第一章 ネムイが起きている
六月最初の土曜日、午後四時三十八分。
齋藤ミコは、月見台動物園の正門の前で、券売機の列に並んでいた。
門の上に、紺色の横断幕がかかっていた。〈ゆうべの動物園 六月の土曜日 21:00まで〉。白い字の横に、目を閉じた三日月の絵が描いてある。
日差しは、まだ明るかった。門の前のアスファルトが少し白っぽく光っていて、並んでいる人たちの影が、みんな足もとから斜めにのびていた。ミコは白いTシャツの肩に、生成りのトートをかけなおした。青緑の上着は、たたんでトートの底に入れてある。夜になったら着るつもりだった。
ポスターを見たのは、二週間前、仕事帰りのバス停だった。
暗い枝の上で、フクロウが丸い目を二つ、こちらへ開けている写真だった。その下に小さな字で、〈夜に動くとは限りません。寝ている姿も、どうぞごゆっくり〉と書いてあった。
ミコは、そのバス停で、バスを一本見送った。
列の前は、あと二組だった。ミコはメモ帳を開いた。
〈明るいうち〉
フラミンゴ
17:30 キリンの葉っぱの時間
18:30まで ゾウ(そのあと寝室)
〈暗くなってから〉
フクロウの森
〈21:12 正門前 最終バス〉
本部では、シンパイがもうホワイトボードの前に立っていた。
〈暗い〉
〈迷う〉
〈最終バス〉
「三つです」とシンパイは言った。
「まだ、四時半です」とダイジョブが言った。黄色い上着の胸を張っていた。「暗くなるまで、ずっとあります。ぜんぶ見られます」
「ぜんぶ見られる根拠は」
「明るいからです」
キオクが古いリモコンを押した。モニターに、バス停のポスターが映った。丸い目のフクロウ。下の小さな字。キオクは丸い眼鏡を指で押しあげて、その字のところで一時停止した。
「〈動くとは限りません〉」とキオクは読んだ。「と、書いてあります」
ハラヘッタは、ポスターのすみの別の字を見ていた。〈夜の屋台 17:00〜20:30〉。
「屋台」とハラヘッタは言った。「夜の、屋台です」
それから、本部の全員が、同じほうを見た。
パイプ椅子の上で、ネムイが、起きていた。
濃紺のフードを、頭のうしろに下ろしている。目が、ぱっちり開いていた。両手をひざに置いて、背すじを伸ばして座っていた。
「おはようございます」とネムイは言った。
誰も、すぐには返事をしなかった。
「……今は、夕方です」とシンパイが言った。
「はい。ここからが、わたしの時間です」ネムイは、椅子からすとんと降りた。「今日は夜の動物園ですね。寝ている動物が、たくさんいます。わたしは、寝顔を集めます」
「集める」とダイジョブが言った。
「見て、覚えます」ネムイはキオクのほうを向いた。「キオクさん、録画をお願いします」
キオクは、リモコンを持ったまま、少し考えてから「はい」と言った。
「次の方、どうぞ」
券売機の横の窓口に、紺のポロシャツの女の人がいた。ミコは千円札を一枚出した。
「大人一枚、お願いします」
「六百円です。四百円のおつりと、こちら、地図です」女の人は、地図といっしょに、はがきくらいの大きさの紙を一枚、窓口の台に置いた。「それと、今日だけの、おやすみスタンプカードです」
カードには、丸い枠が五つ並んでいた。〈フラミンゴ池〉〈キリン舎〉〈レッサーパンダ〉〈ゾウ舎〉〈フクロウの森〉。いちばん下に、〈五つそろったら、20:50までに正門横の交換所へ。シールと交換します〉。
「スタンプは、それぞれの場所に置いてあります。起きていても寝ていても、行ったら押してください」
「はい」
「それから、地図の裏をお読みください。夜のお約束です」
ミコは、入口の横に寄って、地図を裏返した。
〈ゆうべの動物園のお約束〉
〈1 フラッシュを使わない〉
〈2 ガラスや柵をたたかない。身を乗り出さない〉
〈3 どうぶつに声をかけない。食べ物をあげない〉
〈4 夜の園内は走らない〉
〈5 ライトは足もとだけ。どうぶつに向けない〉
〈6 フクロウの森の中では、撮影しない〉
本部で、シンパイが六つを全部ホワイトボードに書き写した。それから自分の三つの下に、線を一本引いた。
「お約束が、六つ増えました」
「守るだけです」とダイジョブが言った。
「守るのは、ミコさんです」
ネムイは、カードの〈おやすみ〉の字を、モニターの前で、指でなぞっていた。
ミコはカードを地図に重ねて、トートの外ポケットにさした。四時四十一分に、門を入った。
第二章 明るいうちに
フラミンゴ池は、門を入ってすぐの右手だった。
浅い池の中に、桃色の鳥が二十羽くらい立っていた。何羽かは、片足で立って、首をくるりと背中にうずめていた。くちばしが、羽の中に隠れて見えなかった。
「寝てます!」とネムイが言った。
本部の誰も聞いたことのない、大きな声だった。
「寝ているかどうかは、わかりません」とシンパイが言った。「休んでいるだけかもしれません」
「首をしまっています。わたしもフードをかぶります。同じです」
池の柵の手前に、木の小さな台があって、その上にスタンプとインクが置いてあった。スタンプは、紐で台につないであった。ミコはカードを台にのせて、〈フラミンゴ池〉の丸に押した。
片足で立つフラミンゴの絵が、桃色のインクで出た。
「一つめです」とネムイが言った。両手を胸の前で合わせていた。「寝顔、一つめ」
「顔は、見えていません」とキオクが言った。
「羽の中に、あります」
ミコは、池のいちばん手前で首をうずめている一羽を、もう少しだけ見た。風が吹いて、羽のはしが少しめくれた。鳥は動かなかった。
五時二十分に、ミコはキリン舎の観察デッキに上がった。
デッキは、木でできた高い台だった。階段を上がると、ちょうどキリンの顔のあたりの高さになる。柵の向こうに、背の高い木の柱が二本立っていて、そのあいだに太い鎖がかかっていた。
キリンは一頭、デッキから少し離れたところに立っていた。地面の砂を、長い首を曲げてかいでいた。柵の札には〈モミジ メス〉とあった。
デッキには、もう十人くらいが並んでいた。ミコは、端の少し空いたところに立った。
五時半ちょうどに、緑の作業服の飼育係の人が、長い棒を持って柱の下に来た。棒の先に、葉のついた枝の束が結んであった。飼育係の人は、棒を持ちあげて、その束を鎖のいちばん上のかぎに、かけた。
モミジが、顔を上げた。
ゆっくり歩いてきた。一歩が大きかった。柱の前で止まると、首を伸ばして、紫色の長い舌を出して、枝の葉を巻きとった。
しゃり、と音がした。
デッキの上で、誰かが小さく「わあ」と言った。ミコも、口の中で同じことを言った。
「明るいうちに、これを見たかったんです」と、本部でダイジョブがミコの代わりに言った。
「知っています」とキオクが言った。「メモに、書いてありました」
ミコはスマホを出して、フラッシュが切れているのを確かめてから、一枚だけ撮った。画面の中で、モミジの舌が、葉のあいだに少しだけ写っていた。
本部で、ネムイは腕を組んでいた。
「……起きていますね」
「起きています」とハラヘッタが言った。「食べています。とてもいいことです」
「寝顔が、ありません」ネムイは、モニターに顔を近づけた。「キリンさんは、いつ寝るんですか」
「知りません」とキオクが言った。「調べていません」
「わたしは、待てます」
「待ちません」とシンパイが言った。ホワイトボードの〈18:30まで ゾウ〉を、マーカーで二回たたいた。「次があります」
キリン舎のスタンプは、デッキを降りた階段の横にあった。ミコは〈キリン舎〉の丸に押した。首の長いキリンの絵が出た。
ネムイは、そのキリンの絵の目のところを、じっと見ていた。開いた目だった。
第三章 寝顔は、今しか見られません
レッサーパンダの展示は、キリン舎から坂を少し下ったところにあった。
六時を少し過ぎていた。空はまだ明るくて、坂の上の木の葉が、日の当たるところだけ黄色っぽく光っていた。
ガラスの向こうに、木が一本立っていた。太い枝が二つに分かれたところに、赤茶色のかたまりが、のっていた。
レッサーパンダだった。
丸くなって、しま模様のしっぽを、顔の上にかけていた。しっぽのすきまから、白い耳の先だけが出ていた。
「寝てます」とネムイが言った。今度は、小さな声だった。「寝てます。しっぽを、毛布にしています」
ガラスの前には、お父さんと、五歳くらいの男の子がいた。男の子は、ガラスに手をつけそうになって、ぎりぎりで手を引っこめた。それから、お父さんのほうを向いて、自分の口の前に指を一本立てた。
「しーっ」
お父さんは、うん、とうなずいて、同じように指を立てた。
ミコは、親子の少しうしろに立った。
レッサーパンダは、動かなかった。お腹のあたりが、ほんの少しだけ、ふくらんで、しぼんだ。
「もう少し、見ます」とネムイが言った。
「スタンプは、押しました」とシンパイが言った。ミコはたしかに、ガラスの横の台で、もう〈レッサーパンダ〉の丸に押していた。しっぽの絵だった。
「顔を、まだ見ていません。しっぽの下に、あります」
「しっぽは、どかないと思います」
「どくかもしれません」
ダイジョブが「どくかもしれません」とくり返した。ハラヘッタは、しっぽの毛がおいしそうだと言いかけて、キオクに見られてやめた。
親子が、いなくなった。
別の人たちが来て、のぞいて、「寝てるね」と言って、またいなくなった。
レッサーパンダは、一回だけ、しっぽの位置を少し直した。耳が、ぴくっと動いた。顔は、出てこなかった。
ネムイは、モニターの前から一歩も動かなかった。
キオクが、ふと、リモコンを持ちあげた。
「ミコさん」とキオクは言った。「今、六時二十四分です」
本部が、いっせいにホワイトボードを見た。〈18:30まで ゾウ〉。
ミコは、坂を上がった。
走らなかった。地図の裏の、四つめのお約束が頭にあった。夜の園内は走らない。まだ夜ではなかったが、ミコは早足で歩いた。トートが腰のところで、ぽん、ぽん、と揺れた。
シンパイが、ホワイトボードに書いた。〈ゾウ 間に合わない〉。
「まだ、わかりません」とダイジョブが言った。
「地図だと、坂を上がって左、それから池を回ります」とキオクが言った。「順調なら、七分くらいです。歩いて」
「六時二十四分足す七分は」
「言わなくていいです」
ゾウ舎の前に着いたのは、六時三十三分だった。
広い運動場の奥に、灰色の大きな建物があった。その壁に、トラックが入れそうな高さの戸があった。戸は、まだ開いていた。
その入口に、ゾウの、背中とお尻があった。
しわの寄った灰色の背中が、ゆっくり、奥のほうへ揺れていった。細いしっぽが、一回、左右に振れた。ゾウのしっぽまで奥へ入ってから、戸が、ごとん、と下まで閉まった。
運動場には、もう誰もいなかった。
柵の前にいた何人かが、「入っちゃったね」と言いながら離れていった。
ミコは、閉まった戸を見ていた。
本部で、シンパイが、〈ゾウ 間に合わない〉の横に、小さく〈間に合わなかった〉と書きなおした。
「……ネムイさんが、粘ったからです」とシンパイは言った。
「はい」とネムイは言った。それから、両手をぎゅっと握った。「でも、見ました。今の、見ましたか。おやすみの、瞬間です」
「背中です」
「寝室に帰る背中です。いちばん、おやすみの背中です」
ダイジョブが、ゆっくり拍手をした。ハラヘッタもつられた。シンパイだけ、拍手をしなかった。キオクは「録画しました」と言った。
ミコは、柵の横の台で、〈ゾウ舎〉の丸にスタンプを押した。うしろ向きのゾウの絵だった。お尻と、しっぽ。
カードの上で、四つめの丸は、ちょうど今見たとおりの絵だった。
ミコは、少しだけ笑った。
夜の屋台は、ゾウ舎のとなりの広場に出ていた。
白いテントが三つ並んでいて、それぞれの屋根から、小さな電球が一列ずつ下がっていた。まだ明るいので、電球は、ついているのかついていないのか、よくわからなかった。
まんなかのテントの看板に、〈キリンの首ドッグ 450円〉とあった。写真では、細長いパンから、ふつうの倍くらいの長さのソーセージがはみ出していた。
ハラヘッタが、本部のいちばん前に出てきた。
「あれです」
「長いです」とシンパイが言った。「持てますか」
「両手で持ちます」
「キリンの首ドッグと、麦茶をください」とミコはテントの人に言った。
「六百円です」
千円札で払って、四百円のおつりと、紙に包まれたホットドッグと、麦茶のペットボトルを受けとった。ホットドッグは、たしかに長かった。包み紙の両はしから、パンもソーセージも、まだはみ出していた。
広場のはしのベンチに座ったのは、七時少し前だった。
ひと口目は、ソーセージのはしだけだった。パンにたどりつかなかった。ぱりっと皮が鳴って、熱かった。
「首から、食べています」とハラヘッタが言った。満足そうだった。
ベンチの前を、家族連れや、二人組や、ミコと同じように一人の人が、ゆっくり通りすぎていった。だれも急いでいなかった。
七時を過ぎても、空は明るかった。ただ、明るさの色が、少しずつ変わっていった。白っぽかった空が、うすい水色になって、坂の上の木のうしろだけ、だいだい色に近くなった。
ホットドッグを食べおわって、包み紙を屋台の横のごみ箱に入れた。麦茶を半分くらい飲んで、ふたを閉めた。
そのとき、足もとで、ぽっ、と明かりがついた。
道のふちに、ひざくらいの高さの、小さな灯りが並んでいた。それが、手前から順番に、ぽっ、ぽっ、と、ともっていった。屋台の電球も、急に、はっきり光りはじめた。
風が、さっきより少しひんやりしていた。
ミコはトートの底から、青緑の上着を出して、はおった。麦茶を、代わりにトートに入れた。
本部で、ネムイが立ちあがった。
「ここからです」
第四章 フクロウの森には、二羽
フクロウの森は、園のいちばん奥にあった。
足もと灯の並んだ道を、ミコは歩いた。道の両側の木が、上のほうから黒くなっていった。空はまだ少し青かったが、木の下は、もう夜だった。
森の入口に、小さな看板が立っていた。黒い板に、白いチョークで書いてあった。
〈本日のフクロウの森 コマメ・ハッカ 2羽〉
その下に、地図の裏と同じ六つめのお約束が、もう一度書いてあった。〈森の中では、撮影しない〉。〈声は小さく〉。
ミコは、スマホをトートの中にしまった。
中は、大きな鳥小屋だった。
高い網が、何本もの木をまるごと囲んでいた。網の外側に、木の板の通路が、ゆるく曲がりながら続いていた。通路には、足もと灯しかなかった。網の中には、木のあいだの高いところに、月明かりくらいの、ぼんやりした灯りが一つだけあった。
最初の曲がり角を曲がったところで、ミコは足を止めた。
網のすぐ向こう、手の届きそうな、と言っても網があるけれど、低い枝の上に、灰色と茶色のまじった、丸いものがのっていた。
フクロウだった。
目を閉じていた。目元は、羽の中の細い線になっていた。顔の羽が、少しふくらんで、まるい輪になっていた。枝の下に、小さな札がついていた。〈コマメ〉。
「……寝てます」とネムイが言った。
ささやき声だった。本部の中なのに、ネムイは、ささやいていた。
ネムイは、モニターの前に、パイプ椅子をずるずると引きずってきた。座った。両手をひざに置いた。
「ここに、います」とネムイは言った。
ミコは、通路の網に近づきすぎないように、半歩さがって、コマメを見た。
ポスターの写真の、丸い目ではなかった。でも、閉じたまぶたのふちが、うすい線になっていて、くちばしが、羽のあいだに少しだけのぞいていた。羽の一枚一枚に、細かいしま模様があった。
「かわいいです」とダイジョブが言った。
「声は小さく、です」とシンパイが言った。自分も、小さい声だった。
二羽目が、いなかった。
ミコは、通路をゆっくり一周した。網の中の木を、一本ずつ見上げた。枝のつけ根。葉のかたまり。高いところの灯りのまわり。
フクロウの形をしたものは、コマメだけだった。
一周して、コマメの前に戻ってきた。看板には〈2羽〉とあった。
本部で、シンパイがホワイトボードに書いた。
〈寝室にいる〉
〈今日は休み〉
〈見落とし〉
「三つです」とシンパイは言った。
キオクがリモコンを押した。モニターに、入口の看板が映った。〈本日の〉の字のところで、一時停止した。
「〈本日の〉、です」とキオクは言った。「今日、二羽、と書いてあります。休みなら、書きなおすと思います。思います、です」
「寝室にいるかもしれません」
「それも、あります」
通路の先から、ゆっくりした足音がした。白髪まじりの男の人が、腕に〈ゆうべ係〉という布の腕章をつけて、歩いてきた。手に、足もとだけを照らす、小さな赤いライトを持っていた。ライトは、ずっと通路の板のほうを向いていた。
男の人は、ミコの横で立ちどまって、コマメを見て、小さくうなずいた。
本部で、シンパイが〈話しかける?〉と書いた。それから、〈話しかけなくてもいい〉と書いた。
ミコは、少しだけ息を吸った。
「あの」と、ミコは小さな声で言った。「ハッカは、今日は、寝室ですか」
男の人は、ミコを見て、それから、なぜか少しうれしそうな顔をした。
「いえ、出てます」と男の人は言った。やはり、小さな声だった。「出てるはずなんです。ハッカは、木の色がうまいんですよ。じっとしてると、幹とまったく見分けがつかない」
「どのへんに」
「それが」男の人は、網の奥を見上げて、首の後ろをかいた。「ぼくも、今日はまだ見つけてないんです。七時からずっと、ここを回ってるのに」
「……係の人なのに」
言ってから、ミコは口を押さえた。
男の人は、声を出さずに笑った。
「係なのに、です。ぼくは、ハッカのほうが好きなんですけどね。コマメはいつも手前で寝ててくれるから、お客さんにはコマメが人気で」男の人は、赤いライトを板に向けたまま、網の奥をもう一回見た。「ライトで探せば、すぐなんでしょうけど。向けちゃいけないので」
「はい」
「目が慣れると、見えることがありますよ。ありますよ、です。見えないこともあります」
男の人は、そう言って、通路の先へゆっくり歩いていった。
本部で、シンパイが〈見落とし〉に丸をつけた。
通路の、コマメのちょうど向かいに、木のベンチが一つあった。
ミコは、そこに座った。
ハッカを探すなら、もう一周するべきだった。シンパイはそう言った。奥のほうの木から、順番に見ていくべきです。
「わたしは、ここがいいです」とネムイが言った。
ネムイは、パイプ椅子から立たなかった。モニターのコマメを見ていた。
「コマメさんの寝顔は、今しか見られません」
「さっき、レッサーパンダでも、そう言いました」とシンパイが言った。「それで、ゾウの背中になりました」
「はい」ネムイは、うなずいた。「ゾウさんの背中は、よかったです」
シンパイは、マーカーのふたを閉めて、開けて、また閉めた。
ミコは、ベンチに座ったまま、コマメを見ていた。
コマメは、ときどき、ほんの少しだけ体の向きを変えた。羽をふくらませて、しぼませた。まぶたは、ずっと閉じたままだった。
本部の中も、だんだん静かになっていった。
最初に寝たのは、ダイジョブだった。黄色い上着の前を合わせて、床に座って、壁によりかかって、いつのまにか口を少し開けていた。
次が、ハラヘッタだった。ホットドッグがお腹にたまって、まるいお腹の上で手を組んで、ゆっくり目を閉じた。
シンパイは、ホワイトボードの前に立ったまま、マーカーを持ったまま、頭が、こくり、こくり、と前に揺れはじめた。〈見落とし〉の丸の横に、何か書こうとして、細い線が一本だけ、ふらふらと下へのびた。
キオクだけが、リモコンを持って、丸い眼鏡の奥でまばたきをしていた。
ネムイは、起きていた。
モニターの前で、背すじを伸ばして、コマメの寝顔を見ていた。うれしそうだった。誰にも何も言わなかった。

目が、慣れていた。
ミコは、そのことに、しばらく気づかなかった。
さっきまで黒いかたまりにしか見えなかった奥の木が、いつのまにか、幹と枝と、葉のかたまりに分かれて見えていた。幹の表面の、でこぼこ。枝の折れたあと。網の中のぼんやりした灯りが、幹のはしを、うすく照らしていた。
ミコは、コマメの頭の上を通りこして、奥の木を見上げた。
まんなかの、いちばん太い幹。その途中に、昔、枝が折れたらしい短い出っぱりがあった。その出っぱりの上の、幹の色が、ひとところだけ、まるかった。
まるくて、でこぼこしていなかった。
ミコは、息をとめた。
まるいところの、上のほうに、二つ、うすい色の点があった。
その二つの点が、ゆっくり、閉じた。
それから、ゆっくり、開いた。
「……います」と、本部でキオクが言った。リモコンを持つ手が、少しふるえていた。
ネムイが、モニターの前で、両手で口を押さえた。
フクロウだった。木の幹とまったく同じ色の羽で、幹の出っぱりにのって、目を開けていた。丸い目だった。ポスターの写真の、あの目だった。
ハッカは、ミコのほうを見ているのか、ミコのうしろの通路を見ているのか、わからなかった。首だけが、ゆっくり、少し、右に回った。また戻った。
ミコは、声を出さなかった。立ちあがりもしなかった。ベンチに座ったまま、両手をひざの上で握って、見ていた。

通路の先から、ゆっくりした足音が戻ってきた。〈ゆうべ係〉の男の人だった。赤いライトは、ずっと板を照らしていた。
ミコは、ベンチから少しだけ身を傾けて、男の人のほうを見た。それから、ライトを持っていない自分の手で、奥の木を指した。いちばん太い幹の、折れたあとの、上。
男の人は、ミコの指の先を見上げた。
しばらく、何も起きなかった。
それから、男の人の口が、ゆっくり開いた。
「……あ」と男の人は言った。ほとんど息だけだった。「いた」
男の人は、ミコの横に、そっと立った。二人で、しばらく同じところを見上げていた。
ハッカは、もう一回、ゆっくりまばたきをした。
「ありがとうございます」と男の人は、とても小さい声で言った。「今日、いちばん、うれしいです」
ミコは、何と言えばいいのかわからなかったので、うなずいた。
第五章 おやすみの係
八時三十九分に、森の天井の、どこかについている小さなスピーカーから、低い声がした。
〈スタンプの交換所は、二十時五十分までです。閉園は、二十一時です〉
〈ゆうべ係〉の人の声ではなかった。もっと遠くから、園じゅうに流れている声だった。
本部で、シンパイがびくっと目を覚ました。マーカーを持ったまま、ホワイトボードを見た。ふらふらと下にのびた線を見て、自分で消した。
「二十時五十分」とシンパイは言った。声がかすれていた。「出口から正門まで、地図だと」
「八分です」とキオクが言った。「歩いて」
「出口を八時四十分に出て、八分歩けば」
「四十八分です」とキオクは言った。今度は、言った。
ミコは、ベンチから立ちあがった。
もう一回だけ、奥の幹を見上げた。ハッカは、まだそこにいた。目を開けていた。
手前の枝で、コマメは、ずっと寝ていた。
ネムイが、モニターの前で、小さく手を振った。コマメにか、ハッカにか、わからなかった。
「おやすみなさい」とネムイは言った。それから、ハッカのほうを見て、少し考えて、言いなおした。「……いってらっしゃい」
ミコは、男の人に小さく頭を下げて、通路を出口のほうへ歩いた。男の人は、ハッカを見上げたまま、片手を少し上げた。
八時四十分、森の出口の台で、〈フクロウの森〉の丸にスタンプを押した。
目を閉じたフクロウの絵だった。
正門までの道は、足もと灯だけだった。
ミコは、走らなかった。早足でもなかった。少しだけ、ふつうより速く歩いた。坂の途中で、屋台のテントが、もう片付けを始めているのが見えた。電球の列が、一つずつ消えていった。
正門の横の交換所には、受付にいた紺のポロシャツの女の人がいた。机の上に、小さな箱が置いてあった。
「お願いします」
ミコはカードを出した。女の人は、五つの丸を一つずつ指でたどって、「はい、五つ」と言った。カードのすみに、小さなパンチで穴を一つ開けて、ミコに返した。
それから箱の中から、シールを一枚出した。
丸いシールに、フクロウの顔が描いてあった。目を閉じていた。羽のしま模様の描きかたが、さっき見たコマメにそっくりだった。
「コマメの寝顔シールです」と女の人は言った。「八時四十八分。ぎりぎりでしたね」
「森に、いました」
「ああ」女の人は、なにか知っているような顔で笑った。「コマメ、寝てたでしょう」
「はい」とミコは言った。「ハッカは、起きてました」
女の人は、目を少し大きくした。「見つけたんですか」
「係の人と」
女の人は、へえ、と言って、それ以上は何も聞かなかった。
本部で、キオクが、リモコンのいちばん端のボタンを押した。
「保存しました」とキオクは言った。
「何をですか」とシンパイが聞いた。
「ハッカさんの、目です」キオクは眼鏡を押しあげた。「シールには、ありませんので」
九時ちょうどに、ミコは正門を出た。
門の上の横断幕の三日月は、暗くて、もう見えなかった。正門前のバス停には、七、八人が並んでいた。
九時十二分の最終バスに乗った。うしろから二番目の、窓側の席に座った。ICカードを当てたときの、ぴっ、という音が、昼間より大きく聞こえた。
ミコはスマホを出した。
〈夜の動物園に来てた。フクロウ、二羽いた〉
ゆかりに送ってから、すぐに返事が来た。
〈なんそれ 写真は?〉
〈森の中は撮影禁止〉
〈ずるい。見たもん勝ちやん〉
少しして、もう一つ来た。
〈ほかは?〉
ミコは、五時半のキリンの写真を送った。紫色の舌が、葉のあいだに少し写っているもの。
〈首ながっ〉
〈舌も長い〉
〈舌見えん。どこ〉
〈葉っぱのとこ〉
〈あ、おった。なんそれ、紫やん〉
ミコは、スマホを持ったまま、少し笑った。それから、カードとシールのことも書こうとして、指が止まった。
まぶたが、重かった。
本部では、ダイジョブとハラヘッタが、また寝ていた。シンパイは、ホワイトボードの前の床に座りこんで、ボードに背中をつけて、目を閉じていた。キオクの眼鏡が、鼻の先までずり落ちていた。
ネムイだけが、起きていた。
モニターの前に立って、バスの窓の外を流れる、知っている町の灯りを見ていた。
ミコの頭が、窓のほうへ、こくり、と傾いた。
「次です」とネムイが言った。
ミコは、目を開けた。
車内の表示に、ミコの降りる停留所の名前が出ていた。ミコは、手を伸ばして、降車ボタンを押した。ぴんぽん、と鳴った。
「……ありがとう」と、ミコは口の中で言った。
「どういたしまして」とネムイは言った。「夜は、わたしの係です」
三〇二号室の鍵を開けたのは、九時四十分すぎだった。
ミコは、青緑の上着を脱いで、椅子の背にかけた。トートから、半分残った麦茶と、メモ帳と、スタンプカードを出した。
メモ帳を開いた。〈暗くなってから フクロウの森〉の行の横に、コマメの寝顔シールを貼った。目を閉じたフクロウが、ページの上で、まるくなった。
その下に、ボールペンで、小さく書いた。
〈ハッカ 起きてた〉
カードは、メモ帳のそのページに、はさんだ。五つの丸と、すみの小さな穴。
本部で、ネムイがパイプ椅子に戻った。
モニターには、キオクの保存した、二つの丸い目が、一時停止で映っていた。ネムイは、それをしばらく見ていた。
それから、濃紺のフードを、頭の上まで引っぱった。
「おやすみなさい」とネムイは言った。
今度は、誰も返事をしなかった。四人とも、とっくに眠っていた。
ネムイも、すぐに静かになった。
ミコは、台所の電気を消した。


