第一章 十五時まで、あと二十五分
六月の最後の土曜日、午後二時三十五分。
齋藤ミコは、紺色ののれんの前で、立ちどまっていた。のれんには白い字で〈宿 みさご〉とあった。その横の柱に、小さな木の札が下がっていた。
〈チェックイン 十五時から〉
ミコは、スマホの時計を見た。十四時三十五分。もう一回見ても、十四時三十五分だった。
本部では、シンパイがもうホワイトボードに書いていた。
〈早すぎる〉
〈入ったら迷惑〉
〈入らなくても、入口でうろうろしている人〉
「三つめは、今です」とシンパイは言った。
「二十五分です」とダイジョブが言った。黄色い上着の袖をまくっていた。「海があります。海を見ていれば、すぐです」
キオクが古いリモコンを押した。モニターに、三週間前の夜の、ミコの部屋が映った。ノートパソコンの画面。〈宿 みさご ご予約内容〉。〈チェックイン 十五時〜十八時〉。
「書いてありました」とキオクは言った。丸い眼鏡を押しあげた。「十五時から、と」
「知っていて、早く来たんですか」
「電車が、一本しかなかったので」とキオクは言った。「その前は、一時間前です」
それは本当だった。海沿いを走る電車は、昼のあいだ、一時間に一本しか来なかった。
ミコは、肩かけの小さな旅行かばんを、かけなおした。生成りのトートは、反対の肩にあった。
のれんの向こうで、誰かが掃除機をかけている音がした。
ミコは、のれんから一歩下がった。それから、宿の前の道を渡った。
道の向こうは、すぐ海だった。
低いコンクリートの岸壁があって、その下に、小さな船がいくつもつながれていた。船は、水の上で、ほんの少しずつ揺れていた。ロープがきしむ、ぎい、という音がした。
左のほうに、長い堤防が海へのびていた。そのいちばん先に、白い灯台が立っていた。灯台は、思っていたより小さかった。人の背丈の、三つ分か四つ分くらいに見えた。
前の日まで、雨だった。岸壁のくぼみには、まだ水たまりが残っていた。そこに、空の雲がうつっていた。
ミコは、岸壁の端のベンチに座った。旅行かばんを、ひざの上にのせた。
トートからメモ帳を出して開いた。三週間前に書いた時間割があった。
〈土〉
15:00 チェックイン
15:30 浜を歩く
16:30 商店街
17:30 波止場食堂(アジフライ)
19:00 堤防の先で夕日
20:30 大浴場
22:00 寝る
〈日〉
6:00 朝市(港・日曜だけ)
7:30 朝ごはん
10:00 チェックアウト
10:42 電車
「ぎっしりです」とシンパイが言った。
「全部、行きたい場所です」とダイジョブが言った。
ハラヘッタは〈アジフライ〉の行に、指を置いて離さなかった。
ネムイはパイプ椅子で、濃紺のフードをかぶって寝ていた。〈22:00 寝る〉の行に近いほうへ、少し傾いていた。
ミコは、時間割の上の余白を見た。そこに、小さな字で、もう一行あった。三週間前の夜、予約を確定したあとに書いたものだった。
〈海側〉
それだけだった。
ミコは、海を見た。それから、振り返って、道の向こうの宿を見上げた。
三階建ての、古い建物だった。三階の窓の一つに、ガラスの内側から、籐の椅子の背が二つ、並んで見えた。
あのどれかだ、とミコは思った。どの窓かは、わからなかった。
十五時二分に、ミコはのれんをくぐった。
入ってすぐが、小さな帳場だった。木のカウンターの向こうに、エプロンをかけた五十歳くらいの女の人がいた。耳に受話器をあてていて、「はい、はい、明日の二名様ですね」と言いながら、空いているほうの手で、ミコに、ちょっと待ってね、という合図をした。
ミコは、カウンターの前で待った。
カウンターの横に、低い棚があった。棚には、たたんだ館内着が積まれていた。白地に紺の朝顔の浴衣。紺の作務衣。それぞれの山に、〈S〉〈M〉〈L〉の札。
受話器が置かれた。
「お待たせしました。お名前を」
「齋藤です。一名で、予約しています」
「齋藤さま。はい、お待ちしてました」女の人は、紙を一枚と、ボールペンを出した。「こちらにご住所とお電話を。それから、館内着はそこから一組、お好きなほうを。浴衣と作務衣」
ミコはペンを持った。住所を書いた。部屋番号の〈302〉を書くとき、手が少し止まった。家の番号を、知らない町の紙に書くのは、変な感じがした。
本部で、シンパイが〈浴衣 はだける〉と書いた。〈作務衣 地味〉。
「地味は、悪いことではありません」とキオクが言った。
「浴衣は、旅っぽいです」とダイジョブが言った。
ミコは、紺の作務衣のSを一組取った。上着の結びひもは、内側にきちんと折りこまれていた。
「朝ごはんは、七時半と八時、どちらにしますか」
「七時半で、お願いします」
女の人は、紙にさっと丸をつけた。
「お部屋は三階の〈凪〉です。お支払いは、ご予約のときに済んでますので。大浴場は一階の奥、夜は二十三時まで、朝は六時から九時。お出かけのときは、鍵をこちらへ。わたしがいないときは、この箱へ」カウンターのはしに、細い口のあいた木の箱があった。「朝早いときは、持っていってもらってかまいません。チェックアウトは十時です。お布団は押し入れに入ってますので、ご自分でお願いしますね。夕食なしの、朝食付きのプランなので」
一度に、全部言った。
ミコは、うなずきながら、頭の中で、キオクが一つずつ録画しているのを感じた。
女の人は、鍵を一本、カウンターに置いた。鍵には、手のひらくらいの、平たい木の札がついていた。札は、魚の形に切ってあった。焼き印で〈凪〉。
「階段で、すみません。エレベーターがなくて」
「大丈夫です」
ミコは鍵を受けとった。木の札が、思ったより重かった。
第二章 海側、千五百円ぶん
階段は、一段ずつ、きゅっと鳴った。
三階の廊下のいちばん奥が、〈凪〉だった。鍵を回すと、がちゃん、と古い音がした。
戸を開けた。
畳の部屋だった。六畳。まんなかに低いテーブルがあって、お盆の上に、急須と湯のみが一つずつと、個包装のおまんじゅうが一つ、のっていた。
その奥の障子が、開けてあった。
障子の向こうは、板の間の、細長いスペースだった。大きなガラス窓があって、窓の前に、籐の椅子が二つ、小さな丸いガラスのテーブルをはさんで、向かいあっていた。
窓いっぱいに、海があった。
さっき座っていたベンチが、斜め下に見えた。つながれた船。岸壁。左のほうへのびる長い堤防と、その先の白い灯台。右のほうには、港の屋根と、低い山の肩。
ミコは、旅行かばんを畳の上に置いた。青緑の上着を脱いで、壁のハンガーにかけた。白いTシャツの肩が、すっと軽くなった。
本部で、キオクがリモコンを押した。
モニターに、三週間前のノートパソコンの画面が映った。
〈一名様 和室六畳 山側 一泊朝食付き 10,300円〉
〈一名様 和室六畳 海側・広縁つき 一泊朝食付き 11,800円〉
画面の中で、カーソルが、山側の上で止まっていた。しばらく止まっていた。それから、ゆっくり下へ動いて、海側をクリックした。
「十三秒です」とキオクは言った。「迷っていた時間です」
「千五百円です」とシンパイが言った。
「千五百円ぶんの、海です」とダイジョブが言った。両手を広げた。窓の幅くらいに。
ミコは、板の間に上がった。
籐の椅子は、二つあった。右の椅子は、左を向いていた。左の椅子は、右を向いていた。
本部が、ほんの少し、ざわついた。
「どっちに座りますか」とダイジョブが言った。
「どちらでもいいです」とシンパイが言った。それから、〈右 灯台が見える〉〈左 港が見える〉と書いた。「どちらでもいいですが、選ばないといけません」
ミコは、右の椅子に座った。
籐が、きし、と鳴って、体のかたちに少しだけへこんだ。
正面に、堤防と灯台が見えた。ひじかけに腕をのせると、ちょうど、ガラスのテーブルの上に手が届いた。
「五分だけです」とミコは口の中で言った。
時計は、十五時十一分だった。
十五時三十分になった。
ミコは、右の椅子にいた。
岸壁に、黒い服の男の人が二人来て、船の一つに乗りこんだ。エンジンの音がして、船は、白い線を引きながら、堤防の外へ出ていった。
本部で、シンパイがホワイトボードを二つに分けた。左に〈外〉、右に〈部屋〉。
〈外〉
・浜を歩く時間が減る
・商店街が閉まる
・食堂のラストオーダー 19:00
〈部屋〉
・ここにいると、出たくなくなる
・千五百円ぶんを、見ないで出ていく
シンパイは、二つを見比べて、マーカーのふたを閉めた。
「どちらも、心配です」
「どちらも大丈夫です」とダイジョブが言った。
「根拠は」
「どっちも、海です」
シンパイは、言いかえそうとして、窓のほうを見て、やめた。
キオクが言った。「浜を歩く、は、さっきベンチで少しやりました」
「ベンチは、歩いていません」
「海は、見ました」
ミコは、テーブルのおまんじゅうを取ってきて、袋をあけた。ひと口で半分食べた。こしあんだった。もう半分も食べた。急須にお湯を入れるのは、やめた。立ちあがりたくなかった。
十六時になった。
十六時十五分。
堤防の上を、小さな人が、ゆっくり灯台のほうへ歩いていった。犬を連れていた。犬も、小さかった。
ミコはメモ帳を開いて、〈15:30 浜を歩く〉に、細い線を一本引いた。消したのではなかった。〈ベンチで〉と横に書いた。
〈16:30 商店街〉の行を、しばらく見た。
本部で、ハラヘッタが立ちあがった。
ずっと黙っていたハラヘッタだった。緑のカーディガンのポケットに両手を入れて、ホワイトボードの〈食堂のラストオーダー 19:00〉の前に立った。
「みなさん」とハラヘッタは言った。「この部屋に、食堂はありません」
本部が、静かになった。
「朝ごはんは、あります。七時半です。今からだと」ハラヘッタは指を折りかけて、やめた。「長いです。おまんじゅうは、一個でした。もう、ありません」
「……ありません」とキオクが言った。
ミコは、空になったおまんじゅうの袋を見た。

十六時五十分。
ミコは、右の椅子から立ちあがった。籐が、きし、と鳴って、へこみが少しずつ戻っていった。
「商店街は、どうしますか」とシンパイが聞いた。
「通ります」とミコは小さく言った。「食堂まで、通るので」
ネムイが、パイプ椅子の上で、フードの中から、もごもごと言った。
「……椅子は、待ってます」
第三章 堤防の入口で
鍵は、帳場の女の人に渡した。女の人は、また電話をしていて、受話器を耳にあてたまま木の札を受けとって、カウンターの内側の釘にかけた。ほかの釘にも、魚の札がいくつか下がっていた。
商店街は、宿から歩いて四分だった。
アーケードはなかった。古い二階建ての店が、道の両側に並んでいた。半分くらいは、もうシャッターが下りていた。開いている店は、八百屋と、薬局と、乾物屋と、角の酒屋だった。乾物屋の店先に、平たいざるがいくつも並んでいて、その一つに、干した小さな魚が、銀色に光っていた。
ミコは、それを見ながら、通りすぎた。
〈波止場食堂〉は、商店街を抜けたところの、港の倉庫のとなりにあった。
ガラス戸の向こうに、カウンターが六席と、テーブルが三つ。テーブルの一つで、日焼けした男の人たちが四人、大きな声で話していた。カウンターには、誰もいなかった。
「いらっしゃい」
厨房の中から、白い帽子のおじいさんが言った。
ミコは、カウンターのいちばん端に座った。壁に、手書きの札が並んでいた。〈刺身定食〉〈煮魚定食〉〈アジフライ定食 1,100円〉〈本日の汁 あら汁〉。
「アジフライ定食を、ください」
「はい、アジフライね」
おじいさんは、それだけ言って、背中を向けた。
すぐに、油の音がした。
本部で、ハラヘッタが身を乗り出していた。本部にカウンターはないので、ホワイトボードのふちに両手をついていた。
「この音です」とハラヘッタは言った。「これを聞きに来ました」
「食べに、です」とキオクが言った。
「聞くのも、入ってます」
十分くらいして、お盆が来た。
アジフライが、二枚だった。尾っぽが、ぴんと立っていた。千切りのキャベツが山になっていて、小さな皿にタルタルソースと、くし切りのレモン。ご飯と、あら汁と、たくあんが二切れ。
ミコは、一枚目に、ソースを少しだけかけた。
かじると、衣が、さくっ、と鳴った。中の身が、白くて、ふわっとしていた。
ハラヘッタが、何も言わなかった。目を閉じていた。
二枚目は、タルタルソースで食べた。あら汁には、骨のついた身がごろっと入っていた。ミコは、身を食べたあとの骨を、小皿のはしに、ひとつずつ並べた。
テーブル席の男の人たちが、「明日は風の出るけん、昼までやな」と話していた。何が昼までなのかは、わからなかった。
ミコは、明日の朝市のことを、少しだけ考えた。
お会計は、千百円だった。千円札と百円玉一枚で払った。
「どうも」とおじいさんは言った。それから、ミコの小皿の、並んだ骨を見て、「きれいに食べたね」と言った。
ミコは、どう返していいかわからず、「おいしかったです」と言った。
食堂を出たのは、十七時五十分だった。
空は、まだ明るかった。雲が、さっきより高くなっていた。
港の道を、宿のほうへ戻った。途中で、道は二つに分かれた。左へ行けば、堤防の入口。まっすぐ行けば、宿。
ミコは、分かれ道で止まった。
堤防の入口には、低い鉄の柵があって、そのあいだを人が一人ずつ通れるようになっていた。入口の横に、色のあせた看板が立っていた。〈波の高いときは立ち入らないでください〉。今日は、波は高くなかった。
堤防の上を、何人かが、灯台のほうへ歩いていた。カメラを首から下げた人。手をつないだ二人。釣竿を持った子どもと、そのお母さん。
時間割の〈19:00 堤防の先で夕日〉まで、一時間と少しあった。
本部で、シンパイが、ホワイトボードの〈外〉と〈部屋〉のあいだの線を、もう一回なぞった。
「ここは、外です」とシンパイは言った。「外のいちばん先が、あそこです」
「行けば、夕日です」とダイジョブが言った。それから、続けて言った。「部屋でも、夕日です」
「どっちの味方ですか」
「両方です」
キオクがリモコンを押した。モニターに、さっきの右の椅子からの景色が映った。窓の正面に、堤防と、灯台。
「部屋から、あそこが見えます」とキオクは言った。「あそこからも、部屋は見えると思います。たぶん。でも、そのとき、わたしたちは部屋にいません」
「どういう意味ですか」
「わかりません」とキオクは言った。「言ってみたら、そうなりました」
ミコは、堤防の先の、白い灯台を見た。
それから、振り返った。宿の三階の窓が見えた。ガラスに空がうつっていて、中の椅子は見えなかった。
ネムイが、フードの中で言った。
「……椅子は、待ってます」
さっきと同じことを言っていた。
ミコは、まっすぐの道を選んだ。
「堤防は」とシンパイが言った。
「明日の朝、通ります」とミコは小さな声で言った。「朝市の帰りに。入口まで」
シンパイは、〈入口まで〉とホワイトボードに書いて、少し考えて、丸で囲んだ。
宿の手前の角に、酒屋があった。店先の冷蔵ケースに、瓶の飲み物が並んでいた。〈地みかんサイダー 180円〉。
ミコは、一本取った。レジのおばあさんに、百円玉を二枚渡した。二十円のおつりをもらうと、おばあさんは、カウンターの下から栓抜きを出して、貸してくれた。ミコは、店の前で栓を抜いた。しゅっ、と音がした。栓抜きを返した。
「瓶は、ここに返してくれたら」とおばあさんは言った。店の横の、木の箱を指さした。「明日でもいいよ。朝はシャッター閉まっとるけど、箱は出しとるけん」
「明日の朝、通ります」とミコは言った。
十八時十二分に、帳場で鍵を受けとった。女の人は、今度は電話をしていなかった。
「おかえりなさい」
「ただいま、戻りました」
言ってから、ミコは、少し恥ずかしくなった。ただいま、と言う場所ではなかった。でも、女の人は、ふつうに「はい」と言って、魚の札を渡した。
第四章 天井の灯台
ミコは、右の椅子に座った。
籐が、きし、と鳴った。へこみが、さっきと同じところにできた。
サイダーの瓶を、ガラスのテーブルにのせた。瓶の中で、小さな泡が、下から上へ、ずっとのぼっていた。
窓の外の色が、変わりはじめていた。
堤防の向こうの、低い岬の上の空が、黄色くなった。それから、だいだい色になった。海の上に、光の道が一本、こちらへのびてきた。つながれた船の手すりが、一つずつ、きらっと光った。
堤防の先に、人が集まっていた。十人くらい。小さかった。灯台の白い壁が、半分だけ、だいだい色になっていた。そのそばで、カメラを構えている人がいた。手をつないでいた二人が、まだ手をつないでいた。
本部で、シンパイが、窓のほうを見たまま言った。
「……あそこに、いたかもしれません」
「はい」とキオクが言った。
「いたら、灯台の横で、あの人たちと同じほうを見ていました」
「はい」
「ここからだと、あの人たちも、見えます」
シンパイは、それ以上言わなかった。マーカーを、ホワイトボードの下の受け皿に置いた。
ミコは、サイダーを飲んだ。みかんの味が、思ったより濃かった。
太陽が、岬の肩にかかった。かかってから、思っていたより早く、沈んだ。最後の細い光の線が消えたとき、堤防の先の人たちが、何人か、小さく拍手をしたように見えた。音は、聞こえなかった。
ミコは、拍手はしなかった。ひじかけの上で、指を一回だけ動かした。
空は、まだ明るかった。
堤防の人たちが、一人ずつ、こちらへ戻りはじめた。
そのとき、灯台に、明かりがついた。
白い、丸い光だった。灯台のてっぺんで、ぱっ、とついて、それから、ゆっくり、回りはじめた。光は、海のほうを向いたときに、いちばん強くなった。
戻りかけていた人たちは、もう、灯台の真下を離れていた。何人かが振り返った。でも、ほとんどの人は、足もとを見て歩いていた。
「……気づいてないかもしれません」とダイジョブが言った。「真下だと」
「わかりません」とキオクが言った。「でも、ここからは、見えます」
ミコは、サイダーの瓶を持ったまま、灯台の光が回るのを、見ていた。
二十時半に、ミコは作務衣に着がえた。
紺の作務衣は、袖が少し長かった。一回折った。ひもを結ぶのに、二回やりなおした。
大浴場は、一階のいちばん奥だった。のれんをくぐると、木の床の脱衣所に、小さなロッカーが並んでいた。〈百円を入れて鍵を抜いてください。百円は戻ります〉。ミコは、財布から百円玉を出して入れ、魚の札のついた部屋の鍵を、ロッカーにしまった。札が大きくて、少しななめにして入れた。
湯船は、窓のある四角いお風呂だった。窓は、すりガラスだった。海は見えなかった。
先に、六十歳くらいの女の人が一人、入っていた。ミコが湯船のすみに入ると、女の人は、ふう、と息をついて言った。
「ここ、窓から海の見えんでしょう。毎回、もったいないなあと思うんよ」
「……毎回、来られるんですか」
「年に一回ね。お部屋はいつも山側」女の人は、湯の中で、肩を回した。「海側、高いけん」
ミコは、何か言おうとして、言わなかった。湯が、あごの下まで来ていた。
本部で、ダイジョブが「千五百円です」とつぶやいた。
「言わなくていいです」とシンパイが言った。
女の人は、先に上がった。上がるときに、「ゆっくりね」と言った。
ミコは、ゆっくりした。
脱衣所の外に、瓶の牛乳の自動販売機があった。〈牛乳 130円〉〈コーヒー牛乳 130円〉。
本部で、ハラヘッタとキオクが、同時に何か言いかけた。
ミコは、牛乳のボタンを押した。ロッカーから戻ってきた百円玉と、財布の十円玉三枚で払った。
廊下の長椅子に座って、ふつうに飲んだ。冷たかった。空き瓶は、自動販売機の横の回収箱へ返した。
部屋に戻ったのは、二十一時十五分だった。
押し入れを開けた。敷き布団と、掛け布団と、枕と、シーツが入っていた。
ミコは、敷き布団を引っぱり出して、畳のまんなかに置いた。それから、手を止めた。
本部で、シンパイが、ホワイトボードに書いた。
〈頭を窓側にすると、北枕〉
「北ですか」とダイジョブが聞いた。
「海のほうが、北です。たぶん。電車の中で見た地図で、そうでした」とキオクが言った。「たぶん、です」
「北枕だと、どうなりますか」
シンパイは、少し考えた。「わかりません。でも、気になります」
ミコは、布団を九十度回した。頭が、右。窓が、左。
横になって、首を左に向けると、障子の向こうに、広縁の二つの椅子と、窓が見えた。
「これです」とダイジョブが言った。
シーツを敷いた。端を布団の下に折りこむのに、時間がかかった。枕を置いた。掛け布団を広げた。
本部で、ネムイが、パイプ椅子から立ちあがった。何も言わずに、フードを深くかぶりなおして、また座った。
二十二時十分に、ミコは電気を消した。
広縁の窓のカーテンは、半分だけ閉めた。もう半分は、開けておいた。
部屋は、暗くなった。でも、真っ暗にはならなかった。窓の外の、港の街灯の明かりが、障子の白いところを、うすく灰色にしていた。
波の音がした。岸壁に当たる、ちゃぷ、という小さな音。ロープのきしむ、ぎい、という音。遠くで、車が一台、通りすぎた。
ミコは、天井を見ていた。
天井の板は、木目が、川みたいに流れていた。
その天井を、すうっと、何かが横切った。
光だった。
うすい、白っぽい帯みたいな光が、天井の左から右へ、なでるように動いて、消えた。
ミコは、目を開けたまま、待った。
しばらくして、また来た。左から、右へ。すうっと。
「……灯台です」とキオクが、とても小さな声で言った。
ミコは、首を少し左に回した。カーテンの開いたほうから、堤防の先の白い光が見えた。光がこちらを向いたとき、天井を帯が通った。
「数えます」とキオクが言った。
本部の全員が、天井を見ていた。
光が来た。消えた。
「いち」とキオクが言った。「に。さん」
ダイジョブも、数えはじめた。ハラヘッタも。シンパイは、ホワイトボードの前でマーカーのふたを取った。
「し。ご。ろく。しち」
ネムイが、パイプ椅子の上で、小さな声で、いっしょに数えていた。
「はち。く――」
ネムイの声が、そこで止まった。
フードの中から、すう、すう、という音がした。
「……じゅう。じゅういち。じゅうに」
光が来た。
「十二です」とキオクが言った。「時計では測っていないので、だいたい、です」
シンパイは、ホワイトボードに、小さく〈12〉と書いた。それから、もう一回、みんなで数えた。十二だった。シンパイは〈12〉の横に、丸をつけた。
ミコは、天井を横切る帯を、もう一回見た。それから、もう一回。

四回目のとき、ダイジョブが寝た。
五回目のとき、ハラヘッタが寝た。
何回目のときにミコが寝たのかは、誰も数えていなかった。
第五章 もう一つの椅子
ぶるるるる、という音で、目が覚めた。
船のエンジンの音だった。窓の下から聞こえた。
ミコは、天井を見た。光の帯は、もう通らなかった。天井は、白っぽく明るかった。
枕もとのスマホを見た。五時四十八分。
本部で、シンパイがすでに起きていた。ホワイトボードの〈12〉の下に、新しく書いていた。
〈朝市 6:00〜8:00〉
〈朝ごはん 7:30〉
〈布団〉
「布団が、入ってきました」とキオクが言った。
「入れたのは、わたしではありません」とシンパイが言った。
パイプ椅子の上で、ネムイが、フードの中から片手だけ出して、〈布団〉の字を指さしていた。目は、閉じたままだった。
「ネムイさん、起きてますか」
「……寝てます」
ミコは、掛け布団の中で、足の指を動かした。布団は、あたたかかった。窓の外で、カモメが一羽、鳴いた。
ハラヘッタが、ゆっくり言った。
「食堂で、明日は風が出るけん昼まで、と言っていました」
「朝市のことですか」とダイジョブが聞いた。
「わかりません。でも、風が出る前です。今は」
ミコは、起きあがった。
ネムイの片手が、フードの中に、するすると戻っていった。
作務衣から、白いTシャツと黒いワイドパンツに着がえた。窓の外は、少しひんやりしているように見えた。ハンガーから青緑の上着をとって、はおった。財布とスマホと鍵、それから、朝市のために持ってきた折りたたみの小さな保冷バッグを、トートに入れた。洗面台でゆすいでおいたサイダーの空き瓶も、トートに入れた。
六時三分。帳場には、誰もいなかった。カウンターのはしの木の箱を見て、それから、トートの中の魚の札を見た。朝早いときは、持っていってかまいません、と言われていた。
ミコは、鍵を持ったまま、のれんをくぐった。
朝の港は、昼間と、においがちがった。水のにおいと、油のにおいと、何かを焼くにおい。
港の屋根の下に、折りたたみの台が、十くらい並んでいた。発泡スチロールの箱。ざる。手書きの値札。魚を氷の上に並べている人。野菜を、ビニール袋に詰めている人。
人は、思ったより多かった。サンダルの人たち。大きな保冷バッグを持った人。小さな子どもを肩車した人。
ミコは、端から一つずつ見ていった。
魚は、見るだけにした。帰りの電車まで、持っていられない。
真ん中あたりの台に、透明な袋が並んでいた。白っぽい小さな魚が、平たく詰まっていた。〈ちりめん 一袋400円 要冷蔵〉。
台の向こうに、首にタオルを巻いた女の人がいた。四十歳くらい。ミコが袋を見ていると、「旅行の人?」と聞いた。
「はい。そこの宿に」
「何時の電車?」
「十時四十二分です」
女の人は、台の下から、厚みのある保冷剤を一つ出した。「なら、これつけとくね。家まで何時間?」
「電車だけで二時間くらいです。待つ時間もあるので、宿を出てからだと三時間以上。保冷バッグは持っています」
「宿に冷蔵庫ある?」
「あります」
「なら、出る直前まで入れとき。帰りはこれと一緒に保冷バッグに入れて、家に着いたら、すぐ冷蔵庫ね」
ミコは、五百円玉を渡した。百円のおつりと、ちりめんの袋と、保冷剤を、小さなビニール袋に入れて受けとった。ミコはそれを保冷バッグに入れ、口を閉じた。
女の人が、ふと、袋を指さした。
「ちりめんの中にね、ときどき、ちっちゃいカニとか、タコの赤ちゃんとかが、まじっとるんよ。見つけたら、当たり」
「……当たり、ですか」
「当たり。なんももらえんけどね」
女の人は、笑った。ミコも、少しだけ笑った。
本部で、ハラヘッタが、袋をじっと見ていた。透明な袋の外から、小さな魚の一匹一匹を、目で追っていた。
「今は、探しません」とシンパイが言った。「家で、です」
「わかってます」とハラヘッタは言った。目は、袋から離さなかった。
帰りに、酒屋の前を通った。シャッターは、まだ下りていた。シャッターの横に、木の箱があって、空き瓶が何本か入っていた。〈空き瓶はこちらへ〉。
ミコは、トートからサイダーの空き瓶を出して、箱に、そっと入れた。かちん、と鳴った。
それから、港の道の分かれ道まで、歩いた。
堤防の入口の、低い鉄の柵。
朝の堤防は、昨日の夕方より、人が少なかった。釣竿を持った男の人が二人、先のほうに座っていた。灯台は、白かった。光はもう、ついていなかった。
ミコは、柵のところで止まった。
本部で、シンパイが、ホワイトボードの〈入口まで〉の丸を、指でとんとんとたたいた。
「入口です」とシンパイは言った。「約束どおりです」
「先まで、行けますよ」とダイジョブが言った。「七時半まで、まだあります」
キオクが、リモコンを持ったまま言った。「先まで行くと、片道、十分くらいです。たぶん」
ミコは、堤防の先の灯台を見た。それから、振り返って、宿の三階の窓を見た。朝の光で、窓のガラスが白っぽく光っていた。
冷蔵庫に入れていないちりめんが、トートの中で、保冷剤といっしょに、少しだけ重かった。
ミコは、柵を通らなかった。
「入口まで、です」とミコは小さく言った。「先は、また」
シンパイは、何も言わずに、〈先は、また〉と書いた。
六時五十分に、ミコは部屋へ戻った。
ちりめんの袋を、部屋の小さな冷蔵庫に入れた。保冷剤は、冷凍のほうに入れた。
上着を、ハンガーにかけた。
広縁に上がった。
今度は、左の椅子に座った。
籐が、きし、と鳴った。昨日とちがう音のような気がした。へこみも、ちがうところにできた。
左の椅子は、右を向いていた。正面に、港の屋根と、その向こうの低い山の肩が見えた。
山の肩の上から、朝の光が来ていた。
光は、窓のガラスを通って、広縁の板の上に、長い四角を作っていた。その四角が、ガラスのテーブルの脚にかかって、右の椅子の座面まで届いていた。
右の椅子は、空いていた。昨日のへこみが、ほんの少しだけ残っているように見えた。
港の屋根の下で、さっきの朝市の台の一部が、片付けられていくのが見えた。首にタオルを巻いた人が、発泡スチロールの箱を重ねていた。
「昨日は、あっちを見ていました」とダイジョブが言った。
「今日は、こっちです」とキオクが言った。
「二つあると、両方見られます」
「一人なのに」とシンパイが言った。それから、少し考えて、「一人だから、です」と言いなおした。
ミコは、左の椅子で、朝の光の四角が、板の上をほんの少しずつ動いていくのを見ていた。
七時半の朝ごはんは、一階の食事処だった。
畳の部屋に、低いお膳が並んでいた。お膳の一つに、小さな札が立っていた。〈凪 様〉。
焼いた干物が一枚。アジだった。卵焼き。のり。小鉢のひじき。味噌汁。ご飯は、小さなおひつに入っていた。
本部で、ハラヘッタが、立ちあがった。
「アジです」とハラヘッタは言った。「二回目です」
「昨日は、フライでした」とキオクが言った。
「今日は、干物です。同じアジでも、ちがう人です」
「人ではありません」
ご飯は、おひつから、二杯食べた。二杯目をよそったら、底に、しゃもじ一回ぶんだけ残った。ミコは、それも小さく、三杯目としてよそった。
離れたお膳で、昨日の大浴場の女の人が、ひとりで味噌汁を飲んでいた。目が合うと、女の人は、お椀を持ったまま、少しだけ会釈をした。ミコも、お茶碗を持ったまま、会釈をした。
九時半に、ミコは作務衣をたたんだ。
部屋の入口に、〈使った館内着はこちらへ〉と書いた籠があった。たたんだ作務衣を入れた。上着の結びひもも、内側に折りこんだ。
押し入れの戸には、〈お布団はそのままで結構です〉と貼り紙があった。でも、掛け布団だけ、半分にたたんだ。
旅行かばんのチャックを閉めた。青緑の上着をはおった。
最後に、広縁を見た。
二つの椅子が、小さなテーブルをはさんで、向かいあっていた。右の椅子も、左の椅子も、へこみはもう、だいたい戻っていた。
出る直前の九時五十分、ちりめんの袋を冷蔵庫から、保冷剤を冷凍のほうから出した。保冷剤は芯が硬かった。二つを保冷バッグに入れて口を閉じ、トートの底へしまった。
九時五十五分に、帳場へ下りた。
女の人がいた。今日は、電話をしていなかった。
ミコは、魚の札のついた鍵を、カウンターに置いた。
「ありがとうございました。お支払いは済んでますので」と女の人は言った。それから、鍵の札を釘にかけながら聞いた。「海、見えました?」
ミコは、少し考えた。
「灯台が、天井に来ました」
女の人は、手を止めた。それから、「ああ」と言って、笑った。
「来るでしょう。あれ、夜中に気になる人と、好きな人と、いるんですよ」
「……好きなほうでした」
「それは、よかった」
女の人は、それ以上、何も聞かなかった。電話が鳴った。女の人は、受話器を取りながら、空いているほうの手で、ミコに小さく手を振った。
ミコは、のれんをくぐった。
十時四十二分の電車は、二両だった。
海側の席に座った。窓の外を、港が、堤防が、白い灯台が、ゆっくりうしろへ流れていった。
ミコは、トートからメモ帳を出した。
時間割が、細い線と、横に書いた字で、いっぱいになっていた。
〈15:30 浜を歩く〉の横に〈ベンチで〉。
〈16:30 商店街〉の横に〈通った〉。
〈19:00 堤防の先で夕日〉の横に〈右の椅子から〉。
〈6:00 朝市〉の横に〈ちりめん 保冷剤〉。
ミコは、ペンを出して、いちばん下に書いた。
〈堤防の先は、また〉
それから、少し考えて、もう一行書いた。
〈灯台 約12秒〉
本部で、シンパイが、ホワイトボードの〈12〉の丸を、消さずにおいた。
三〇二号室に着いたのは、十三時を少し過ぎたころだった。
ミコは、旅行かばんを床に置いて、トートの底の保冷バッグを開いた。ちりめんの袋も、芯の残った保冷剤も、まだ冷たかった。袋はすぐ冷蔵庫へ、保冷剤は冷凍庫へしまった。
手を洗ってから、冷蔵庫の前で、足が止まった。
本部で、ハラヘッタが言った。
「……今は、家です」
ミコは、台所のテーブルに、白いお皿を一枚出した。冷蔵庫から袋をもう一度出して、口を開けた。ほんの少しだけ、お皿の上にあけ、袋のほうはすぐ冷蔵庫へ戻した。
白っぽい小さな魚が、お皿の上に、ばらばらと広がった。
ミコは、顔を近づけた。
一匹ずつ、指で、そっと分けていった。
魚。魚。魚。魚。
そのあいだに、赤っぽい点が、一つあった。
ミコは、息をとめた。
点には、足があった。とても細い足が、何本か、ちぢこまっていた。
「……当たりです」とハラヘッタが、ささやいた。
カニだった。米粒より少し大きいくらいの、小さな、乾いたカニだった。
ミコは、それを、お皿のはしに、そっとよけた。食堂で、アジの骨を小皿のはしに並べたときと、同じ手つきだった。
それから、お皿に残った魚を冷蔵庫の袋へ戻して、口を閉じた。
お皿のはしに、カニが一つ残っていた。
「どうしますか」とシンパイが言った。「とっておきますか」
「とっておくと、乾いて、どこかへいきます」とキオクが言った。「たぶん」
ハラヘッタは、何も言わなかった。言わなかったけれど、本部のいちばん前にいた。
ミコは、カニを指でつまんで、口に入れた。
かりっ、とも言わないくらい、小さかった。少しだけ、海の味がした。
ハラヘッタが、満足そうに、目を閉じた。
ミコはメモ帳を開いて、〈灯台 約12秒〉の下に、〈当たり 1〉と書いた。
「次の袋にも、入っているとは限りません」とシンパイが言った。
「次の袋」とダイジョブが言った。
誰も、それ以上は言わなかった。ハラヘッタだけが、うれしそうに、もう一回「次の袋」と言った。
台所の窓から見えるのは、隣の建物の壁だった。波の音はしなかった。
ミコは、天井を見上げた。昼の天井に、光の帯は通らなかった。
それでも、ミコは、口の中で、十二まで数えた。


