第一章 二十センチ
四月の終わりの日曜日、朝八時すぎ。
齋藤ミコは、ベランダの窓の前にしゃがんで、メジャーのつめを窓枠の右はしに当てていた。
302号室のベランダは、細長い灰色の四角だった。右の奥にエアコンの室外機。左のはしには、303号室とのあいだを仕切る白い隔て板があって、その手前の床に、四角い金属のふたがはまっている。避難はしごのハッチだった。まんなかには物干し竿が一本かかっていて、洗濯物を干すとき、ミコはいつもその下に立つ。
カーテンを開けたときには、もう床の半分くらいまで日が差していた。
室外機のまわりと、隔て板やハッチへ行く通路は空けておく。物干しの下も、立つ場所が要る。残ったのは、室外機から離れた、窓の右手前の角だった。
ミコはメジャーをすうっと伸ばして、足場として空けておきたい床の目地まで測った。
二十センチ。
一度巻きもどして、もう一度測った。二十センチ。
メモ帳に〈二十センチ〉と書いた。その下に、入居したときにもらった〈住まいのしおり〉の一ページを思い出しながら、三行足した。
〈隔て板の前 だめ〉
〈ハッチの上 だめ〉
〈手すりの上 だめ〉
三行目は、しおりに書いてあったかどうか、はっきりしなかった。でも、三階の手すりの上に何かを置く気には、どうしてもならなかった。
先週の夕方、駅から帰る途中で、角の家の二階のベランダに、赤い花の鉢がひとつだけ置いてあるのを見た。
洗濯物も何もないベランダの、手すり壁の内側に、ちょこんと。下の道からは、花の上のほうだけが見えた。
ミコはそこで立ちどまって、青に変わった信号を一回見送った。
それから一週間、ベランダの窓を開けるたびに、このあたりに、と思っていた。
本部では、ダイジョブがもう手を上げていた。
「花です」とダイジョブは言った。黄色い上着の袖が、ぴんと伸びていた。「赤いのでも、黄色いのでも。たくさん咲いてるのがいいです」
「葉っぱです」とハラヘッタも手を上げた。「食べられる葉っぱ。バジルとか。ちぎって、パスタにのせられます」
「見たのは、花の鉢です」とシンパイが言った。ホワイトボードには〈鉢を買う〉と書いてあって、その下に線が一本引いてあった。線の下は、まだ白かった。「葉っぱの鉢は、見ていません」
「見てなくても、おいしいです」
「おいしいかどうかの話では、ありません」
キオクは古いリモコンを持ったまま、何も押さずにいた。丸い眼鏡の奥で、メモ帳の〈二十センチ〉の字を見ているらしかった。
パイプ椅子では、ネムイが濃紺のフードを深くかぶって、静かに寝息を立てていた。
ミコはメジャーをしまって、部屋に戻った。窓ぎわの座布団に座ってみた。
一月の日曜日に、日なたを追いかけて一日すごした座布団だった。座ると、ガラス戸の右下に、ちょうど窓の右手前の床が見えた。今は、何もない灰色が四角く明るいだけだった。
「ここからなら、見えます」とキオクが言った。
リモコンを押した。モニターに、さっきのベランダが映った。日の差している床。そこへ、同じ床の、少しあとの映像が重なった。隣の建物の屋根の影が、手すり壁のほうから、じわじわとこちらへ伸びてくる。
「先週の日曜日、洗濯物を取りこんだときです」とキオクは言った。「お昼ごろには、あの場所は影でした。朝のうちは、日が当たっています」
シンパイが、ようやく線の下に書きはじめた。
〈枯らす〉
〈風で倒れる〉
〈水が下の階へ落ちる〉
〈持って帰れない〉
「四つです」とシンパイは言った。
「四つとも、まだ起きてません」とダイジョブが言った。
ミコはメモ帳に〈午前は日なた お昼から影〉と書いた。それから少し考えて、いちばん下に〈ひとつ〉と書いた。
二十センチには、ひとつしか置けない。
川沿いの園芸店は十時に開く。歩いて十五分だった。
財布とメモ帳を、生成りのトートに入れた。内ポケットには、濃紺のお守りが入れっぱなしになっている。薄いグレーの長袖の上に青緑の上着をはおって、黒いワイドパンツのすそを一回はらった。
玄関で、グレーのスニーカーのひもを結びなおした。
第二章 かごの中が、にぎやかになる
くすのき園芸は、川沿いの道から一本入ったところにあった。
入口の両側に、腰くらいの高さの台が何列も並んでいて、黒いビニールのポットに入った苗が、すきまなく詰まっていた。奥には、ビニールの屋根の温室がある。レジは、その手前の小屋だった。
十時を少し回ったところで、店の中はもう明るかった。台のあいだを、ホースを持った人が歩いていた。
ミコは、入口に重ねてある緑のプラスチックのかごを、ひとつ取った。
取ってから、取らなくてもよかったかもしれない、と思った。ひとつしか買わないのに。
でも、もう腕にかかっていた。
いちばん手前の台は、ハーブだった。
〈バジル〉〈イタリアンパセリ〉〈青じそ〉〈ミント〉。白いプラスチックの札が、一つずつ土に刺さっている。
本部で、ハラヘッタが立ちあがった。
「ここです」とハラヘッタは言った。「全部、食べられます。札に書いてあります。〈料理に〉って」
ミコは、バジルの札を一本、そっと抜かずに読んだ。〈日当たりのよい場所で〉。値段のシールは三百三十円だった。
葉は、つやつやしていた。鼻を近づけると、ほんのり、トマトのパスタの匂いがした気がした。気がしただけかもしれなかった。
「かごに、入れるだけです」とハラヘッタが言った。「入れるだけなら、まだ買ってません」
ミコは、バジルのポットを一つ、かごに入れた。
かごの底で、黒いポットがころんと傾いた。
二列目は、花だった。
台いっぱいに、黄色とオレンジがあふれていた。〈マリーゴールド〉。黒いポットではなく、もう白いプラスチックの鉢に植わっていて、どの鉢も、葉が見えないくらい咲いていた。
本部で、ダイジョブが両手を上げた。
「これです!」
「声が大きいです」とシンパイが言った。
「これです」とダイジョブは小さく言いなおした。手は上げたままだった。「全部、咲いてます。今日から、全部咲いてるんです」
札には〈5号〉とあった。六百八十円。
ミコが両手で持ちあげると、ずしっとした。鉢の底の穴から、水がひとしずく垂れた。
「もう鉢に入ってます」とダイジョブが言った。「植えかえなくていいです。帰って、置くだけです」
それは、本当に楽そうだった。
ミコは、マリーゴールドをかごに入れた。
かごが、急に重くなった。バジルのポットが、マリーゴールドの鉢の横で、小さく見えた。
三列目の台は、低かった。
小さな四角いポットに、ころころした葉が、ぎゅっと詰まっていた。緑のもの、赤みのさしたもの、粉をふいたような白っぽいもの。〈多肉植物〉。
本部で、ハラヘッタが、ほう、と言った。
「ぷくぷくしてます」とハラヘッタは言った。「グミみたいです」
「食べません」とシンパイが言った。
「食べません」とキオクも言った。
「食べません」とダイジョブまで言った。
ハラヘッタは、両手を胸の前で振った。「見てるだけです。グミみたいって、言っただけです」
シンパイは、ホワイトボードの〈持って帰れない〉の下に、〈食べない〉と書いた。その下に、線を二本引いた。
ミコは、多肉植物の台の前を、少し早足で通りすぎた。
花の台のむこうで、大きな声がしていた。
「やけん、支柱たい。トマトの。一メートル二十くらいの」
六つのトマトの苗を載せたカートの横に、帽子をかぶった男の人が立っていた。七十歳くらいに見えた。カートの持ち手には、店の名前の入ったエプロンの人が、困った顔で向きあっていた。
二十代くらいの女の人だった。胸の名札に〈今村〉とあって、その上に、小さく〈研修中〉と書いた札が重ねて留めてあった。
「すみません」と今村さんは言った。「わたし、今週からで……支柱の長さ、確認してきます」
今村さんは、両手でエプロンのすそをつかんで、温室のほうへ早足で行った。
ミコは、その背中を少しだけ見送った。
七月に、新しく入った瀬戸さんに作業を説明したとき、瀬戸さんもときどき、ああいう顔をしていた。わからないことを、わからないと言うときの顔。言ったあとで、ちょっと背中がまるくなる。
「ベランダね?」
声がして、ミコは振り向いた。帽子の男の人が、ミコのかごをのぞきこんでいた。
「……はい」
「何階?」
「三階です」
「三階なら、風のあるけん」男の人は、ミコのかごのマリーゴールドを、あごで指した。「軽か鉢は、ひっくり返るばい。うちの娘のマンションも、そうやった」
「そうなんですか」
「バジルもマリーゴールドも、全部並べりゃよかたい。にぎやかで」
「二十センチしか、なくて」
男の人は、一瞬止まった。それから、帽子のつばを持ちあげて笑った。
「そりゃ、せまかね」
今村さんが、長い緑の棒を三本抱えて戻ってきた。男の人はそっちへ向きなおって、「それそれ」と言った。
ミコは、かごを両手で持ちなおした。
第三章 ひとつ、戻す
花の台と台のあいだの、少し広くなったところで、ミコはかごを地面に置いた。
マリーゴールド、ひとつ。バジル、ひとつ。
二つ。
本部で、キオクがリモコンを押した。
モニターに、今朝のメモ帳が映った。〈二十センチ〉。それから、いちばん下の〈ひとつ〉。
「受け皿を二枚、二十センチには、並べられません」とキオクは言った。
「重ねて置けば」とダイジョブが言った。
「重ねると、下のバジルに日が当たりません」とキオクは言った。
「じゃあ、バジルを上に」とハラヘッタが言った。
「マリーゴールドを下に置いたら、マリーゴールドがつぶれます」とキオクは言った。
本部が、静かになった。
シンパイは、ホワイトボードの前でマーカーを持ったまま、何も書かなかった。書かなくても、もうわかっていた。
ミコは、かごの前でしゃがんだまま、隣の台を見るともなく見ていた。
その台には、ほかの花とはちがう、少しかたい感じの丸い葉の苗が並んでいた。黒いポットに、一つずつ。札には〈ゼラニウム〉とあって、色の名前ごとに分かれている。〈赤〉〈白〉〈サーモンピンク〉。
ほとんどの株は、茎の先に、花をいくつも集めた丸い房を、二つも三つも咲かせていた。
一つだけ、そうでない株があった。
〈サーモンピンク〉の札の列の、いちばんはし。茎の先の房は、ほとんどが、緑の小さな粒の集まりのままだった。粒のあいだから、ほんの少しだけ、色がのぞいている。開いている房は、ひとつだけ。
ミコは、房を数えた。開いているのが一つ。まだのが、一、二、三、四。
値段のシールは、四百八十円だった。
「咲いてないのが、多いです」とダイジョブが言った。少し心配そうだった。「となりの株のほうが、たくさん咲いてます」
ミコは、となりの株を見た。房が三つ、まるく開いていた。きれいだった。
それから、またはしの株を見た。
パイプ椅子で、ネムイが、フードをほんの少しだけ持ちあげた。
「咲いてるのは……」とネムイは言った。「もう、ここで、たくさん見ましたよ」
フードが、また下りた。

本部の全員が、ネムイを見た。それから、モニターのほうを見た。
キオクがリモコンを押した。今朝の、窓ぎわの座布団から見た景色が映った。ガラス戸の右下の、灰色の四角。
ミコは、台に並んだ花を見わたした。
マリーゴールドの台は、どの鉢も、全部咲いていた。ゼラニウムの台も、ほとんど咲いていた。温室の中も、きっとそうだった。ここは、咲いているものが並んでいる場所だった。
座布団に座って、読みかけの本から顔を上げたときに、ガラス戸の右下で、緑の粒のひとつがほどけている。
それは、ここでは見られなかった。
「これにする」とミコは、口の中だけで言った。
ミコは、はしのゼラニウムを両手で持ちあげて、かごの空いたところにそっと置いた。
それから、マリーゴールドを持ちあげた。
「あ」とダイジョブが言った。
「三つになります」とミコは、頭の中で言った。「ひとつ、です」
ミコはマリーゴールドを二列目の台まで運んで、抜けていたすきまに戻した。同じ黄色が並ぶ列の中で、すぐにどれだったかわからなくなった。
ダイジョブは、しばらく黙っていた。それから言った。
「……一個は、咲いてますもんね。黄色じゃないけど」
「サーモンピンクです」とキオクが言った。
「サーモンピンクでも、咲いてます」
次に、ミコはバジルのポットを持ちあげた。
「待ってください」とハラヘッタが言った。両手を前に出していた。「待ってください。待ってください」
「三回言いました」とシンパイが言った。
ハラヘッタは、手を下ろした。それから、天井を見て、何か思い出す顔をした。
「……来る途中に、パン屋さんがありました」とハラヘッタは言った。「坂の下の。前に、窓のところに〈バジルとチーズ〉って書いてありました」
キオクがリモコンを押した。モニターに、坂下のベーカリーのガラス窓が映った。手書きの紙。〈バジルとチーズの丸パン〉。
「ありました」とキオクは言った。
「それで、手を打ちます」とハラヘッタは言った。
ミコは、バジルをハーブの台へ戻した。〈バジル〉の札の前の、空いていたところに。
かごの中は、ゼラニウムひとつになった。黒いポットは、かごの底で、もう傾かなかった。
鉢の棚は、レジの小屋の横にあった。
ゼラニウムのポットの底に〈3号〉とあるのを見て、ミコは今村さんが台に貼っていた手書きの紙を思い出した。〈植えかえは、ひとまわり大きい鉢に〉。ひとまわり、というのがどのくらいなのかはわからなかったが、棚の札には号数が書いてあった。
〈4号〉のところに、二つ並んでいた。
白いプラスチックの鉢。百五十円。
赤茶色の、素焼きの鉢。三百二十円。
ミコは、右手で白い鉢を持った。軽かった。左手で素焼きの鉢を持った。こっちは、手首にずしっと来た。ポットの横に並べると、素焼きのほうは、ふちに小さな凹凸のある、ざらっとした手ざわりだった。
本部で、シンパイが〈風で倒れる〉に下線を引いた。
キオクがリモコンを押した。モニターに、先月の夕方のベランダが映った。物干し竿にかけたピンチハンガーが、風に押されて、竿のはしまで、からからと滑っていく。ミコがあわててサンダルをつっかけて、追いかける。
「あれは、洗濯物が全部ついていました」とキオクは言った。「それでも、滑りました」
さっきの帽子の男の人の声も、まだ耳に残っていた。軽か鉢は、ひっくり返るばい。
男の人の言ったことが、ぜんぶ正しいかどうかは、わからなかった。娘さんのマンションのベランダと、302号室のベランダは、ちがう。
でも、ピンチハンガーが滑っていくのは、自分で見ていた。
ミコは、白い鉢を棚に戻した。
「重いです」とシンパイが言った。〈持って帰れない〉に下線を引いた。
「持てます」とダイジョブが言った。
レジの小屋の前で、今村さんがホースを巻いていた。
「すみません」とミコは言った。「これを、この鉢に植えかえたいんですけど……ほかに、何が要りますか」
今村さんは、ホースを置いて、エプロンのポケットからラミネートしたカードを一枚出した。
「えっと」今村さんは、カードを読んだ。「〈植えかえ 用意するもの〉……鉢と、受け皿と、土、です。土、おうちにありますか」
「ないです」
「いちばん小さいのが、二リットルです」今村さんは、レジの横に積んである袋を指さした。〈花と野菜の土 2L〉。二百六十円。「それと、受け皿……」
今村さんは、棚から茶色いプラスチックの受け皿を一枚取ってきた。
ミコは、それを見て、素焼きの鉢を見た。
「置いてみても、いいですか」
「あ、はい」
受け皿をレジの台に置いて、その上に鉢をのせてみた。鉢の底が、受け皿のふちから少しはみ出した。
「あ」と今村さんは言った。受け皿の裏を見た。〈3号〉と書いてあった。「ちがいますね。すみません」
今村さんは、棚まで小走りで行って、もう一枚持ってきた。今度は、鉢の底がすっぽり収まった。百五十円。
「置いてみると、わかりますね」とミコは言った。
今村さんは、ふっと肩の力を抜いた顔で笑った。七月の瀬戸さんも、最初の休憩のあとに、こういう顔をした。
ミコは、もうひとつ聞いた。
「うちのベランダ、日が当たるのが、午前中だけなんですけど」
今村さんは、ゼラニウムの札を手にとって、読んだ。
「札には、〈日当たりのよい場所〉って書いてあります」今村さんは、少し困った顔で、札とミコを見くらべた。「午前中だけで足りるかは……わたし、ちょっとわからないです。すみません」
「いえ」ミコは、札を受けとって、ポットの土に刺しなおした。「見ながら、やってみます」
本部で、シンパイが〈枯らす〉の横に、小さく〈見る〉と書いた。
ゼラニウムが四百八十円、素焼きの鉢が三百二十円、受け皿が百五十円、土が二百六十円。
「千二百十円です」
ミコは千円札を二枚出して、七百九十円のおつりを受けとった。
今村さんは、素焼きの鉢を新聞紙で包んでくれた。ゼラニウムは、持ち手のついた小さな紙袋に、ポットごとまっすぐ立てて入れてくれた。
「袋、まっすぐ持ってください」と今村さんは言った。言ってから、カードの裏を確かめるように見た。「あと、受け皿にたまった水は、捨ててくださいって書いてあります」
「はい」
ミコは、トートのいちばん下に土の袋を寝かせた。その上に、新聞紙で包んだ鉢。横に、受け皿を立てて差しこんだ。
トートを左肩にかけた。
持ち手が、肩にぐっと沈んだ。
第四章 少し重いトート
川沿いの道は、行きよりも長かった。
左肩のトートが、歩くたびに腰に当たった。鉢と土と受け皿が、中で、ことん、ことんと鳴った。右手の紙袋は、まっすぐ持っていた。ゼラニウムの丸い葉が、紙袋のふちから少しだけのぞいていて、歩くたびに、こまかく揺れた。
橋のたもとで、ミコはトートを右肩にかけかえようとして、右手に紙袋を持っていることを思い出した。
紙袋を左手に持ちかえた。トートを右肩にかけた。それから、紙袋がまっすぐか、のぞきこんで確かめた。
まっすぐだった。
本部で、シンパイがホワイトボードの〈持って帰れない〉を見ていた。
「持って帰ってます」とダイジョブが言った。
「まだ、とちゅうです」とシンパイは言った。
「とちゅうまで、持って帰ってます」
坂の下のベーカリーは、ガラス窓に、まだあの手書きの紙が貼ってあった。〈バジルとチーズの丸パン〉。
本部で、ハラヘッタが、ほら、という顔をした。
ミコは、紙袋を持ったまま、ドアを肩で押して入った。
トレーとトングを、どうやって持てばいいかわからなかった。左手に紙袋、右肩にトート。トングは右手で持てた。トレーを持つ手がなかった。
レジの人が、カウンターの奥から言った。
「トレー、こちらで持ちましょうか」
「……すみません、お願いします」
レジの人がトレーを持って横に立ってくれて、ミコはトングで、いちばん手前の丸パンをひとつ取った。表面に、緑のこまかい葉が散っていて、焼けたチーズが少しはみ出していた。
二百二十円だった。
紙袋に入れてもらったパンを、トートのいちばん上、新聞紙の包みの上にのせた。
トートが、もう少しだけ重くなった。
本部では、ハラヘッタが、満足そうにおなかをなでていた。まだ食べていなかった。
坂をのぼって、集合住宅の階段を三階まで上がった。
外廊下に出たところで、303号室のドアが開いた。
中園さんが、ペットボトルの入った半透明の袋を提げて出てきた。ミコを見て、それから、トートの口からのぞいている新聞紙の包みを見た。
「こんにちは」と中園さんは言った。「重そうですね。鉢ですか」
「こんにちは」ミコは、紙袋を少し持ちあげた。「鉢を、ひとつ」
中園さんは、紙袋をのぞいた。
「ほとんど、つぼみですね」
「はい」
「何色が咲くと?」
「札では、サーモンピンクです」
「ベランダに置くんですか」
「はい。窓の右手前に」
中園さんは、自分の部屋のほうをちらっと見た。
「うちから、見えますかね」
ミコは、ベランダのあいだの、白い隔て板を思い浮かべた。
「たぶん、見えないです」
中園さんは、ふふっと笑った。
「じゃあ、咲いたら聞きます」
中園さんは、ペットボトルの袋を提げなおして、階段のほうへ歩いていった。
ミコは、302号室のドアの前で、トートを下ろさないまま、鍵を出した。三歩半むこうのインターホンのあたりを、なんとなく見てから、ドアを開けた。
第五章 右下のガラス
青緑の上着を、玄関のフックにかけた。
トートを床に下ろすと、肩が、すっと浮いたように軽くなった。
パンの紙袋を台所に置いて、新聞紙の包みをほどいた。素焼きの鉢と、受け皿と、土の袋。ほどいた新聞紙は、そのまま持ってベランダに出た。
サンダルをつっかけて、窓の前の床に新聞紙を広げた。
日は、もう床の半分くらいまで後ろへ下がっていた。手すり壁のほうから、屋根の影がこちらへ伸びてきている。でも、窓の右手前の二十センチには、まだ日が当たっていた。
ミコは、新聞紙の上にしゃがんだ。
鉢を置いた。土の袋の口を手で開けると、しめった、雨の日の公園みたいな匂いがした。
本部で、ハラヘッタが鼻を動かした。
「食べません」と、ほかの全員が先に言った。
「まだ何も言ってません」
ミコは、両手ですくって、鉢の底に土を入れた。それから、紙袋からゼラニウムのポットを出した。黒いポットのふちを、指で軽くもんで、さかさにして、底をとんとんとたたいた。
なかなか抜けなかった。
もう一回、とんとんとした。
ずるっと、土と根がひとかたまりになって、手のひらに落ちてきた。白い根が、土のかたまりのまわりにぐるりと回っていた。
ミコは、息を止めたまま、それを鉢のまんなかにおろした。すきまに、土を入れた。指で、そっと押さえた。押さえすぎると、つぶしてしまいそうで、何回も、そっと、をやった。
台所から持ってきた計量カップに水を入れて、株元に回しかけた。
鉢の底の穴から、受け皿に、茶色い水が、ちょろちょろと出てきた。
本部で、シンパイがホワイトボードの〈水が下の階へ落ちる〉を見た。受け皿のふちを見た。水は、受け皿の中にたまっていた。
シンパイは、その項目の横に、小さく丸をつけた。
受け皿の水を台所の流しに捨てて、鉢を受け皿にのせ直した。
両手で持って、窓の右手前の、二十センチの床に置いた。
受け皿のふちは、足場の目地を越えなかった。窓枠とのあいだには、指が一本ぶん。葉も、歩くほうへはみ出していなかった。
ミコは、立ちあがって、一歩下がった。
細長い灰色のベランダの、右のはしに、赤茶色の鉢がひとつ。丸い葉の上に、サーモンピンクの房がひとつだけ開いていて、そのまわりで、緑の粒の房が四つ、まだ閉じていた。
隔て板の前にも、ハッチの上にも、手すりの上にも、何もなかった。
残った土は、袋の半分より多かった。袋の口を二回折って、洗濯ばさみで留めた。
黒いポットは洗って、土の袋といっしょに、台所の流しの下にしまった。新聞紙は、土をはらって、たたんだ。
それから、手を洗って、パンを皿にのせた。お茶をいれた。
窓ぎわの座布団に、座った。

ガラス戸の右下に、鉢があった。
さっきまで何もない灰色だったところに、赤茶色と緑と、サーモンピンクがひとつ。屋根の影は、もう鉢の受け皿のすぐ手前まで来ていた。
ミコは、パンをちぎった。
バジルの匂いがした。チーズが、少し伸びた。
本部では、ハラヘッタが、目を閉じてゆっくりかんでいた。
「バジルの味がします」とハラヘッタは言った。
「バジルのパンですから」とシンパイが言った。
「パスタじゃないけど、バジルの味がします」
ダイジョブは、モニターに映ったガラス戸の右下を、じっと見ていた。
「明日、ひとつ開きます」とダイジョブは言った。
「明日とは、限りません」とシンパイが言った。ホワイトボードに、〈明日とは限らない〉と書いた。書いてから、その横に〈見る〉と、もう一度書いた。
キオクは、リモコンを膝の上に置いていた。何も再生しなかった。今、モニターに映っているものを、そのまま見ていた。
ネムイは、寝ていた。
ミコは、皿を膝からおろして、メモ帳を開いた。
〈二十センチ〉。〈隔て板の前 だめ〉。〈ハッチの上 だめ〉。〈手すりの上 だめ〉。〈午前は日なた お昼から影〉。〈ひとつ〉。
その下に、書いた。
〈開いた房 1〉
〈つぼみ 4〉
書いてから、ガラス戸の右下を、もう一度見た。
緑の粒の房が、四つ。そのうちの一つは、ほかのより少しだけ、粒のあいだからのぞく色が濃い気がした。気がしただけかもしれなかった。
「どれから開くか、予想しますか」とダイジョブが言った。
「当てたら、どうなるんですか」とシンパイが聞いた。
「どうもなりません」
「じゃあ、しなくていいです」
「しなくていいけど、したいです」
ミコは、メモ帳の〈つぼみ 4〉の横に、小さく矢印を書いた。左から二つめ、と書きかけて、やめた。明日、見てから書けばいい。
中園さんにも、咲いたら言える。隔て板のむこうからは、見えないから。
玄関のほうで、空になったトートが、上着の下のフックにかかっていた。肩には、持ち手のあとが、まだ少しだけ残っていた。
鉢ひとつと、受け皿一枚と、土一袋と、パンひとつぶん。
ミコは、お茶を飲んで、読みかけの本を開いた。
一ページ読むごとに、ガラス戸の右下を見た。
まだ、四つだった。


