← 本棚へ戻る
コメディ・日常

目的地まで、あと二つ

道は知っている。足が知っている。口が知らない。

読了目安
16分
長さ
短編
#前向き#くすっと笑える#道案内
目的地まで、あと二つのイメージ

あらすじ

梅雨の晴れ間の土曜日、駅前で熊本から来た姉妹に道を聞かれたミコ。行き先の小さな資料室は、毎週前を通る道にある。知っているはずなのに、説明しようとすると「いつも曲がるところ」に名前がない。地図は南が上。目印のたい焼き屋は、シャッターが下りていた。

第一章 ここから、どう行きますか

六月の終わりの土曜日。
梅雨の晴れ間で、駅前のロータリーのアスファルトが、まだ少し濡れていた。

ミコは西口の階段を下りたところで、トートバッグの持ち手を肩にかけ直した。
今日は特に用事がない。用事がない土曜日の午前中ほど、気が楽なものはない。

「すみません」

声は、ベンチのほうからした。

振り向くと、年配の女の人が二人、並んで座っていた。
一人は白い日傘をたたんで膝に置き、もう一人は四つ折りの紙を手に持っていた。顔立ちがよく似ている。たぶん姉妹だ、とミコは思った。

「この辺の方ですか」

紙を持ったほうの人が言った。
さっきまで、二人はイヤホンをした若い男の人に声をかけようとして、気づかれずに見送ったところだった。ミコはそれを、階段の上から見ていた。

ミコの体が、固まった。

「応答要請ッ!」

頭の中の本部で、シンパイが立ち上がった。

「知らない人から、話しかけられました! こちらからではありません! 向こうからです!」

「道を聞かれるやつですね」とダイジョブが言った。「たぶん」

「たぶんでは困ります! 勧誘かもしれません! アンケートかもしれません! 壺かもしれません!」

「壺を持ってるようには見えませんけど」

ハラヘッタがモニターをのぞきこんで言った。

「日傘と、紙と、それから……あ、お菓子の箱が鞄から見えてます。おまんじゅうですね、たぶん」

「は、はい」

ミコは答えていた。
この辺の方かと聞かれれば、この辺の方ではあった。

「よかった」

紙を持った人が、ほっとしたように笑った。
それから、四つ折りの紙を開いて、ミコに見せた。

雑誌の切り抜きだった。
写真の横に、手描きの小さな地図がついている。四角い駅と、何本かの線と、星印。

〈ボタンの小さな資料室〉

星印の横に、そう書いてあった。

「妹がね、ボタンを集めとるもんで。熊本から来たとですけど、駅を出たら、もう、どっちがどっちか」

日傘を持ったほうの人が、照れくさそうに頭を下げた。
妹さんらしかった。

ミコは切り抜きを見た。
星印の位置を見た。写真の、古いビルの外壁を見た。

(知ってる)

知っていた。
アーケードを抜けた先の、細い道の、古いビル。毎週のように前を通っている。二階の窓に、ボタンの形の小さな貼り紙が出ているのを見たことがある。

入ったことは、ない。
でも、場所は知っている。

「あ、わかります。ここ、あの、すぐです」

「まあ、よかった」

二人の顔が、ぱっと明るくなった。
ミコの胸も、少し明るくなった。知っていることを聞かれて、知っていると答えられた。それは、悪くない気分だった。

「えっと、まず、あのアーケードに入って」

ミコはロータリーの向こうを指さした。

「それで、二つ目の角を、右に曲がって」

「二つ目を、右」

「はい。それで、そのあと、細い道に出るので、そこを……」

そこで、言葉が止まった。

そこを、どうするのか。
左に曲がる。それは知っている。足は知っている。毎週、そこで左に曲がっている。

でも、どこで。

「キオクさん!」とシンパイが叫んだ。「経路の記録を!」

「再生します」

キオクがリモコンを押した。
モニターに、映像が流れはじめた。

灰色のアスファルト。
白い線。
グレーのスニーカーのつま先。右、左、右、左。
マンホールのふた。
また、アスファルト。

「……地面しか映ってませんね」とダイジョブが言った。

「ミコは、歩くとき下を見ています」とキオクが静かに言った。「記録は、目の高さで残るので」

「角は!? 角の建物は!?」

「映っていません。つま先が、左を向くところはあります」

モニターの中で、グレーのスニーカーが、くるりと左を向いた。
それだけだった。

頭の中の本部で、小人5人が、歩く足もとだけを映すモニターを見つめている。

「これでは説明になりません!」

シンパイがホワイトボードに飛びついた。
マーカーが走った。

〈説明文(案)〉
〈アーケード入口から約八十七歩で一つ目の角。薬局。さらに約六十歩で二つ目の角。右折。アーケードを出て約四十歩。左折地点は——〉

マーカーが、止まった。

「左折地点の名称が、ありません」

本部が、静かになった。

そのとき、ハラヘッタが、そっと手を挙げた。

「あの……パンの匂いがするところ、ですよね」

「パンの匂いがする角を、左です」

ミコは、言ってしまっていた。

姉妹が、顔を見合わせた。

「……パンの、匂い」

お姉さんのほうが、ゆっくり繰り返した。
切り抜きの地図に、パンの匂いは描いていなかった。

第二章 あと二つ

駅前のロータリーを、バスが一台、ゆっくり回っていった。

お姉さんは切り抜きをくるりと回した。
もう一度、くるりと回した。地図の上と、目の前の景色の上が、どうしても揃わないらしかった。

「この地図、上が南になっとるとよ」と、お姉さんは言った。「雑誌の人の、くせやろうね」

「南……」

ミコは、自分の住んでいる町の南がどっちなのか、考えたことがなかった。

「ミコ」

本部で、ダイジョブが言った。

「途中まで、一緒に行けばいいんじゃないですか」

シンパイが振り向いた。

「一緒に、ですか。知らない人と、歩くんですか。何を話すんですか。沈黙が続いたら。歩く速さが合わなかったら。途中でミコまで迷ったら——」

「ミコは迷いませんよ。足が覚えてるんだから」

「足は覚えていても、口は覚えていません!」

「だから、口じゃなくて、足で案内するんですよ」

ダイジョブは、珍しく理屈の通ったことを言った。
本部の何人かが、少し驚いた顔をした。

「あの」

ミコは言った。

「途中まで、一緒に行きます。わたしも、そっちのほうに……」

そっちのほうに用事は、なかった。
でも、それは言わなかった。

「よかとですか」と妹さんが言った。「せっかくの土曜日に」

「はい。あの、すぐなので」

三人で歩きだした。

アーケードの入口をくぐると、屋根の下の空気が、少しひんやりした。
土曜日の午前中で、人通りはまだ少ない。八百屋さんがトマトの箱を並べていた。

妹さんの歩く速さは、ミコより少しゆっくりだった。
ミコは、自分の足を半歩ぶん短くした。普段どれだけ早足で歩いていたのかを、初めて知った。

「あなたは、この辺にお住まいで?」とお姉さんが聞いた。

「は、はい。駅の、向こう側に」

それだけ言うと、会話が途切れた。

(何か話したほうがいいのかな)

本部では、シンパイが〈沈黙 経過時間〉とホワイトボードの隅に書き、ストップウォッチを押していた。

でも、姉妹は沈黙を気にしていないようだった。
お姉さんは切り抜きを見ながら歩き、妹さんは店先のガラスをのぞきながら歩いていた。三人で並んで黙って歩くのは、思っていたほど怖くなかった。

シンパイは、ストップウォッチをそっと止めた。

しばらくして、妹さんが、ぽつりと言った。

「ボタンってね、子どものころ、母の裁縫箱にお菓子の缶があって、そこに入っとったと。取れたボタンを、母がみんな捨てずに入れとって。雨の日は、それを色ごとに分けて遊んだとよ」

「色ごとに」

「赤は赤、白は白。貝のボタンは光るけん、別にして。姉ちゃんはすぐ飽きて、寝とった」

「寝とらん」とお姉さんが言った。「数えよった」

妹さんが笑った。お姉さんも、少し笑った。
六十年以上も前の雨の日のことを、二人はつい昨日のことみたいに言い合っていた。

「あなたは、何か集めとると?」

妹さんに聞かれて、ミコは少し考えた。

「……レシートが、たまってます」

「集めとると?」

「集めてるわけじゃなくて、財布の中で、たまってるだけで」

姉妹が、声を出して笑った。
ミコも、つられて笑った。笑ってから、自分が知らない人と笑っていることに気づいて、少し驚いた。

一つ目の角に、薬局があった。

「ここが、一つ目です」とミコは言った。

「一つ目」とお姉さんが切り抜きに指を当てた。

「あと二つです。次の角を右に曲がって、その先の、パンの……匂いの角を左です」

「あと二つ」

妹さんが、小さく繰り返した。目的地まで、あと二つ。数にしてみると、なんだか近く聞こえた。

ミコは、二つ目の角の目印を探した。
たい焼き屋だ。アーケードの中ほど、赤いのれんと、甘い匂いのたい焼き屋。そこを右に曲がると、アーケードの外に出る。

赤いのれんが、なかった。

歩いても、歩いても、なかった。
気がつくと、アーケードの出口の光が、ずいぶん近くに見えていた。

(あれ)

ミコの足が、止まった。

「目印、喪失!」

シンパイが叫んだ。

「たい焼き屋が! 消えました!」

「消えるわけないでしょう」とダイジョブが言った。

キオクがリモコンを押した。モニターに、さっき通り過ぎた景色が巻き戻った。
灰色のシャッター。その上に、色あせたたい焼きの絵。

「……土曜日は、定休日だったようです」とキオクが言った。

「定休日!」

ハラヘッタが、頭を抱えた。

「わたしが覚えていたのは、のれんと匂いなんです。シャッターのたい焼きは、記録にありません。お店が開いている時間にしか、通ったことがなかったので……」

「行きすぎとらん?」

お姉さんが、切り抜きをくるりと回しながら言った。
それから、アーケードの屋根の切れ目から、空を見上げた。

「お日さまが、こっちやけん。この地図で南が上なら、星はこっちの、左手の奥になるはずやもん」

ミコは、お姉さんの指の先を見た。
それから、振り返った。

二十歩ほど後ろに、灰色のシャッターがあった。
シャッターの上に、色あせたたい焼きの絵。

「……すみません、行きすぎました」

ミコは、顔が熱くなるのを感じた。

「よかよか」と妹さんが笑った。「わたしたちだけやったら、まだ駅におったけん」

三人で、二十歩戻った。
シャッターの前で、ミコは右を向いた。たい焼きの絵が、上から見下ろしていた。

「ここが、二つ目です」

「あと一つ」とお姉さんが言った。

第三章 匂いの角

アーケードを出ると、日差しが急に強くなった。

細い道だった。
片側に古い家が並び、もう片側には小さな駐車場と、閉まった印刷所と、何をしているのかわからない事務所が続いている。

ここから少し歩いたところで、左に曲がる。
足は、それを知っている。

ミコは、ゆっくり歩いた。
今度は、下を見なかった。顔を上げて、角を探した。

顔を上げて歩くと、知らない道みたいだった。

電柱に、町名の小さな札がついていた。
二階の窓に、鉢植えが並んでいた。
古い家の塀の上を、猫が一匹、のんびり歩いていた。

毎週通っているのに、どれも見たことがなかった。

「パン屋さんは、どのあたりやろか」と妹さんが聞いた。

「あの、それが」

ミコは、正直に言うことにした。

「看板を、ちゃんと見たことがなくて。いつも、匂いで曲がってて」

姉妹は、また顔を見合わせた。
それから、お姉さんが、ふふっと笑った。

「匂いで道を覚えとる人、初めて会うた」

「すみません……」

「いや、よかよ。わたしは地図で、あんたは匂い。妹は」

「わたしは鼻がよかとよ」と妹さんが言った。

本部では、ハラヘッタが立ち上がっていた。

「来ます」

「何がですか」とシンパイが聞いた。

「匂いです。風向きが変わりました。あと少しで、来ます」

ハラヘッタは目を閉じて、鼻をひくひくさせていた。
本部の全員が、つられて鼻をひくひくさせた。

ネムイだけが、濃紺のフードの中で、ぼそりと言った。

「……あのパン屋、名前、なんだっけ」

誰も答えられなかった。
キオクが記録を探したが、看板の映像は一枚もなかった。

「あ」

先に気づいたのは、妹さんだった。

「パンの匂い」

ミコも、一拍遅れて気づいた。
バターと、焼けた小麦の匂い。毎週、ここで足が左を向く匂い。

左手に、小さな店があった。
ガラス戸の向こうに、木の棚とパンの籠が見えた。看板は、戸の上に、手のひらほどの大きさで出ていた。これでは見えないはずだ、とミコは思った。見ようとしなかったのも、本当だったけれど。

「ここです。ここを、左です」

「ほんとに匂いの角やった」とお姉さんが感心したように言った。

「ここのパン、よう買うと?」と妹さんが聞いた。

「いえ」とミコは言った。「一回も、入ったことないです」

「毎週、前を通るとに?」

「毎週、匂いだけ」

妹さんは、なんだか気の毒そうな顔をした。ハラヘッタが本部で、深くうなずいていた。

三人で左に曲がった。

少し行くと、青い自動販売機が三台、並んでいた。

本部で、シンパイがホワイトボードを見た。
〈説明文(案)〉の、まだ誰にも読まれていない続きを。

〈左折後、青い自販機三台。左から二台目が売り切れがち〉

左から二台目の自動販売機は、ボタンの半分に赤い「売切」のランプが点いていた。

「……当たりました」とシンパイが言った。

ダイジョブが、小さく拍手した。
シンパイは、少しだけ胸を張った。役に立ったのは、その一行だけだったけれど。

第四章 入口まで

自動販売機の先に、古い四階建てのビルがあった。

外壁の色は、雑誌の写真と同じだった。
二階の窓に、ボタンの形をした丸い貼り紙が出ている。ミコが毎週、なんとなく見上げていた貼り紙だ。

「ここです」

ミコは言った。

「まあ」と妹さんが、両手を胸の前で合わせた。

それから、三人とも、黙った。

ビルの正面には、シャッターの閉まった一階の店があるだけだった。
入口らしいものが、どこにもなかった。

「入口が、ありません」とシンパイが言った。

「入口のないビルはありませんよ」とダイジョブが言った。

「では、どこにあるんですか」

「……どこでしょうね」

キオクがリモコンを押した。
映ったのは、やっぱりアスファルトと、グレーのスニーカーと、見上げたときの二階の貼り紙だけだった。

「ミコは、このビルに入ったことがありません」とキオクが言った。「記録は、ここで終わっています」

本部が、静かになった。

場所を知っている、とミコは言った。
知っていたのは、前を通る道と、二階の窓の貼り紙だけだった。

「すみません。わたしも、入ったことがなくて」

ミコは正直に言った。

「入口、探してみます」

「三人で探そう」とお姉さんが言った。

三人で、ビルの横の細い通路に入った。
エアコンの室外機が並んでいて、妹さんが日傘をたたんで通った。

ビルの裏手に回ると、鉄の外階段があった。
階段の手すりに、小さな木の板がくくりつけてあった。手書きの字で、丸いボタンの絵が描いてある。その下に、矢印が一本、上を向いていた。

「あった」

三人の声が、ほとんど同時に出た。

古いビルの裏の鉄階段の下で、ミコと年配の姉妹が、小さな木の案内板を見上げている。

お姉さんが切り抜きを、きれいに四つ折りに戻した。
もう回さなくてよかった。

「ほんとに、ありがとうございました」

お姉さんが頭を下げた。妹さんも頭を下げた。
ミコも、慌てて頭を下げた。三人で頭を下げ合ったので、少しのあいだ、誰の顔も見えなかった。

「途中で、行きすぎてしまって、すみません」

「なんの。あれがなかったら、お日さまの話もせんかったもん」

妹さんが、鞄の中を探った。
出てきたのは、包み紙にくるまれた、小さな飴だった。

「はい、お礼。ボタンみたいな色やろ」

黄色い、まるい飴だった。
包み紙を透かして、光が通っていた。

「ありがとうございます」

二人は手すりにつかまって、鉄の階段をゆっくり上っていった。
妹さんが一段ずつ、お姉さんがその後ろから。踊り場で一度振り返って、手を振った。

ミコも、手を振った。

二人の姿が二階の踊り場の向こうに消えても、ミコはしばらく階段の下に立っていた。
もし、今日が休みだったら。もし、扉が閉まっていたら。熊本から来た二人が、鉄の階段をまたゆっくり下りてくることになる。

上のほうで、扉の開く音がした。
それから、妹さんの声が聞こえた。

「開いとった! いっぱいある!」

誰に言ったのかは、わからなかった。たぶん、お姉さんにだ。でも、階段の下まで、ちゃんと届いた。

ミコは、ようやく階段から離れた。

名前は、聞かなかった。
二人も、ミコの名前を聞かなかった。それで、ちょうどよかった気がした。

本部では、シンパイがホワイトボードの〈説明文(案)〉を眺めていた。

「八十七歩と六十歩と四十歩は、一度も使いませんでした」

「でも、自販機は当たりましたよ」とダイジョブが言った。

「一行だけです」

シンパイは、そう言いながら、その一行を消さなかった。

「ハラヘッタさんの『匂いの角』のほうが、役に立ちましたね」とキオクが言った。

ハラヘッタは、誇らしそうに胸を張った。

「食べ物は、裏切りませんから」

「たい焼き屋は、定休日でしたけど」

「……それは、たい焼き屋の都合です」

帰り道、ミコは来た道を戻った。

青い自動販売機を三台、通り過ぎた。
そして、パン屋の前で、立ち止まった。

今度は、下を見なかった。
戸の上の、手のひらほどの看板を見上げた。

〈小麦と月〉

ミコは、心の中で一回、読んだ。

明日から、ここは「パンの匂いの角」ではなくなる。
「小麦と月の角」になる。たぶん、それでも匂いで曲がるのだろうけれど。

ガラス戸の向こうで、店の人がパンの籠を並べ替えていた。
クロワッサンが、きれいに焼けていた。

「入りましょう」とハラヘッタが言った。「今です。クロワッサンです」

「今日は、もう一回分、知らない人と話しました」とシンパイが言った。「本日の会話容量は、残りわずかです」

「パン屋さんは、知らない人ですけど、パンの人ですよ」

「知らない人です」

本部の議論は、なかなか終わらなかった。

ミコは、ガラス戸の取っ手に手を伸ばしかけて、やめた。
今日は、やめておいた。

かわりに、トートバッグのポケットから、黄色い飴を取り出した。
包み紙をほどいて、口に入れた。

レモンの味がした。

顔を上げたまま、ミコは駅のほうへ歩きだした。
目に入ってくる町の看板を、一つずつ、読みながら。