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コメディ・日常

インターホンまで、三歩半

隣の部屋まで、三歩半。いちばん遠い三歩半だった。

読了目安
18分
長さ
短編
#前向き#くすっと笑える#ご近所
インターホンまで、三歩半のイメージ

あらすじ

四月の土曜の朝、突然の宅配便に慌てたミコは、隣の部屋宛ての荷物を受け取ってしまう。中身は「なまもの・掘りたてのたけのこ」。お隣の中園さんとは、会釈しかしたことがない。インターホンまで、たった三歩半。頭の中の五人が、今日も全員会議を開く。

第一章 ピンポンは突然に

四月の土曜日、朝の九時十二分。
ミコはパジャマの上にパーカーを羽織って、トーストが焼けるのを待っていた。

ピンポーン。

インターホンが鳴った。
ミコの体は、トースターより先に跳ね上がった。

何も頼んでいない。
頼んでいないはずだ。
頼んだかもしれない。先週の夜中に、何かを。

モニターには、帽子をかぶった若い男の人が映っていた。段ボールを抱えている。

「お荷物でーす。サインお願いしまーす」

声が明るくて、速かった。
ミコは考えるより先に玄関へ走り、ドアを開け、差し出されたペンを受け取り、伝票の端に「齋藤」と書いた。

「ありがとうございまーす」

ドライバーさんは段ボールをミコの腕に載せると、もう階段のほうへ駆けていた。

ドアが閉まった。
段ボールは、思ったよりずっと重かった。

(なんだろう、これ)

玄関に下ろして、伝票を見た。

〈お届け先 三〇三号室 中園様〉

ミコは三回読んだ。
ミコの部屋は、三〇二号室だった。

その下に、赤いシールが貼ってあった。

〈なまもの〉

品名の欄には、角ばった手書きの字で、こうあった。

〈たけのこ(掘りたて)〉

送り主は、鹿児島県の中園さんだった。

トースターが、チン、と鳴った。

ミコは裸足のまま玄関を飛び出しかけて、サンダルをつっかけ、廊下の手すりから下をのぞいた。
マンションの前の道を、配送のトラックが、ちょうど角を曲がっていくところだった。

「あ」

声は、トラックに届かなかった。
ミコは手すりを握ったまま、パジャマのズボンの裾が風に揺れるのを感じた。
向かいのマンションのベランダで、洗濯物を干していた人と、目が合った気がした。

ミコは静かに部屋に戻った。

「緊急招集ッ!」

頭の中の本部に、サイレンのような声が響いた。
少し暗い部屋に、パイプ椅子が五脚。正面にホワイトボード。

シンパイがマーカーを握って立っていた。

「誤配です! 他人の荷物を受け取りました! しかもサインをしました! 自分の名字で!」

「名字は合ってるからいいじゃないですか」とダイジョブが言った。

「よくないです! 合ってるのはこっちの名字で、荷物は向こうのです!」

キオクが眼鏡を押し上げて、リモコンを胸に抱え直した。

「三〇三号室についての記録を確認します」

カチ、とリモコンが鳴った。
本部のモニターに、断片的な映像が流れた。

駐輪場の端に停まっている、緑色の古い自転車。前かごが少し曲がっている。
日曜日の朝八時になると、壁の向こうから聞こえてくる掃除機の音。
ドアの横の、手書きの表札。「中園」。
廊下ですれ違ったときの、小さな会釈。白髪まじりの短い髪。

「以上です」とキオクが言った。

「以上?」

「三年間で、以上です。会話の記録はありません」

本部が静かになった。

「たけのこって、掘りたてなんですよね」

ハラヘッタが、身を乗り出していた。

「掘りたてのたけのこは、時間との勝負なんです。掘ってから時間がたつほど、えぐみが出てくるんですよ。今日中に茹でないと」

「今それは——」とシンパイが言いかけて、止まった。

「……今日中?」

「今日中です」

シンパイがホワイトボードに書いた。

〈制限時間:今日〉

赤いマーカーで、二重に囲んだ。

端のパイプ椅子では、ネムイが濃紺のフードを目深にかぶって、すでに寝息を立てていた。

外の世界では、ミコが玄関に座りこんで、段ボールを見つめていた。
トーストは、少し冷めた。

九時四十分。

コツ、コツ、と廊下に足音がした。
足音は、ミコの部屋の前で止まった。

ミコは息を止めた。

インターホンは鳴らなかった。
しばらくして、足音はまた遠ざかっていった。

「……勧誘?」

ミコは小さくつぶやいた。
本部では、シンパイが〈不審な足音・一回目〉と書いていた。

第二章 ホワイトボードの選択肢

「では、選択肢を整理します」

シンパイがホワイトボードを新しい面にひっくり返した。

〈A 三〇三号室のインターホンを押して、直接渡す〉
〈B 手紙を書いて三〇三号室のポストに入れ、取りに来てもらう〉
〈C 配送会社に電話する〉
〈D 三〇三号室のドアの前に置いておく〉

「Eもあります」とハラヘッタが手を挙げた。

「何ですか」

「茹でてから届ける」

「却下です」

「えぐみが出る前に処理しておくのは、親切だと思うんですけど」

「勝手に他人のたけのこを茹でたら、それはもう事件です」

シンパイはEを書かなかった。ハラヘッタは、しばらく小さな声で「親切なのに……」と言っていた。

「まずDから」とシンパイが続けた。「ドアの前に置いておく。一見、最も接触が少ない。しかし」

マーカーが走った。

〈置いておく→中園さん気づかない→夕方まで廊下に放置→たけのこ劣化→誰かに持っていかれる→防犯カメラ確認→最後に触ったのは三〇二号室〉

「最後の一行が飛躍してませんか」とダイジョブが言った。

「サインをしたのは誰ですか」

「……ミコです」

「却下」

Dに赤い線が引かれた。

「じゃあAでいいじゃないですか」とダイジョブが言った。「ピンポンして、間違って届いてました、どうぞ。五秒で終わりますよ」

いつもなら、ダイジョブはここで胸を張るところだった。
でも今日は、言い終わってから、少し目をそらした。

「……ダイジョブさん?」とキオクが言った。

「いや、あの」

ダイジョブは、黄色い袖の中で指をもぞもぞさせた。

「お店の人なら、押せるんですよ。お店の人は、ミコが何か変なこと言っても、仕事だから流してくれるじゃないですか。でも、ご近所って……」

「ご近所って?」

「だめだったとき、逃げ場がないんですよ。明日も廊下で会うんです。来年も会うんです。ゴミ出しの日にも会うんです」

本部が、静かになった。
楽観担当が、楽観していなかった。

シンパイが、ゆっくりとマーカーにふたをした。

ミコの頭の中の会議室で、ホワイトボードを囲む小人5人。黄色い服のダイジョブはためらい、濃紺のフードのネムイは眠っている。

「では、Bです」

「手紙」

「そう。手紙ならインターホンを押さなくていい。『お荷物が間違って届いています。三〇二号室までお越しください』と書いて、ポストに入れる。そして——」

シンパイの手が、止まった。

「そして?」

「……そして、待つ」

「待つ?」

「中園さんが、こっちのインターホンを押すのを、待つ」

シンパイの顔色が、すうっと白くなった。

「いつ鳴るかわからないインターホンを、待つ。一時間後かもしれない。夕方かもしれない。トイレに入っているときかもしれない。パジャマのときかもしれない」

「今まさにパジャマですけど」とハラヘッタが言った。

「待つのが、いちばん怖い」とシンパイは言った。「Bは却下です。わたしの心臓が持ちません」

ホワイトボードに残ったのは、AとCだけになった。

十時十五分。

コツ、コツ。

また、廊下に足音がした。
足音は、また、ミコの部屋の前で止まった。

ミコは段ボールの横で正座したまま、動けなかった。

インターホンは、やっぱり鳴らなかった。
少しして、足音は遠ざかっていった。

〈不審な足音・二回目〉とシンパイが書いた。

「二回目ですよ! これは計画的です! 下見です!」

そのとき、端のパイプ椅子から、くぐもった声がした。

「……帰っていく足音、ゆっくりだったね」

全員が振り向いた。

ネムイが、フードの奥で半分だけ目を開けていた。

「来るときより、帰るときのほうが、ゆっくりだった」

それだけ言うと、ネムイはまたフードの中に沈んでいった。

本部の誰も、その意味をすぐにはつかめなかった。
シンパイだけが、〈帰りのほうが遅い〉と小さく書き足した。理由の欄は、空いたままだった。

十時半。
ミコは、Aを選んだ。

正確には、選んだというより、段ボールを見るたびに「掘りたて」の文字が目に入って、居ても立ってもいられなくなったのだった。

パジャマを着替えた。
黒いワイドパンツに、白いTシャツ。
それから、いつもの青緑の上着を羽織った。玄関で、グレーのスニーカーに足を入れた。

隣の部屋まで行くだけなのに、上着を着た。
着ないと、外に出られない気がした。上着のポケットには、紺色のお守りが入っている。

段ボールは置いたまま、まずは手ぶらで行くことにした。
「荷物が届いています」と言って、それから取りに戻る。そのほうが、間違っていたときに傷が浅い気がした。何が間違うのかは、自分でもよくわからなかった。

ドアを開けて、廊下に出た。
三〇二号室と隣の部屋の玄関は、廊下のくぼみに並んでいる。
ミコは隣のドアの前に立った。

手書きの表札。「中園」。
ドアの横に、小さな植木鉢があった。紫色の花が咲いていた。

ミコは指を、インターホンへ伸ばした。

そのとき、ドアの向こうから、音が聞こえた。

カーン、という乾いた音と、わあっという歓声。
ラジオだった。野球の中継だった。

(いる)

当たり前だった。
いるから、届けに来たのだ。

でも、「いる」とわかった瞬間、ミコの指は、ボタンの手前で止まった。
いるということは、出てくるということだ。
出てくるということは、顔を見て、話すということだ。

ミコは、くるりと向きを変えた。

廊下を戻って、自分の部屋に入り、ドアを閉めた。
閉めたドアに、背中をつけた。

ラジオの中で、誰かがヒットを打ったらしかった。

第三章 電話のほうが、まだまし

本部では、反省会が開かれていた。

「撤退理由は」とシンパイが聞いた。

「……中に人がいたから」とダイジョブが答えた。

「人がいる部屋に届けに行って、人がいたから撤退」

「はい」

「前代未聞です」

シンパイはそう言ったが、責める声ではなかった。ホワイトボードのAの横に、小さく〈保留〉と書いただけだった。

キオクが、静かに立ち上がった。

「ひとつ、再生してもいいですか」

「失敗の映像なら、今日はやめてください」とダイジョブが言った。

「いえ」

キオクは、リモコンの奥の小さなボタンを押した。
押したことのないボタンだった。

「最近、新しいファイルを作ったんです。題名は『最近』です」

モニターが明るくなった。

木の扉を二十センチだけ開けたとき、カウンターの向こうで店員さんが言った「いらっしゃいませ」。
美容室の鏡の前で、「肩につくくらいで、軽くしてほしいんですけど」と言えた午後。
白い待合室で、呼び間違えられた名前を、小さな声で訂正したこと。
居酒屋に、十三名に増えたと電話した一分。
十二分の保留音のあとの、「大丈夫ですよ、ゆっくりで」。

本部の全員が、モニターを見ていた。

「どれも」とキオクが言った。「思っていたより、あっさりでした」

ダイジョブが、鼻をすすった。
ハラヘッタが、「あのカフェ、結局ケーキは頼まなかったんですよね」と言った。誰も聞いていなかった。

しばらくして、シンパイが口を開いた。

「キオク。ありがとうございます。でも」

シンパイはモニターを指さした。

「これは全部、お店の人です。病院の人です。電話の向こうの人です。全員、それが仕事でした。仕事だから、ミコがつっかえても待ってくれた」

キオクは、黙ってうなずいた。

「中園さんは、仕事じゃありません」

それが、今日いちばんの問題だった。
本部の全員が、そのことをわかっていた。

シンパイはホワイトボードに向き直り、Cに丸をつけた。

「よって、Cです。配送会社に電話をします」

「電話!?」とダイジョブが叫んだ。「シンパイさんが、電話を推すんですか!?」

「推します。電話の相手は、仕事の人です。しかも」

シンパイはマーカーで、Cの横に書き足した。

〈やったことがある〉

「……電話のほうが、まだましです」

ダイジョブは、しばらく口を開けたままだった。
少し前のシンパイなら、電話という文字を見ただけでホワイトボードを裏返していた。

ミコは、ローテーブルにメモ用紙とペンを置いた。
伝票の問い合わせ番号を、先に書き写した。それから、「三〇三」「三〇二」「なまもの」と書いた。

通話ボタンを押した。

自動音声が流れた。ご用件に応じて番号を、と早口の声が言った。
ミコはペンの先を紙に当てたまま、耳を澄ませた。

「配達に関するお問い合わせは、2番」

押した。一回で押せた。
本部で、小さな拍手が起きた。

保留音が流れた。今回は、二分で終わった。

「お電話ありがとうございます」

「あ、あの、今朝、荷物を受け取ったんですけど、隣の部屋の宛名で……」

声は少しつっかえた。でも、メモを見ながら、問い合わせ番号を読み上げることができた。

オペレーターの女性は、落ち着いた声で言った。

「大変申し訳ございません。担当のドライバーが、本日、回収に伺います。ただ、ほかの配達の都合で、夕方の六時以降になってしまうのですが」

「六時」

本部で、ハラヘッタが立ち上がった。

「六時!? 九時間ですよ! 掘りたてから、少なくとも九時間!」

「それから」とオペレーターは続けた。「もしお隣の方とお知り合いでしたら、直接お渡しいただいても、もちろん大丈夫です。その場合は、こちらにご一報いただければ」

お知り合いでは、なかった。
会釈の知り合いだった。

「……あの、少しだけ、考えてもいいですか。回収のお願いは、またお電話します」

「かしこまりました。お手数をおかけします」

電話を切った。
十時四十七分だった。

ミコは段ボールを見た。
〈たけのこ(掘りたて)〉の字が、さっきより大きく見えた。

第四章 三歩半

十一時を少し過ぎて、ミコは段ボールを抱えて廊下に出た。

重かった。
腕の中で、たけのこが、ごとりと転がる音がした。

自分の玄関から、隣の玄関のインターホンまで、ミコの足で三歩半だった。
今まで一度も数えたことがなかった。

本部では、全員がモニターの前に立っていた。

「距離、二歩」とキオクが言った。

「ラジオ、まだ鳴ってますね」とハラヘッタが言った。

シンパイはホワイトボードの前で、マーカーを持ったまま、何も書いていなかった。

「……ねえ」

ダイジョブが、小さな声で言った。

「さっきの、ネムイの」

「帰っていく足音が、ゆっくりだった、ですか」

「あれ、たぶん」

ダイジョブは、モニターに映る三〇三号室のドアを見た。

「ミコが、さっきここから帰ってきたときも、ゆっくりだったと思うんです」

本部が、静かになった。

シンパイが、ホワイトボードの〈帰りのほうが遅い〉の横の、空いたままの理由の欄を見た。

それから、マーカーを置いた。

「……押すのは、ミコです」とダイジョブが言った。「決めるのも、ミコです」

ダイジョブは、それ以上は何も言わず、自分のパイプ椅子に座った。
珍しく、背中を押さなかった。そのかわり、椅子の上で、モニターから一度も目を離さなかった。

ミコは段ボールを片腕に寄せて、上着のポケットに右手を入れた。
お守りに、一回だけ触った。

それから、その手を出して、インターホンを押した。

ピンポーン。

鳴り終わるより早く、ドアが開いた。

あまりに早くて、ミコは一歩下がった。

ドアの向こうに、中園さんが立っていた。
白髪まじりの短い髪。グレーのカーディガン。片足だけ、サンダルをつっかけていた。もう片方は、まだ靴下のままだった。

「あの」

「あの」

二人の声が、ぴったり重なった。

中園さんは、ミコの腕の中の段ボールを見た。
それから、ミコの顔を見た。

「……あ、それ」

「は、はい。あの、今朝、間違ってうちに届いてて。わたし、宛名見ないで、サインしちゃって。すみません」

ミコは段ボールを差し出した。
中園さんは、両手で受け取った。重さに、少しよろけた。

「いや、いや。こっちこそ」

中園さんは段ボールを玄関の床に下ろして、頭をかいた。

「姉から、毎年送ってくるとですよ。スマホで見たら、配達完了て出とるのに、どこにもなくて。ひょっとしたら、お隣さんかなと思って」

「……あ」

「それで、二回、お宅の前まで行ったとですけど」

中園さんは、困ったように笑った。

「若い人の部屋に、朝から年寄りがピンポンするのもね。なんか、悪い気がして。押そうとしては、帰って。ラジオつけっぱなしで、行ったり来たりしとったとです。今、三回目に行こうと思うて、サンダル履きよったら、鳴ったけん」

ミコは、片方だけのサンダルを見た。

九時四十分の足音。
十時十五分の足音。
帰っていくときの、ゆっくりした足音。

「わたしも」とミコは言った。声が、少し笑っていた。「さっき、一回来て、押せなくて、帰ったんです。ラジオが聞こえて」

中園さんは、目を丸くした。
それから、声を出して笑った。

「なんね。そしたら、お互いさまやったとね」

本部では、シンパイがホワイトボードの空いた欄に、ゆっくり書いていた。

〈理由:向こうも、押せなかった〉

ハラヘッタが、小さく拍手をした。
キオクが、新しいファイルの題名を考えるような顔で、リモコンを見つめていた。
ネムイは、寝ていた。でも、フードの奥で、口元が少しだけ笑っているように見えた。

「これ、一人じゃ食べきらんとですよ」

中園さんは段ボールを開けて、新聞紙にくるまれたたけのこを三本取り出した。土がついていて、先のほうが少し黄色かった。

「よかったら。迷惑かけたお詫び」

「えっ、いえ、迷惑かけたのは、わたしのほうで」

「受け取ってくれんと、また私がお宅の前を行ったり来たりすることになるけん」

ミコは、思わず笑ってしまった。笑ったあとで、少し慌てた。
中園さんも笑っていたので、大丈夫だった。

たけのこを受け取ってから、ミコは気づいた。

「あの……これ、どうやって茹でるんですか」

言ってから、聞いてしまった、と思った。
でも、もう言っていた。

中園さんは、ちょっと待っとってください、と言って奥へ入っていった。
戻ってきたときには、片手に米ぬかの小さな袋を、もう片方の手に、大きなアルミの鍋を提げていた。

「皮ごと、先を斜めに切って、切れ目入れて。米ぬかと一緒に、一時間くらい。火を止めたら、そのまま冷めるまで置いとく。鍋、ないでしょう。若い人の家に、この大きさのは」

ありません、とミコは言った。
本当に、なかった。

鍋を受け取ってから、中園さんが、少し言いにくそうに付け足した。

「それと、日曜の朝の掃除機。うるさくなかですか。壁、薄いけん」

ミコは首を横に振った。

「いえ。あの、八時になったんだなって、わかるので」

言ってから、時計がわりにしていると白状したようなものだと気づいた。
中園さんは一瞬きょとんとして、それから、また笑った。

「そしたら、遅れんごとせんといかんね」

午後一時。
ミコの部屋の小さな台所で、借りた大鍋が、ことことと鳴っていた。

春の光が入る小さな台所で、白いTシャツ姿のミコが、たけのこを茹でる大きなアルミ鍋の湯気をのぞきこんでいる。

窓を少し開けた。
米ぬかの、ほんのり甘いような匂いが、湯気と一緒に外へ流れていった。

ミコはコンロの前に立って、ふと思い出し、スマホを手に取った。
配送会社に電話をかけて、無事に本人に渡せたので回収は大丈夫です、と伝えた。
自動音声の「2番」は、もう押す前から覚えていた。電話は一分で終わった。

本部では、シンパイがホワイトボードを新しい面にひっくり返していた。

〈次回議題:鍋をどう返すか〉

「返しに行くには」とシンパイは言った。「インターホンを、押す必要があります」

「また?」とハラヘッタが言った。

「また、です。しかも今度は、お礼を言う必要があります。茹で上がりの感想を求められる可能性があります。手ぶらで返していいのかという問題もあります」

マーカーが、止まらなくなりかけた。

「なんとかなりますって」

ダイジョブが言った。
今日は、ちゃんと胸を張っていた。

「今度は、鍋があるじゃないですか。話すことが、もう一個あるんですよ」

シンパイは、マーカーを持ったまま、少し考えた。
それから、却下とは書かずに、〈話すこと:一個あり〉とだけ書いた。

鍋の中で、たけのこが、ごとりと転がった。

ミコは菜箸を持ったまま、壁のほうを見た。
壁の向こうから、かすかにラジオの音が聞こえた。誰かが、またヒットを打ったらしかった。

明日、鍋を返しに行く。
三歩半、歩いて。

そのとき、インターホンをすぐに押せるかどうかは、まだわからない。
たぶん、一回くらいは、ドアの前で立ち止まる。

ミコは鍋のふたを少しずらして、湯気の向こうをのぞきこんだ。
米ぬかの泡の間で、たけのこが、ゆっくりと色を変えはじめていた。