一 洗濯ばさみで、一組
三月最初の月曜の休館が明けた週の、金曜日だった。
三浦灯が坂の上シネマのガラス扉を押したのは、十六時五十五分だった。平日の夜の回は十八時半からで、売店の支度にはまだ少し早い。外は明るかったが、坂の下から吹きあがってくる風は、まだ冬の名残りで冷たかった。
ロビーの左の受付で、河合悠が背筋をのばして待っていた。紺のカーディガンの腕に、ふたつきの木の箱を抱えている。受付の横の棚にいつも置いてある、忘れ物の箱だった。
「三浦さん。そろいました」
「なにが、ですか」
河合は黒縁の眼鏡を指で押し上げて、もったいをつけるようにふたを開けた。
赤いニットの手袋が二つ、手首のところを木の洗濯ばさみではさまれて、箱の底に寝ていた。
灯は売店へ入ってコートと鞄を置き、深緑のエプロンをつけてから受付へ戻った。手袋より先に、洗濯ばさみを見た。
「それ、売店のですよね」
「お借りしました。豆の袋の口の」
「豆の袋は」
「輪ゴムで留めてあります。二重に」
河合は箱を受付台に置いた。
「火曜に三浦さんが拾った片方と、昨日の夜、僕がF列の三番の下で拾った片方です。木島さんの手袋です」
「木島さん」
「木曜の夜の回の方です。いつも前の日に電話で、F列の三番を取られる。赤い手袋をしてらっしゃる」
河合は、ほんの少し胸を張った。来る人の顔を覚えるのは、河合のいちばんの得意だった。
「火曜に片方、木曜にもう片方。二回に分けて落とされたんです。次に来られたら、一組でお返しできます」
灯は箱の中をのぞいた。火曜の片方のことは、よく覚えていた。
あの日、河合は映写機の点検で、夕方から二階の映写室にこもっていた。受付には店長の野崎が立った。十八時半に客席の明かりが落ちたあと、灯は売店のガラスケースを拭いていて、お客さんの側の端、積んである塩のカップの横に、赤い手袋が片方だけ落ちているのを見つけた。受付の野崎に渡して、忘れ物のノートに書いて、札をつけて箱に入れた。そこまでは、灯がしたことだった。
二つの手袋には、それぞれ札が糸で結んであった。
〈火 十八時四十分ごろ 売店ガラスケースの端(塩のカップの横) 赤い手袋 片方 三浦〉
〈木 二十時二十五分ごろ F列三番の座席の下 赤い手袋 片方 河合 →火曜の分と一組〉
灯は洗濯ばさみをはずした。
二つは、ほんとうによく似ていた。同じ赤い毛糸で編んだ五本指で、手首のところに銀色の小さなスナップがついている。売店の黄色い電球の光がロビーまで届いていて、その下では、どちらの赤も同じ色に見えた。
「このスナップ、留めないんですか」
「留まらないんです。ゆるいんでしょう。それで洗濯ばさみに」
灯は二つの手首を合わせて、スナップを押した。かち、と固いものどうしが当たる音がして、それきりだった。片方のスナップは、まん中がぽこりと出ている。もう片方も、同じように出ている。
灯は手袋を受付台に並べた。手の甲を上にして、指先を向こうへ向ける。
親指が、二つとも左側にあった。
灯は自分の右手を、片方の上にそっと重ねた。親指の位置が、ぴったり合った。もう片方にも重ねた。それも合った。
「河合さん」
「はい」
「これ、両方とも右です」
河合は手袋を見た。灯の手を見た。もう一度、手袋を見た。眼鏡を押し上げる指が、途中で止まった。
「……スナップも、出っぱり同士ですね」
「はい。だから留まらないんです。ゆるいんじゃなくて」
河合はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりうなずいた。
「わかりました。木島さんは、右をなくす方なんです」
「はい?」
「火曜に右を落とされて、新しいのを買われて、木曜にまた右を落とされた。そういう方はいます。右ばかり外すんです、きっと」
「それだと、木島さんのお家には、左が二つあることになります」
「あり得ます。左はなくさない方なんです」
灯は、受付台の引き出しから忘れ物のノートを出した。表紙の角が丸くなった大学ノートで、日付と時刻と場所と物と、見つけた人の名前を書く欄がある。
灯の火曜の行の下に、河合の木曜の行があった。札と同じことが書いてある。その行のいちばん最後に、河合の小さな字で、〈木島さん〉と添えてあった。
二 裏返しても、右
十七時十二分に、ひよりが来た。
紺の制服の上にコートをはおって、灰色のニットの手袋をしている。短いボブの横で、ヘアピンが光っていた。今日の夜の回を見に、学校の帰りに坂をのぼってきたのだ。
「こんばんは。……何してるんですか、二人で」
受付台の上には、赤い手袋が二つと、開いたノートと、洗濯ばさみが並んでいた。灯がかいつまんで話すと、ひよりは鞄を下ろして、身を乗り出した。
「両方、右」
「両方、右です」
「片っぽ、裏返しってことないですか」
ひよりは自分の灰色の手袋を左手から抜いて、くるりと裏返した。
「ほら。左のを裏返すと、親指が反対に来るから、右みたいになるんです。わたし、小学生のとき、それで一冬ずっと右を二つしてたことあって」
河合が、目を見開いた。
「それなら、一組です」
灯は赤い手袋の片方を取って、ひよりと同じように、そっと裏返してみた。
出てきたのは、ぽつぽつと粒の並んだ、ざらついた編み目だった。表側は、Vの字がまっすぐ並んだなめらかな編み目なのに。それに、銀色のスナップの丸い頭は内側にもぐってしまって、外には平たい裏金しか見えない。
灯は手袋を元に戻した。並べた二つは、どちらもなめらかな編み目が外を向いていて、どちらもスナップの頭が外にあった。
「裏返しなら、どっちかがざらざらのはずです。二つとも、表です」
「……ほんとの右が、二つかあ」
ひよりは自分の手袋を表に返して、しょんぼりはめ直した。
灯は二つを指でつまんで、もう少し確かめた。
片方は、親指と人さし指の先に、小さな毛玉がいくつもできていた。手首のゴムも、少しくたっとしている。もう片方は毛玉がなく、編み目がきゅっと締まっていた。手首の縫い目のところに、白いプラスチックの細い糸が、一センチほど飛び出している。
「これ、値札の糸の切れはしです」と灯は言った。「買ってきて、はさみで切った残り」
「新しいほうですね」と河合が言った。「やっぱり。買い直したほうです」
「どっちの札がついてます?」とひよりが聞いた。
灯は糸をたどった。新しいほうに結んであったのは、灯の字の札だった。
〈火 十八時四十分ごろ〉
毛玉のほうには、河合の札がついていた。
「火曜のが、新しいほうです」
河合の口が、少し開いた。
「木島さんが火曜に右をなくして、新しいのを買い直したのなら、木曜に落とすのは新しいほうのはずです。でも、逆です」
「……火曜に新しいのを落として、木曜は、古いほうをしてこられた」
河合は、言いながら自分でうなずいた。
「二組、持っていらしたんです。新しいのと、古いのと」
「あ、それならありえますね」とひよりが言った。
「でしょう」
灯は首をかしげた。ありえる、とは思った。ありえないとは、言えなかった。
「じゃあ、ためしに」
ひよりは急に灯のほうへ向き直った。
「手袋したまま売店で買うとき、どうするか、やってみます。わたしの、いつもの」
ひよりは鞄から小さな財布を出そうとして、手袋の指先が留め金にうまくかからないのに気づくと、右手の人さし指の先を、歯でくわえた。
「口はだめです」と灯は言った。
「ほうれふか」
ひよりは手袋を口から放して、左手で引き抜き、右の脇の下にはさんだ。
「わたしは脇。小銭が出せないから、右だけ外すんです。左はそのまま」
「お財布を持つほうと、お金を出すほうですね」
灯は売店のガラスケースのほうを見た。黄色い電球の下で、ガラスがつるりと光っている。
「火曜の人は、脇じゃなくて、ケースの上に置いたんですね。たぶん」
事務室の扉が開いて、野崎航が出てきた。灰色のセーターの腕に、釣り銭の袋を抱えている。こめかみの白い短髪をかきながら、受付台の上を見た。
「なんだ、手袋の会議か」
灯が説明すると、野崎はノートをのぞきこんだ。河合の行の最後の、〈木島さん〉の字で目が止まった。
「河合さん。これは、見たことですか」
「……思ったこと、です」
「火曜の受付は僕でした。三浦さんから手袋を受け取って、階段の下から、上にいた河合さんに『売店に赤い手袋の忘れ物』って言った。そしたら上から、『ああ、木島さんですね』って声がした」
「言いました」
「僕は、落とした人の顔を見ていません。赤い手袋のお客さんがいたかどうかも、覚えていない。チケットとお金を見ていたので」
野崎はボールペンを取ると、〈木島さん〉の上に、まっすぐ一本線を引いた。
「ノートには、見たことだけ書きましょう。お渡しするときは、聞いたことを記録と照らして確かめる。思い込みで渡さない、ってことです」
河合は、線の引かれた字を見下ろして、静かに「はい」と言った。
三 ガラス扉の、白い光
十七時三十五分、ガラス扉が開いた。
入ってきたのは、肩までのゆるいパーマの女の人だった。紺のダウンのコートを着て、左手にだけ、赤いニットの手袋をはめている。右手はコートのポケットに入っていた。
河合の背が、ぴんとのびた。
「木島さん」
「あら、眼鏡のお兄さん。よかった、いてくれて」
河合は受付台の手袋に手をのばしかけた。灯は横から、河合の袖のあたりを見た。河合の手が止まった。のばしかけた指を、受付台の縁へ戻す。
「なにか、お探しですか」
「手袋。右の。昨日ここで落としたみたいなの。家に帰ってポケットを見たら、左しか入ってなくて」
「昨日の、どちらで」
「夜の回。F列の三番。ポップコーン食べるでしょ。右だけ外して、膝の上に置いてたの。終わって立ったときに、落ちたんじゃないかしら」
河合は、ノートの自分の行を見た。〈F列三番の座席の下〉。灯も見た。
「あの」と灯は言った。「火曜日の夜は、いらっしゃいましたか」
「火曜?」木島さんは笑った。「火曜は来てないわよ。火曜の夜は、町内会の会計の集まりだもの。毎週、帳面とにらめっこ」
河合が、ほとんど聞こえないくらいの声で、「……来てない」と言った。
灯は、二つの右手袋を受付台の上に並べた。
「こちらでお預かりしているのが、二つあるんです。どちらも赤くて、どちらも右で」
「あら、二つも」
木島さんは左手の手袋を脱いで、受付台へ置いた。毛玉のついた、少しくたっとした赤だった。
「これと留まるはずよ。スナップがあるの」
木島さんは自分の左と、毛玉のある右の手首を合わせた。ぱちん、と軽い音がした。
それから、何の気なしに、新しいほうの右とも合わせた。
ぱちん。
三人とも、少し黙った。
「……両方、留まります」と河合が言った。
「そりゃそうよ。同じのだもの」木島さんは目を丸くした。「まるやさんのワゴンでしょう、これ。二月の半ばに、売り出しのワゴンにどっさり出てたの。一組九百八十円。わたしが買ったときで、赤いのがまだ七組くらい残ってたわよ。赤ばっかり売れ残るって、奥さんがぼやいてた」
「七組」と河合はくり返した。
灯は二つの右手袋と、木島さんの左手袋を、まとめて手に取った。
「すこし、こちらへ来ていただけますか」
灯はガラス扉の前まで歩いた。外はまだ明るかった。坂の向こうの空は薄い白で、その光がガラス越しに、まっすぐロビーへ差しこんでいた。黄色い電球の光が届かない場所だった。
灯は三つの手袋を、光のほうへかざした。
新しい右は、朱がかった、はっきりした赤だった。毛玉のある右と、木島さんの左は、それより少しだけ白っぽく、桃色のほうへ寄っていた。
「あら、ほんと。違うのね」と木島さんが言った。「わたしの、二回洗ったの。ネットに入れて」
毛玉の右と左を並べると、どちらも親指と人さし指の先に毛玉が寄っていた。
河合が、灯のうしろから手袋をのぞきこんでいた。
「受付では、同じ色に見えたんです」
「わたしも、さっきまで同じに見えてました」と灯は言った。

受付に戻ると、灯はノートを開いた。河合の木曜の行の横に、書き足す。
〈金 十七時四十二分 木曜の分(右)お返し 確認:お手持ちの左/席/外した場面〉
「お受け取りの記録を、こちらにお願いできますか」
木島さんは、ボールペンで小さく名前を書いた。それから毛玉の右を受け取って、その場で右手にはめた。左右の手首を合わせて、スナップを留める。ぱちん。木島さんはすぐに外して、両手を開いてみせた。
「よかった。片手だけだと、ポケットに手を入れて歩くでしょ。坂で転びそうでね」
木島さんは、河合のほうを見て、にやりとした。
「眼鏡のお兄さん、わたしのこと、手袋で覚えてたのね」
「お顔も、覚えております」
「じゃあ次からは、顔のほうで覚えててちょうだい」
木島さんはそのまま売店で塩の小を買い、「来たついでだから」と、今夜の回の券も買った。F列の三番は、空いていた。
四 片方だけ、赤い手
木島さんが客席へ入ってしまうと、受付台の上には、新しい右手袋がひとつだけ残った。
「これは、火曜の、だれか」と河合は言った。
「だれか、です」と灯は言った。
河合はコルクボードの前に立って、ペンのふたを開けた。
「貼り紙をしましょう。〈火曜日の夜の回に、売店で赤い手袋の右を落とされた方〉」
「それ、全部書いたら」と灯は言った。「だれでも、受付で『火曜に売店で、赤い右を』って言えます」
河合はペンを持ったまま、止まった。
「本人に言ってもらうことを、先に書いちゃうんですね」とひよりが言った。
売店の前で釣り銭を数えていた野崎が、「掲示するのはこれだけにしましょう」と言って、メモ用紙に一行書いてよこした。
〈手袋の忘れ物を、お預かりしています。お心当たりの方は、受付へ。〉
「赤も、右も、なしですか」
「なし」
「字は、わたしが書いていいですか」とひよりが言った。「河合さんの字、ちょっと斜めなので」
河合は、黙ってペンを渡した。ひよりは画用紙に、まっすぐな大きい字でその一行を書き、コルクボードの端にピンで留めた。
灯はガラスケースの前に戻って、目を閉じた。
火曜の十八時十五分から二十五分のあいだに、売店へ来たお客さんは四人だった。灯は顔より先に、口と手を覚えている。最初は「キャラメル、小さいの」と言った高校生の二人連れ。次が、メニューだけ見て「また今度」と言った人。それから――
「塩の小、少なめにできますか」
灯は目を開けた。
「その人、ポップコーンを左手で受け取りました。左手が、赤かったんです。右手は素手で、小銭をトレーに置いてました」
「片手だけ、赤い手」とひよりが言った。
「片方だけ手袋をする人なんだな、と思っただけでした。外したほうを置いていく人だとは、思わなかった」
灯は少し唇をかんだ。
「顔は、ほとんど見てません。灰色の、ニットの帽子をかぶってました。男の人だったと思います」
「ニット帽なら覚えています」と野崎が言った。「百円玉ばかりで、ちょうど払われた。顔までは覚えていません」
河合が、受付台に両手をついた。
「来週の火曜、受付は僕がやります。点検は昼のうちに済ませます」
「顔、知らないですよね」と灯は言った。
「知りません」河合は眼鏡を押し上げた。「だから、手を見ます」
「手を見ても、すぐ渡さないでくださいね」
「聞いてからにします。どちらの手を、いつ、どちらで」
河合は、ノートの欄の外に、定規で線を一本引いて、〈左・右〉と書いた。それから、火曜の灯の行の〈片方〉の横に、小さく〈右〉と書き足した。
灯は、洗濯ばさみを売店へ持って帰った。豆の袋の口に二重に巻かれた輪ゴムを外して、洗濯ばさみで留め直す。
「わたしも、ひとつ変えます」と灯は言った。「おつりを渡すとき、『手袋、お持ちですか』って言います」
「売店の仕事、増えますね」とひよりが言った。
「ひとことです」
十八時十五分、ひよりは券を買って、客席の扉の前で振り返った。
「火曜日、どうなったか、教えてくれますか」
灯は少し考えた。
「持ち主の方のことは、言えません。手袋が帰ったかどうかなら」
「それで、いいです」
ひよりは手を振って、両開きの扉の向こうへ入っていった。
五 次の火曜、十八時十分
次の火曜日、十八時十分。受付には河合が立っていた。
コルクボードの端では、ひよりの字の貼り紙が、まだまっすぐ留まっている。ガラス扉が開くたびに、坂の風が紙の角を少しだけ揺らした。
最初に来たのは、学生らしい男の子だった。河合はその両手を見た。素手だった。次は夫婦で、二人とも黒い革の手袋をしていた。券を切りながら、手袋の親指の向きまで見ている自分に気づいて、河合は少しだけ笑いそうになった。
十八時十二分、灰色のニット帽が扉から入ってきた。
六十くらいの男の人だった。紺のキルティングのジャンパーを着て、左手にだけ、赤いニットの手袋をはめている。右手は素手で、財布を持っていた。
河合の喉が、こくりと鳴った。
河合は何も言わずに代金を受け取り、席を決めて券を渡した。男の人は半券を受け取ると、売店のほうへ二、三歩行きかけて、コルクボードの前で足を止めた。
「すみません」男の人は振り返った。「この、手袋の、って」
「はい」
「先週、ここで片っぽ、なくしたかもしれなくて。いや、どこでなくしたか、わかんないんだけど」
河合は、ゆっくり息を吸った。
「どんな手袋でしょう」
「赤いの。毛糸の。手首にスナップがついてて」
「どちらの手ですか」
「右」
「いつ、どちらで、でしょう」
男の人は、帽子の上から頭をかいた。
「火曜の、夜の回。そこの売店でね、小銭を出すのに右だけ外して、ガラスの上に置いた気がするんだよ。それっきり覚えてない。家内には、バスの中だろうって言われたけど」
河合は、ノートを開かなかった。開かなくても、灯の字は覚えていた。〈売店ガラスケースの端〉。
「確認させてください。お手持ちのほうを、お借りしても」
男の人は左手袋を外して、受付台に置いた。河合は箱から新しい右を出して、手首を合わせた。ぱちん。
二つを並べると、どちらもはっきりした赤で、どちらにも毛玉がなかった。けれど、色だけでは決められないことを、河合はもう知っていた。
「ほかに、何か目印はありますか」
「目印?」男の人は手袋をのぞきこんで、ああ、と言った。「値札の糸。はさみで切ったら、ちょっと残っちゃってね。右も左も。引っこ抜くと穴があきそうで、そのままにしてる」
河合は、左手袋の手首の縫い目を見た。白いプラスチックの糸が、一センチほど飛び出していた。右にも、同じくらいの糸があった。
「お返しします」
河合はノートを開いて、火曜の行の横に書いた。〈火 十八時十四分 火曜の分(右)お返し 確認:お手持ちの左/置いた場所/値札の糸〉。男の人は受取の欄に名前を書くと、ノートを河合のほうへ戻した。
「赤なんか、柄じゃないんだけどね」男の人は右手に手袋をはめながら言った。「家内が、まるやのワゴンで買ってきたの。赤しか残ってなかったって」
「そう、うかがって……」と河合は言いかけて、口を閉じた。
「え?」
「いえ。赤は、人気でした」
男の人は首をかしげながら、両手の手首を合わせてスナップを留めた。ぱちん。一度確かめるとスナップを外し、売店のほうへ歩いていった。
ガラスケースの向こうで、灯が深緑のエプロンの前で手を組んで待っていた。
「塩の小、少なめで」
「はい。塩の小、少なめで」
灯がカップに塩を振るあいだに、男の人は右の手袋を外しかけた。
「手袋、お持ちですか」と灯は言った。
男の人は外した右の手袋を見て、それから、ジャンパーのポケットへ押しこんだ。
「持ってます。今、ポケット」
灯がポップコーンを差し出すと、男の人は赤い左手でそれを受け取り、素手の右で小銭をトレーに置いた。百円玉ばかりだった。

十八時二十五分。客席の扉が閉まると、河合は受付を出て、売店の前に立った。これから二階へ上がる時間だった。
「帰りました」
「よかったです」と灯は言った。「金曜に、帰りました、って言えます」
「それだけ、ですね」
「それだけです」
河合はコルクボードを振り返った。ひよりの字の貼り紙は、もう外してもよかった。
「木島さんの顔は、合ってたんです」と河合は言った。
「はい」と灯は言った。「手袋は、二つとも右でした」
河合は少し笑って、眼鏡を押し上げた。
「三浦さん。洗濯ばさみ、また借りてもいいですか」
「だめです」
灯は、豆の袋の口を留めた洗濯ばさみを、指で軽くたたいた。
河合は貼り紙をはずして四つにたたみ、カーディガンのポケットに入れた。それから客席扉の右横の、細い階段をのぼっていった。しばらくして、二階のほうから、映写機の回りはじめる音がかすかに聞こえた。
灯はガラスケースを拭いた。端の、塩のカップの横には、何も落ちていなかった。


