第一章 八つ目の条件
金曜日の夜十時、ミコは木の台を両腕で抱えて、洗面所の体重計に乗った。
数字を見てから台をそっと床におろし、もう一度ひとりで乗った。二つの数字を引き算すると、一・八キロだった。
「だいたい二キロです」とキオクが言った。
本部では、シンパイがホワイトボードに〈台 約二キロ〉と書いていた。
台は、三月の最初の日曜日に、公民館のおさがり市で七百円で買った。四本の脚に、四角い天板がのっている。脚は天板にしっかり固定されていて、たためない。百円ショップのメジャーで測ると、天板は三十センチ四方で、高さは二十五センチだった。天板のすみには〈ゆうた〉と彫ってあって、裏には〈日なた用〉と書いた付箋がまだ貼ってあった。端が少しだけめくれていた。
ミコは、台をいつもの窓ぎわに戻さず、玄関に置いた。
あした、公園へ持っていく。
〈花見、行こ〉
ゆかりからそう来たのは、一週間前だった。
〈場所は、ミコが決めて〉
〈わたしは、おにぎり〉
〈あと、あのゲーム持っていく。まだ開けとらん〉
あのゲームは、おさがり市でゆかりが売上の七百円で買った、二人用のカードゲームだ。箱の角が一つつぶれている。
ミコが選んだのは、ひばり池公園だった。302号室から歩いて十五分くらいの、ふつうの公園だ。入るのにお金はいらない。池のまわりに散歩道があって、芝生の広場と、小さな丘と、遊具がある。桜の木は、池のまわりと丘に多い。
公園のホームページも見た。〈芝生広場の一部は、ただいま養生中です。ロープの内側へは入らないでください〉と書いてあった。ミコはそれを読んで、うなずいて、次のページへ進んだ。
それから、メモ帳に計画を書いた。
〈十時三十分 北口に集合〉
〈十時三十分〜十一時 場所をさがす〉
〈十二時 お弁当〉
十一時から十二時のあいだは、空けておいた。場所が早く決まったら、座ってお茶を飲めばいい。
本部では、シンパイがもう一枚、別のホワイトボードを引っぱり出していた。
〈場所の条件〉
〈一、桜の下〉
〈二、平ら〉
〈三、日なた〉
〈四、風が強すぎない〉
〈五、トイレが遠すぎない。近すぎない〉
〈六、通る人のじゃまにならない〉
〈七、ほかの人の場所ではない〉
「七つ」とシンパイは言った。「全部そろう場所が、どこかにあるはずです」
「座れれば、どこでもいいです」とダイジョブが言った。黄色い上着の前を開けて、もう行く気でいた。
ハラヘッタが、緑のカーディガンの袖から手を出して、そっと挙げた。
「八つ目を、お願いします」
「なんですか」
「お弁当の時間に、間に合う」
シンパイは少し考えてから、〈七〉の下に小さく〈八、十二時に食べる〉と書いた。
パイプ椅子では、ネムイが濃紺のフードをかぶって眠っていた。
三月の終わりの土曜日、ミコは六時半に起きた。
ゆうべ下味をつけておいた鶏肉を揚げて、からあげを十個作った。卵焼きは二本焼いて、八つに切った。ブロッコリーをゆでて、ミニトマトを六個洗った。大きめの保存容器を二つ出して、片方にからあげと卵焼き、もう片方にブロッコリーとミニトマトをつめた。熱を取ってからふたをし、凍らせた保冷剤といっしょに保冷バッグへ入れた。
水筒には、ほうじ茶を入れた。紙コップを四つ、ウェットティッシュ、ごみ袋。百円ショップで買った、九十センチ掛ける百八十センチのレジャーシート。
着替えは、薄い灰色の長袖のカットソーに、青緑の上着。黒いワイドパンツに、灰色のスニーカー。冬のニットは、先週、引き出しの奥にしまった。
おさがり市で使った折りたたみのキャリーカートを広げて、木の台をのせた。ゴムひもを二本、同じ向きにかけて、台の上に丸めたレジャーシートを置き、それもいっしょにくくった。お弁当の保冷バッグと水筒は、生成りのトートに入れて肩にかけた。トートの内ポケットには、濃紺のお守りが入っている。
十時五分、ミコはカートを引いて、302号室を出た。
外廊下で、車輪がころころと鳴った。台の脚の先が、ゴムひもの下で小さく揺れていた。
第二章 十三時からの石
十時二十分、ひばり池公園の北口に着いた。
入り口の車止めを抜けたすぐ先に、桜が一本あった。散歩道から三メートルくらい芝生に入ったところで、池のまわりの桜よりは小ぶりだった。花は、ほとんど開いていた。
一本だけ、枝が低く横へ伸びていた。ちょうどミコの頭の高さくらいだった。
ミコは、その木の下に立ってみた。
枝の先が、髪に触れた。
本部で、シンパイがマーカーを持った。
「枝が低いです。頭をぶつけます」とシンパイは言った。「入口に近いので、人がたくさん通ります。地面も、少し傾いています」
たしかに、木の根もとから散歩道のほうへ、芝生がほんの少しだけ下がっていた。少し先には、自動販売機が二台並んでいた。
ミコは木の下から出て、北口の車止めのところへ戻った。
十時三十分ちょうどに、ゆかりが来た。
紺のマウンテンパーカーに、小さめのリュック。短い黒髪が、風で横に寝ていた。
「ミコ、おはよ」ゆかりは、ミコのうしろのカートを見た。「……それ、持ってきたと」
「机にする」
「ゆうたくんの台やん」
ゆかりは、天板のすみの字を覚えていた。
「重くなかった?」
「二キロ」
「測ったと」
「測った」
ゆかりは笑って、リュックを背負いなおした。
「おにぎり、保冷剤ごと、ばり重いけんね。覚悟しとって。朝七時に電車でパン食べたっきりやけん、わたし、もうお腹すいとる」
「お弁当は、十二時」
「十二時」ゆかりはスマートフォンの時計を見た。「あと一時間半」
「場所を決めて、座って、それから」
「決めよ、決めよ」
二人は、北口から散歩道を歩きだした。
十時四十一分、あの低い枝の桜の前を通った。
「ここ、よくない?」とゆかりが言った。「咲いとるし」
「候補を、ぜんぶ見てから」とミコは言った。「池のほうに、大きい桜があるの」
ゆかりは、ふうん、と言って、低い枝を見上げながら通りすぎた。
本部では、キオクがリモコンを手の中でくるりと回していた。
池のほとりの桜は、大きかった。
幹が太くて、枝が池の上まで張り出していた。花も満開に近かった。木の下には、もうシートがいくつも敷いてあった。家族連れが二組と、大学生らしい集まりが一つ。
その中に一枚だけ、誰もいない青いシートがあった。
四すみに、こぶし大の石がのせてある。まんなかにも石が一つあって、その下に、透明な袋に入れた紙がはさまっていた。
〈ひばり台三丁目 さくら会 十三時より〉
ミコとゆかりは、シートの端で立ち止まった。
「十三時」とゆかりが言った。
「十三時」
「いま、十時五十分」ゆかりは指を折った。「二時間ちょっと、あいとる」
本部で、シンパイが〈七、ほかの人の場所ではない〉を、マーカーでとんとんとたたいた。
「ほかの人の場所です」
「ほかの人の場所です」とミコも言った。
「わかっとる、わかっとる」ゆかりは両手を上げた。「言ってみただけ。それに、十三時までにお弁当とゲーム、終わらんやろ」
「終わらないと思う」
「わたし、たぶん二回戦する」
二人は、石ののったシートを、少し遠回りしてよけた。
池のまわりのほかの桜の下も見た。どこも、シートがすきまなく敷いてあった。あいているところは、木の根がこぶみたいに出ていたり、ベンチの真ん前だったりした。
「丘は?」とゆかりが言った。
「丘にも、桜がある」
二人は、来た道を戻った。
十一時七分、北口の低い枝の桜の前を、また通った。
ゆかりが、ちらっと木を見た。ミコはカートを引いて、まっすぐ前を見ていた。
丘の上は、風が強かった。
上着の裾が、ばたばたとはためいた。ここでレジャーシートを広げたら、たぶん凧になる。
それに、丘の桜は、まだほとんどが蕾だった。枝の先に、ところどころ白っぽいのがのぞいているだけだった。
「こっちの木は、寝坊しとうね」とゆかりが言った。
「同じ公園なのに」
「日当たりかね。風かね」ゆかりは、蕾の枝を下から見上げた。「わからんけど、寝坊」
本部のホワイトボードでは、〈四、風が強すぎない〉の横に×が、〈一、桜の下〉の横に△がついた。
パイプ椅子のほうで、もぞっと音がした。
ネムイがフードを少しだけ持ち上げて、ホワイトボードを見た。
「立ってると」とネムイは言った。「ぜんぶ、候補ですね」
それから、またフードを下ろした。
シンパイは何か言い返そうとして、マーカーのキャップをはめた。
丘の上で、ゆかりが振り返った。風で、短い髪がぜんぶうしろへ流れていた。
「ミコ、勝負しよ」
「なにを」
「場所。十分ずつ、分かれてさがす。いい場所見つけたほうが勝ち」ゆかりは、丘の下の北口のほうを指さした。「集合は、あの入口の、枝の低い木」
「勝負なら」とミコは言った。
言ってから、本部でダイジョブが、あ、という顔をした。
「勝負は、さがす時間が増えます」とキオクが言った。
もう遅かった。ゆかりは「よーい、どん」と言って、丘を駆けおりていた。
第三章 四回目の木
ミコは、池の反対側へ行った。
芝生の広場の東のはしに、桜が三本並んでいた。三本とも、よく咲いていた。その前の芝生には、誰もいなかった。
平らだった。日なただった。風は、丘よりずっと弱かった。トイレは、歩いて二分くらいの、遠すぎず近すぎないところに見えた。散歩道からも離れていた。
ミコは、カートを引いて近づいた。
本部で、シンパイが条件の上から順に丸をつけていった。一、丸。二、丸。三、丸。四、丸。五、丸。六、丸。
「七」とシンパイは言った。「ほかの人の、場所では——」
ミコのスニーカーの一歩先を、何か細い線が横切っていた。
ロープだった。
膝くらいの高さに、白い細いロープが張ってあった。少し先に、小さな立て札が立っていた。
〈芝生養生中 立入禁止〉
キオクがリモコンを押した。モニターに、ゆうべのミコが映った。公園のホームページを見て、うなずいて、次のページへ進むミコ。
「読んでいました」とキオクは言った。
「読んでいましたね」とダイジョブが言った。
シンパイは、〈八、十二時に食べる〉の下に、もう一つ書き足した。
〈九、ロープの内側ではない〉
ミコは、ロープの手前で一歩うしろへ下がった。三本の桜は、ロープの向こうで、何も知らない顔をして咲いていた。
十一時三十二分、ミコは北口の、枝の低い桜の前に戻った。
ゆかりと二人でここへ来るのは、三回目だった。
ゆかりは、もう来ていた。自動販売機の横で、片足でとんとんと地面を踏んでいた。
「見つけた」とゆかりは言った。「勝った」
「どこ」
「キッチンカーの横」
広場の西側の、駐車場に近いところに、週末だけ来るらしいキッチンカーが二台止まっていた。焼きそばと、クレープ。その横に、大きな銀杏の木があった。
「日なた。平ら。風なし」ゆかりは指を折った。「それから、焼きそばのにおい」
「桜は?」
「見える」ゆかりは、ずっと遠くの池のほうを指さした。「あっちに」
ミコは、その指の先を見た。池の桜が、小さくピンク色に見えた。
「それは、桜の下じゃない」
「桜の、見えるとこ」
「条件の一は、桜の下」
「条件って、なん」
ミコは、少しだけ迷った。
「七つ、ある」とミコは言った。「いま、九つになった」
ゆかりは目を丸くした。それから、ミコのほうへ顔を近づけた。
「ミコのは、どこやったと」
「ロープの内側だった」
ゆかりは声を出して笑った。笑いながら、お腹を押さえた。笑ったせいなのか、お腹がすいているせいなのか、わからなかった。
「行くだけ、行ってみよ」とゆかりは言った。「銀杏。においだけでも」
銀杏の木の下は、たしかに日なたで、平らで、風がなかった。
焼きそばのにおいもした。
キッチンカーの前には、列ができていた。列は銀杏の木の下をまっすぐ通って、散歩道のほうまで伸びていた。
ゆかりは、列のいちばんうしろの人と目が合った。その人は、ゆかりが並ぶのかと思ったらしく、少しだけ前につめた。
「あ、すみません、並んどらんです」とゆかりは言った。
二人は、列のはしをよけて立った。
「通路やったね」とゆかりが言った。
本部で、シンパイが〈六、通る人のじゃまにならない〉に×をつけた。
ハラヘッタが、焼きそばのにおいのほうへ、ゆっくり首を伸ばしていた。
「ハラヘッタ」とシンパイが言った。
「においは、無料です」とハラヘッタは言った。
十一時五十分。
ミコとゆかりは、北口のほうへ黙って歩いていた。ほかに行くところを、二人とも思いつかなかった。
ぐう、と音がした。
ゆかりのお腹だった。
ゆかりは何も言わなかった。ミコも何も言わなかった。少しして、今度はミコのお腹が、きゅう、と鳴った。
本部では、ハラヘッタが小さなベルを鳴らしていた。どこから出してきたのかは、誰にもわからなかった。
「十一時五十分です」とハラヘッタは言った。「十二時まで、十分です」
キオクがリモコンを押した。モニターに、低い枝の桜が映った。十時四十一分。十一時七分。十一時三十二分。同じ木の前をカートを引いて通りすぎるミコが、三回並んで映った。
「二人で来るのは、これから四回目です」とキオクは言った。

枝の低い桜が、前に見えてきた。
ゆかりが、ミコの横顔を見た。
「ミコ」
「うん」
「あの木」
「……うん」
ミコは、カートを引いて、散歩道から芝生へ入った。
木の根もとの少し手前で、カートががくんと止まった。
芝生の下から、木の根が一本、低く盛りあがっていた。片方の車輪が、それに乗り上げかけていた。
ミコは、カートを引いた。車輪は動かなかった。もう少し強く引いた。
カートが、ぐらりと横に傾いた。
ゴムひもが一本、ぱちんとはずれた。丸めたレジャーシートが芝生に転がった。それから、木の台が、残ったゴムひもの下からするりと抜けて、すべり落ちた。
ことん。
台は、芝生の上に、四本の脚で立った。
ちょうど、あの低い枝の下だった。
ミコは、台を見た。台は、ふつうに立っていた。少しだけ傾いた芝生の上で、一本の脚がほんの少し浮いて、それから、がたん、と一回鳴って止まった。
ミコは、その上に座った。
考えるより先に、膝が曲がっていた。
座ると、目の前が変わった。
さっきまで髪に触れていた低い枝が、いまは頭の少し上にあった。下から見上げると、花がひとつひとつ、ぜんぶこっちを向いて咲いていた。花のあいだから空が見えた。青い空の中で、白っぽいピンクが、風で少しずつ揺れていた。
ぶつからなかった。座っているからだった。
「……あ」とミコは言った。
ゆかりが、カートを起こしながらミコを見た。
「それ、座るもんやったと」
「机です」
「いま、椅子やん」
ゆかりは、カートをミコの横に止めた。それから、自分も芝生の上に、どすんと座った。座って、上を見た。
「うわ」とゆかりは言った。「近っ」
二人は、しばらく上を見ていた。
本部で、シンパイが条件を上から順に見ていった。
「一、桜の下。丸。二、平ら」シンパイは、少し傾いた芝生を見た。「……三角。三、日なた。半分、丸。四、風。丸。五、トイレ。三角。六、通路から三メートル。丸。七、ほかの人の場所ではない。丸。九、ロープの外。丸」
「八は」とハラヘッタが言った。
キオクが、リモコンの時計を見た。
「十一時五十八分です」
「二分前です」とダイジョブが言った。「間に合いました」
「まだ、食べていません」とシンパイが言った。
パイプ椅子で、ネムイがフードを少しだけ持ち上げた。
「座ったら」とネムイは言った。「上が、見えますね」
それから、またフードを下ろした。
シンパイは、ホワイトボードのいちばん上の〈場所の条件〉の横に、小さく書き足した。
〈座ってから〉
第四章 五つ目のおにぎり
レジャーシートを敷くのに、十二分かかった。
広げたとたん、風がシートの片側を持ち上げた。ゆかりが押さえると、反対側が浮いた。ミコが押さえると、また最初の側が浮いた。
「重し、重し」
四すみに、ゆかりのリュックと、ミコのトートと、たたんだキャリーカートと、水筒を置いた。水筒は軽くて転がりそうだったので、ゆかりが脱いだスニーカーを一足、横に並べた。ミコも靴を脱いで、シートの端にそろえた。
ゆかりが、芝生に立っていた木の台を持ち上げた。持ち上げたまま、少しのあいだ、台の裏を見ていた。それから、シートのまんなかに置いて、天板をぽんぽんとたたいた。
「机に戻った」
「最初から、机」
「さっき、ミコが座っとった」
「さっきは、椅子だった」
保存容器のふたを開けたのは、十二時十分だった。
本部で、シンパイが〈八〉の横に〈十分おくれ〉と書いた。ハラヘッタは、それを見ていなかった。
ゆかりのおにぎりは、アルミホイルに包まれて五つあった。どれもソフトボールくらいの大きさだった。一つずつにマスキングテープが貼ってあって、マジックで中身が書いてあった。
〈うめ〉〈しゃけ〉〈こんぶ〉〈めんたい〉
五つ目のテープには、〈?〉とだけ書いてあった。
ゆかりはリュックの保冷バッグから、五つを取り出した。
「四つは、二つずつ」とゆかりは言った。「〈?〉は、ゲームで勝った人の」
「ゲームの前から、賞品があるの」
「賞品があったほうが、本気になるやろ」
ミコは〈しゃけ〉と〈こんぶ〉を取った。ゆかりは〈うめ〉と〈めんたい〉を取った。〈?〉は、ゆかりの保冷バッグの中へ戻された。
ミコの保存容器は、台の上に並べた。天板が三十センチ四方なので、容器二つでいっぱいになった。紙コップは、シートの上に置いた。
からあげは十個で、五つずつ。卵焼きは八切れで、四つずつ。ミニトマトは六個で、三つずつ。ブロッコリーは、数えなかった。
「からあげ、ばりうまい」とゆかりは言った。一つ目を食べ終わる前に、もう二つ目を見ていた。「なんこれ。にんにく?」
「しょうが」
「しょうがか。うまい」
ミコは、〈しゃけ〉のおにぎりを両手で持った。重かった。かじると、ご飯が厚くて、なかなか鮭にたどりつかなかった。三口目で、やっと鮭が出てきた。
本部では、ハラヘッタが目をつぶって、ゆっくりうなずいていた。
風が吹いた。
上の枝から、花びらが三枚、くるくると落ちてきた。一枚はミコの膝に。一枚はシートの上に。最後の一枚が、保存容器の中の、卵焼きの上にのった。
ミコとゆかりは、その卵焼きを見た。
「それ、ミコの」とゆかりが言った。
「ゆかりの側にある」
「ミコの容器やん」
「容器は、わたしの。卵焼きは、四つずつ」
「じゃあ、それ、わたしの四つ目」
ゆかりは、花びらののった卵焼きに、スマートフォンを近づけて一枚撮った。
「ミコも撮って」
ミコも、一枚撮った。
それから、ゆかりは箸の先で、花びらだけをそっとつまんだ。少し考えて、台の天板のすみ、〈ゆうた〉の字の上に置いた。
「ここに、置いとこ」
花びらをのけた卵焼きを、ゆかりはひと口で食べた。
「味は、卵焼き」
「卵焼きだから」
十二時五十分、ゆかりがリュックから箱を出した。
平たい箱で、角が一つつぶれていた。表には、三色の団子をさした串の絵が描いてあった。題は『おだんご、三本』だった。
透明なフィルムが、まだかかったままだった。
「おさがり市から、開けてなかったの」
「ミコと開けようと思って」ゆかりは、フィルムに爪を立てた。「一人で開けて説明書読んだら、わたしだけ先にうまくなるやろ。それで勝っても、おもしろくない」
ミコは、少しだけ笑った。
フィルムをはがして、箱を開けた。団子の絵のカードが三十枚と、串の絵の細長いカードが三枚と、たたんだ説明書が入っていた。団子カードは、桃色が十枚、白が十枚、緑が十枚だった。串カードには切込みが三つずつあり、団子カードの角を差し込んで留められるようになっていた。
ゆかりが説明書を開いて、読みあげた。
「『串のカードを三本、まんなかに並べます。団子は、上から桃、白、緑の順にしかさせません』」
「順番があるの」
「『手札は四枚。自分の番には、どれかの串に次の色を一枚さすか、ささずに手札を一枚捨てて、一枚引きます。さしたときも、一枚引きます』」ゆかりはそこで顔を上げた。「『緑をさして三色そろえた人が、その串をもらえます』」
「もらえる」
「『もらった団子は捨て札に、串はまんなかに戻します。先に三本もらった人の勝ち』」
ミコは保存容器を片づけて、串のカードを三枚、台の天板に並べた。ちょうど三本ぶん並んだ。団子カードの山は、ゆかりの膝の横に置いて、風で飛ばないように上に水筒をのせた。
手札を四枚ずつ配った。ミコの手は、桃が二枚、白が一枚、緑が一枚だった。
「先攻、じゃんけん」
ゆかりが勝った。
一本目は、すぐに決まった。
ゆかりが桃をさし、ミコが白を重ね、ゆかりが緑を置いた。
「一本!」
ゆかりは串のカードを持ち上げてみせてから、団子を捨て札にして、串を台に戻した。
二本目も、ほとんど同じだった。ミコが桃をさし、ゆかりが白を重ね、ミコが緑を置いた。
「一対一」とミコは言った。
三本目の途中で、ミコの手が止まった。
まんなかの串に、桃が一つささっていた。ミコの手は、白が二枚と、桃が一枚と、緑が一枚。
白をさせば、次はゆかりの番だ。ゆかりが緑を持っていたら、その串はゆかりのものになる。
本部で、シンパイがホワイトボードに串の絵を描いていた。桃、白、そして空いたところに〈ゆかり?〉。
「白は」とシンパイは言った。「相手に、緑をあげることになります」
「白を、ささなければいいです」とキオクが言った。
ミコは、白をささなかった。いちばん左の空いている串に、桃をさした。
ゆかりが、ミコの顔を見た。それから自分の手札を見て、もう一度ミコの顔を見た。
「……ミコ、いま、わざと白をよけたやろ」
「よけてない」
「よけた。顔が、よけとった」
ゆかりも、白をささなかった。残りの空いた串に、桃をさした。
三本の串に、桃が一つずつささった。
そこから、二人とも白を出さなくなった。
桃はもう三本ともささっているので、させるのは白だけだ。白をささないなら、一枚捨てて一枚引くしかない。
「ささずに、捨てます」とミコは言って、白を一枚、捨て札に置いた。緑は手もとに残した。
「わたしも、ささん」とゆかりも言って、何かを一枚捨てて、一枚引いた。引いたカードを見て、顔をしかめた。
捨て札が、少しずつ高くなっていった。
本部では、ダイジョブが「ささない作戦は、ずっと続きます」と言い、シンパイが「山がなくなったら、どうなるんですか」と言い、キオクが説明書のページを再生しようとして、まだ読んでいないところは再生できなかった。
ミコが実物の説明書をめくった。
「捨て札を混ぜて、山に戻す。串にささっている分は、そのまま」
山がなくなるたび、二人は捨て札だけを切り直した。白を出さない作戦は、それでも終わらなかった。
そのとき、風が吹いた。
さっきより強い風だった。台の上の串のカードが一枚、桃の団子をのせたまま、ふわりと浮いた。
「あっ」
ミコは手を伸ばした。ゆかりも手を伸ばした。二人の手のあいだを、カードはくるくると抜けて、シートの外へ飛んでいった。

カードは芝生の上を二回はねて転がり、四メートルくらい先の、別のシートの端で止まった。
赤ちゃんを抱いたお母さんと、四歳くらいの女の子がいるシートだった。
ミコは、靴をはいた。トートとリュックと水筒がちゃんとシートを押さえているのを確かめてから、そのシートのほうへ歩いた。
女の子は、もう立っていた。カードを両手で持って、こっちを見ていた。
「すみません」とミコは言った。「それ、うちのカードです」
女の子は、カードをじっと見た。それから、ミコを見た。
「おだんご」
「はい。おだんごです」
女の子は、カードをミコに差し出した。桃の団子が、串のいちばん上にのっていた。
「ももいろの」と女の子は言った。「つぎは、しろ」
ミコは、受け取ったまま止まった。
「……はい。つぎは、しろです」
お母さんが赤ちゃんを抱いたまま、すみません、と笑った。ミコも、すみません、と言って頭を下げた。
シートに戻ると、ゆかりが聞いた。
「なんて言われたと」
「つぎは、しろ」
ゆかりは、ふきだした。
「四歳に、作戦ばれとる」
ミコは捨てるたびに白を捨てて、緑を残した。手札は、緑が二枚と、白が二枚になった。
ゆかりは、引くたびに顔をしかめていた。手札を何度も並べかえていた。並べかえても、同じだった。
「もう知らん」
ゆかりは、白を一枚、まんなかの串に、ぱちんとさした。
「白!」
声が大きかった。四メートル先の女の子が、こっちを見た。
ミコは、緑をさした。
「二本目」
「わかっとった!」とゆかりは言った。「わかっとったけど、引いても引いても白しか来んっちゃもん!」
ゆかりが白をさしたことで、手がほどけた。そこからは、また白がさされ、緑がさされた。
一本はゆかりがもらって、二対二になった。
最後の一本は、ミコがもらった。ゆかりが白をさした串に、ミコの緑がちょうど一枚残っていた。
三対二。
ゆかりは、両手をシートについて、上を見た。低い枝の花が、ゆかりの顔の上で揺れていた。
「もう一回」
「〈?〉は」とミコが言った。
「〈?〉は、一回目の賞品」ゆかりは、もう団子カードを集めていた。「二回目は、名誉」
三十枚を集め直して切った二回目は、ゆかりが三対〇で勝った。
ゆかりは、緑を一枚、必ず手もとに残した。ほかの三枚で捨てては引いて、ミコが白をさすのを待った。ミコが根負けして白をさすと、ゆかりは、ずっと持っていた緑をすぐにさした。
「名誉」とゆかりは言った。両手を上げていた。
「名誉」とミコも言った。くやしかった。くやしいのは、ちゃんとくやしかった。
本部では、シンパイが〈一勝一敗〉と書きかけて、キオクに「点は、三対五です」と言われていた。
ゆかりは、保冷バッグから〈?〉のおにぎりを取り出し、ミコの前に置いた。
「どうぞ」
ミコは、アルミホイルをはがした。いちばん大きなおにぎりだった。両手でやっと持てた。食べる前に、きれいな箸で半分に分け、片方は新しいラップで包んで保冷バッグへ戻した。
かじると、梅が出てきた。もう一口かじると、鮭が出てきた。その横から、こんぶと明太子が出てきた。
「……ぜんぶ、入ってる」
「勝った人用やけん」とゆかりは言った。
ミコは、手に取った半分を食べ終えて、箸を置いた。〈しゃけ〉と〈こんぶ〉と、からあげ五つと、卵焼き四つが、もうお腹の中にあった。
「半分、食べる?」
「いかん」ゆかりは首をふった。「賞品やろ。ミコの」
「じゃあ、持って帰る」
「それなら、よか」
ミコは、保冷バッグに戻してあった残り半分のラップを確かめ、元のアルミホイルをその外にかぶせた。保冷剤を添えたまま、トートへしまった。〈?〉のマスキングテープは、はがさずにそのままにした。
第五章 十一時五十八分から
二時を過ぎると、日なたが動いた。
台の手前のはしが、桜の幹の影に入りかけていた。台の上には、まとめた団子カードの束がのっていた。〈ゆうた〉の字の上には、花びらがまだ一枚あった。
ミコは、台を二十センチ、日なたのほうへずらした。
「日なた用」とゆかりが言った。
「見たの」
「シート敷くとき、持ち上げたら、裏に貼ってあった」
ゆかりは、台の脚の先を指でつついた。
「ミコ、家でもこれ、ずらしよると?」
「日なたが、動くから」
「台を動かすと」
「台を動かす」
ゆかりは、うなずいた。それから、自分も二十センチ、日なたのほうへお尻をずらした。
二時二十分、自動販売機のほうから、年配の男の人が歩いてきた。
腕に、〈さくら会〉と書いた手作りの腕章をつけていた。池の青いシートの会の人らしかった。お茶のペットボトルを四本、腕に抱えていた。
男の人は、ミコたちの前で足を止めて、上を見上げた。
「よか場所やね」と男の人は言った。「枝が低うて、花が近か。朝から取っとったと?」
ミコは、少しだけ迷った。
「十一時五十八分からです」とミコは言った。
男の人は、まばたきをした。
「えらい細かいね」
「その前に」とゆかりが言った。「二人で、四回、この前を通りました」
男の人は声を出して笑った。ペットボトルが一本、腕から落ちかけて、あわてて押さえた。
「うちは、朝の七時から石置いとった」と男の人は言った。「いまは二十人で座っとるけど、わしの座るとこは、ないと」
「ないんですか」
「端っこ。シートの外の、芝生」男の人は、また上を見上げた。「こっちのほうが、よかったかもしれん」
男の人はペットボトルを抱えなおして、池のほうへ戻っていった。少し行ってから、もう一回だけ振り返って、低い枝を見上げた。
ゆかりが、ミコを見た。
「十一時五十八分、て」
「座ったとき、時計を見てたから」
「座ったときに?」
「座ったときに」
ゆかりは、それ以上は聞かなかった。かわりに、少し笑った。
二時四十分、片づけを始めた。
レジャーシートの花びらを払って、たたんだ。保存容器を重ねて、トートに入れた。団子カードを数えて、三十枚と三枚あるのを確かめてから、つぶれた箱に戻した。箱は、ゆかりのリュックに入った。
キャリーカートを広げて、木の台をのせた。
台を持ち上げる前に、ミコは天板のすみを見た。花びらは、〈ゆうた〉の字の、〈う〉のくぼみに引っかかっていた。ミコは、そのままにした。
今度は、ゴムひもを二本、台の上でばってんになるようにかけた。かけてから、台を両手で揺らしてみた。動かなかった。
「来るとき、それ、どうかけとったと?」
「二回。同じ向きに」
「ばってんにせんと」
「ばってんにした」
北口の車止めのところで、ゆかりは立ち止まった。
「次は」とゆかりは言った。「着いたら、すぐ座る」
「どこに」
「どこでも。座ってから、よかったか考える」
「よくなかったら」
「よくなかったら、四回目で戻ってくる」
ゆかりは、軽くなったリュックを背負いなおして、駅のほうへ歩いていった。途中で一回振り返って、片手を上げた。
本部で、ダイジョブが手をふり返していた。
302号室に着いたのは、三時十五分だった。
ミコはキャリーカートを玄関に置いて、ゴムひもをほどいた。木の台を抱えて、窓ぎわに持っていった。
床には、まだ日なたが残っていた。
ミコは、そこに台を置いた。脚が、ラグの上で一回だけ、がたん、と鳴った。
台を少しだけ傾けて、裏を見た。〈日なた用〉の付箋は、まだ貼ってあった。端のめくれが、朝より少し大きくなっていた。ミコは、指でそれを押さえなおした。
台を戻して、天板のすみを見た。
花びらは、まだ〈う〉のくぼみにはさまっていた。
ミコは、それを取らなかった。
トートから、アルミホイルの包みを出した。〈?〉のマスキングテープが貼ってある、半分のおにぎりだった。いったん台の上の、花びらのないほうのすみに置いて、手を洗った。それからすぐ、冷蔵庫へしまった。
夜に温め直して食べよう、と思った。
本部で、シンパイが〈場所の条件〉を上から順に消していった。一から九まで、全部消した。それから、いちばん上に残した〈座ってから〉の字の下に、小さく書き足した。
〈十一時五十八分〉
キオクが、「記録しておきます」と言った。
ハラヘッタは、冷蔵庫のほうを見ていた。
ネムイは、パイプ椅子で眠っていた。
ミコは、台の前に座った。
座ると、窓の向こうの空が見えた。


