一 四等の、白い封筒
三月の終わりの土曜日、坂の下の商店街に、紅白の幕を張った福引所が出ていた。
十三時半に店番を終えたひよりは、補助券を五枚、指の間でそろえて列のうしろに並んだ。二週間かけて集めた五枚だった。文房具屋でノートを買ったときの一枚、本屋で文庫を買ったときの二枚、角のたい焼き屋で二回に分けてもらった二枚。
「はい、五枚で一回ね」
法被のおじさんが補助券を数え、八角形の箱を手で示した。ひよりは取っ手をつかんで、ゆっくり一回まわした。がらがら、と中で玉が転がり、受け皿に黄色い玉がひとつ、ころりと落ちた。
おじさんは鐘を二回、強く振った。
「四等! おめでとう!」
うしろに並んでいた人たちが、ぱらぱらと手をたたいた。ひよりは何がもらえるのか知らないまま、とりあえず頭を下げた。
渡されたのは、白い封筒だった。表に、見覚えのある判子が押してあった。坂のてっぺんの、あの館の名前だった。
〈坂の上シネマ ご招待券 二枚〉
ひよりは封筒を両手で持ったまま、坂を見上げた。
坂の上シネマのガラス扉を押したのは、十六時二十分だった。二回目の上映が終わったばかりで、ロビーには帰る人の話し声がまだ少し残っていた。
右の売店では、三浦灯が深緑のエプロンでガラスケースを拭いていた。左の受付には河合悠が、紺のカーディガンの背をのばして立っている。事務室の扉の前で、店長の野崎航が、ちらしの束を灰色のセーターの腕に抱えていた。
「当たりました」
ひよりが封筒をかかげると、三人がそろってこちらを見た。
「あ、福引ですね」と野崎が言った。「うちから商店街に、五組出したんです。四等で」
「五組のうちの、一組です」とひよりは言った。
「五組で、十枚です。一枚ずつでも使えます」
野崎は、数をきちんと言いたがる人だった。
河合が受付台の上で封筒を受け取り、中の二枚を出して、裏返した。眼鏡を押し上げてから、小さな字を読み上げる。
「〈一枚につきお一人様一回。四月三十日まで有効。受付で指定席にお引き換えください。お電話でのご予約は前日まで。ご予約のお席は、開始十五分前を過ぎますと開放いたします。売店の品は含みません〉」
「ふつうと、同じですね」
「同じです。当日、空いているお席なら、窓口でそのままお引き換えもできます」
河合は二枚をそろえて、封筒へ戻した。
「どなたと、いらっしゃいますか」と灯が聞いた。
ひよりは口を開けて、そこで止まった。
二枚あるのだから、だれかと来るのだ。そう思ったとたん、クラスの何人かの顔が浮かんで、すぐに消えた。それから、店の奥のレジ台で、鉛筆の尻で頭をかいている人の顔が浮かんだ。
「……お父さん」
声に出してみると、思っていたより、すとんと決まった。
「いいですね」と灯が言った。
「お父様のお顔は、まだ存じ上げません」と河合が言った。「覚えます」
「まだ来るって言ってないです」
ひよりはロビーのコルクボードを見た。来月の作品のちらしが、端に一枚留めてあった。青い空に、四角い凧がひとつ。紙のしっぽが、画面の外までくねくねとのびている。
〈四月から しっぽの長い凧〉
「これにします」
「まだご覧になっていませんよね」と河合が言った。
「だから、先にひとりで観ます。いいところを、覚えておくんです。お父さんと観るときに、教えてあげられるように」
「下見ですね」
河合がまじめな顔で言ったので、灯はガラスケースのほうを向いて、肩だけで笑った。
その夜、台所のテーブルで、父は一冊のノートを開いていた。
角のすり切れた大学ノートだった。毎朝、店のシャッターを上げる前に、父は裏口から空を見上げて、その日の天気と雲と風を、一行ずつ書いていく。ひよりが小さいころから、ずっとそうだった。ひよりにとっては、歯みがきと同じくらい見慣れた、父の朝だった。
〈三月最後の土 晴れ、昼から薄雲。西の風、やや強し。福引の幕がばたばた〉
夜にも、ときどき書き足す。
「お父さん。四月の土曜の昼、どこか空いてる?」
「土曜の昼は、店だ」
「十三時半までは、わたしが店番するでしょ。そのあと」
「そのあとも、店だ」
父は鉛筆の尻でこめかみをかいた。冗談の顔ではなかった。土曜の午後は、父がひとりでシャッターを下ろすまで店に立つ。それが決まりだった。
ひよりは、白い封筒をノートの横に置いた。
「当たったの。坂の上シネマの、招待券。二枚」
「……ああ、あそこか」
「お父さん、入ったことある?」
「あるよ。……いつだったかな」
父は天井のほうを見て、しばらく考えて、首をひねった。
「毎日、前は通るんだけどな。銀行の行き帰りに」
「だから、誘ってるの。わたしが」
言ってから、ひよりは自分の声が少し大きかったことに気づいた。父も気づいたようで、鉛筆を置いた。
「何の映画だ」
「凧の。しっぽの長い凧」
「凧」
父は、窓のほうへ目をやった。夜の窓には、台所の明かりと、自分たちの姿しか映っていなかった。それでも父は、外の空を見るときと同じ目をしていた。
「土曜の十四時半。十四時十五分までに受付」
「十四時十五分」
父はノートの今日の行の下に、小さく〈十四時十五分〉と書いた。
「……一日だけ、十三時半で閉めるか。貼り紙を書いとく」
「ほんと?」
「招待されたんだろ。俺が」
二 お父さん案内
四月最初の土曜日の夜の回で、ひよりは『しっぽの長い凧』を観た。高校生の千円は、自分の財布から出した。
海辺の小さな町の話だった。小学生の陽太が、口の悪いおじいさんと二人で、町の凧あげ大会のために、しっぽの長い凧を作る。おじいさんは貼りかけの紙の上で大きなくしゃみをして、穴をあける。二人はけんかをして、河原で並んで座って、仲直りをするでもなく、しないでもなく、夕方まで黙っている。大会の日、凧は一度落ちて、もう一度あがる。
明かりがついてから、ひよりはロビーのベンチで、ノートを開いた。
〈お父さん案内〉
一 坂の途中で、ふりかえる(町が見える)
二 受付で、招待券を出す(わたしが)
三 売店で、塩の小(わたしが買う)
四 D1
五 ①くしゃみ ②河原 ③しっぽ →お父さんの顔を見る
六 帰りに、持ち帰りの黒糖
五番の横には、小さく〈笑うはず〉〈じんとくるはず〉〈すごいはず〉と書き足した。
売店から灯がのぞきこんで、「六番、ありがとうございます」と言った。
「見ないでください」
「すみません。見えました」
次の金曜日の夜、ひよりは家の廊下で、坂の上シネマに電話をかけた。
「はい、坂の上シネマです」
河合の声だった。
「あした、土曜の十四時半の回、二枚お願いします。招待券で」
「お席のご希望は」
「D列の、一番と二番」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
「空いております。D列の一番と二番、お取りしました。招待券をお持ちになって、十四時十五分までに受付へお越しください。過ぎますと、お席は開放になります」
「はい」
「……D1は、どなたの席というわけでもありませんが」
河合は、念を押すように言った。
「知ってます。だから、取ったんです。空いてたから」
ひよりは受話器を持ちかえた。
「D1、お父さんに座ってもらうんです。わたしが最初に座った席だから」
少し間があって、河合が「承知しました」と言った。いつもより、ほんの少しだけ柔らかい声だった。
三 十三時半の、貼り紙
土曜日の十三時二十分、店の入口のガラス戸には、父の字の貼り紙がもう内側から貼ってあった。
〈本日は 十三時半にて 閉めさせていただきます〉
ひよりはレジ台の横で、斜め掛けの小さな鞄を何度も開け閉めしていた。白い封筒は、ちゃんと入っている。招待券も、二枚とも入っている。生成りのニットの袖を引っぱって、時計を見る。十三時二十二分。
そのとき、ガラス戸が開いた。
「ごめんね、まだいい?」
近所の大川さんだった。小柄なおばあさんで、いつも用事をひとつ済ませるたびに、話をみっつ置いていく。
「いらっしゃい。どうぞ」
父は貼り紙を気にするそぶりも見せずに、いつもの声で言った。大川さんは用事をひとつ済ませ、それから、孫が春から自転車で通いはじめた話をはじめた。坂がきついこと。ブレーキの音がうるさいこと。
十三時二十七分。
ひよりが父の背中を見ると、父は大川さんにうなずきながら、片手だけ後ろに回して、ひらひらと振った。
先に行け、の手だった。
「券、持ってるな」と父が小声で言った。
「持ってる。二枚とも」
「十四時十五分」
「お父さんが言わないで。わたしが言うの」
ひよりは鞄の口を押さえて、店を出た。
坂をのぼりながら、ノートの一番を思い出した。〈坂の途中で、ふりかえる〉。今ふりかえっても、隣にはだれもいない。ひよりは前を向いたまま、少し早足になった。
坂の上シネマに着いたのは、十三時四十九分だった。
ロビーにはまだ人が少なかった。売店の黄色い電球の下で、ポップコーン機がからからと回っている。灯がひよりに気づいて、手を小さく上げた。
「お父さんは」
「お店のお客さんが、話の長い人で」
ひよりはベンチに座って、ガラス扉のほうを見た。坂の下から、人がのぼってくる。父ではない。また人がのぼってくる。父ではない。
十四時五分、ひよりは立ち上がって受付へ行った。
「引き換え、お願いします。二枚とも」
河合は招待券を二枚受け取って、手元の席の表を確かめ、指定券を二枚出した。
「D列一番、D列二番です。お引き換えが済みましたので、お連れの方は、上映開始までにお越しいただければ大丈夫です」
「十四時十五分じゃなくて?」
「十五分前は、ご予約のお席を開放する時刻です。もうお引き換えいただきました」
ひよりは二枚の指定券を受け取った。D1とD2。手のひらの上で、小さな紙が二枚、ぴったり重なった。
招待券を持っていたときより、なぜか重かった。
十四時十三分、ガラス扉が勢いよく開いた。
「間に合ったか」
父だった。少し息が切れていて、上着の前が半分開いている。
「間に合ってる。もう換えたから」
ひよりが指定券を見せると、父は「そうか」と息を吐いて、それから、ロビーをぐるりと見回した。受付、正面の両開きの扉、コルクボード。
最後に、売店で目が止まった。
ポップコーン機のガラスの中で、ちょうど豆が弾けはじめたところだった。ぽつ、ぽつ、と白いものが跳ねる。
父は売店のほうへ、吸いよせられるように歩いていった。
「お父さん、こっち。先にコルクボード――」
ひよりの声は、父の背中に届かなかった。父はガラスケースの前で腰をかがめて、ポップコーン機をのぞきこんだ。
「いらっしゃいませ」と灯が言った。
「これ、最初はぽつぽつなんですね」
「はい。温まると、一気にきます」
その言葉どおり、ガラスの中で白いものがいっせいに跳ねはじめた。ぱらぱらぱら、と鳴る。父は腰をかがめたまま、うなずいた。
「本降りだ」
「本降り、ですか」
「で、最後はまた、ぽつぽつになる」
音がだんだんまばらになって、最後にひとつ、ぽつ、と跳ねた。父は満足そうに背をのばした。
「通り雨だな」
灯は、こらえきれずに笑った。
ひよりはノートを鞄から出しかけて、またしまった。三番は〈売店で、塩の小(わたしが買う)〉。売店には、もう父が先に来ている。
「塩の小、ひとつください」
ひよりは父の横から割りこんで、自分の財布から千円札を出した。
「俺が出すよ」
「だめ。今日は、わたしが誘ったんだから」
父は、出しかけた財布を、ゆっくりポケットへ戻した。灯は何も言わずに塩の小をカップに盛って、ひよりに渡し、おつりを渡した。
ガラス扉がまた開いて、からし色のカーディガンが入ってきた。短い白髪に、布の手提げ。柴田澄江だった。
「あら、今日はおそろい?」
「お父さんです」とひよりは言った。「こちら、柴田さん」
父は頭を下げた。澄江も頭を下げて、それから、ひよりの手の中の指定券をちらりと見た。
「D列?」
「D1と、D2です」
「じゃあ、わたしはお父さんの真うしろだわ」
澄江は自分の券をひらひらさせた。E1だった。
四 D列の、上
十四時二十二分、ひよりはD1の指定券を父に渡してから、父を連れて、両開きの扉をくぐった。
客席はまだ明るかった。A列からH列まで、座席が十二ずつ並んでいる。ひよりはD列の左の端まで行って、通路側の席を手で示した。
「お父さん、ここ。D1」
「端だな」
「端がいいの。わたしが最初に座った席」
父はD1に腰を下ろして、肘掛けを二回たたいた。ひよりはD2に座って、塩の小を二人のあいだに持った。うしろのE1に、澄江が座る気配がした。
「あのね」とひよりは小声で言った。「最初のほうで、おじいさんがくしゃみするの。そこ、笑うところだから」
「先に言うのか」
「言わないと、見逃すかもしれないでしょ」
「くしゃみを見逃すかな」
場内の明かりが、ゆっくり落ちていった。
予告編のあいだ、ひよりは何度も父の横顔を見た。暗がりの中で、スクリーンの光が父の額と鼻を薄く照らしている。父はちゃんと前を見ていた。
本編がはじまった。海辺の町。風。陽太が自転車で坂を下りてくる。
十五分ほどたったころ、おじいさんが貼りかけの凧の紙の上に、顔を近づけた。ひよりは、スクリーンではなく、父のほうを向いた。
はっくしょん。
紙の真ん中に、ぽっかり穴があいた。客席のあちこちで、笑い声が起きた。
父も、笑った。肩を揺らして、鼻から息をもらすように笑った。
ひよりは、胸の中で〈①〉に丸をつけた。
塩の小を父のほうへ差し出すと、父は暗がりの中で一つまみ取った。
五十分を過ぎたころ、河原の場面になった。
陽太とおじいさんが、けんかをしたまま、草の上に並んで座っている。二人とも口をきかない。川の上の空を、雲がゆっくり流れていく。画面の端で、作りかけの凧のしっぽが、風に揺れている。
ひよりは、また父のほうを見た。
父は、まばたきもせずにスクリーンを見つめていた。口を少し結んで、眉のあいだに、うすいしわを寄せている。
じんときてる、とひよりは思った。〈②〉に、丸。
ひよりは自分も前を向こうとして、そこで、父の顔がゆっくり上へ動くのに気づいた。
父は、天井を見ていた。
ひよりもつられて見上げた。客席のうしろの高いところ、映写室の小窓から、白い光の帯がまっすぐスクリーンへのびている。その光の中で、細かいほこりが、ゆっくり、ゆっくり、回っていた。
父は、それを見ていた。口を少しだけ開けて。
ひよりは前を向いた。河原の場面は、もう終わりかけていた。
それからも、父はときどき上を見た。スクリーンが明るくなるたびに、光の帯ははっきりして、そのたびに父のあごが上がった。ひよりは、肘でつつこうか、と三回考えて、三回とも、やめた。

大会の日の場面になった。
町じゅうの人が、浜に集まっている。陽太の凧は、一度あがって、落ちる。浜の砂に、長いしっぽがだらりと伸びる。おじいさんは何も言わない。陽太がもう一度走る。
スクリーンが、白っぽい青の空でいっぱいになった。
場内でいちばん明るい場面だった。光の帯が、これまででいちばん太く見え、くっきりと、客席の上に浮かびあがった。
ひよりは横を見なくても、わかった。父のあごが、上がっている。
〈③ すごいはず〉
ひよりは、ノートのその行を思い浮かべた。それから、父のほうを見るのをやめた。
前を見た。
凧が、あがっていく。長いしっぽが、空に書いた字のようにくねって、画面の右へ流れていく。陽太が、おじいさんの手から糸を受け取る。おじいさんが、また、くしゃみをする。
先週と同じ場面なのに、先週は気づかなかった。おじいさんのくしゃみで、陽太が、ちょっとだけ笑っていた。
ひよりは塩の小の最後の一つまみを、自分で食べた。
エンドロールが終わり、客席の明かりがゆっくりついた。
うしろから、澄江の声がした。
「お父さん、首、大丈夫?」
父は首の後ろをさすりながら、振り返った。
「見えました?」
「見えたわよ。うしろから見てたら、ずうっと、あごが上がってるんだもの。映画より、そっちが気になっちゃったわ」
澄江は楽しそうに笑って、手提げを持って立ち上がった。
ひよりは、空になったカップを持ったまま、父を見た。
「……お父さん。いちばんいいところ、上、見てたでしょ」
「見てたよ」
父はあっさり言った。
「上でも、凧があがってたからな」
五 光の中の、天気
ロビーに出ると、映写室への細い階段から、河合が下りてくるところだった。眼鏡を押し上げながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「失礼いたします。D列の、左の端の方」
「俺です」と父が手を上げた。
「上映中、小窓から、何度かこちらを見上げているお顔が見えまして」
河合は、いつもよりわずかに早口だった。
「光にちらつきでもあるのかと、ランプと窓を確かめました。異常はありませんでした」
「すみません。ちらつきじゃないです」
「では、何か」
「光の中に、ほこりが」
河合の背が、少しだけまっすぐになった。
「……掃除は、毎週しております」
「いや、あれがいいんです」と父は言った。「あれ、ゆっくり右に回ってましたね。空調の風ですか」
河合は、少し考えた。
「そこまでは、見たことがありませんでした」
ひよりは、二人のあいだに入った。
「お父さん。映写室の窓からはね、頭しか見えないんだよ。膝とか、手元とかは見えないの。前に見学させてもらったから、知ってるの」
「頭しか見えないのに、俺は見えたのか」
「上を向いていらしたからです」と河合が言った。「上を向くと、お顔になります」
父は、なるほど、という顔でうなずいた。ひよりは、自分の知っていることを、やっと一つ父に教えられた気がした。それが映写室の窓のことだったのが、なんだかおかしかった。
河合は、ひよりと父の顔を一度ずつ見てから、「覚えました」と言って、受付へ戻っていった。
売店では、灯が上映後の持ち帰りの袋を並べはじめていた。スパイスを効かせた黒糖のポップコーンが、小さな紙の袋に入っている。
〈六 帰りに、持ち帰りの黒糖〉
ひよりが財布を出す前に、父がガラスケースの前に立っていた。
「これ、ひとつ」
「お父さん、それも、わたしが――」
「これは俺のだ。晩に食う」
父は自分の財布から払って、袋を受け取った。灯がひよりのほうを見て、ほんの少しだけ肩をすくめた。
坂を下りはじめたのは、十六時半すぎだった。
西の空が、薄い黄色になりかけていた。父は袋を片手にぶら下げて、ゆっくり歩いた。
「ねえ。河原のとこ、すごく真剣な顔してたよね。あれは、何見てたの」
「雲」
「雲?」
「凧のしっぽは、右へなびいてたろ。風が左から吹いてるってことだ」
父は、空いたほうの手で、左から右へ空をなでた。
「でも、上の雲は、左へ流れてた」
ひよりは足を止めた。
二回観た。二回とも、あの河原の場面で、しっぽが揺れているのは見ていた。雲が流れているのも、見ていたはずだった。けれど、どっちへ流れていたかなんて、考えたこともなかった。
「……間違い、ってこと?」
「さあな。上の風と下の風は、向きが違うこともある。あの町なら、ありそうだ」
父は空を見上げた。坂の上の空にも、薄い雲が出ていた。
「もう一回観たら、わかるかもしれん」
ひよりは、父が空を見上げているあいだに、ふりかえった。
坂の下に、商店街の屋根が並んでいた。その向こうに、駅と、小さな川と、もっと向こうの山の線が見えた。夕方の光で、屋根の一枚一枚が、少しずつ違う色をしていた。
ノートの一番。〈坂の途中で、ふりかえる〉。
行きは、ひとりだった。帰りは、父が上を見ていて、こっちを向いていなかった。
それでも、ひよりは心の中で、一番に丸をつけた。

その夜、台所のテーブルで、父はまたノートを開いた。
今日の行の下に、鉛筆で書き足していく。
〈坂の上シネマ 屋内。D1。光の帯、明るい場面ほど太く見える。ほこり、ゆっくり右回り。凧のしっぽ右へ、雲は左へ。上の風か。要確認〉
ひよりは、その横からのぞきこんだ。
「天気のノートに、映画のこと書いていいの?」
「天気のことしか書いてない」
父は、上着のポケットから、D1の指定券を出した。半分にちぎれた、小さな紙。それを今日の行の横にはさんで、ノートを閉じかけて、また開いた。
「お前も、何か書くか」
ひよりは鉛筆を受け取った。少し考えてから、父の字の下に、小さく書いた。
〈凧、あがった。 D2 ひより〉
自分の半券は、ポケットに入れたままにした。父のノートにはさむのは、父の分だけでいい。これは、わたしが誘った日の、わたしの分だ。
鞄の中のノートには、〈お父さん案内〉が六番まで、全部丸がついている。順番はばらばらで、二番はひとりでやって、三番は父に先を越されかけて、六番は父に取られた。ひよりは一番下に、七番を書き足した。
〈七 光(お父さん)〉
父は黒糖の袋を開けて、一粒つまんで、首をかしげた。
「甘いのに、ちょっと辛いな」
「スパイスだよ。三浦さんの」
「ふうん」
父はもう一粒つまんだ。
「来週の土曜、もう一回行ってくるかな。雲を確かめに。券は自分で買う」
「店は」
「……そうだな」
ひよりは鉛筆を置いた。
「じゃあ、その日はわたしが店番する。お父さんが行くあいだ」
「十三時半までだろ」
「延長してあげる」
父は少し笑って、ノートの〈要確認〉の横に、もう一行だけ書いた。
〈来週土 十四時十五分までに受付〉
「十四時十五分は、予約したときだけだよ」とひよりは言った。「当日、空いてる席を買うなら、関係ないの」
「そうなのか」
「そうなの」
父は鉛筆で、その一行を消そうとして、やめた。
「まあ、早めに着くにこしたことはない」
ひよりは黒糖の袋に手を入れた。甘くて、ちょっと辛かった。
来週、父がどの席を選ぶのか、ひよりは知らない。たぶん、また上を見るのだろう。それを、うしろの席から見てみたい気もしたけれど、来週のひよりは、店番だった。


