一 休館日の、ガラス扉
三月の最初の月曜日、三浦灯は九時五十二分に坂の上シネマの前に着いた。
ガラスの扉の内側に、〈本日休館〉の札が下がっていた。ロビーは暗い。入って右の売店の黄色い電球も消えていて、ガラスケースの形が灰色にぼんやり浮かんでいるだけだった。ケースの端に、首をかしげた小さな影がひとつ立っている。先月、ロビーの机で生まれた紙の怪獣は、休みの日も同じ向きで、窓のない壁をのぞいていた。
灯は扉に額を近づけかけて、やめた。灰色のコートのポケットに両手を入れて、くるりと向きを変える。今日は深緑のエプロンをつけていない。黒い髪は、いつもの低いひとつ結びだった。
坂の下から、キャメル色のコートがのぼってきた。
赤いマフラーの端が風で肩のうしろへ流れて、黒いリュックが一歩ごとに揺れている。久保田七海は最後の十メートルを大股で詰めると、灯の前で両膝に手をついた。十時三分だった。
「なんで、坂の上なの」
「おはようございます」
「おはよう。駅で待ち合わせれば、坂、のぼらなくてよかったじゃん。どうせ下りるんでしょ」
「駅だと、七海さん、出口で迷うので」
「迷ってない。選んでるだけ」
七海は体を起こして、肩までの栗色の髪を手ぐしで直した。
駅ビルの輸入食材店で働いていたころ、七海はオリーブオイルの箱を抱えたまま、搬入口の裏の通路で三回迷子になった。三回とも見つけたのは灯だった。七海は箱の中の瓶の本数も、賞味期限の並べ順も、伝票の数字も一回見れば覚えるのに、同じ扉を二回通ると、それが同じ扉だと気がつかなかった。
「ここなら、坂をのぼれば着くので」
「それは、そう」七海はガラスの扉に顔を寄せた。「休みの日の映画館って、寝てるみたいだね」
「起こさないでください」
「あの黄色いの、なに」
「……あとで」
灯はポケットから、四つにたたんだ紙を出した。手帳を一枚破ったもので、鉛筆で二行だけ書いてある。
〈ふたつ橋ベーカリー ミルクフランス 十一時でき上がり〉
〈仕事のものは、買わない〉
七海は二行目を指でたたいた。
「これ、なに」
「今日の目標です」
「目標にするようなこと?」
「一月と二月に、一回ずつ失敗してるので」
灯は指を一本立てた。
「一月は、途中のつるやさんで紙袋の特売をやってて。売店の、赤と白のしまの袋です。百枚ずつの束をどれにするか考えてたら、パン屋さんに着いたのが十一時二十分で、もう売り切れの札が出てました」
二本目の指が立った。
「二月は、ほしのさんで新しい塩が入ってて。四十分、袋の裏を読んでました」
「四十分」
「着いたら、一時でした。二時のでき上がりまで待てなくて、帰りました」
七海は口の端を下げて、ゆっくりうなずいた。
「ミルクフランスって、あの、細長いのにクリームがはさまってるやつ」
「はい。十一時の分は、十二本しか焼かないんです。お一人さま二本まで」
「詳しいね」
「売り切れの札を、二回読んだので」
灯は紙をたたみ直しながら言った。
「一日じゅう、塩とキャラメルの匂いの中にいるでしょう。だから休みの日は、白くて、やわらかくて、冷たいクリームのが食べたいんです。自分では作らないもの」
「わかる」と七海は言った。「わたしは、揚げてあるもの」
「揚げてあるもの?」
「さっき、のぼってくるとき見つけた」七海は坂の途中を親指でさした。「お肉屋さんに貼ってあった。〈揚げたて 十一時半から〉。あれの、一個目のメンチがいい」
「七海さん、猫舌じゃないですか」
「だから、一個目を持って歩くの。食べるのは冷めてから」
「それ、揚げたての意味あります?」
「ある。手があったかい」
七海はリュックの肩ひもを引っぱって、まじめな顔をした。
「じゃあ、こうしよう。今日、仕事の話をしたら、一回につき、相手のおやつを一個おごる」
「七海さんもですよ」
「わたしは平気。卸の話なんて、休みの日にしたくないもん」
「聞かれて答えるのは、数えますか」
「それは、そのとき決める」
灯は少し考えてから、うなずいた。七海は腕時計を見た。
「十時六分。十一時に並ぶなら、あと五十四分」
「二十分で着きます。でも、並ぶのは早いほうがいいので」
「三十分前から並ぶつもり?」
「売り切れの札は、もう読みたくないんです」
灯はガラスの扉を、もう振り返らなかった。二人は並んで、坂を下りはじめた。
二 寄り道は、数えます
坂の商店街は、まだ半分くらいしかシャッターが上がっていなかった。
肉の小松屋の前を通ると、ガラスのショーケースの上に手書きの紙が貼ってあった。〈揚げたて 十一時半〜/十五時半〜 メンチ・コロッケ・ハムカツ〉。店の奥では、白い帽子のご主人が大きな鍋に油を注いでいた。
「ここ」と七海が言った。
ケースの向こうから、小松の奥さんが顔を出した。
「あら、売店さん。今日はお休み?」
「休みです」灯ははっきり言った。
「映画館、来週は何やるの」
灯は口を開けて、閉じた。七海が横で、指を一本立てて待っている。
「……コルクボードに、貼ってあります」
「あら、そう。今度見とくわね」
奥さんが引っこむと、七海は指を下ろした。
「今の、逃げた」
「逃げました。数えないですよね」
「数えない。うまかったから」
その三軒先が、乾物のほしのだった。店先の台に、白い紙袋がピラミッドの形に積んである。〈天日塩 入荷しました〉。
灯の足が止まった。
「止まった」と七海が言った。
「止まっただけです」
「見てる」
「見てるだけです」
灯は一歩だけ近づいて、袋の口からのぞいている粒を見た。粉雪みたいに細かかった。
「これ、粒が細かいから、ポップコーンに絡みやすくて、塩の小のぶんだけでも……」
灯は両手で自分の口を押さえた。
「一回」と七海が言った。うれしそうだった。
「……一回です」
灯は塩の袋に背を向けて歩きだした。三歩目で、七海が言った。
「買わないの」
「買いません。今日は、仕事のものは買わない日なので」
「あれ、灯の家の台所で使えばいいじゃん」
灯は二歩、進んだ。三歩目で、ちょっとだけ振り向いた。それから、もう一度前を向いた。
「家の塩は、まだあるので」
坂をもう少し下ると、つるや包装店の前で、ご主人が窓に紙を貼っていた。〈紙袋 春の特売〉。その奥に、赤と白のしまの束が見える。
「七海さん、袖、貸してください」
「袖?」
灯は七海のコートの袖口をつかむと、目を閉じた。
「つるやさんの前を過ぎるまで、案内してください」
「わたしが?」
「まっすぐ下りるだけです」
七海は灯の手を袖につけたまま、歩きだした。うしろから、つるやのご主人の声がした。
「三浦さん、しま袋、入ったよ」
「今日は、休みです!」灯は目を閉じたまま答えた。
「そうかい」
足の下で、地面の感じが変わった。石畳がアスファルトになって、少し暗くなった。どこかでボイラーのような音がして、湿った温かい空気が顔に当たった。
「七海さん」
「うん」
「ここ、坂じゃないです」
灯が目を開けると、二人は細い路地の突き当たりにいた。正面は銭湯の裏の板塀で、煙突の根もとから湯気がのぼっている。
「まっすぐ下りるだけって、言いましたよね」
「まっすぐ行ったら、こっちに曲がってた」
「選んだんですか」
「選んだ」
二人は三分かけて坂へ戻った。つるやの窓は、もう通り過ぎていた。
床屋の角を曲がると、家と家のあいだに石段が下りている。四十いくつ段をおりきった先に、川があった。川には橋が二本かかっている。下流の大きいのが車の通る大橋で、目の前の細いのが歩く人だけの小橋だ。このあたりは、それでふたつ橋と呼ばれている。
小橋を渡りきって、川沿いを少し歩いたところに、白い壁に紺の日よけの小さな店があった。〈ふたつ橋ベーカリー〉。扉の横の黒板に、白いチョークで書いてある。
〈でき上がり 十一時 ミルクフランス・カレーパン/十四時 ミルクフランス・食パン〉
〈ミルクフランス ひと焼き十二本 お一人さま二本まで〉
〈火曜定休〉
「十時三十一分」と七海が言った。
扉の前には、まだだれも並んでいなかった。灯は黒板の前で、小さく両手を握った。
三 ふたつ橋で、三十分
店の前には、木のベンチがひとつあった。灯はその端にきちんと座った。七海は座って、立って、黒板を読んで、また座った。
「三十分、ここで?」
「はい」
「なにして?」
「待ちます」
「待つの、平気なの」
「得意です。上映が終わるまで……」灯は言いかけて、口を閉じた。
七海が指を立てた。
「今の」
「これは、性格の話です」
「映画館の話でしょ」
「性格の話のたとえに、映画館が出ただけです」
七海はしばらく灯の顔を見て、指を下ろした。
「半分」
「半分は、ありません」
十時三十五分、七海は「寒い」と言って店の扉を押した。灯もついていった。
中は温かくて、焼けたバターの匂いがした。壁ぞいの棚に、あんパンやクロワッサンや塩パンが並んでいる。入り口には木のトレーと銀色のトングが重ねてあった。レジの奥では三角巾の若い女の人が袋を折っていて、そのうしろの窓から、粉で白くなった調理場が少し見えた。
七海はトングを取ると、意味もなく二回、かちかちと鳴らした。
「鳴らさないでください」と灯は小声で言った。
「なんか、鳴らしたくならない?」
「なりません」
七海は塩パンの前でトングを開いて、閉じて、結局なにもはさまないまま元に戻した。
「わたしのお腹は、メンチのために空けてあるから」
「じゃあ、なんでトングを持ったんですか」
「入ったら持つものでしょ」
七海はそのままレジの前へ行くと、三角巾の人に言った。
「すみません。ミルクフランスのクリームって、何が入ってるんですか」
灯は、うしろで息を止めた。
「練乳とバターです」と三角巾の人は言った。袋を折る手は止めなかった。「うちのは、お塩をほんのちょっとだけ」
「へえ。ありがとうございます」
七海は振り向いて、灯に向かって眉を上げた。
灯は、しばらくなにも言えなかった。一月も二月も、灯は黒板の前でクリームの中身を何度も想像していた。
「……聞いていいんですか、それ」
「聞いていいでしょ。売ってるんだから」
「でも、お店の人、袋折ってたので」
「折りながら答えてくれたじゃん」七海は首をかしげた。「灯、売店でお客さんに聞かれたら、いやなの?」
「好きです。すごく」
「じゃあ、なんで」
「聞かれるのは好きなんですけど、自分が聞くと、手を止めさせる気がして」
「逆だね」と七海は言った。「わたし、前の店で聞かれるの、苦手だった」
灯は思い出した。駅ビルの店で、七海はチーズの味を聞かれて「これ、正直、くせが強いです」と答え、そのお客さんは何も買わずに帰ったことがあった。店長は困った顔をした。けれどそのお客さんは次の週にまた来て、まっすぐ七海のところへ行き、「くせが強くないのはどれ」と聞いた。
「そのかわり、聞くのは平気」と七海は言った。
そのとき、七海の目がレジのうしろの窓で止まった。調理場の床に、茶色い大きな紙袋が三つ積んである。
「あ、あの粉、うちで扱ってる……」
七海は自分で口を閉じた。灯は、ゆっくり指を一本立てた。
「一回です」
「まだ、言いきってない」
「扱ってる、まで言いました」
「似てる袋なだけかも」
「似てるかどうか見分けるのが、仕事の目です」
七海は天井を見上げて、ため息をついた。
「一回」
「これで、一対一です」
ついでのように、七海はもうひとつ、三角巾の人に聞いた。
「ミルクフランスって、予約できるんですか」
「前の日までにお電話いただければ。今日の十一時は、四本ご予約が入ってます」
灯は、黒板の〈十二本〉を思い出した。それから、坂の上の受付の電話と、座席表の鉛筆の印を思い出した。前の日までに電話で受けて、十五分前を過ぎたら空ける。毎週、自分の目の前でやっていることだった。
「予約、できたんだ」灯はつぶやいた。
「灯の映画館と同じじゃん」
灯は七海を見た。七海が、あ、という顔をした。
「今のは、七海さんの一回ですか」
「映画館の話は、灯の仕事でしょ。わたしの仕事じゃない」
「じゃあ、わたしの一回?」
「灯は、なにも言ってない」
二人は顔を見合わせて、それはどちらにも数えないことにした。
十時四十五分、灯はベンチを離れ、扉の脇で邪魔にならないところに並んだ。七海もその横へ来た。それから、灯のうしろに人が並びはじめた。
最初はハンチング帽のおじいさん、次が作業着の男の人、それから手さげを持った年配の女の人が二人、ベビーカーを押した若いお母さん、最後に紺のジャケットの男の人。十時五十八分には、灯のうしろに六人が並んでいた。
先頭の灯の横で、七海が「わたしは付き添いです」とうしろに聞こえるように言った。
七海は列を一度振り返ってから、小声で言った。
「十二本で、予約が四本。残りは八本」
「はい」
「灯が二本買ったら、残り六本。うしろの人がみんな二本ずつ買ったら、三人目で終わり。ベビーカーの人まで届かない」
ベビーカーの中で、二つか三つくらいの子が黒板を指さしていた。「みうく、ふあんす」と言っている。お母さんが「そうね、あとでね」と答えた。
灯は、もともと二本買うつもりだった。一本は今日、一本は明日の朝。
灯は列を見た。数えたのは、人の数ではなかった。
ハンチング帽のおじいさんは、さっきから黒板の〈カレーパン〉のところばかり見ている。作業着の人は電話の相手に、「カレーパン三つでいいっすか、はい」と言っていた。年配の女の人二人は、「辛いの、平気だった?」「中辛くらいならね」と話している。
「たぶん、届きます」と灯は言った。
「なんで」
「おじいさんと、作業着の人と、そちらのお二人は、カレーパンです。ミルクフランスは、ベビーカーのお母さんと、うしろのジャケットの人くらいだと思います」
「なんでわかるの」
「並んでる人は、並びながら、だいたい口に出すので。売……」
灯はそこで止まった。七海がにやっとした。
「惜しい」
「言ってません」
十一時になった。扉は開いていたが、ミルクフランスは出てこなかった。
十一時二分、三角巾の人が顔を出した。「すみません、もう少しででき上がります」
七海は腕時計を見て、唇をかんだ。
「メンチ、十一時半」
「わかってます」
「ここから、来た道で二十分ちょっとでしょ。石段、今度はのぼり」
「わかってます」
十一時四分、調理場からトレーが出てきた。少し前に焼いて冷ましておいた細長いパンが、十二本並んでいた。三角巾の人が手早く切れ目に冷たいクリームを絞り、四本を名前の書いた袋に入れてから、灯を呼んだ。
灯は、もう手のひらに硬貨を用意していた。百円玉が二枚、五十円玉が一枚、十円玉が三枚。値札は二百八十円だった。
「いつ出したの」と七海がささやいた。
「並んだときから、持ってました」
灯はレジの前に立った。
「ミルクフランス、一本お願いします」
「一本で、よろしいですか」
「はい。もう一本は、二時のを買いに来ます」
「明日の朝に召し上がるなら、お帰りになったら冷蔵庫へどうぞ。お持ち歩き用の保冷剤もつけられます」
灯は、午後の分にはお願いしよう、と覚えておいた。
七海が、横で灯を見た。
三角巾の人は、白いクリームの見える一本を白い紙袋に入れて口を折った。灯は硬貨を皿に置いた。
「ちょうど、いただきます」
扉の外へ出ると、七海が言った。
「二本買えたのに」
「明日の朝のぶんは、二時のできたてのほうがおいしいので。持って帰るまでの時間も、短いですし」
「また川まで下りるの?」
「はい」
「わたしも?」
「七海さんの電車、三時すぎですよね」
七海は腕を組んで、しばらく灯の紙袋を見ていた。
「計算は、合ってる」
うしろで、ハンチング帽のおじいさんがカレーパンを二つ買って出てきた。作業着の人は三つ。女の人たちは一つずつ。ベビーカーのお母さんは、ミルクフランスを二本買った。子どもがベビーカーの中で、袋に両手をのばしている。
「数は合ってたのに」と七海が言った。
「数は合ってました。人が違っただけです」

「十一時七分」と七海は言った。「あと二十三分」
「神社の裏から行きます」
「神社?」
「近道です。急なので、行きは使いませんでした」
四 一個目は、だれのもの
小橋を渡り返すと、灯は石段のほうへは曲がらなかった。
川沿いを少し上流へ歩いた先に、小さな赤い鳥居があった。その横から、家の塀と塀のあいだを縫うように、細くて急な階段がのびている。手すりは片側にしかなくて、段の高さもばらばらだった。
灯は紙袋を胸に抱えて、階段をのぼりはじめた。足の運びが一定だった。毎日、坂の下から映画館までのぼっている足だった。
七海は三段目で「えっ」と言い、十段目で黙った。
「十一時、十二分」最初の踊り場で、七海はそれでも時計を読んだ。
「あと三回、曲がります」
「なんで、行きにこっち通らなかったの」
「下りは、膝にくるので」
「のぼりは、全部にくるよ」
二回目の踊り場で、七海はリュックを背負い直した。
「十一時十六分」
「七海さんがいてくれて、助かります」
「なんで」
「わたし、自分の休みの時間だと、時計を見ないので」
七海は息を切らしながら、変な顔をした。
「売店のときは、見てるでしょ」
「一分ごとに見てます」
「なんで休みだと見ないの」
「休みだからです」
七海は笑おうとして、むせた。
最後の階段は、民家の物干しの下をくぐって、坂の商店街の脇へ出た。灯が塀の角から顔を出すと、目の前に小松屋の白いのれんがあった。
「十一時二十四分」七海は膝に手をついた。「どういう道」
「近道です」
小松屋の前には、もう三人並んでいた。メモを持った事務服の女の人、杖をついたおじいさん、ヘルメットを腰に下げた男の人。七海が四番目に並んで、灯はその横に立った。
店の奥で、油がしゅうしゅうと鳴りはじめた。
十一時半、小松の奥さんがケースの向こうに立った。そのとき、奥の電話が鳴った。奥さんは受話器のほうへ体をひねって、その拍子に、カウンターの端に積んであった紙袋の束をひじで押した。
紙袋が、カウンターの客の側へざっと滑り落ちた。
灯の手は、考えるより先に動いていた。かがんで、散らばった袋を拾う。大きいのと小さいのを、拾いながら自然に分けている。角をそろえて、とん、とん、と二回カウンターに当てる。
「大と小、分けて置いておくと、取りやすいですよ」
言ってから、灯は自分の手もとを見た。七海が横で、静かに指を二本立てていた。
「二回目」
「……拾っただけです」
「拾っただけの人は、とんとんしない」
電話を終えた奥さんが、カウンター越しに袋を受けとった。
「あら、ありがとう。売店さんは、休みの日も売店さんねえ」
「休みです」灯は両手をコートのポケットに入れた。「休みです」
「はいはい」奥さんは言われたとおりに、大と小を左右に分けて置いた。
奥の鍋から、ご主人が長い箸で、最初のメンチカツを一つ引き上げた。網の上で油を切ると、皿の上で割って中を確かめ、少し冷ましてからかじった。
七海が、口を半分開けた。
ご主人は残りも食べ終えると、「よし」と言った。
「一個目は、うちの人の」と奥さんが言った。「毎回なの。揚がり具合を確かめて、食べちゃうの」
「一個目、食べられた」と七海が言った。
「二個目からが、お客さんの一個目よ」
事務服の女の人が、メモを読み上げた。メンチ五つ、コロッケ三つ。おじいさんはハムカツを一枚。ヘルメットの人はメンチを二つ。網の上のきつね色が、どんどん紙袋に消えていった。
七海の番が来た。
「メンチと……」七海は網の上を見た。コロッケがまるくふくらんでいる。ハムカツの衣が、ぱちぱち鳴っている。「……メンチと」
灯は、うしろを見た。並んでいる人が、さっきより増えていた。
「七海さん。うしろ、五人です」
「わかってる。待って。灯、さっきので二回だよね」
「はい」
「じゃあ、二個おごり」七海は指を二本立てて、ケースの向こうに向けた。「メンチ一つと、コロッケ一つ!」
「メンチ二百円、コロッケ百円。三百円ね」
灯は財布から、百円玉を三枚出した。
「熱いから、気をつけてね」
奥さんが、一個ずつ入れた紙袋を二つ差しだした。七海は両手で受けとると、袋ごと胸に当てた。
「知ってます」七海は目を細めた。「あったかい」
映画館の三軒手前に、松葉酒店がある。店先の冷蔵ケースに、瓶の飲みものが並んでいた。
七海は、そこで立ち止まった。
「わたし、一回だったよね」
「はい。粉の袋の」
七海は冷蔵ケースを開けて、瓶のコーヒー牛乳を一本取った。百六十円だった。
七海は店の人に百六十円を払ってから、灯に瓶を差しだした。
「はい。灯のおやつ」
「わたしのおやつは、ミルクフランスです」
「おやつの、おとも。ミルクフランスに、コーヒー牛乳」
「ミルクが、多くないですか」
「多いのがいいんでしょ」
灯は瓶を受けとった。冷たかった。
五 坂の上で、二時の回まで
坂の上シネマの扉の前には、低い石の段が二つある。
灯は上の段に腰を下ろして、紙袋を膝にのせた。コーヒー牛乳の瓶は、足もとの段にそっと置いた。七海もとなりに座り、コロッケの袋を膝の横へ置いた。うしろのガラスの向こうでは、ロビーがまだ眠っていた。
「ここで食べていいの」
「休みの日は、ただの段です」
「映画館の人が言うと、説得力あるね」
「今は、映画館の人じゃないです」
坂の下まで、商店街の屋根が並んで見えた。そのずっと向こうで、川が光っている。小橋は、ここからは見えなかった。
灯は紙袋の口を開けた。細長いパンの切れ目から、白いクリームがのぞいている。両手で持つと、外の皮は少し硬くて、中はやわらかかった。
ひと口かじった。皮が、ぱり、と鳴った。冷たいクリームが舌の上でとけて、甘さのあとに、ほんの少し塩の味がした。三角巾の人が言ったとおりだった。
灯は、何も言わなかった。もうひと口かじって、また何も言わなかった。
七海は膝の上でメンチの袋を抱えたまま、横から灯の顔を見ていた。
「なんですか」
「売店のときと、顔が違う」
「どう違うんですか」
「売店のときは、食べてる人の顔ばっかり見てる。今は、パンばっかり」
灯はクリームのついた指先を見た。
「それは、普通じゃないですか」
「普通だね」七海は笑った。
七海はメンチの袋を開けた。湯気が細くのぼった。七海は袋に顔を近づけて、すぐに離した。
「まだ無理」

「持って歩くって、言ってましたもんね」
「うん。だから、一口目、あげる」
七海は袋ごと、灯のほうへ差しだした。
「いちばん熱いところ。わたし、食べられないから」
「いいんですか。七海さんの一個目ですよ」
「お客さんの一個目は、灯におごってもらったやつだから。半分は灯のでしょ」
灯はミルクフランスを袋ごと膝へ置くと、袋の端からメンチをかじった。衣が音を立てて、熱い肉汁があふれた。
「あつ」灯は手で口をあおいだ。「あつ、おいしい」
「でしょう」
「七海さんが作ったみたいに言わないでください」
灯はミルクフランスの、まだかじっていない端を差しだした。
「これも、どうぞ」
七海は端をひと口かじって、もぐもぐと噛んだ。それから眉を寄せた。
「……甘い。わたしには、甘い」
「それがいいんです」
「知ってる。灯は、それがいいんだよね」
七海はそれ以上、何も言わなかった。灯も、メンチの衣の香ばしさについて何か言いかけて、やめた。言えば、たぶん三回目になる気がした。
五分ほどして、七海はやっとメンチにかじりついた。
「ちょうどいい」
「ぬるいの間違いです」
「ちょうどいいの」
コロッケは、まだ袋の中で待っていた。
灯はコーヒー牛乳のふたを開けて、ひと口飲んだ。それから、坂の下の川のほうを見た。
「あのパン屋さん、わたしのこと知らないんです」
「三角巾の人?」
「はい。こっちだと、どこへ行っても売店さんなので」灯は坂の商店街を、指でゆっくりなぞった。「小松屋さんも、つるやさんも、ほしのさんも。それはそれで、好きなんですけど」
「うん」
「川の向こうだと、ミルクフランスを一本買う人です」
七海は少し考えてから言った。
「わたしなんか、この町じゃ、ずっと知らない人だよ」
「七海さんは、どこでも知らない人みたいに、ものを聞くじゃないですか」
「それ、ほめてる?」
「ほめてます。半分」
「半分は、ないんでしょ」
七海はうしろを振り返って、ガラスの扉に顔を寄せた。暗いロビーの右側で、黄色い紙の怪獣が首をかしげている。
「で、あの黄色いのは、なに」
「あれは、先月、ロビーで……」
灯はそこで止まった。七海が指を立てかけて、待っていた。
「……土曜日に来たら、説明します」
「土曜?」
「お客さんになら、いくらでも説明します」
七海は指を下ろして、笑った。
「じゃあ、行く。土曜。お客として。今度の土曜か、その次かはわかんないけど」
「来たら、塩の小をおすすめします」
「仕事の顔になった」
「土曜の話なので、土曜の仕事です」
七海はメンチの最後のひと口を食べると、指をなめて、ぽつりと言った。
「これ、冷めてもおいしいね。お弁当屋さんに卸したら、けっこう……」
灯は、ゆっくり指を一本立てた。
七海は口を開けたまま止まった。
「……あっ」
「一回です。二対二です」
「わたしの二回目、いま、おごれるものがないじゃん」
「二時のミルクフランスは、わたしのおやつなので、わたしが買います」
「じゃあ、どうするの」
「次の休みに、何か一個」
七海は、ふうん、と言って、空になったメンチの袋を小さくたたんだ。
「次の休み、灯は何食べるの」
「まだ決めてません」
「決めたら教えて。道は灯で、時計はわたし」
「出口は、わたしが選びます」
「選んでるだけだって」
灯はミルクフランスの最後のひと口を食べて、指についたクリームをなめた。空になった白い紙袋を、四つにたたんでコートのポケットにしまう。売店の赤と白のしま袋とは違う、ただの白い袋だった。
七海が腕時計を見た。
「十二時十分。二時まで、あと一時間五十分」
「はい」
「二時の回まで、どうする?」
「映画館みたいに言わないでください」
「だって、でき上がりって、上映みたいじゃん。時間になったら出てきて、みんな並んで、売り切れたら次の回」
灯は笑って、立ち上がった。
七海はコロッケの袋を開けた。
「これは、今食べる。たぶん、ちょうどよくなってる」
「冷めてると思います」
七海はひと口かじって、うなずいた。
「ちょうどいいの」
「大橋も見たい」と七海は言った。「車の通るほう。まだ見てないから」
「七海さんが道を選ぶと、銭湯の裏に出ます」
「今度は、灯が選んで」
「じゃあ、川沿いを下って、大橋を渡って、向こう岸を歩いて、二時前にふたつ橋に着くようにします」
「一時五十分には並ぶからね」
「はい。時計は、七海さんです」
灯はもう一度だけ、ガラスの扉の向こうを見た。ロビーは暗く、黄色い怪獣は今日も、窓のない壁をのぞいていた。土曜日になれば黄色い電球がついて、ポップコーンの機械がまわる。灯は深緑のエプロンをつけて、お客さんの口のほうを見る。
それは、土曜日のことだった。
灯は扉に背を向けて、坂を下りはじめた。七海が横に並んだ。松葉酒店でコーヒー牛乳の空き瓶を返してから小松屋の前を過ぎると、奥さんがケースの向こうから「売店さん、さっきはどうも」と手を振った。
「休みです」と灯は言って、手を振り返した。


