第一章 十二ページの手順書
七月の半ばの火曜日、終業の十分前に、課長がミコの席の横で立ち止まった。
「齋藤さん、明日の午後、半日だけでいいんだけど。瀬戸さんに、備品の発注、見せてあげてくれる?」
「は、はい」
答えたのは、ミコの口だった。
頭のほうは、まだ「見せてあげて」の「見せて」のところで止まっていた。
瀬戸さんは、七月の頭に中途で入ってきた人だった。
二十四歳。前の職場は飲食店で、ホールをしていたと、朝礼の自己紹介で言っていた。背が高くて、声が小さくて、話しかけるといつも、少し腰をかがめて聞いてくれる。
毎週水曜日の備品の発注は、二年ほど前からミコの担当だった。
部署のみんなが共有シートに書いた「ほしいもの」を水曜の正午で締めて、会社で使っている通販サイトで注文する。届いたら箱を開けて数を確かめて、台帳につける。
毎週やっていることだった。
毎週やっていることを、人に見せたことは、一度もなかった。
その夜、ミコはローテーブルにノートパソコンを開いた。
「手順書を作ります」
本部で、シンパイが宣言した。
ホワイトボードには、すでに目次が書かれていた。
〈一、共有シートについて〉
〈二、締め切りについて〉
〈三、通販サイトへのログインについて〉
〈四、カートについて〉
〈五、よくある質問と回答(想定)〉
「よくある質問、ですか」とダイジョブが言った。「まだ誰にも聞かれてないのに」
「聞かれる前に答えを用意するのが、準備です」
シンパイは、想定質問を書きはじめた。
〈Q:締め切り後に書かれた希望はどうなりますか〉〈Q:品切れの場合は〉〈Q:色の指定がない場合は〉〈Q:箱が潰れて届いた場合は〉。
想定は、二十を超えた。
「教えるのなんて、簡単ですよ」とダイジョブが言った。「毎週やってるんだから。いつもどおりやって見せればいいんです」
「いつもどおりを、言葉にしたことがありますか」とシンパイが言った。
ダイジョブは、少し考えた。
「……ないですね」
画面の写真を貼りつけ、矢印を描き、注意書きを足していくと、手順書は十二ページになった。
日付が変わる少し前に、ミコはそれを印刷して、クリップで留めた。
十二ページは、思ったより厚かった。
水曜日の午前中、ミコはコピー機の前で、瀬戸さんを見かけた。
瀬戸さんは、紙詰まりのランプが点いたコピー機の前に、じっと立っていた。
隣の島の人が、ちょうど電話をしていた。瀬戸さんは、その人の電話が終わるまで、両手を体の横につけたまま、二分くらい待っていた。電話が終わると、「すみません、これ」と小さな声で聞いて、教わったとおりに側面のふたを開けた。
ミコは、自分の席からそれを見ていた。
(電話、終わるまで待ってた)
そのときは、それだけ思った。
水曜日の午後一時。
ミコの席の横に、空いていた椅子を一つ持ってきた。
瀬戸さんがやってきて、「よろしくお願いします」と頭を下げた。手には、手のひらくらいの小さなノートと、ボールペンが一本。
ミコは、十二ページの手順書を差し出した。
瀬戸さんは、それを両手で受け取った。
受け取って、厚さを確かめるように、少しだけ持ち上げた。何も言わなかった。
「えっと、では、一ページ目から」
ミコは読み上げはじめた。
「毎週水曜日の正午に、共有シートを締めます。共有シートは、部署の共有フォルダの、この……」
瀬戸さんはうなずいた。
ノートに、小さな字で何か書いた。
「締めたら、まず、全部の行を上から見ます」
瀬戸さんは、うなずいた。
「品名と、数と、書いた人の名前が、入っているかどうか」
うなずいた。
ミコは、二ページ目をめくった。
瀬戸さんも、二ページ目をめくった。
質問は、一つも来なかった。
「想定質問、一番を待機中です」
本部でシンパイが言った。
ホワイトボードの前で、二十を超える回答を胸に抱えて、じっと立っていた。
「来ませんね」とキオクが言った。
「まだ二ページ目です」
三ページ目になっても、来なかった。
「……わかってるんでしょうか」とダイジョブが言った。
「わかっていないのかもしれません」とシンパイが言った。「わかっていない人は、何がわからないかもわからないので、質問できません。つまり、説明が悪い可能性があります。つまり、ミコの説明が悪い」
「そこまで言わなくても」
「最悪の事態を考えるのが、わたしの仕事です」
第二章 飛ばした一工程
四ページ目は、通販サイトの画面の説明だった。
「では、実際にやってみますね。今日の分は、もう締めてあるので」
ミコは自分のパソコンで、会社用のアカウントにログインした。
瀬戸さんは、椅子を少し寄せて、画面をのぞきこんだ。
共有シートの一行目から、順番に、カートに入れていく。
付箋、黄色、十冊。
クリアファイル、二十枚入り、三袋。
単三の電池、八本。
黒ボールペン、五本。
「ボールペンは、ここの、いつものやつを……」
ミコは、慣れた手つきで、いつものボールペンの0.7ミリを選んだ。
いつもの、だったので、何も考えなかった。
画面が、くるくると回りはじめた。
会社のパソコンは、カートに入れるたびに少し考える。
読み込みを待つあいだ、二人とも黙った。
くるくる。
(何か、話したほうがいいのかな)
くるくる。
「……あの、前のお店は、ホールだったんですよね」
ミコは、画面を見たまま言った。
「はい。ホールでした」
「大変、でしたか」
瀬戸さんは、少し考えた。
「注文を覚えるのは、得意でした。あと、お客さんの手元を見るのは。お水が減ってるとか、箸を落としたとか」
「手元」
「はい。口で言われる前に、だいたい手に出るので」
それきり、また会話が途切れた。
本部では、ハラヘッタが、のんびり言っていた。
「休憩室の自販機、新しいのが入りましたよね。冷たいおしるこ、ありました」
「冷たいおしるこ」とキオクが言った。
「夏限定です」
「今それは——」とシンパイが言いかけて、やめた。読み込み中で、ほかに話すことがなかったのだ。
画面が切り替わった。
「あ、入りました。それで、全部入れたら……」
ミコは、カートの画面をいちばん下までスクロールした。
「注文を確定する」という、オレンジ色のボタンがあった。
左手が、机の上のスマホに伸びた。画面をつけて、何かを開いて、また伏せた。自分では、気づいていなかった。
「ここで、発注です」
指を、ボタンの上にかざした。
今日は練習なので、押さない。
「本番では、ここを押すと、注文が確定して、確認のメールが来ます」
瀬戸さんは、うなずいた。
ノートに何か書いた。それから、ほんの一瞬だけ、ミコの手元を見た。
ミコは、それに気づかなかった。
いつもなら、このボタンの前で、自分が何をしているのかも、気づいていなかった。
「わかりましたか」
ミコは聞いた。
瀬戸さんは、うなずいた。
「えっと、念のため、もう一回やりますね」
ミコは、カートの画面をもう一度最初から説明した。
瀬戸さんは、もう一度うなずいた。
(わかってるのか、わかってないのか、わからない)
本部の端では、ネムイが、濃紺のフードの中で、手順書の五ページ目あたりから静かに寝息を立てていた。
「ネムイさん、寝てます」とキオクが言った。
「……手順書が、長いということでしょうか」とシンパイが小さな声で言った。
誰も、否定しなかった。
第三章 余白の「?」
二時半に、十五分の休憩をとった。
ミコは給湯室で、紙コップに水を入れた。
戻ってくると、瀬戸さんは椅子に座ったまま、小さなノートを開いて、じっと見ていた。
「あの、何か、質問とか、ありますか」
ミコは聞いた。
十二ページ分の説明のあいだ、一度も聞かれなかったので、自分から聞くしかなかった。
瀬戸さんは、少し迷うような顔をした。
それから、ノートをミコのほうへ向けた。
小さな字の、きれいなメモが並んでいた。
「水曜正午で締め」「全行を確認(品名・数・名前)」「通販サイト 会社アカウント」。
その余白に、小さな「?」が、三つ書いてあった。

「すみません。忙しそうな方の手を、途中で止めたくなくて」
瀬戸さんは、少し腰をかがめた。
「前の店で、ホールにいたとき、料理を運んでる人に話しかけると、ぶつかるので。区切りで、まとめて聞こうと思ってました」
ミコは、ノートの「?」を見た。
一つ目の「?」の横には、こう書いてあった。
〈正午すぎに書かれた希望は?〉
「あ、それは、翌週に回します。シートの下のほうに、翌週分の欄があって」
答えられた。シンパイの想定質問の一番だった。
本部で、シンパイが小さくガッツポーズをした。二十を超える準備の中で、使えたのは一つだったけれど。
二つ目の「?」の横には、こう書いてあった。
〈発注ボタンの前、齋藤さんがスマホで何か見ている(毎回?)〉
ミコは、その一行を三回読んだ。
(スマホ)
見ていた。
今日も見ていた。毎週、見ている。
発注ボタンを押す前に、課長にチャットで「今週分、発注します」と一言送る。
課長から「了解」と返ってきてから、押す。
二年前、この仕事を引き継いだときに先輩から教わって、それから毎週、何も考えずにやっていた。何も考えずにやっていたので、十二ページのどこにも書いていなかった。
さっきの練習でも、ミコは、ボタンの前で無意識にスマホを手に取って、チャットの画面を開いて、送らずにしまっていた。
瀬戸さんは、説明を聞きながら、ミコの手元も見ていた。十二ページのどこにも書いていない、手の動きまで。
「……それ、手順です」
ミコは言った。声が少し小さくなった。
「書いてませんでした。すみません。発注の前に、課長にチャットで一言送って、了解をもらってから押すんです。毎回」
瀬戸さんは、うなずいた。
今度のうなずきは、さっきまでのと少し違って見えた。ノートの二つ目の「?」の横に、小さく「課長にチャット→了解→発注」と書いた。
三つ目の「?」。
〈「黒ボールペン 五本」→太さの指定がない(0.5?0.7?)〉
ミコの指が、止まった。
「答えは」とダイジョブが言った。「答えは何ですか」
「わかりません」とシンパイが言った。
本部が、静まり返った。
「ミコは毎回、履歴を見て、前回と同じ0.7を選んでいます」とシンパイは言った。「でも、それが正しいかどうか、確かめたことはありません。書いた人に、聞いたことがありません」
ホワイトボードの想定質問の中に、〈Q:太さの指定がない場合は〉という行があった。
シンパイが、前の晩に書いた行だった。回答欄は、〈適宜確認〉。
「適宜、って」とキオクが言った。
「……いつ確認するのか、書いていません」
シンパイの声が、かすれた。
「教える側が、わかりませんと言ったら」とシンパイは続けた。「信用がなくなります。この人に聞いても無駄だと思われます。来週から、瀬戸さんは別の人に聞きにいきます。ミコは、半日で教える係をクビになります」
「教える係って、半日の係ですよ」とダイジョブが言った。
そのとき、キオクが、リモコンを一回だけ押した。
モニターに、映像が映った。
何年か前の、四月。
この会社に入った最初の週。ミコの横に椅子を持ってきて座ったのは、あの先輩だった。
先輩は、ミコの最初の仕事を三分で説明した。
三分で説明して、最後にこう言った。
「わかんないとこは、わたしもわかんないから。一緒に聞こ」
軽い声だった。
入ったばかりの新人に言うには、軽すぎるくらいの声だった。
映像は、そこで終わった。
キオクは、それ以上は再生しなかった。リモコンを、胸に戻した。

シンパイは、しばらくモニターの消えた画面を見ていた。
それから、ホワイトボードの〈適宜確認〉に、細い線を引いた。
その横に、書いた。
〈いま確認〉
「ここは」
ミコは言った。
「ここは、わたしも、いつも迷ってて。毎回、前と同じのを選んでるんですけど、ほんとはどっちがいいのか、聞いたことがなくて」
瀬戸さんが、ミコを見た。
「書いた人に、確認してきます。一緒に、来ますか」
瀬戸さんは、少しだけ驚いたような顔をした。
それから、ノートを閉じて、立ち上がった。
「行きます」
第四章 品番の列
共有シートの「黒ボールペン 五本」の行の、名前の欄には、先輩の名前が入っていた。
先輩の席は、窓際の島の端だった。
電話を終えたところで、受話器を置きながら、二人を見上げた。
「お、どうしたの、二人そろって」
「あの、共有シートの、黒ボールペンなんですけど。太さって、0.5と0.7、どっちが……」
「え、わたし、0.5って書いたっけ?」
「いえ、書いてなくて。太さが」
「あー」
先輩は、椅子ごと少し後ろに反った。
「0.7がいい。いつも0.7来てたよ? あれ、齋藤さんが選んでくれてたの?」
「は、はい。前回と同じのを」
「そっか。合ってた合ってた。ありがと」
軽い、と言うほかない声だった。
ミコは、少し拍子抜けした。拍子抜けしたけれど、それで終わりにはしなかった。
「あの、それで」
ミコは言った。
「共有シートに、品番の列を一つ足してもいいですか。わかる人だけ、書いてもらう感じで。太さとか、色とかで、毎回推測しなくていいように」
先輩は、少し目を丸くした。
「いいじゃん。わたし、品番なんか覚えてないけど、次から履歴見て貼るわ」
それから、瀬戸さんのほうを見た。
「瀬戸くん、いい先生についたね」
瀬戸さんは、少し腰をかがめて、「はい」と言った。
ミコは、先生と言われて、どこを見ればいいのかわからなくなった。
席に戻ると、ミコは共有シートを開いた。
「品名」と「数」の列のあいだに、新しい列を一つ挿入した。
見出しに、「品番(わかれば)」と打ちこんだ。
それから、スマホを手に取った。
今度は、瀬戸さんの前で、ゆっくりやった。
「課長に、チャットで送ります。シートに列を足したことと、今週分を発注することと」
〈共有シートに品番の列を追加しました。今週分の備品、発注します〉
送信した。
二人で、画面を見ていた。
既読がついて、少しして、短い返事が来た。
〈了解。助かる〉
「……これを待ってから、押します」
ミコは、オレンジ色のボタンを押した。
今度は本番だった。確認のメールが、すぐに届いた。
瀬戸さんは、ノートの二つ目の「?」に、一本線を引いた。
三つ目の「?」にも、線を引いた。
五分もしないうちに、共有シートの品番の列に、最初の書きこみがあった。
部署でいちばん声の大きい先輩が、来週分の「ホチキスの針」の横に、品番を貼りつけていた。それから、島の向こうから声が飛んできた。
「齋藤さーん、品番の列、いいねこれ! 前から欲しかった!」
部署の何人かが顔を上げた。
ミコは、椅子の上で小さくなった。瀬戸さんが、ノートで口元を隠して、少し笑っていた。
ミコは、十二ページの手順書を手に取った。
四ページ目と五ページ目のあいだ。
カートの説明と、発注ボタンの説明のあいだ。
ボールペンで、一行書き足した。
〈※発注ボタンの前に、課長へチャットで一言。了解の返事を待つ〉
手書きの字は、印刷の字の間で、少し曲がっていた。
本部で、シンパイがその一行を見ていた。
「十二ページで、いちばん大事なのが、手書きの一行です」
「ネムイさんが寝てたのも、五ページ目ですね」とキオクが言った。
ネムイは、まだ寝ていた。寝たまま、少しだけうなずいたように見えた。
五時を過ぎて、最後に、先週届いた段ボールを二人で開けた。
検品は、手順書の十ページ目からだった。
ミコは手順書を開かず、箱を開けた。
「納品書と、中身を、一個ずつ照らし合わせます。わたしが読むので、瀬戸さん、数えてもらえますか」
「はい」
「付箋、黄色、十冊」
瀬戸さんが、付箋の束を指で数えた。
「十冊です」
「クリアファイル、三袋」
「三袋です」
「単三の電池、八本」
瀬戸さんは、電池のパックを二つ持ち上げて、しばらく見ていた。
「……四本入りが、二パックです」
「はい。それで八本です」
「あ、はい。八本です」
瀬戸さんは、パックを並べ直してから、もう一度数えた。数え方が、手順書のどこにも書いていなかったことに、ミコは気づいた。来週、もう一行、書き足すことになりそうだった。
「黒ボールペン、0.7、五本」
瀬戸さんは、ボールペンの箱を開けて、一本取り出し、軸の小さな刻印を確かめた。
「0.7です。五本」
ミコは、台帳に丸をつけた。
二人で確かめたものに、一つずつ丸をつけた。
終業前、瀬戸さんが、手順書と小さなノートを重ねて持って、ミコの席の横に立った。
「今日、ありがとうございました」
「い、いえ。長くて、すみません。手順書」
「来週の水曜、やってみます」
瀬戸さんは、それから少し考えて、言った。
「?が、たまったら、区切りで聞きます」
ミコは、「たまる前でも、いつでも大丈夫です」と言いかけた。
言いかけて、それが本当かどうか、考えた。電話中や、締め切り前の自分の背中に、いつでも話しかけられたら、たぶん慌てる。
でも、と思った。
午前中、紙詰まりのコピー機の前で、電話が終わるまで二分立っていた瀬戸さんの背中も、思い出した。
「あの、手が止まっちゃうときは」
ミコは言った。
「作業が先に進めないときは、一個でも、すぐ聞いてください。わたしが電話中だったら、横で手を挙げてくれたら、終わってすぐ行きます。止まらないのは、区切りで、まとめてで大丈夫です」
瀬戸さんは、ノートを開いて、余白の線を引いた三つの「?」の下に、何か書き足した。
「わたしも」とミコは続けた。「わからなかったら、一緒に聞きに行くので」
瀬戸さんは、小さく笑って、うなずいた。
今日いちばん、わかった、という顔に見えた。
帰りの電車で、ミコは十二ページの手順書を鞄から出して、手書きの一行を見た。
それから、自分の手帳を開いて、いちばん後ろのページに、小さく「?」を一つ書いた。
来週、自分が先輩に聞くことだった。
共有シートの、「品番(わかれば)」の「わかれば」は、なくてもよかったかどうか。


