第一章 朝のハーフゲーム
四月の二週目の土曜日、九時四十五分。
あおば台ボウルの入口に着くと、ガラス戸の前に、もうゆかりが立っていた。
短く刈った黒髪に、カーキのシャツジャケット。斜めがけの小さなバッグ。ガラス戸の内側には〈営業開始 十時〉の札が下がっていて、ゆかりは腕を組んで、その札とにらみあっていた。
「ミコ、おはよ」ゆかりは札から目を離さずに言った。「開かん」
「十時だから」
「知っとる。知っとって、九時半に来た」
今回は、ゆかりが行き先を決める番だった。一週間前に届いたメッセージは、三つに分かれていた。
〈ボウリング〉
〈土曜の朝だけ、ハーフゲームっていうのがある。五フレーム〉
〈すぐ投げれる〉
三つ目を読んだとき、ミコは少し笑った。ゆかりが書きたかったのは、たぶん三つ目だけだった。
本部では、シンパイがもうホワイトボードを出していた。〈ボウリング場で起こりうること〉と書いたものの、その下にはまだ何も並んでいなかった。並べる材料が、まだ届いていないのだった。
十時ちょうどに、店員が内側から鍵を回した。かちゃん、と音がしたときには、ゆかりはもう取っ手の前にいた。
カウンターの店員は、二十歳くらいの男の人だった。ラミネートした紙を一枚、二人のあいだに置いた。
〈朝のハーフゲーム(土・日 十時〜十二時)〉
〈五フレーム。一フレームに二投まで〉
〈倒したピンの本数の合計が得点です。ストライク・スペアの加算はありません〉
〈おひとり四百円 貸し靴三百円〉
「一投目で十本ぜんぶ倒れたら、そのフレームはそこで終わりです」と店員は言った。「一フレームで最高十点。五フレームで最高五十点になります」
ゆかりが、うんうんとうなずいた。もう聞き終わった顔をしていた。
「それから、レーンの手前の床に線があります。ファウルラインです」店員は、紙の下のほうの絵を指でたどった。「投げるときに足などが線の向こうの床に触れると、ランプがついて、その一投はゼロ点です。線の向こうは油が塗ってあって滑るので、越えないでください」
ミコは、うなずいた。
本部のホワイトボードに、最初の一行が書かれた。〈線を越えない〉。シンパイは、その下に二本線を引いた。
「ボールは棚から選んで、両手で持って運んでください。戻ってくる機械からは、ボールが完全に止まってから取ってください。ほかの方のボールには、さわらないでください」
「はい」とミコは言った。
「はい」とゆかりも言った。少し遅れて、もう一回「はい」と言った。
二人は、それぞれ七百円ずつ払った。ミコは二十三センチ、ゆかりは二十四・五センチの靴を借りた。脱いだスニーカーは、カウンターの横の棚に入れて、番号札をもらった。ミコの札は〈38〉で、ゆかりの札は〈39〉だった。
「十二番レーンです」
ボールの棚の前で、ゆかりは三秒で決めた。〈11〉と書いてある、オレンジ色のボールだった。
ミコは、〈9〉と書いてある緑のボールの穴に、指を入れてみた。親指がきつかった。隣の、同じ〈9〉の青いボールに入れてみた。今度はゆるかった。もう一つ隣の、〈9〉の緑に入れた。ちょうどだった。
「最初のと、同じ色やん」
「穴が、ちがう」
両手でボールを抱えて、十二番レーンまで歩いた。レーンの手前に、プラスチックの長いベンチと、小さな台があった。台の上には、短い鉛筆が二本と、〈スコアメモ〉と印刷された手のひらくらいの紙の束が置いてあった。鉛筆には、消しゴムがついていなかった。
ミコは青緑の上着を脱いで、たたんで、生成りのトートに入れた。トートはベンチのはしに置いた。下は、白い長袖のTシャツだった。ゆかりもシャツジャケットを脱いで、自分のバッグの上にかけた。中は、細いボーダーのTシャツに、ジーンズだった。
二人は、選んだボールを止まっているリターンの受け台に置いた。
頭の上のモニターに、名前を入れる画面が出ていた。ゆかりが〈ユカリ〉と打ち、その下に〈ミコ〉と打った。
「わたし、先でいい? もう待てん」
「どうぞ」
「それから」ゆかりは、カウンターの奥を親指で指した。〈スナック〉と書いた看板の下に、〈ポテト 三百円〉〈ソフトクリーム 二百五十円〉の札が見えた。「負けたほうが、ポテトね」
「わかった」
本部で、ハラヘッタが顔を上げた。
「どちらが負けても、ポテトは出ます」とハラヘッタは言った。
「勝ち負けの話です」とシンパイが言った。
左の十一番レーンには、六十歳くらいの女の人が一人でいた。足もとに、車輪のついた黒いボールバッグが置いてあった。自分のものらしい、青いまだら模様のボールを胸の前で両手で持って、レーンの先のピンをじっと見ていた。
右の十三番レーンには、〈調整中〉と書いた立て札が立っていた。
第二章 一フレーム目は、長い
ゆかりは、左の女の人が投げ終えて戻ったのを見て、受け台のオレンジのボールを両手で持ちあげると、そのまま歩きだした。
立ち止まらなかった。四歩で線の手前まで行って、腕をうしろへ引いて、前へ振った。
ボールはまっすぐ出ていって、途中から左へ寄った。ごとごとと鳴って、ピンの左のはしに当たった。
三本倒れた。
「なんで」
ゆかりは振り向かなかった。戻ってきたボールが止まるのを待って、取って、また歩いた。二投目は、残ったピンの右のほうをかすって、二本倒れた。
モニターの〈ユカリ〉の一フレーム目に、〈5〉と出た。
「なんで左に行くと」ゆかりはベンチに戻ってきて、どすんと座った。最初にボールを持ってから、一分もたっていなかった。「ミコ、どうぞ」
ミコは、ボールが戻ってくる機械の前に立った。最初に置いた緑のボールは、受け台にあった。動いていないのを確かめて、両手で持ちあげた。
レーンの手前に立った。
ピンは、ずいぶん遠かった。
本部では、シンパイのホワイトボードが一気に埋まっていた。
〈線を越える〉
〈ガター〉
〈指が抜けない〉
〈ボールがうしろへ飛ぶ〉
〈となりの人と同時に投げる〉
「五つあります」とシンパイは言った。
「まっすぐ転がせば、ぜんぶ起きません」とダイジョブが言った。
キオクがリモコンを押した。モニターに、さっきのカウンターの店員が映った。〈足などが線の向こうの床に触れると、ランプがついて、その一投はゼロ点です〉。もう一回押すと、また同じところが映った。
「二回も再生しなくていいです」とシンパイが言った。
「大事なところです」とキオクは言った。
ミコは、左を見た。
十一番レーンの女の人が、青いボールを胸の前に構えて、止まっていた。
ミコは、待った。
女の人は、なかなか動かなかった。ピンを見て、足もとを見て、またピンを見た。それから、すっと歩きだして、投げた。ボールは右から大きく曲がって、ピンのまんなかに入った。九本倒れて、一本だけ左のすみに残った。
女の人は残った一本を見て、小さく首をかしげた。戻ってきたボールを取って、また構えて、また止まった。
ミコは、また待った。
ベンチのほうで、ゆかりの靴のかかとが、とんとんと床を鳴らしていた。
女の人の二投目が、最後の一本を倒した。女の人はうなずいて、ベンチに戻っていった。
ミコは、歩いた。
三歩目で、線が近くに見えた。四歩目は、半分にした。線の一歩半手前で止まって、ボールをそっと前に押しだした。
ボールは、ゆっくり転がっていった。ゆっくりすぎて、途中で止まるかと思った。止まらなかった。ピンの右はしに、こつんと当たった。
二本倒れた。
二投目も同じところで止まって、同じように押しだした。今度はピンの左はしに当たって、また二本倒れた。
〈ミコ 4〉
ベンチに戻ると、ゆかりがスコアメモを一枚ちぎって、鉛筆を持っていた。
「ミコ」
「うん」
「待っとるあいだ、ひますぎる」
「ごめん」
「謝らんでいい。ミコは、ゆっくりでいいと」ゆかりは、鉛筆の先で紙をたたいた。「やけん、待っとるほうも、勝負しよ」
ゆかりの考えた勝負は、こうだった。
待っている人が、投げる人のそのフレームの合計を、紙に書いて当てる。〇から十まで。書いた紙は伏せておいて、フレームが終わったら開ける。ぴったり当たったら、一点。
「こっちも、負けたほうがなんかおごりね」
ミコは、カウンターの奥の札を見た。
「ソフトクリーム」
「決まり。二フレーム目から」
ゆかりは鉛筆をミコに渡すと、もう立ちあがっていた。
「じゃ、ミコ、予想して」
そう言いながら、オレンジのボールを両手で取った。ミコが紙を引きよせて、鉛筆の先を紙につけたとき、ゆかりはもう四歩目だった。
ボールが転がっていった。
ミコの紙は、白いままだった。
四本倒れた。
「まだ、書いてない」とミコは言った。
ゆかりが振り向いた。ミコの手もとの白い紙を見た。
「……あ」
急いで構え直した二投目は、まっすぐ左の溝に落ちた。ガターだった。
〈ユカリ 5・4〉
ゆかりはベンチに戻ってきて、しばらく黙っていた。それから、言った。
「決まりを、ひとつ足す」
「うん」
「予想する人が『書いた』って言うまで、投げる人はボールを持たん」
「うん」
「それで、二フレーム目は、なし。ミコが書けんかったのはわたしのせいやけん、わたしも、ミコの二フレーム目は予想せん。三フレーム目から、二人とも三回ずつ」
ミコは、うなずいた。ゆかりは、こういうところは細かかった。
ミコの二フレーム目のあいだ、ゆかりにはすることがなかった。
予想しないと決めたのは、ゆかり自身だった。
ミコが機械の前でボールが止まるのを待っているあいだ、ゆかりは両手をお尻の下に入れて座っていた。ミコが左のレーンを見て待っているあいだ、ゆかりは天井の照明を数えはじめて、途中でやめた。ミコが線の一歩半手前で止まったとき、ゆかりは、うう、と小さな声を出した。
ミコの一投目は、一本だった。二投目は、四本だった。
〈ミコ 4・5〉
二フレーム終わって、ゆかりが九点、ミコも九点だった。
「同点」とミコは言った。
「同点」ゆかりは、ベンチの上でぐったりしていた。「待つほうが、疲れた」
本部で、ダイジョブが「同点です」と言った。シンパイは〈となりの人と同時に投げる〉の横に、小さく丸をつけた。起きなかった、という丸だった。
第三章 書いた、と言うまで
三フレーム目。
ゆかりは機械の前に立ってから、振り返った。
「ミコ、書いて」
ミコは紙を一枚ちぎって、膝の上に置いた。
一フレーム目のゆかりは、五。二フレーム目は、四。だいたい五くらい。
でも二フレーム目は、ミコのほうを振り向いてから、急いで投げていた。あれは数えないほうがいいかもしれない。そうすると、五。でも、さっきは一投目で四本倒しているから、二投目がちゃんと転がれば、六か七もある。
ミコは〈5〉と書いてから、鉛筆のおしりでこすってみた。消えなかった。その紙は小さくたたんでトートに入れて、もう一枚ちぎった。
ゆかりは、ボールの機械の横で待っていた。
ボールは目の前にあった。でも、持ってはいけなかった。
ゆかりは右足に体重をのせて、左足にのせて、また右足にのせた。それから両手をだらんと下げて、ふうっと長く息を吐いた。吐いたあと、レーンの先のピンを見た。十本のピンは、白く、じっと並んでいた。
ミコは、新しい紙に〈5〉と書いた。

「書いた」
紙を伏せた。
ゆかりは、ボールを取った。
取ってから、すぐには歩かなかった。もう一回、ピンを見た。それから歩いて、投げた。
ボールは、まっすぐに転がっていった。今度は左へ寄らなかった。ピンのまんなかより少し右に入って、がらがらと大きな音がした。
七本倒れた。
「え」とゆかりは言った。自分で言ってから、もう一回「え」と言った。
二投目で、残った三本のうち二本が倒れた。
〈ユカリ 5・4・9〉
ミコは、伏せた紙を開いた。〈5〉。
「はずれた」
「九!」ゆかりはベンチに戻ってきて、ミコの紙をのぞきこんだ。「五って書いとったと。わたし、ミコの中では五の人なん」
「さっきまで、五の人だった」
「さっきまで」ゆかりは、自分の右手を見た。「なんか、まっすぐ行った」
本部で、キオクがリモコンを押した。
モニターに、二つの場面が並んだ。一フレーム目のゆかり。ボールを持った瞬間に歩きだしている。三フレーム目のゆかり。ボールの前で、ふうっと息を吐いて、ピンを見ている。
「待たされたゆかりと、待たされなかったゆかりです」とキオクは言った。
「待たされたのは」とシンパイが言った。「ミコが、書くのに時間をかけたからです」
本部が、少し静かになった。
「ミコ、ゆっくりでいいよ」
ミコが機械の前に立つと、うしろからゆかりが言った。紙と鉛筆を持って、ベンチの上であぐらをかいていた。
「わたし、書くけん。考えるけん。ゆっくりで」
ゆかりはしばらく鉛筆を止め、それから紙を伏せた。
「書いた」
さっきまで天井の照明を数えていた人が、楽しそうだった。
ミコは緑のボールを両手で持って、レーンの手前に立った。
左を見た。十一番の女の人が、ちょうど青いボールを持って、こっちを見ていた。
ミコは一歩うしろへ下がって、あごを少し下げ、どうぞ、とした。
女の人も一歩うしろへ下がって、あごを少し下げ、どうぞ、とした。
ミコは、もう一歩下がった。どうぞ。
女の人も、もう一歩下がった。どうぞ。
二人とも、ずいぶんうしろに立っていた。
女の人が、ボールを胸に抱えたまま、ミコのほうへ顔を向けた。
「あなたが左を見て、わたしが右を見て、二人とも『どうぞ』をやっていたら、十二時になります」
声は大きくなかった。笑ってもいなかった。
「すみません」
「謝らなくていいです。決めましょう」女の人は、ボールを抱えた腕で、自分の胸をとんとたたいた。「わたしが二投を終えてベンチへ戻ったら、あなた。先に構えた人を待つ。それで、いいですね」
「はい」
女の人は前に出て、構えて、止まった。止まっている時間は、さっきと同じくらい長かった。それから投げた。ボールは右から曲がって、ピンの少し左に入った。八本倒れて、右と左のはしに一本ずつ、離れて残った。
「ああ、もう」と女の人は言った。
二投目は、片方だけ倒れた。女の人は、ふん、と息をついて、振り向いた。ミコと目が合った。あご先で、レーンを指した。
ミコの番だった。
本部のホワイトボードは、いつの間にか項目が増えていた。
〈線を越える〉
〈ガター〉
〈指が抜けない〉
〈ボールがうしろへ飛ぶ〉
〈となりの人と同時に投げる〉
〈となりの人を待たせる〉
〈ゆかりが見ている〉
〈ゆかりが書いている〉
「八つです」とシンパイは言った。
「ゆかりは、楽しそうでした」とダイジョブが言った。
「楽しそうに、何か書いています」とシンパイが言った。「何を書いているのかが、わかりません」
ミコは、ボールを持ったまま、腕を振り子みたいに一回うしろへ振ってみた。それから、もう一回振った。
歩いた。線の一歩半手前で止まって、押しだした。
二本倒れた。
二投目の前にも、腕を二回振った。
一本倒れた。
〈ミコ 4・5・3〉
ゆかりが、伏せていた紙をひっくり返した。
〈3〉
「当たった!」
ゆかりは紙を両手で持って、頭の上にあげた。十一番の女の人が、ちらっとこっちを見た。
「なんで、三」
「ミコ、長いこと考えたときは少なめやけん」ゆかりは紙を胸の前に下ろして、少し声を小さくした。「一フレーム目、長かったやろ。四。二フレーム目は、わたしが暇すぎて長く感じたけど、ほんとはそんなに長くなかった。五。今のは、いちばん長かった。腕、二回振っとった」
「振ってた」
「振っとった。やけん、三」
ミコは、何も言えなかった。
くやしかった。ゆかりの言うことが、当たっていたからだった。
モニターは、〈ユカリ 18〉〈ミコ 12〉になっていた。予想の勝負は、ゆかりが一点、ミコが〇点だった。
第四章 早く書く人
四フレーム目。
ゆかりが、機械の前で振り返った。
「ミコ、書いて。ゆっくりでいいけん」
ゆっくりでいいけん、のところで、本部のシンパイがマーカーを止めた。
「ゆっくり書くと」とシンパイは言った。「ゆかりは待ちます」
「待つと、まっすぐ行きます」とキオクが言った。リモコンの上には、さっきの二つの場面がまだ並んでいた。
「では、早く書けばいいです」とダイジョブが言った。
本部が、静かになった。
キオクが、モニターを切りかえた。一フレーム目と二フレーム目の、急いでいるゆかり。〈5〉と〈4〉。
ミコは、紙を一枚ちぎった。
迷わなかった。〈4〉と書いて、伏せた。
「書いた」
ゆかりが「え、もう?」と言った。言いながら、ボールを取っていた。取ったまま、もう歩いていた。
ボールは、途中から左へ寄った。三本倒れた。
二投目も急いだ。一本だけ倒れた。
〈ユカリ 5・4・9・4〉
ミコは、紙を開いた。
〈4〉
「当たった」
ゆかりは、ミコの紙を見た。それから自分の右手を見て、それからミコの顔を見た。
ミコは、少しだけ下を向いた。
ゆかりはしばらく何か考えている顔をしていたが、急に、あはは、と笑った。
「つられた」とゆかりは言った。「ミコが早よ書いたけん、わたしも早よ投げた」
ゆかりは、自分の紙の束から一枚ちぎって、何か書いた。それをミコには見せないで、ジーンズのポケットに入れた。
本部では、シンパイが予想の点数の欄に〈ミコ 1〉と書いた。書きながら、マーカーを持つ手が少しだけ止まった。
「これで、ボウリングのほうは」とキオクが言った。「ゆかりが二十二です」
「早く書くと、予想が当たって、ボウリングのほうも追いつけます」とダイジョブが言った。
「次も、早く書きますか」とシンパイが聞いた。
ミコは、答えなかった。いまはミコの番だった。
ゆかりが紙を伏せて、「書いた」と言った。
ミコは緑のボールを両手で持って、レーンの手前に立った。
左を見た。十一番の女の人は、ベンチで青いボールを布でふいていた。こっちのレーンをちらっと見て、手で、どうぞ、とした。
ミコは、うなずいた。
本部のホワイトボードには、八つの項目がそのまま残っていた。シンパイが、九つ目を書こうとしていた。
そのとき、キオクがリモコンを押した。
モニターに、さっきのゆかりが映った。〈ミコ、長いこと考えたときは少なめやけん〉。
本部の全員が、モニターを見た。
ミコは、ベンチのほうを少しだけ振り返った。ゆかりが紙を膝にのせ、鉛筆を持って、こっちを見ていた。
もし自分があのベンチに座っていたら、とミコは思った。
レーンの手前に、ミコが立っている。左を見た。うなずいた。そのあと、腕を二回振る。たぶん、振る。
自分なら、〈3〉と書く。
ミコは、腕を振らなかった。
左はもう見た。女の人は、ベンチでボールをふいている。だから、歩いた。四歩目は、やっぱり半分になった。線の一歩半手前で止まった。そこから先は、いつもと同じように押しだした。
ボールは、まっすぐ転がっていった。速くはなかった。でも、途中で止まりそうにはならなかった。
ピンのまんなかに入った。
六本倒れた。
二投目も、腕を振らなかった。二本倒れた。
〈ミコ 4・5・3・8〉
ゆかりが、紙をひっくり返した。
〈3〉
「なんで、今だけ早いと!」
ゆかりは紙を持ったまま、ベンチの上で仰向けになった。
「ゆかりが、三って書くと思ったから」
「書いたよ! 三って書いたよ!」
本部で、ハラヘッタが小さく拍手していた。何に拍手しているのか、本人もよくわかっていないようだった。
モニターは、〈ユカリ 22〉〈ミコ 20〉。予想の勝負は、一対一になった。
第五章 負けたほうの紙
五フレーム目。最後だった。
ゆかりが、機械の前で振り返った。
「ミコ、書いて」
今度は、ゆっくりでいいけん、とは言わなかった。
ミコは、紙をちぎった。
早く書けば、ゆかりは急ぐ。急いだゆかりは、四か五。でも、ゆかりはさっき、何か書いた紙をポケットに入れた。何を書いたのかは、わからない。
ミコは、機械の横に立っているゆかりを見た。
ゆかりは、ボールを見ていなかった。ピンを見ていた。でも右足のつま先が、ほんの少しだけ、床をとんとんしていた。
待つつもりでいる。でも、待ちきれない顔をしている。
ミコは、〈7〉と書いた。
「書いた」
ゆかりは、ボールを取らなかった。
「いち」とゆかりは言った。声に出していた。「に。さん。し。ご」
五まで数えてから、ボールを取った。取ってから、もう一回ピンを見た。歩いた。投げた。
ボールはまっすぐに転がっていって、最後の少しだけ、左へ寄った。
六本倒れた。
二投目は、ぎりぎりで一本をかすった。
〈ユカリ 5・4・9・4・7〉
合計、二十九。
ミコは、紙を開いた。
〈7〉
「当たった」
ゆかりはミコの紙を見て、口をあけた。それから、ジーンズのポケットから、くしゃっとした紙を出した。
〈待つ〉と書いてあった。その下に、小さく〈五秒〉。
「五秒しか待てんかった」
「数えてた」
「数えたら、五で終わってしもうた。十にしとけばよかった」
予想の勝負は、ミコが二点、ゆかりが一点。
モニターは、〈ユカリ 29〉〈ミコ 20〉だった。
ミコの、最後のフレームだった。
ゆかりが紙をちぎった。今度はさっと書いて、すぐに伏せた。
「書いた」
ミコは緑のボールを両手で持って、レーンの手前に立った。
二十九と、二十。九点で同点。十点で勝ち。
十点は、一投でも二投でも、十本ぜんぶ、ということだった。
本部では、シンパイが新しい項目を書いていた。〈十本〉。その下に〈十本倒さないと勝てない〉。その下に〈九本だと同点〉。その下に、〈八本以下だと〉。
「書かなくていいです」とダイジョブが言った。
「書かないと、わからなくなります」とシンパイは言った。
ハラヘッタは、カウンターの奥のほうに鼻を向けていた。ポテトを揚げる音が、少しずつ聞こえはじめていた。
キオクは、リモコンの上で指を迷わせていた。何を再生すればいいのか、選べないでいた。
パイプ椅子で、ネムイが濃紺のフードをちょっとだけ持ちあげた。
「考えるのは」とネムイは言った。「座ってるあいだに、だいたい、済んでますよ」

フードが、また下りた。
本部の全員がネムイのほうを見て、それから、モニターのほうを見た。
座っているあいだ、ミコはずっとゆかりを見ていた。ゆかりの足を、息を、ボールを持つ手を。待ったゆかりと、待たなかったゆかりを。
自分のことを考えていたのは、レーンの手前に立ってからだけだった。
ミコは、左を見た。女の人はちょうど自分の最後の一投を終えて、振り向いたところだった。目が合った。女の人があご先で、どうぞ、とした。
ミコは歩いた。線の一歩半手前で止まって、押しだした。
七本倒れた。
右のほうに、三本残った。二本が並んでいて、一本だけ少し離れていた。
三本。三本倒せば、勝ち。
ミコは、戻ってきたボールが止まるのを待った。両手で持った。
腕を振りかけて、やめた。
歩いて、止まって、押しだした。
ボールは、並んだ二本の手前の一本の、はしをかすめた。かすめられた一本だけが、ゆっくり傾いて、倒れた。
残りの二本は、立っていた。
〈ミコ 4・5・3・8・8〉
合計、二十八。
「勝った!」
ゆかりがベンチから立ちあがって、両手を上げた。
ミコは、レーンの手前に立ったまま、モニターを見ていた。〈ユカリ 29〉〈ミコ 28〉。
一本だった。
ベンチに戻ると、ゆかりはまだ両手を上げていた。片手は上げたまま、もう片方を下ろして、伏せていた紙をひっくり返した。
〈9〉
ゆかりの手が、ゆっくり下りてきた。
「……九って書いとる」
「八だった」
「あと一本倒れとったら、わたしが当たって予想は二対二で、ボウリングも同点やったのに!」
「あと二本で、わたしが勝ってた」
「そうやけど!」
ゆかりは、ベンチにどすんと座った。
「勝ったのに、くやしい」
「負けたのも、くやしい」とミコも言った。
くやしいのは、ちゃんとくやしかった。七本倒れたとき、勝てるかもしれないと思った。思ったぶんだけ、くやしかった。
十一番の女の人が、ボールバッグのファスナーを閉めていた。帰りぎわに、二人のレーンの横で少しだけ立ち止まった。
「予想、やってたでしょう」と女の人は言った。
「すみません、うるさくて」とミコは言った。
「わたしも、待ってるあいだ、自分の予想をしてます」女の人は、ボールバッグの取っ手を伸ばした。「たいてい、はずれます」
それだけ言って、車輪をごろごろ鳴らしながら、カウンターのほうへ歩いていった。
靴を返して、番号札の〈38〉と〈39〉で、スニーカーを受けとった。
カウンターで、店員が「スコア、一枚だけ印刷できますよ」と言った。白い細長い紙が一枚出てきた。〈ユカリ 29〉〈ミコ 28〉と、フレームごとの数字が並んでいた。
スナックのテーブルで、ミコはポテトを一つ買った。三百円。ゆかりはソフトクリームを一つ買って、ミコの前に置いた。二百五十円。
ポテトは、テーブルのまんなかに置いた。
「紙、どうする」とゆかりが言った。
テーブルの上に、印刷したスコアと、ミコの予想の紙と、ゆかりの予想の紙があった。ミコの紙には〈5〉〈4〉〈7〉。ゆかりの紙には〈3〉〈3〉〈9〉。〈待つ 五秒〉の紙もあった。
ミコは、スコアの紙を取った。
「勝ったほうが持って帰るんやない?」
「負けたほうの紙を、持って帰る」とミコは言った。「次に勝つ用」
ゆかりは少し考えて、ミコの予想の紙を取った。〈5〉〈4〉〈7〉の三枚を、重ねてそろえた。
「じゃあ、わたしはこれ。研究する」
「研究しても、ゆかりは、待てない」
「待てるようになる。次は十秒」ゆかりは、自分の紙と〈待つ 五秒〉の紙もいっしょに重ねて、ポケットに入れた。「ミコは?」
ミコは、スコアの紙をトートの内ポケットに入れた。濃紺のお守りの横だった。
「待ってるあいだに、考える」
「なにを」
「自分の番のこと」
「それ、やっとらんかったと」
「ゆかりのことばっかり、考えてた」
ゆかりはポテトを一本つまんだまま止まって、それから声を出して笑った。
「それで当てられとったんか、わたし」
本部では、ハラヘッタがソフトクリームのいちばん上を見ていた。
ミコは、ソフトクリームをひと口なめた。冷たかった。ポテトは、しょっぱかった。
最後の一本になったポテトを、ゆかりがミコのほうへ押した。
「それ、勝ったほうが食べるんじゃないの」とミコは言った。
「待っとくけん」ゆかりは両手をお尻の下に入れて、目をつぶった。「いち、に、さん、し……」
ゆかりが数えているあいだ、ミコはポテトを見ていた。
食べるか、返すか。勝ったのはゆかりで、ソフトクリームはミコのもので、ポテトを買ったのはミコだった。
「……く、じゅう」
ゆかりが目をあけたとき、ミコはもう決めていた。
最後の一本を、まんなかで半分に折った。


