくではない。前の人のじゃまにならないくらい、ほんの少し。でも、三つで一回。D列のまんなかあたりに、ひとつ。F列の右寄りに、ひとつ。もうひとつ、E列のどこか。

河合は小窓に顔を寄せたまま、しばらくそれを見ていた。

足は、勝手に刻んでいた。止めなかった。

歌が終わった。寺町さんが一階の最後の段を掃き終えて、ほうきを壁に立てかけた。建物じゅうが、しん、と静かになった。

客席も、しん、とした。

河合の足は、もう一回だけ三つを刻んだ。フェルトとカーペットのあいだで。何の音もしなかった。

二十時半の少し前、客がロビーへ出てきた。灯は持ち帰りの黒糖の袋を並べた。

戸川さんは、まっすぐ受付へ来た。

「今日は、鳴りませんでしたね」

「はい」と河合は言った。「確認いたしました」

「何だったんですか、先週の」

河合は、少しだけ間を置いた。

「足です」

「足?」

「映写室で、私の足が、あの歌に合わせて、床を」

戸川さんはぽかんとして、それから口を押さえて笑った。ロビーに残っていた客が何人か振り向くくらいの、短い笑いだった。

「なんだ。……いや、すみません。じつは」

戸川さんは、自分の膝を手のひらでぽんとたたいた。

「僕も、あの場面、膝でやってたんですよ。音が出ないように。先週、あれが上から鳴ったとき、ちょうど僕の膝と合ってたもんだから。誰かが合わせてくれたのかと思って。それで、演出かって」

河合は何も言わなかった。眼鏡を押し上げた。

「今日も、膝でやりました」と戸川さんは言った。「静かでよかったです。ちょっとだけ、寂しかったですけど」

「静かなほうが、正しいです」

「そうですね。正しいです」

戸川さんはうなずいて、灯のところへ来て、黒糖の袋をひとつ買った。

「アンケート、書いていきましょうか。『映写室の足、よかった』って」

「書かないでください」と、受付から河合が言った。

戸川さんは笑って、書かずに帰っていった。

最後の客が坂を下りていったあと、ロビーは三人だけになった。野崎は事務室で、今日の数字を帳面に写している。灯は売店で、ポップコーン機のガラスを拭いていた。

河合が、倉庫からほうきとちりとりを出してきて、ロビーを掃きはじめた。閉館後のロビーの掃除は、いつも受付の仕事だった。

灯は、ガラスを拭く手を止めた。

掃く。寄せる。一歩。

掃く。寄せる。一歩。

河合は、ベンチの下からコルクボードの前まで、三つで一回の掃き方で進んでいった。左のかかとは、もう浮いていなかった。そのかわり、ほうきの先が床の上で、さっ、さっ、と小さく鳴った。ロビーに客はいない。鳴っても、誰のじゃまにもならなかった。

事務室から、野崎が顔を出した。帳面を持ったまま、しばらく河合を見ていた。

「河合さん、それ」

「掃いています」

河合は手を止めずに言った。

野崎は少し考えた。

「……そうですね。掃いてますね」

それだけ言って、事務室に戻っていった。帳面をめくる音がした。

夜の閉館後、普通靴の河合がほうきとちりとりで掃く。灯は売店前で小さな持ち帰り袋を折り、野崎が帳面を持って戸口からのぞく。

灯は布巾をたたんで、売店の外に出た。ちりとりを持つのを手伝おうかと思ったけれど、やめた。代わりに、ガラスケースの上に最後に残った黒糖の袋をひとつ取って、口を折りなおした。三回、折った。

河合が、コルクボードの前で止まった。ちらしの中の踊り場を、少しだけ見上げた。

「三浦さん」

「はい」

「決めました」

「何をですか」

「好きです。足ではなく、私が」

河合はそう言って、ちりとりに寄せたほこりを、ごみ袋へあけた。それから、また掃きはじめた。

掃く。寄せる。一歩。

河合さんは、踊らない。今日も、来週も、たぶんこの映画の上映が終わるまで、ずっと。

灯は売店に戻って、明日の塩の袋を三つ、並べた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また、読みたくなったときに。次の物語を探す

坂の上シネマを、つづけて。

第13話 / 13話公開中