第一章 どこでもいいよ
八月最初の月曜日の夜、ミコのスマートフォンが短く鳴った。
〈今度の土曜、福岡行く用事あるけん、昼から会わん? どこ行きたい?〉
ゆかりからだった。
ゆかりは、大学のゼミで一緒だった友達だ。
卒業してからは北九州の会社で働いていて、年に二回か三回、どちらからともなく連絡して、ご飯を食べる。毎週会うほど近くはないけれど、半年空いても、会えばすぐに大学のころの話し方に戻る。そういう距離の友達は、ミコにとって、ゆかり一人だった。
前に会ったのは、たしか春の初めだった。
ミコは、ソファの上で座り直して、返信を打った。
〈いいね! どこでもいいよ〉
送信した。
画面の中で、吹き出しがすっと上がっていった。
どこでもいい、というのは、本当だった。
ゆかりと会えるなら、どこでもよかった。それに、ゆかりのほうが、福岡の店をよく調べている。ゆかりの行きたいところに行くのが、いちばんいい。
やさしい返事をした、とミコは思った。
火曜日の夜、また鳴った。
〈候補出してみた!〉
〈①天神に新しくできたかき氷屋さん ②ホテルのランチビュッフェ ③映画(気になっとるのが二本ある)〉
それぞれの候補の下に、店のページのリンクと、営業時間が書いてあった。
ミコは、返信を打った。
〈どれもいいね!〉
送信した。
本部では、シンパイがホワイトボードの前に立っていた。
ホワイトボードには、たくさんの文字が書いてあった。
どれも、送信されなかった文章だった。
〈かき氷がいいな〉
〈ビュッフェは、取りに行くタイミングで緊張する〉
〈映画だと、あんまり話せないかも〉
ミコが、火曜の夜、返信を打つ前に、頭の中で打っては消した文章たちだった。
シンパイは、それを一つずつ丁寧に書き写していた。
「何をしているんですか」とキオクが聞いた。
「保存です」とシンパイは言った。「消した文章が、どこにも残らないのは、かわいそうなので」
「消したのは、シンパイさんですよね」とダイジョブが言った。
「……送ったら、相手が困るかもしれないと思ったので」
シンパイは、そう言いながら、〈かき氷がいいな〉の横に小さな星をつけた。
いちばん、送りたかった一行だった。
第二章 候補は七つになった
水曜日の夜、スマートフォンが、三回続けて鳴った。
〈追加しといた!〉
〈④大名の雑貨屋めぐり ⑤水族館 ⑥もつ鍋(夏やけど) ⑦海の見えるカフェ〉
〈ミコはどれがいい?〉
七つになった。
四つの追加にも、全部、リンクと営業時間と、最寄りの駅までの歩く時間が書いてあった。⑥のもつ鍋の横には、〈冷房強めって口コミあり〉と注意書きまであった。
ゆかりは、昔からこういう人だった。
誰かが「どこでもいい」と言うと、全員が困らないように、全部を調べてくる人。
〈ミコはどれがいい?〉
ミコは、その一行を、しばらく見ていた。
返信を打った。
〈かき氷が〉
消した。
かき氷がいい、と言ったら、ほかの六つを調べてくれたゆかりに悪い気がした。
〈どれもすごく〉
消した。
昨日、どれもいいね、と言ったばかりだった。
〈実は、行ってみたいところがあって〉
そこまで打って、指が止まった。
行ってみたいところは、あった。
駅の裏の、古い甘味処だった。
会社への乗り換えの途中に、その店はあった。
毎年七月になると、店先に青と白の「氷」の旗が出る。窓には、白玉がいくつものった、かき氷の写真が貼られる。ミコは毎朝、その写真の前を通りすぎていた。一人で入るには、引き戸が古すぎて、店の中が静かすぎて、毎年、写真を見るだけで夏が終わった。
でも、甘味処は、七つの候補のどこにも入っていなかった。
(今これを言ったら、全部やり直しになる)
ゆかりが調べてくれた七つが、全部、なかったことになる。
消した。
〈ゆかりの行きたいところでいいよ!〉
送信した。
「送りました」とキオクが言った。
本部のホワイトボードには、送られなかった文章が、また三行、増えていた。
〈かき氷が〉〈どれもすごく〉〈実は、行ってみたいところがあって〉。
シンパイは、三行目の横にも、小さな星をつけた。
「キオクさん」とダイジョブが言った。「ゆかりさんって、昔からこうでしたっけ」
キオクは、リモコンを一回だけ押した。
モニターに、大学のころの、ゼミの部屋が映った。
学期の最後の日。「打ち上げ、どこにする?」と誰かが言って、みんなが「どこでもいい」と言った。ゆかりが、ため息をついて、スマートフォンを出した。
その夜、ゼミの全員に、店の候補が三つと、地図と、予約の時間が届いた。
「ゆかりさんは、いつも、決める側でした」とキオクは言った。
それだけの記録だった。
木曜日の朝、ミコはいつもの乗り換えで、駅の裏の道を歩いた。
甘味処の前を通った。
青と白の「氷」の旗が、朝の風で、ゆっくり揺れていた。窓の写真の白玉は、今年も四つだった。
ミコは、歩く速さを少しだけ落とした。
落としたけれど、止まらなかった。止まったところで、朝の八時に甘味処は開いていない。
(土曜は、かき氷屋さんか、ビュッフェか、映画か……)
ゆかりは、どれにするのだろう。
どれでもいい、と思った。思ったあとで、窓の白玉が、ちょっとだけこっちを見ている気がした。
本部で、ハラヘッタが小さく手を挙げた。
「あの、白玉……」
「候補にありません」とシンパイが言った。
ハラヘッタは、手を下ろした。
木曜日の夜。
〈じゃあ、かき氷にしよっか! 並ぶかもやけど〉
〈十三時に、天神の大きい本屋の前で! 午前中、福岡で仕事の書類受け取ってから行く〉
〈帰りは夜の特急で帰る〜〉
〈了解! 楽しみにしてる〉
ミコは送信して、スマートフォンを伏せた。
かき氷だった。
ミコが、いちばん送りたかった一行の、かき氷だった。
それなのに、なぜか、少しだけ、胸の中がすっきりしなかった。
ミコが食べたかったのは、かき氷というより、あの窓の写真の、白玉だったからだ。
第三章 九十分待ちの列
土曜日、十三時。
天神の大きな本屋の前は、日差しで白く光っていた。
ミコは、青緑の上着をトートバッグに丸めて入れ、白いTシャツで立っていた。それでも、首のうしろに汗がにじんだ。
「ミコー!」
日傘を差したゆかりが、横断歩道の向こうで手を振った。
ショートカットの髪が、春に会ったときより少し伸びていた。仕事の書類が入っているらしい、大きな紙袋を提げていた。
「久しぶり!」
「久しぶり。暑いね」
「暑い。北九州より暑い気がする」
ゆかりは、笑った。笑ったけれど、目の下に、少しだけ影があった。
かき氷屋は、本屋から歩いて五分のところにあった。
白い壁の、新しい店だった。
その前に、列ができていた。歩道に沿って、角を曲がるまで続いていた。
列の最後尾に、店の人が立てた札があった。
〈ただいま 約九十分待ち〉
「……九十分」
ゆかりが、札を読み上げた。
「昨日の夜、店に電話して聞いたときは、土曜は一時間くらいって言いよったのに」
「電話、したの?」
「したよ。ミコ、並ぶの苦手やろ。だけん、なるべく短いとこがいいと思って」
ゆかりは、日傘を少し傾けて、列の先を見た。
「でも、ほかの候補も、全部いいって言ってくれたけん、結局、決めきらんで。昨日、夜中まで調べとった。七個も出したけん、ミコ、選びにくかったやろ。ごめんね」
ミコは、何も言えなかった。
ごめんね、と言われることは、何もしていなかった。何もしていなかったから、ゆかりが、全部をしていた。
二人は、列の最後尾に並んだ。
列は、ほとんど進まなかった。
五分たって、ようやく三歩ぶん前に進んだ。日傘の影は、ゆかり一人ぶんしかなかった。
ミコは、すぐ近くの自動販売機に走って、冷たいお茶を二本買った。
一本を、ゆかりに渡した。
「え、ありがとう」
「暑いから」
ゆかりは、ペットボトルを首のうしろに当てて、「生き返る」と言った。
それから、少し笑った。

「ミコ、昔から、こういうのは早いよね。飲み物とか」
「そうかな」
「そう。ゼミの打ち上げのときも、わたしが注文まとめとるあいだに、ミコ、全員分のおしぼり配っとった」
ミコは、覚えていなかった。
キオクが、本部の奥で、こっそりその記録を探していた。
本部は、暑かった。
ネムイは、濃紺のフードをかぶったまま、パイプ椅子で半分溶けたように眠っていた。
ハラヘッタは、かき氷の写真を想像して、なんとか正気を保っていた。
シンパイは、ホワイトボードの前で、送られなかった文章を見ていた。
〈かき氷がいいな〉
〈実は、行ってみたいところがあって〉
星のついた二行だった。
「今から言っても」とシンパイは言った。「もう遅いです。ゆかりさんは、電話までして、ここに決めてくれました。今ここで別の店を言ったら、ゆかりさんの七つと、電話と、夜中が、全部」
「シンパイさん」
ダイジョブが言った。
いつもより、声が静かだった。
「『どこでもいい』は、ミコのやさしさでした。それは、本当です」
シンパイは、黙った。
「でも、七個も調べてくれた人は、たぶん、ミコの『いちばん』を聞きたかったんですよ。七個も出したのは、一個でいいから、ミコに選んでほしかったからです」
ダイジョブは、ホワイトボードの、星のついた二行を指さした。
「今なら、まだ、九十分あります」
本部が、静かになった。
キオクが、さっきのゼミの部屋の記録を、もう一度だけ、ちらりと見た。
みんなが「どこでもいい」と言った夜。ため息をついて、スマートフォンを出したゆかり。
シンパイは、マーカーのふたを、ゆっくり閉めた。
「あの」
ミコは言った。
日傘の下で、ゆかりが振り向いた。
「一個だけ、行ってみたいところが、あって」
言ってから、心臓の音が、蝉の声より大きく聞こえた。
「駅の裏に、古い甘味処があって。毎年、夏になると、白玉のかき氷の写真が窓に貼ってあって。並んでるの、見たことなくて。ずっと、入ってみたかったんだけど、一人だと、入れなくて」
ゆかりは、目を丸くしていた。
「候補になかったのに、ごめん。せっかく、調べてくれたのに」
しばらく、ゆかりは何も言わなかった。
それから、日傘の柄で、ミコの腕をこつんとつついた。
「それ、もっと早く言ってよー」
笑っていた。
責めている顔ではなかった。少し、ほっとしたような顔だった。
「わたし、火曜からずっと、ミコがどれならいちばん喜ぶんやろって考えとったのに。答え、駅の裏にあったっちゃん」
ゆかりは、もう列から一歩外に出ていた。
「待って」
ミコは言った。
自分でも驚くくらい、すぐに出た。
「ゆかりは?」
「え?」
「ゆかりは、ほんとは、どこ行きたかった? 七個の中で。七個以外でも」
ゆかりは、少し考えるような顔をした。
それから、ちょっと照れたように、日傘をくるりと回した。
「……海」
「海」
「夕方の海。海辺の公園の、砂浜のとこ。でも、暑いし、ミコ外あんまり得意やないかなと思って、候補から外した」
ミコは、その「外した」を聞いて、少しだけ笑ってしまった。
ゆかりも、自分の希望を、どこかのボードに保存していたのかもしれなかった。
「行こう。海も」
ミコは言った。それから、聞いた。
「帰りの特急、何時?」
「二十時半」
「じゃあ……甘味処に行って、夕方になったら海に行って、十九時半くらいに駅に戻れば、間に合う?」
ゆかりは、スマートフォンでバスの時間を調べた。
調べるのは、やっぱりゆかりのほうが速かった。
「十七時十分のバスに乗れば、海に十七時半。十九時のバスで戻れば、駅に十九時半。いける」
「じゃあ、それで」
「それで」
二人は、九十分待ちの列から、静かに抜けた。
最後尾には、もう次の人たちが並んでいた。
第四章 白玉と、夕方の海
駅の裏の甘味処には、今日も、青と白の「氷」の旗が出ていた。
窓に、白玉の写真が貼ってあった。
毎朝見ていた写真だった。今日は、それを横目に、引き戸の前に立った。
古い、木の引き戸だった。
ミコは、取っ手に手をかけた。
一人のときは、毎年ここで、手を伸ばさなかった。
今日は、後ろにゆかりがいた。
引いた。
がらがら、と大きな音がした。
「いらっしゃい」
奥から、小柄なおばあさんが出てきた。
店の中は、思っていたとおり静かで、思っていたより涼しかった。客は、奥の座敷に、年配の夫婦が一組だけ。
「二人です」
ミコが言った。
「どうぞ、上がって」
座敷の、低いテーブルに向かい合って座った。
ミコは、壁に貼られた品書きを、上から下まで読んだ。
読まなくても、決まっていた。
「宇治金時の、白玉のせを、ください」
「わたし、いちごミルク」とゆかりが言った。「白玉、わたしのにも、のせてください」
「白玉は、冷たいのと、あったかいのと、できますけど」
おばあさんが聞いた。
ミコは、一瞬止まった。
窓の写真には、白玉の温度は写っていなかった。
「……冷たいので、お願いします」
「わたしも冷たいの」とゆかりが言った。
おばあさんがうなずいて、奥へ戻っていった。
しゃりしゃりと、氷を削る音が聞こえはじめた。
運ばれてきたかき氷は、窓の写真より、少しだけ背が低かった。
緑の抹茶の山の上に、あんこと、白玉が四つ。
白玉は、つやつやしていた。スプーンで押すと、少しだけ、へこんだ。
口に入れた。
冷たくて、甘くて、白玉はもちもちしていた。
毎年、窓の外から見ていた白玉が、今、口の中にあった。
「……おいしい」
「やろ」とゆかりが言った。
「ゆかりが言うの?」
「言う。ここ、知らんかった。次、福岡来たら、ここにしよ」
ゆかりは、いちごミルクの白玉を一つ、スプーンでミコの器に移した。
「交換。宇治金時、一口ちょうだい」
ミコは、自分の器を、ゆかりのほうへ押した。
本部では、ハラヘッタが、目を閉じていた。
「白玉、四つと、一つ。五つです」
「数えてるんですか」とキオクが聞いた。
「数えてます。毎年、窓の写真で数えていたので。写真のは、四つでした」
シンパイは、ホワイトボードの〈実は、行ってみたいところがあって〉の星を、一つ消した。
消したところに、何も書かなかった。もう、送られたからだ。
ネムイは、甘味処の涼しさで、ようやく生き返っていた。
十七時十分のバスに乗って、海辺の公園へ行った。
夕方の砂浜は、昼の暑さが少しだけやわらいでいた。
西の空が、オレンジ色になりはじめていた。波の音がして、遠くで子どもが犬を追いかけていた。
ゆかりは、靴を片手に持って、波打ち際を歩いた。

「なんで、海だったの?」とミコは聞いた。
「うーん」
ゆかりは、足首まで波に浸かって、少し考えた。
「北九州も海あるけど、仕事場から見えるのは、工場と港やけん。こういう、なんもせんでいい海、たまに見たくなると。でも、一人で来るほどでもないし、人を誘うほどでもないし」
「人を誘うほどでもない」
「うん。だけん、候補から外した」
ミコは、窓の白玉の写真を思い出した。
一人では行けなくて、人を誘うほどのことでもない気がする。そういう場所を、ゆかりも持っていた。
ミコは、グレーのスニーカーのまま、少し後ろを歩いた。砂が、スニーカーの中に入ってきた。
話したことは、大きなことではなかった。
ゆかりの職場の、エアコンのリモコンを誰も渡さない係長の話。
ミコの最近の話。新しく入った人に、仕事を半日だけ教えたこと。服屋で、試着だけして帰ってきたこと。
「ミコ、なんか、いろいろやっとるね」
「いろいろ、ってほどじゃないよ」
「やっとるよ。前は、試着もせんかったやん」
ミコは、そうだったかな、と思った。
そうだったかもしれなかった。
ゆかりが、スマートフォンで海の写真を撮った。
それから、カメラをミコに向けた。
「ほら、海と」
ミコは、少しだけ笑った顔で、写った。
十九時のバスで駅に戻ると、ちょうど十九時半だった。
改札の前で、ゆかりは大きな紙袋を持ち直した。
「今日、ありがとう。かき氷、九十分並ばんでよかった」
「わたしも、ありがとう。七個も調べてくれて」
「七個のうち、一個も行っとらんけどね」
ゆかりは笑って、改札を通っていった。
エスカレーターの手前で振り返って、日傘を持った手を、大きく振った。
ミコも、手を振った。
帰りの電車で、スマートフォンが鳴った。
〈今日たのしかった! 次はミコの番ね。行き先、一個決めといて〉
ミコは、返信を打った。
〈どこでも〉
そこまで打って、手が止まった。
消した。
本部のホワイトボードに、〈どこでも〉が一行、保存された。
シンパイは、その横に、星をつけなかった。
一個、と言われても、すぐには浮かばなかった。
甘味処は、もうゆかりが「次もここ」と言った。ほかに浮かぶのは、どれも、一人で行けたらいいなと思っている小さな場所ばかりで、二人で行く場所としては、まだ形になっていなかった。
ミコは、少し考えてから、打った。
〈考えとく〉
送信した。
すぐに、ゆかりから、親指を立てたスタンプが一つ返ってきた。
窓の外を、夜の町が流れていった。
口の中に、まだほんの少し、抹茶の苦さと、白玉の甘さが残っていた。


