第一章 大時計の下
五月なかばの土曜日、朝九時二十八分。
齋藤ミコは、港川駅の中央コンコースで、大時計の下に立っていた。
天井の高い広場には、もう人がたくさん行き来していた。旅行かばんを転がす家族、紙の路線図を広げている二人組、改札の前で片手を挙げて誰かを呼んでいる人。大時計の長い針が、こちん、と一目盛り進んだ。
ミコは、生成りのトートを肩にかけなおして、メモ帳を開いた。
〈9:40 大時計の下〉
〈10:00ごろ 5番線に列車が入る〉
〈10:12 みずなぎ3号 4号車7A・7B〉
〈11:48 汐見浦〉
〈16:20 帰り みずなぎ8号〉
その下に、一行、ほかより少し大きく書いてあった。
〈駅弁 鯛めし〉
水曜日の夜、駅弁屋さんの案内を見て、書いた行だった。〈焼き鯛めし 1250円〉。写真では、ほぐした鯛の身が、ごはんの上いちめんに敷いてあった。
本部では、シンパイがもうホワイトボードの前に立っていた。
〈売り切れ〉
〈列が長い〉
〈乗り遅れる〉
「三つです」とシンパイは言った。
「発車まで、まだ四十四分あります」とダイジョブが言った。黄色い上着の胸を張っていた。
「四十四分あっても、列が四十五分なら」
「四十五分の列は、ありません」
「見たことがないだけです」
キオクが古いリモコンを押した。モニターに、駅弁屋さんの案内が映った。〈改札内 5・6番線階段下〉〈7:00〜19:00〉。
「改札を入って、すぐです」とキオクは言った。丸い眼鏡を指で押しあげた。「ホームへの階段の、下です」
ハラヘッタは、モニターの鯛めしの写真を、まばたきもせずに見ていた。
パイプ椅子では、ネムイが濃紺のフードをかぶって、寝ていた。土曜日の朝の九時すぎは、ネムイにとってはまだ夜だった。
汐見浦へ行こう、と言い出したのは、ミコだった。
連休明けの夜、ゆかりと電話をしていて、次はどこにする、という話になった。ミコは少し黙ってから、海が見たい、と言った。それから、海を見に行くのではなくて、海が見える電車に乗りたい、と言いなおした。
「なら、特急やね」とゆかりはすぐに言った。「で、駅弁。それは絶対っちゃ」
指定席は、その夜のうちにミコが取った。二人ぶん。席を選ぶ画面に、車両の絵と、〈A・B 海側〉という小さな字があった。ミコは7Aを押してから、7Bを押す前に、電話のむこうに聞いた。
「窓側、どっちがいい?」
「うち、通路側がいい」とゆかりは言った。「立つとき楽やし、向こうの窓も見えるけ。海はミコが見り」
ゆかりの分のお金は、次の日の朝には、もう送ってもらっていた。
「ミコ!」
九時三十六分に、改札のほうからではなく、ミコの後ろから声がした。
振り向くと、ゆかりが黒いリュックを片方の肩にかけて、早足で歩いてくるところだった。短く刈った黒い髪が、少しだけ跳ねている。薄いデニムのシャツの袖を、ひじの下までまくっていた。
「早っ。何分からおると?」
「二十八分」
「八分も前やん。北九州からの快速、一本早いのに乗れたけ、うちが先やと思ったのに」
ゆかりは、ミコのメモ帳をのぞきこんだ。〈駅弁 鯛めし〉の行で、目が止まった。
「鯛めしにすると?」
「たぶん」
「うちは、とりめし」ゆかりは、なぜか胸を張った。「前に出張の帰りに食べて、次に特急乗るときは絶対これって決めちょったと。もう二年くらい決めちょる」
「二年」
「乗る機会がなかったんよ。やけ今日は、二年ぶんのとりめし」
本部で、ハラヘッタが「二年ぶん」と小さくくり返した。うらやましそうだった。
二人は、改札を通った。九時四十二分だった。
第二章 見本は、二つ並んでいた
駅弁屋さんは、キオクの言ったとおり、5・6番線へ上がる階段の、すぐ下にあった。
〈港川駅弁 まるみ〉と書いた白いのれんの下に、ガラスのケースがあって、その前に三人並んでいた。ミコとゆかりは、四人目と五人目になった。
「三人」とミコは言った。
本部で、シンパイがホワイトボードの〈列が長い〉を見た。それから、マーカーのふたを開けかけて、また閉じた。
ケースの中には、見本が並んでいた。
ふたを外した弁当箱が、一つずつ、小さな札といっしょに置いてある。〈港川とりめし 980円〉。〈かしわと牛のあいのせ 1300円〉。〈幕の内 1100円〉。
それから、まんなかの段に、二つ並んでいた。
〈焼き鯛めし 1250円〉。
写真で見たとおりだった。ほぐした鯛の身が、ごはんの上いちめんに、薄い桃色と白で敷いてある。すみに、木の芽が一枚。横に立てかけてある掛け紙には、筆の字で〈鯛めし〉とだけあった。
そのとなり。
〈みずなぎ沿線ごよみ 1380円〉。札の上に、もう一枚、黄色い紙が貼ってあった。〈五月から〉。
こちらは、まんなかに、えんどう豆の混ざったごはん。そのまわりを、小さな六つの仕切りが、ぐるりと囲んでいた。黄色い玉子焼き、焼き色のついた魚、茶色い筍、丸いつくね、小さな魚の南蛮漬け、それから、うすいだいだい色の、四角いゼリーのようなもの。
立てかけてある掛け紙は、地図だった。
左下に〈港川〉、右上に〈汐見浦〉。そのあいだを、一本の線路が、くねくねと結んでいる。線路の途中に、丸い番号が六つ。①のそばに〈港川 発車〉。②に〈鳴瀬川の鉄橋〉。③に〈風車の丘〉。④に〈長いトンネル〉。⑤に〈海が見えたら〉。⑥に〈汐見浦の灯台〉。
番号の横には、小さな絵で、玉子焼きや魚や筍が描いてあった。
地図のすみに、細い字で一行。
〈窓の外と、ごいっしょにどうぞ。順番はご自由に。〉
ミコは、そこで、ケースの前から動けなくなった。

本部が、いっせいに立ちあがった。
「二つです!」とハラヘッタが言った。両手を、モニターのほうへ伸ばしていた。「二つ、ありました! 二つ買えばいいです!」
「二つは、多いです」とシンパイが言った。ホワイトボードの三行の下に、すばやく書いた。
〈二つは多い〉
〈ひざに二つはのらない〉
〈ごみが二ばい〉
〈2630円〉
「計算、早いですね」とダイジョブが言った。
「早くないと、間に合いません」
キオクがリモコンを押した。モニターに、水曜日の夜が映った。ベッドの上で、スマホの鯛めしの写真を見ながら、メモ帳に〈鯛めし〉と書いているミコ。
「予定では、鯛めしです」とキオクは言った。それから、もう一回押した。
それより前の、連休明けの夜。指定席の画面。車両の絵の、〈A・B 海側〉の小さな字。7Aを押す、ミコの指。
「それから、これです」とキオクは言った。
本部が、少し静かになった。
「どっちも、当たりです」とダイジョブが言った。「どっちを選んでも、おいしいです。ぼくが保証します」
「保証は、できません」とシンパイが言った。
「気持ちで保証します」
ネムイは、寝ていた。フードの端が、寝息で少しだけ動いていた。
いちばん前の人は、本部が騒いでいるあいだに、もう買い終えていた。次の人が幕の内を二つ買って列を離れると、ミコとゆかりの前は、あと一人になった。
ミコは、二つの見本を、もう一度見た。
鯛めしは、ふたを開けたときに、全部がいっぺんに見える弁当だった。いちめんの桃色と白。開けた瞬間に、きっと、わあ、と思う。
沿線ごよみは、ふたを開けても、まだ全部ではない弁当だった。①から⑥まで、窓の外に何かが来るたびに、一つずつ。
7Aの窓のことを考えた。
海が見える電車に乗りたい、と電話で言いなおしたときのことを考えた。
「こっち」と、ミコは口の中で言った。
シンパイが、〈2630円〉の上に線を一本引いた。その横に〈1380円〉と書いた。それから少し考えて、〈予定とちがう〉と書き足した。
「予定とちがっても、いいです」とダイジョブが言った。
「いいかどうかは、書いていません。ちがう、と書いただけです」
ハラヘッタは、まだ鯛めしの見本を見ていた。
「……鯛めしは、どうなりますか」とハラヘッタは言った。
「ケースの中に、います」とキオクが言った。
「次の方、どうぞ」
ケースの向こうで、白い三角巾の店員さんが言った。五十代くらいの女の人で、手の止まらない人だった。話しながら、もう後ろの棚に手を伸ばしていた。
「沿線ごよみを、ひとつください」とミコは言った。「それと、お茶を」
「緑茶、ペットボトルでよかですか。百六十円です」
「はい」
「千五百四十円です。おはし、おつけしますね」
ミコは千円札を二枚出して、四百六十円のおつりと、白い小さなレジ袋を受けとった。中に、地図の掛け紙をかけた弁当がひとつ、緑茶がひとつ。弁当の上に、割りばしとおしぼりが、輪ゴムで留めてあった。
次が、ゆかりだった。
「とりめし、ひとつ」とゆかりは言った。言いながら、目が、ケースのまんなかの段に行った。鯛めしの見本の上で、一秒、止まった。
それから、もう一回言った。
「とりめし、ひとつ。お願いします」
「九百八十円です」
ゆかりは千円札で払って、二十円のおつりと、とりめしの入った白いレジ袋を受けとった。とりめしの掛け紙は、茶色い紙ひもで十字に結んであって、ひもの下に割りばしがはさんであった。
「飲み物は?」とミコは聞いた。
「上で買う。ホームの自販機のサイダーって決めちょる」
「それも、二年前から?」
「それは、今決めた」
九時五十一分だった。
階段を上がると、5番線のホームには、まだ列車がいなかった。
ゆかりは、ホームのまんなかの自販機で、缶のサイダーを一本買った。百六十円。がこん、と音がして、ゆかりはそれを拾いあげて、冷たっ、と言った。
ミコは、足もとの乗車位置の表示を探した。少し先の、点字ブロックの内側に、〈4号車〉の字があった。二人はその後ろに並んだ。前には、年配の夫婦が一組だけ立っていた。
十時ちょうどに、線路の向こうから、白い車体に青い線の入った列車が、ゆっくり入ってきた。
止まっても、ドアは閉まったままだった。窓の中で、清掃の人たちが動いているのが見えた。座席の背もたれが、くるり、くるりと回って、進む向きにそろっていく。
本部で、シンパイがホワイトボードの〈乗り遅れる〉を見た。列車は、目の前に止まっていた。
シンパイは、その横に小さく〈目の前にいる〉と書いた。
十時四分に、ドアが開いた。
第三章 ①から、順番に
4号車の7Aは、海側の窓ぎわだった。
ミコは、青緑の上着を脱いで、窓わきの小さなフックにかけた。下は、白い長袖のカットソーだった。トートは足もとに置いて、前の座席の背中についたテーブルを、ぱたんと倒した。
レジ袋から、弁当と緑茶を出して、テーブルにのせた。割りばしとおしぼりは、弁当の横に。おしぼりで手を拭いてから、使ったおしぼりをもとの袋へ戻した。空になったレジ袋は、たたんで、テーブルの端にはさんだ。
7Bのゆかりも、同じようにテーブルを倒して、とりめしとサイダーを置いた。黒いリュックは、上の荷物棚にのせた。
通路をはさんだ7Cと7Dに、さっきの年配の夫婦が座った。奥さんのほうが窓ぎわで、膝に文庫本を出していた。
「ミコ」とゆかりが、小さな声で言った。「うち、発車してから開けるけ」
「決まり?」
「決まり。動いちょらんのに開けたら、ただの、ホームで食べる弁当になるやん」
そう言いながら、ゆかりは、とりめしの紙ひもの結び目を、もう指でつまんでいた。
「まだ動いてないよ」
「わかっちょる。ほどいとくだけ」
ひもがほどけた。ゆかりは、掛け紙の上から、ふたを両手で押さえた。
十時十一分だった。
発車のベルが鳴って、ドアが閉まった。
ホームの柱が、ゆっくり、後ろへ動きはじめた。
「よし」とゆかりは言って、ふたを開けた。
ミコも、地図の掛け紙をそっと外した。折り目のついた紙を、ひざの上に広げた。左下の〈港川 発車〉の①。今だった。
ふたを開けた。
えんどう豆のごはんの、うすい緑。まわりの六つの仕切り。見本と同じだったが、見本よりも少しだけ、おいしそうに見えた。
ミコは、割りばしを割った。
右側が、少しだけ太くなった。
本部で、シンパイが〈はしが不ぞろい〉と書いた。
「食べられます」とダイジョブが言った。
①の、玉子焼きをつまんだ。ひと口かじると、だしの味がして、少しだけ甘かった。窓の外では、港川駅のホームが終わって、線路が何本にも分かれていくところだった。
「発車の味がします」とハラヘッタが言った。
「玉子焼きの味です」とシンパイが言った。
「発車しながら食べる、玉子焼きの味です」
となりで、ゆかりが「ん」と言った。
とりめしは、三色だった。茶色い甘辛い鶏の細切りと、黄色い錦糸玉子と、黒い刻み海苔が、ごはんの上に、斜めの帯になって並んでいる。ゆかりは、その茶色の帯のはしから、ごはんごと大きくすくって、口に入れていた。
「これこれ」とゆかりは言った。口を手でおさえていた。「二年ぶん、これ」
「おいしい?」
「おいしいっちゃ。ミコのは?」
「玉子焼きが、だし」
「うちのにも玉子あるけど、こっちは甘いほう」ゆかりは、ミコのひざの地図を、横目でのぞいた。「次、なんて書いちょると?」
「②、鳴瀬川の鉄橋」
「いつ?」
「わからない。地図には、時間は書いてない」
キオクがリモコンを押した。モニターに、水曜日の夜に見た路線の地図が映った。港川を出て、川を一本。それから山のほうへ。
「港川を出て、最初の大きな川です」とキオクは言った。「十分くらいだと思います。思います、です」
十時二十一分に、窓の外の家並みが、急に途切れた。
足もとから、ごうっ、と音が変わった。鉄の柱が、窓の外を、たたたたた、と流れていく。下に、茶色く広い川があった。
「鉄橋!」とゆかりが言った。声が、少し大きかった。
7Dの奥さんが、文庫本から顔を上げて、窓を見た。
ミコは、②の鰆の西京焼きを、はしでつまもうとした。
ちょうど、口の中にえんどう豆のごはんが入っていた。
鉄の柱が、たたたた、と鳴りつづけた。ミコはごはんを噛んだ。急いで噛まないように、と思いながら、少し急いで噛んだ。飲みこんで、鰆を口に入れたとき、窓の外は、もう向こう岸の土手だった。
「渡り終わってから、食べました」とシンパイが言った。
「渡りながら、はしは持ってました」とダイジョブが言った。
鰆は、みその甘い匂いがして、身がしっとりしていた。
「間に合ったと?」とゆかりが聞いた。
「半分」
「半分なら、上等たい」
③の〈風車の丘〉は、地図の上で、線路の左側に描いてあった。
ミコは、地図と窓を見くらべた。7Aの窓は、進む向きの右側だった。地図の線路の右側には波の絵が描いてあって、左側には、山と、三本の細い棒のようなものが描いてあった。
「……反対側だ」とミコは言った。
「なにが?」
「風車。山側だって」
ゆかりは、はしを持ったまま、通路のほうへ体を向けた。
「よし。うちが見る」
十時四十分ごろ、線路は田んぼのあいだを走っていた。ゆかりは、通路越しに、7Dの窓のほうを見ていた。7Dの奥さんは、また文庫本を読んでいた。ゆかりは、奥さんの頭のうしろ、窓の上のほうを、目だけで見ていた。
「あ」とゆかりが言った。
「風車?」
「風車。三本。いちばん右のだけ、回っちょらん」
ミコは、首をのばして、通路の向こうを見た。7Dの窓のいちばん上に、白い細い羽根が、ちらっと見えた。すぐに、木の陰に入った。
「見えた?」
「羽根が、一枚」
「一枚でも、見えたなら見えたっちゃ」
7Dの奥さんが、本から目を上げて、窓の外を見て、それからゆかりとミコを見て、小さく笑った。ゆかりは、すみません、という顔で頭を下げた。
ミコは、③の筍の土佐煮を食べた。かつおぶしが、筍のまわりに、ふわふわとついていた。噛むと、しゃく、と音がした。
本部で、ハラヘッタが、しゃく、とくり返した。
第四章 長いトンネルは、どれ
④の〈長いトンネル〉が、問題だった。
十時五十分すぎに、列車は山のほうへ入っていった。窓の外が、ふっと暗くなった。
トンネルだった。
ミコは、④のつくねを、はしでつまんだ。かじった。甘辛いたれがからんで、しょうがの味がした。
二口めをかじろうとしたところで、窓の外が明るくなった。
緑の山の斜面だった。
「……短い」とミコは言った。
「短かったね」とゆかりは言った。
ミコは、半分になったつくねを、はしでつまんだまま、地図を見た。〈長いトンネル〉。
本部で、キオクがリモコンを押した。モニターに、路線の地図が映った。山のあたりに、トンネルの印が三つ並んでいた。
「三つあります」とキオクは言った。「どれが長いかは、地図では、わかりません」
シンパイが、〈トンネルが三つ〉と書いた。
二つめのトンネルは、すぐに来た。ミコは、半分のつくねを口の前まで運んで、待った。
明るくなった。
「また短い」
ゆかりが、とうとう笑いだした。
「どれが長いかは、抜けるまでわからんっちゃ」とゆかりは言った。肩がふるえていた。「長いのを待っちょったら、ずっと待つことになるよ」
「じゃあ、次のが長くなかったら」
「そしたら、もう食べていいことにしよ。地図にも、順番はご自由にって書いちょったやろ」
「書いてあった」
「やろ」
ミコは、半分のつくねを、ごはんの上にいったん置いた。
三つめのトンネルに入ったのは、十一時五分だった。
窓の外が暗くなって、ガラスに車内が映った。白い長袖のミコ。はしを持った手。となりに、デニムのシャツのゆかり。ゆかりは、ガラスの中のミコに向かって、変な顔をしてみせた。
ミコは、ガラスの中のゆかりに、つくねを見せた。
暗いままだった。
ごうっ、という音が、ずっとつづいていた。窓の外の暗さが、なかなか終わらなかった。
「長いです」とダイジョブが言った。「これが、長いトンネルです」
「まだ、抜けていません」とシンパイが言った。「抜けるまでは、わかりません」
「ゆかりさんの言ったとおりです」
パイプ椅子で、ネムイが、もぞもぞと動いた。
「トンネルは……」とネムイは言った。「眠いですね……」
それだけだった。ネムイは、またフードの中に戻っていった。
本部の誰も、それには何も言わなかった。
ミコは、つくねの残り半分を食べた。暗いガラスに、自分がつくねを食べているところが映っていた。
そして、窓の外が、いっぺんに明るくなった。
明るすぎて、ミコは一回、まばたきをした。
青かった。
線路のすぐ下から、灰色の岩場がつづいて、その向こうが、いちめん、海だった。ところどころで日の光が、白い点になって揺れていた。

「海」とミコは言った。
「海!」とゆかりも言った。同時だった。
ゆかりは、はしを持ったまま、ミコの肩のほうへ身を寄せた。7Aの窓に、二人の頭が並んだ。
「トンネル出て、すぐ海やん」とゆかりは言った。「④と⑤、いっぺんに来たね」
ミコは、地図を見た。④〈長いトンネル〉と、⑤〈海が見えたら〉。地図の上では、二つの丸は、指一本ぶんしか離れていなかった。
「ほんとだ」
「地図描いた人、トンネル出たらすぐ海って、知っちょったっちゃろうね」
ミコは、⑤の小鯵の南蛮漬けを食べた。すっぱくて、玉ねぎがしゃきっとしていて、小さな魚は骨までやわらかかった。
窓の外を、海がずっと流れていた。
本部では、ハラヘッタが、南蛮漬けを噛みながら、モニターの海をじっと見ていた。何も言わなかった。
「何も言わないんですか」とシンパイが聞いた。
「今、忙しいです」とハラヘッタは言った。
海は、それからしばらく、7Aの窓から消えなかった。
小さな漁港が見えた。白い船が五、六そう、岸壁に並んでいて、一そうだけ、港の外へ出ていくところだった。ミコが「船」と言うと、ゆかりは身を寄せて、見た、と言った。
ゆかりのほうからも、ときどき報告があった。
「こっち、玉ねぎ畑」とゆかりは言った。通路の向こうの窓を見ていた。「玉ねぎが、小屋に、すだれみたいに吊るしてある」
「見たい」
「見えん。ミコの窓は海やけ。海の人は、海を見とき」
ゆかりのとりめしは、十時半すぎには、もう半分以上なくなっていた。それからは、すみの錦糸玉子と海苔のところを、はしで少しずつ集めながら、窓の外を見ていた。
「最後の玉子、残してるの?」
「残しちょる。好きなのは最後」
「わたしは、地図の順番」
「ミコのは、順番があるけね。うちのは、好きな順」
ゆかりは、最後のひと口を食べて、ふたを閉めた。掛け紙をかぶせて、紙ひもを、もう一回十字にかけた。結び目は、最初より少し、ゆるかった。
「ごちそうさま」とゆかりは言った。それから、ミコのひざの地図を、もう一回見た。「……それ、次はうちも買おうかな」
「とりめしは?」
「とりめしは、とりめしで好き。でも、それも食べたい。両方食べたいのは、だめなことやないやろ」
本部で、ハラヘッタが、大きくうなずいた。
十一時二十分ごろ、ゆかりは、とりめしの箱と割りばしをレジ袋に入れて、口を結んだ。空になったサイダーの缶を、もう片方の手に持った。
「デッキに、ごみ箱あったよね」
「あった。缶と、その他」
「ちょっと行ってくる」
ゆかりはレジ袋の持ち手と缶を左手にまとめて持ち、通路に出て、車両のうしろのドアへ歩いていった。列車が少し揺れて、ゆかりは座席の背もたれに片手をついて、また歩いた。
ミコは、そのあいだ、海を見ていた。
弁当には、すみに少しのえんどう豆のごはんと、⑥の甘夏の寒天が、まだ残っていた。
ゆかりが戻ってきて、7Bに座った。
「ミコ、聞いていい?」
「うん」
「なんで、鯛めしやめたと? メモに書いちょったのに」
ミコは、少し考えた。
「鯛めしは、開けたら全部見えるから」とミコは言った。「沿線ごよみは、窓を見ながら、一つずつだから」
「ふうん」
「海が見える電車に乗りたいって、言ったから」
ゆかりは、窓のほうを見た。海が流れていた。
「それ、電話で言いなおしたやつやろ」
「覚えてたの?」
「覚えちょるよ。海を見に行くんやなくて、って。わざわざ言いなおすけ、なんかあるなって思った」
ゆかりは、背もたれに頭をつけて、笑った。
「うちはね、実は、鯛めしもちょっと見ちょった」
「見てた」
「見ちょったの、見られちょったか」ゆかりは、天井を見た。「とりめしは二年決めちょったけ、変えんかった。変えんでよかった。おいしかった。でも、鯛めしも気になるっちゃ」
第五章 灯台は、どっちが先
十一時三十五分に、車内の案内が流れた。〈次は、終点、汐見浦です〉。到着は、十一時四十八分。
ミコは、地図の⑥を見た。〈汐見浦の灯台〉。線路の右側、海に突き出た岬の先に、白い小さな塔の絵があった。
「⑥は、灯台」とミコは言った。
「灯台」ゆかりが、体を起こした。「よし。灯台は、うちが先に見つける」
「勝負?」
「勝負。ミコは窓やけ有利やけど、うちは先を見る」
ゆかりは、窓の外の、進む向きのずっと先を見た。ミコの窓の、斜め前のほう。ミコも、同じほうを見た。海と、遠くの岬の、緑の影。
本部で、ダイジョブが手を上げた。「ぼく、見えます。たぶん、あの岬です」
「たぶんは、見えたことになりません」とシンパイが言った。
キオクがリモコンを押した。モニターに、地図の⑥が大きく映った。岬の先。白い塔。
「岬の先の、白いのです」とキオクは言った。
十一時四十一分。
岬の緑の影が、少しずつ大きくなってきた。その先に、何か、白いものがあった。小さな、白い、まっすぐな——
「あった!」とゆかりが言った。
一拍あとで、ミコも見つけた。
岬のいちばん先に、白い灯台が立っていた。てっぺんが、少し黒かった。
「うちの勝ち」とゆかりは言った。両手で小さく拳を作っていた。
「一秒くらいだった」
「一秒でも、勝ちは勝ちっちゃ」
「勝負するって、わたし、言ってない」
「うちが言ったけ、勝負やった」
本部で、ダイジョブが「ぼくは、ゆかりさんより先に見えてました」と言った。シンパイは、何も書かなかった。
ミコは、⑥の甘夏の寒天を食べた。
ひんやりしていて、すっぱくて、そのあとで少し甘かった。窓の外では、灯台が、ゆっくり後ろへ回っていった。
最後に、すみに残っていたえんどう豆のごはんを食べた。弁当箱が、空になった。
ミコは、ひざの地図を、もとの折り目どおりにたたんだ。たたむと、ちょうどメモ帳と同じくらいの大きさになった。メモ帳のうしろの見返しに、はさんだ。
弁当箱にふたをして、割りばしを箸袋に戻して、使ったおしぼりを戻した袋といっしょに、テーブルの端にはさんでおいたレジ袋に入れた。口を結んだ。
緑茶は、まだ半分くらい残っていた。ふたを閉めて、トートに入れた。
「ごみ、行ってくる」
「うん」
ミコは、レジ袋を持って、通路に出た。車両のうしろのドアの向こうのデッキに、ごみ箱が二つ並んでいた。〈缶・びん・ペットボトル〉と、〈その他〉。〈その他〉の口に、レジ袋を入れた。
座席に戻ると、ゆかりが、荷物棚から黒いリュックを下ろしていた。ミコは、窓わきのフックから青緑の上着を取って、はおった。テーブルを、ぱたんと上げた。
列車が、速度を落としはじめた。
十一時四十八分、汐見浦の駅のホームに、二人は降りた。
ホームは一本だけで、屋根が短かった。屋根の先から、日差しが斜めに入ってきていた。風が、少しだけ、しょっぱい匂いがした。
改札の手前に、小さな売店があった。新聞と、お菓子と、飲み物と。そのガラス戸に、手書きの紙が一枚貼ってあった。
〈港川駅弁 焼き鯛めし/みずなぎ沿線ごよみ 十五時入荷〉
ゆかりが、足を止めた。
ミコも、足を止めた。
「見た?」とゆかりが言った。
「見た」
「帰りの列車、十六時二十分やったよね」
「うん」
ゆかりは、紙を指でさした。それから、自分の胸を指でさした。
「うち、帰りは鯛めし」
本部で、ハラヘッタが立ちあがった。「鯛めしが、ケースから出てきました」
「出てきたのは、ゆかりさんのほうです」とキオクが言った。
「ミコは?」とゆかりが聞いた。「帰りも沿線ごよみ?」
ミコは、メモ帳を開いた。うしろの見返しから、たたんだ地図を、少しだけ引きだした。
帰りの列車は、汐見浦から港川へ走る。この地図を、反対から読むことになる。⑥の灯台から始まって、海、トンネル、風車、鉄橋。最後が、①の港川だった。
灯台が、最初になる。
「まだ、わからない」とミコは言った。「十五時になったら、また見る」
「二つ?」
「二つ」
ゆかりは、そう、と言って笑った。それから、リュックを背負いなおして、改札のほうへ歩きだした。
本部で、シンパイが、ホワイトボードのいちばん下に書いた。
〈十五時 二つ見る〉
「今度も、見るだけですか」とダイジョブが聞いた。
「見るだけかどうかは、書いていません」とシンパイは言った。
ミコは、メモ帳の〈駅弁 鯛めし〉の行を見た。消さなかった。その下に、小さく〈帰り?〉と書いた。
メモ帳を、トートにしまった。
改札を出ると、駅前の坂の下に、海が見えた。さっき窓から見ていた海の、つづきだった。
ゆかりが、坂の途中で振り返って、手を振った。
ミコは、少し早足で、でも走らずに、坂を下りていった。


