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コメディ・日常

試着だけで、帰っていい

「似合ってます」に「ありがとうございます」と言うたび、買う人になっていく。

読了目安
16分
長さ
短編
#前向き#くすっと笑える#買い物
試着だけで、帰っていいのイメージ

あらすじ

会社の冷房よけに、夏の羽織りを探しに来たミコ。小さな服屋の店員・安田さんは、試着するたびに「似合ってます」と言い、色違いまで持ってきてくれる。どれも素敵だった。でも、どれも探しているものとは少し違った。親切にしてもらったあとで、「今日は買いません」と言えるだろうか。

第一章 ポケットのある長袖

七月の終わりの土曜日、午後二時。
駅ビルの一階のドラッグストアで、ミコは日焼け止めを一本、レジに置いた。

「袋はご利用ですか」

「いりません」

「ポイントカードはお持ちですか」

「ないです」

二つ合わせて、一秒半だった。
シールを貼ってもらった日焼け止めを、トートバッグに入れる。それで終わり。

少し前の自分なら、この一秒のために、レジの列に並びながら三回くらい練習していた。
今は、練習しなくても言える。言えることが一つ増えると、それはもう、怖いことのリストから静かに消えていく。

今日の本当の用事は、三階だった。

会社の冷房が、寒い。

七月に入ってから、ミコの席の真上の吹き出し口は、一日じゅう容赦なく冷たい風を送ってきた。
いつもの青緑の上着を会社で羽織ると、ちょうどいい。でも、外では暑すぎる。朝の駅までの道で汗をかき、会社に着いてから上着を着て、帰りにまた脱ぐ。脱いだ上着は、丸めてトートバッグに押しこむ。今日も、トートの中で丸まっている。

それで、夏用の羽織りものを、一枚買おうと思った。

条件は、決めてあった。
薄手で、長袖で、冷房よけにさっと羽織れるもの。色は、紺かグレーか、とにかく派手でないもの。

それから、ポケットがあること。

三階の端に、小さな服屋があった。

白い壁に、木の棚。ハンガーラックに、夏らしい薄い色のシャツが並んでいる。
大きな店より、こういう小さな店のほうが、ミコには入りやすかった。店員さんの数が少ないからだ。

入ってすぐのラックに、白いリネンの長袖シャツがかかっていた。

手に取ると、さらさらしていた。
薄くて、軽くて、袖を通したら涼しそうだった。値札には、3,990円とあった。

前を見た。胸に、ポケットはなかった。
脇を見た。ポケットはなかった。

(ポケット、ない)

でも、生地はとてもよかった。
ミコはシャツを持ったまま、ラックの前で少し迷った。

「よかったら、ご試着どうぞ」

声がして、ミコは振り向いた。

三十代くらいの女の人が、にこにこして立っていた。
髪をざっくりまとめて、自分でもこの店のものらしい、ゆったりした生成りのシャツを着ている。胸の名札には「安田」とあった。

「その白、うちで今いちばん人気なんです。リネンなので、洗っても気持ちいいですよ」

「あ、はい」

ミコは、試着室に入っていた。

本部では、シンパイがホワイトボードの前で腕を組んでいた。

「確認します。条件は、ポケットがあること。このシャツには、ポケットがありません」

「でも、着てみるだけならいいじゃないですか」とダイジョブが言った。「試着は、タダですよ」

「試着はタダです。でも、試着には時間がかかります。店員さんの時間がかかります」

シンパイは、ホワイトボードに書いた。

〈試着=店員さんの時間〉
〈店員さんの時間=親切〉
〈親切を受けた後で買わない=?〉

最後の「?」のところで、マーカーが止まった。
本部の誰も、その「?」を埋められなかった。

試着室で、ミコはTシャツの上からリネンのシャツを羽織った。

軽かった。
腕を上げても、肩がつっぱらなかった。鏡の中の自分は、いつもより少しだけ涼しげに見えた。

いいな、と思った。
でも、手が、自然に胸のあたりを探していた。ポケットのあるはずの場所を。

何もなかった。

カーテンを開けると、安田さんがすぐそこにいた。

「わあ、似合ってます!」

「あ、ありがとうございます」

言ってから、ミコははっとした。
「ありがとうございます」は、なんだか、買う人の返事みたいに聞こえた。

第二章 色違いが、増えていく

「色違いもあるんですよ」

安田さんは、そう言うと、ラックのほうへ歩いていった。
戻ってきたときには、両手に一枚ずつ、シャツを持っていた。

「ミントと、ベージュです。白もいいけど、この二色も、すごくお顔が明るく見えると思って」

ミントは、薄い、水のような緑だった。
ベージュは、紅茶にミルクを入れたような色だった。

どちらも、ポケットはなかった。同じシャツの色違いだから、当たり前だった。

「よかったら」

安田さんは、二枚を差し出した。
ミコは、受け取っていた。

「受け取りました」とキオクが言った。

「受け取りましたね」とダイジョブが言った。

「受け取ったら、着るしかありません」とシンパイが言った。「着ないで返すのは、もっと失礼です」

「そうなんですか」

「わかりません。でも、そんな気がします」

ミントを着た。

鏡の中のミコは、知らない人みたいだった。
悪い意味ではなかった。自分では一度も選んだことのない色が、思っていたより顔に合っていた。

(これを着て、会社に行ったら)

本部のモニターに、勝手に想像の映像が流れた。
朝の給湯室。ミントのシャツのミコ。島の向こうから、部署でいちばん声の大きい先輩の声が飛んでくる。「齋藤さん、ミント! 夏!」。部署の全員が振り向く。

「やめてください」とシンパイが言って、モニターを消した。
誰が流したのかは、わからなかった。キオクは首を横に振った。記録ではなく、想像だった。

カーテンを開けた。

「わ、ミント、いい! すごく似合ってます」

「あ、ありがとうございます」

二回目だった。

ベージュを着た。
落ち着いていて、会社に着ていっても目立たなそうだった。ただ、ミコの通勤用の黒いワイドパンツと合わせると、なんだか全体がぼんやりした。

カーテンを開けた。

「ベージュも、やわらかくていいですね。似合ってます」

「あ、ありがとうございます」

三回目だった。

(今だ。今、言えば)

ミコは口を開きかけた。
その前に、安田さんが一歩近づいた。

「ミントのほう、袖をこうやって二回くらい折ると、もっと軽く見えるんです。あと、黒いパンツとすごく合うので、今日の感じにそのまま羽織っても」

安田さんは、自分のシャツの袖を折って見せてくれた。
手つきが楽しそうだった。服のことを話すのが、本当に好きな人の手つきだった。

試着室の前で、安田さんが自分の袖を折って見せ、ミント色のシャツを着たミコが見ている。

ミコは、開きかけた口を、閉じた。
楽しそうな人の話を途中で切るのは、ドアを閉めるのと同じくらい難しかった。

「三回です」とシンパイが言った。

ホワイトボードに、正の字が一本ずつ書き足されていた。〈ありがとうございます:三〉。

「三回もお礼を言ったら、相手は、この人は買うと思います」

「いや、お礼はお礼ですよ」とダイジョブが言った。「でも、まあ」

ダイジョブは、少し考えてから、明るく言った。

「買っちゃえばいいんじゃないですか。三着とも似合うって言われたんだし。どれか一枚買えば、全部丸く収まりますよ。断らなくて済みます」

「断らなくて済む」とシンパイが繰り返した。

その言葉は、本部の中で、妙に魅力的に響いた。

ハラヘッタが、手を挙げた。

「3,990円は、駅前の定食屋さんの日替わり定食、五回分です」

「それは、高いということですか」とキオクが聞いた。

「定食五回分の価値が、ポケットのないシャツにあるかどうか、です」

ハラヘッタは、いつになく真剣な顔で言った。
誰も、すぐには答えなかった。

キオクが、リモコンを押した。

「一つだけ、記録を出します」

モニターに、映ったのは、短い場面の連なりだった。

青緑の上着の、右のポケット。
その中に、すっと入っていく右手。
指先が、擦れた紺色の布に触れる。お守り。

カフェの扉の前。病院の待合室。隣の部屋のインターホンの前。
どの場面でも、右手は同じポケットに入って、同じお守りに一回だけ触れて、出てきた。

それだけの映像だった。

「ミコが、ポケットにこだわる理由です」とキオクは言った。「お守りの、居場所なので」

本部が、静かになった。

「……白も、ミントも、ベージュも」とシンパイが言った。「着ているあいだ、お守りは、どこに入れるんですか」

誰も答えなかった。
答えは、全員わかっていた。

第三章 浅いポケット

ベージュを脱いで、元のTシャツ姿になってから、ミコはカーテンを少しだけ開けた。

安田さんが、すぐに気づいて寄ってきた。

「どうでした?」

「あの、どれも、すごくよくて」

ミコは言った。
それから、少しだけ、声を小さくした。

「ただ、その……ポケットがあるのが、いいなと思ってて」

言えた、とミコは思った。
条件を一つ、言えた。

安田さんの顔が、ぱっと明るくなった。

「ポケット! ありますよ、ポケット付き」

そう言うと、安田さんは店の奥の棚へ小走りで向かった。
戻ってきたときには、紺色の、薄手のカーディガンを持っていた。

「これ、両脇にポケットがついてるんです。コットンで薄いので、冷房よけにもちょうどいいですよ」

4,990円。
紺色。薄手。長袖。ポケットあり。

条件を、全部満たしていた。

「満たしています」とシンパイが言った。声が、少し震えていた。「全部の条件を、満たしています」

「よかったじゃないですか!」とダイジョブが叫んだ。「これです! これを買えば、断らなくていいし、ポケットもあるし!」

キオクだけが、黙ってモニターを見ていた。

試着室で、ミコは紺のカーディガンを羽織った。

軽かった。色も、落ち着いていた。
両脇に、ちゃんとポケットがあった。

ミコは、トートバッグの中で丸まっている青緑の上着のポケットから、お守りを取り出した。

紺色の布。擦れて少し白っぽくなった縁。「家内安全」の、かすれた文字。

カーディガンの右ポケットに、入れた。

(入った)

それから、何の気なしに、床に落ちていた値札の紐を拾おうと、かがんだ。

すっ、と。
お守りが、ポケットから滑り出て、試着室の床に落ちた。

試着室で薄手の紺色カーディガンを着たミコがかがみ、床に落ちた小さな紺色のお守りを拾っている。

ミコは、お守りを拾った。
もう一度、ポケットに入れた。今度は、奥まで押しこんだ。

かがんだ。

すっ。

床に落ちた。

ポケットは、ついていた。ただ、浅かった。指の第二関節くらいまでしかなかった。
三回目に入れて、そっとかがんでみた。お守りは、少し迷うように縁に引っかかってから、やっぱり落ちた。

「すみません、試着室って、空きますか?」

カーテンの外で、知らない女の人の声がした。

「あ、今使ってらっしゃるので、少しお待ちくださいね」と安田さんの声。

ミコは、壁の時計を探した。試着室に時計はなかった。でも、入ってから、たぶん二十分は過ぎていた。

(待たせてる。安田さんも、あの人も)

急がなければ、と思った。急いで、何か決めなければ。
急いで決めるなら、いちばん簡単なのは、カーディガンを買うことだった。

本部では、全員が、床に落ちたお守りを見ていた。

「……三回、落ちました」とキオクが言った。

ダイジョブが、何か言おうとして、やめた。

シンパイが、ホワイトボードの前に立った。
マーカーのふたを、外した。

「最悪の事態を、書きます」

「いつもの、ですね」とダイジョブが言った。

「いつものとは、違います」

シンパイのマーカーが走った。
いつもの、断ったあとに店員さんがどう思うか、ではなかった。

〈何も言わずに、このカーディガンを買った場合〉
〈→会社で羽織る→お守りを入れる→コピー機の紙を拾う→落ちる〉
〈→お守りを上着に戻す→上着は家→お守りは毎日、トートの底〉
〈→4,990円で、お守りの居場所がなくなる〉

シンパイは、書き終えてから、マーカーを下ろした。

「これが、今日の最悪です」

本部が、静かになった。

「断ったら、店員さんに悪い」とシンパイは言った。「でも、断らなかったら、ミコに悪い。それなら」

シンパイは、ホワイトボードを新しい面にひっくり返した。
そして、一行だけ書いた。

〈ポケットのあるのを探してて。今日は、やめておきます〉

「理由が一つ。結論が一つ。それだけです」

「短いですね」とキオクが言った。

「短いほうが、途中で『やっぱり買います』に変わる隙がありません」

「シンパイさんらしい理由ですね」とダイジョブが言った。

シンパイは、少しだけ口の端を上げた。

第四章 四着の戻し方

試着室の中で、ミコは四着をたたんだ。

白、ミント、ベージュ、紺のカーディガン。
「そのままで大丈夫ですよ」と言われるのはわかっていた。でも、たたまずに返す勇気は、断る勇気とは別に必要だった。そこまでの勇気は、今日はなかった。

白をたたんで、ハンガーにかけた。
ミントをたたみかけて、ハンガーにかけるものだと思い出し、広げ直してかけた。
ベージュをかけた。カーディガンを、一番上に重ねた。

お守りは、トートバッグの中の、青緑の上着の右ポケットに戻した。
奥まで入った。かがんでも、落ちなかった。

カーテンを開けた。

「あの」

安田さんが、振り向いた。

ミコは、四着をまとめて差し出した。
重ねて持つと、思ったより重かった。安田さんがこれを一枚ずつ運んでくれた重さだった。

「どれも、すごくよかったんですけど」

息を吸った。

「ポケットが、しっかりあるのを探してて。今日は、やめておきます」

言った。

安田さんは、四着を受け取った。
一瞬だけ、何かを考えるように、手元の服を見た。

それから、顔を上げた。

「ポケット、大事ですよね」

それだけでは、終わらなかった。

「このカーディガン、ポケット浅かったですか?」

「あ、はい。物を入れてかがむと、落ちちゃって」

「あー、そうなんですよ。デザイン上、浅くて。実は、お客さんに時々言われるんです」

安田さんは、カーディガンのポケットに自分の指を入れて、深さを確かめた。
それから、ふと思い出したように言った。

「秋に、胸ポケット付きのシャツが入る予定なんです。わりと深めのやつで。紺もあったと思います」

「秋、ですか」

ミコは、聞き返していた。
聞き返してから、自分から質問していることに気づいた。

「いつごろ、ですか」

「八月の終わりくらい、かな。入ったら、この入口のラックに出します」

安田さんは、入口のほうを指さした。
ミコは、そのラックを見た。今はまだ、夏の白いシャツが並んでいた。

「あの」

ミコは、もう一度言った。
今度は、断るためではなかった。

「色違い、たくさん持ってきてくださって、ありがとうございました。ミント、きれいでした。自分では、選ばない色だったので」

安田さんは、少し目を丸くした。
それから、うれしそうに笑った。

「ミント、ほんとに似合ってましたよ。ポケットないけど」

ミコも、笑った。

安田さんは、ハンガーにかかった服を確かめて、「あ」と言った。
ミントのシャツが、ベージュの札のついたハンガーにかかっていた。ベージュは、ミントのハンガーに。

「す、すみません」

「いえいえ、全然」

安田さんは、手早く二枚を入れ替えた。
それから、何事もなかったように、四着をラックに戻していった。

店を出るとき、安田さんが「ありがとうございました」と言った。

ミコは、振り返って、頭を下げた。

「ありがとうございました」

今日、五回目の「ありがとう」だった。
最初の三回は、買う人の返事みたいに聞こえた。あとの二回は、買わない人が、ちゃんと言うお礼だった。

ミコの手には、トートバッグしかなかった。
店の紙袋は、なかった。

本部では、シンパイがホワイトボードの正の字を見ていた。

〈ありがとうございます:三〉の横に、もう二本、線を足した。

「五回です」

「あとの二回も、数に入れていいんですか」とキオクが聞いた。

「入れます。種類が違いますけど」

ダイジョブが、ぐったりと椅子に沈んでいた。

「買わなくて、よかったんですかね……ミント、似合ってたのに」

「似合っていました」とシンパイが言った。「でも、ミコが今日欲しかったのは、似合う服じゃなくて、ポケットのある服でした」

ハラヘッタが、満足そうにお腹をさすった。

「定食、五回分、残りました」

ネムイは、試着室の暑さでいつのまにか眠っていて、今、ちょうど目を覚ましたところだった。

「……終わった?」

「終わりました」とキオクが言った。

「……そう」

ネムイは、また目を閉じた。

下りのエスカレーターで、ミコはトートバッグに右手を入れた。

丸まった青緑の上着の、右のポケット。
指先が、擦れた紺色の布に触れた。

ちゃんと、あった。

ミコは、ポケットの中で指をまっすぐ伸ばしてみた。
指の付け根まで、すっぽり入った。カーディガンのポケットは、第二関節までだった。

(ポケットの深さ、測ったの、初めてだ)

毎日手を入れていたのに、どれくらい深いのか、知らなかった。
八月の終わりのシャツは、指の付け根まで入るだろうか。そのときは、試着室で、まずそれを確かめればいい。

八月の終わりに、あの入口のラックを見に来られるかどうかは、わからなかった。
見に来ても、また試着して、また何か言えないかもしれない。言えるかもしれない。

一階に着くと、自動ドアの向こうは、まだ真夏の光だった。
ミコは上着を出さずに、トートバッグを肩にかけ直して、外へ出た。